『人生に絶望なし』
この言葉は、
突発性脱疽で両手両足を切断し、
不自由な身でありながら、
興行芸人、作家として、
生涯を懸命に生き抜いた、
中村久子(1897-1968)の名言です。
中村久子の “生い立ち” について、
致知出版社代表取締役社長の藤尾秀昭氏は、著書
『心の響く小さな5つの物語V』(致知出版社)
の中で、こう述べています。
「その少女の足に突然の激痛が走ったのは
三歳の冬である。
病院での診断は突発性脱疽。
肉が焼け骨が腐る難病で、
切断しないと命が危ないという。
診断通りだった。
それから間もなく、
少女の左手が五本の指をつけたまま、
手首からボロっともげ落ちた。
悲嘆の底で両親は手術を決意する。
少女は両腕を肘の関節から、
両足を膝の関節から切り落とされた。
少女は達磨娘と言われるようになった。
少女七歳の時に父が死亡。
そして九歳になった頃、
それまで少女を舐めるように
可愛がっていた母が一変する。
猛烈な訓練を始めるのだ。
手足のない少女に着物を与え、
『ほどいてみよ』
『鋏の使い方を考えよ』
『針に糸を通してみよ』
できないとご飯を食べさせてもらえない。
少女は必死だった。
小刀を口にくわえて鉛筆を削る。
口で字を書く。
歯と唇を動かし肘から先がない腕に
挟んだ針に糸を通す。
その糸を舌でクルッと回し玉結びにする。
文字通りの血が滲む努力。
それができるようになったのは
十二歳の終わり頃だった。
ある時、近所の幼友達に
人形の着物を縫ってやった。
その着物は唾でベトベトだった。
それでも幼友達は大喜びだったが、
その母親は『汚い』と川に放り捨てた。
それを聞いた少女は、
『いつかは濡れていない着物を縫って見せる』
と奮い立った。
少女が濡れていない単衣一枚を
仕立て上げたのは、十五歳の時だった。
この一念が、その後の少女の人生を
拓く基になったのである。
その人の名は中村久子。
口で裁縫をし字を書く芸を売りに
見世物興行界に入って人気を博し、
やがて著作(『心の手足』『私の越えてきた道』など)が
認められ、作家の地位を確立する。
後年、彼女はこう述べている。
『両手両足を切り落とされたこの体こそが、
人間としてどう生きるかを
教えてくれた最高最大の先生であった』
そしてこう断言する。
『人生に絶望なし。
いかなる人生にも決して絶望はない』」(27頁〜37頁)
人生に絶望はありません。
中村久子は、
晩年に行われた講演会で、
こう述べています。
「人の命とはつくづく不思議なもの。
確かなことは自分で生きているのではない。
生かされているのだと言うことです。
どんなところにも必ず生かされていく道がある。
すなわち人生に絶望なし。
いかなる人生にも決して絶望はないのだ。」
一歳9ヶ月のとき熱病にかかり盲聾唖の三重苦に襲われた“奇跡の人”ヘレン・ケラーはサクセスマガジン社のインタビューで次のように語っています。
「 私はいま幸福の絶頂におります。
毎日が充実しています。
私の三重苦の障害は、神様が私に授けてくれた運命です。
この障害のおかげで、私は外部からの妨害や悪い影響などをいっさい受けることなく、積極的に考えて生活することができるのです。
障害は神様からの恩恵であり、私はこの運命に対し、心から感謝しております。」
盲・聾・唖の三重苦の障害にさえも感謝することができたら何にだって感謝できます。
すべてのことに感謝していると、それが良い波動となってさらなる良い状況を引き寄せます。
ヘレン・ケラーは、著書
『楽天主義』(訳者 岡文正 イーハトーヴフロンティア)
の中で、こう述べています。
「 不幸せの極みにあるとき、
自分にはすべきことがあるのだと
信じなさい。
誰かの苦悩を
和らげてあげられるかぎり、
人生は無駄とはならない。」 (82頁)
「 悲しみと苦痛はやがて、
『人のために尽くす心』 という
美しい花を咲かせる土壌だと考えよう。
心を優しく持ち、
耐え抜くことを学ぼう。
強い心で生きるために。」 (61頁)
たとえ、
病になろうと不運が訪れようと、
神さまが与えてくれた試練だと思い、
感謝してすべてを受容し、
“学ぶこと” が肝心である、
と、私は認識しています。
逆境から学び、成長しましょう
『人生に絶望なし』
(参考図書)
『心に響く小さな5つの物語V』
(著者 藤尾秀昭 致知出版社)
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『楽天主義』
(著者 ヘレン・ケラー 訳者 岡文正 イーハトーヴフロンティア)
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