いずれ宗教団体(教団)は消滅するでしょう。
なぜなら、
人生哲学が確立し、
教団に頼らなくなるからです。
宗教について、
中村天風師は、著書
『運命を拓く 天風瞑想録』
(講談社文庫)
の中で、こう述べています。
「宗教には、唯神論と汎神論というのがある。
唯神論というのは、
初めに神がいて、
神がこの宇宙を創ったのだということである。
汎神論は、
宇宙が出来てから、
その中に神が現われたのだということである。
いずれも、神を相手に考えようとする考え方で、
これは、
今のように、まだ科学が発達していなかったときの人間としては、無理のない考え方である。
私がいつもいっているとおり、
今から千年二千年経つと、
今あるような宗教という宗教は、
地上から姿を消してしまうでしょう。
それは、
人間の理智が、
既成宗教などに頼らなければ活きられないような、
哀れで無自覚なものではなくなるからである。
純粋哲学の立場から観察すると、
この宇宙というものは、
形ある宇宙以前に、
すでに形のない宇宙が在った、
という真理の探究というものが、
行わなければならないのだ。
神とか仏というのは、
人間が便宜上、付けた名前だから、
このようなものに捉われてはいけない。
あなたがたは、
抽象的で、あまりにも漠然としたものを、
やれ、神だ、仏だ、と思っているが、
では
『神とはどんなものか』
と聞かれたら、
なんと説明するか。
『仏とはいかなるものか』
と聞かれたら、どう説明するか。
見たことも聞いたこともないものに、
説明の与えられるはずはない。
そう思うと、何となく安心ができるといったような、
同時に、
自分が一種の信仰というようなものを、
何となく気高いと感じる、
という感じで考えられるだけではないだろうか。
だから、
私からいわせれば、
やれ神だ仏だ、といっている者は、
安直な気休めを人生に求めている哀れな人だといわざるをえないのだ。
第一、もし、あなた方が考えているような神や仏が、
この世の中に存在したら、
この世界に戦争などあろうはずがないではないか。
キリスト教の人間達が、
地球をも破壊するかもしれないような原爆や水爆を、
考え出す必要もないじゃないか。
もし本当に、
あなた方が思うような神や仏があり、
それに信仰を捧げたなら、
即座に、神や仏のような綺麗な気持ちになれそうなものではないか。
この中には、クリスチャンもいるだろう。
また仏教信者もいるだろう。
信者という名前だけで、
その人達は、相変わらず、怒ったり、悲しんだり、怖れたり、
という繰り返しの日々を送っていはしないか。
ここに集まっている多数の会員の諸君を目の前にして、
じっと見つめているときに、
後光のさすような尊い人が一人もいないことを遺憾とする。
それは、あなた方の体から出る、オーラの一切が証明している。
ともかく、
安定打坐が、少しの間、出来たときだけは、
綺麗なオーラが見えるけれども、
そうでないときには、もう、見えない、
濛濛たる毒ガスが、あなた方の体からでている、
といってもいい過ぎではないほど、
あなた方の心は汚れている。
そして、
醜い、弱々しさを持っている。
それというのも、
当てにならないものを当てにして、
救われようとか、
助かろうとか、
極めて、さもしい、気の弱い、哀れな、依頼心の強い気持ちで、
それを信仰と名づけているからである。
本当の真理から論断すれば、
何も神だの仏だのと頼らなくてもよろしい。
むかしからの歌にもある。
心だに 誠の道に かないなば
祈らずとても 神や守らん
先祖を敬い、先祖を忘れないための、
追善供養は必要である。
だが、
あなた方の神仏に対する信仰は、
いつも自己本位な自分の生命や、
自分の運命の安全ばかりをこいねがうだけが、目的になっていはしないか。
これを第二義的信仰というのであるが、
そのような信仰を持っている人間は、
何となく神があり、仏があるように思い、
その神や仏がこの宇宙を創っているように思っているが、それは違う。」(33頁〜36頁)
さらに、天風師は、著書
『心を磨く 中村天風講演録』
(PHP研究所)
の中で、こう述べています。
「『宗教』とはそもそもいかなるものであるべきか。
一般常識的だと言われているキリスト教に、
そういう訳のわからないことが教義の中に存在している。
別に私、今キリスト教をけなしているわけじゃないんだよ。
真面目に考えさせられる点を言っているわけで。
私はキリスト教で救われなかった。
心の問題に悩み、悩んで、もう世界の三分の二を歩いて、
キリスト教はもちろん、
仏教ももちろん、
フイフイ教までやって救われなかったんだ。
それは私の心が極めてこれはもう極度にけがれて、
汚れていたから救われなかったとおっしゃるでしょう。クリスチャンや仏教家は。
しかし盗人にも三分の理ありで、
洗い清められるものは洗ってやるけれども、
洗い清められざるものは洗わないじゃ、
ちょっと宗教の本旨と違ったところが出てこやしないかと思う。
また仏教のごときでもですよ、
『縁なき衆生は度し難し』
と釈迦をはじめとしてからに、
現代の仏教家はみんなそう言ってます。
そうでしょう。
『信ぜざれば救う能わず、縁なき衆生は度し難し』
しかし私、人を救うという建前で考えつかれた宗教である以上は、
縁なきものにも縁をつけてやって救ってこそ、
本当の慈悲じゃなかろうか、
情じゃなかろうかと私は思うが、
いかがですか。
迷っている、苦しんでいるというやつは、
全然何にもに頼る気持ちがなくなっているやつが陥った、心のもつれですもんね。
何かしらにまだ頼れる人間だったら、
迷いも悶えも、それだけ大きかないもの。
ところが、
どん底に陥ってる人間を、
あいつは救えないからって、
救わないのが宗教だとしたら、
宗教なんてものはもう、
絵に描いたぼた餅よりもまだ頼りないものだと言わなきゃならないと思うが、いかがでしょう。
(中略)
いや、私も最初は宗教にすがったんだから。
もうせっぱ詰まって、理屈も何もあるかと。
迷信と言われようが、
邪心と言われようが、
そんなことは構わない、
宗教に頼って救われなきゃと思って、
さんざん苦労した挙げ句宗教に行って、
かえって私の失望と落胆は余計倍加されただけでもって、
救われなかったんです。
もちろんそりゃ教会に行ってる人、
お寺参りをしている人、
みんなあれ救われたいから行ってるんですからね、きっと。
それともあれですか、
日曜のたんびに教会に行き、
また節会の折々、お寺にお参りしている人は、
おれが行ってひとつキリストを救ってやろうとか、
おれが行ってひとつ釈迦を得度させてやろうとかいうつもりで行ってるんですか。
そうじゃないでしょう。
死ぬまでお通いになってらしても、
なんかこう救われるだろうと思う、
いわゆる望みなきにあらざる気持ちで行ってらっしゃる。
本当に天風会に入って、
こういう教えによって自分の心を本当に納得のいくだけ救われたという人は、
私はほとんど一人もいないと思うが、
どうだろう。
いると思う人、手を挙げてください。
私、聞きたいこといくらでもあるんだから。
宗教的に、私の心の中に生じている疑義が。
私の精神科学や心理学の中から、
宗教と照り合わせてからに、
どうにも割り切れないものが宗教のほうで、
割り切れないものが割り切れたような顔をして説いてて、
しかも結果において割り切れないことを平気で言ってるのがバイブルにも経文にもありますわね。
これも別にけなす意味じゃないんですよ。
できれば教えてもらいたいから言うんだけど、
『人、もしもわが右の頬を叩かば、笑って左の頬を出せ』って。
これはいい言葉のようですけども、
これはなし難き計画なんじゃないかと思う。
ちょうど日本にある、
『なる堪忍はだれもする、ならぬ堪忍、するが堪忍』
と同じようなことで。
クリスチャン、ひとつひっぱたかせてくれませんか。
力道山のパンチほどは効かないかもしれないけど、
かなり効くパンチを私持ってますから。
そして、右ひっぱたいてあげて
『さあ、どうぞ左も』
とお出しくだされたらば、
その心持ちを伺ってみたいと思う。
まして、頼んだら出すかもしれないけど、
いきなり往来を歩いているやつを、クリスチャンかなと思って、
ぺーっとひっぱたいて、
笑ってからに、
『お手が痛みませんか、こちらもどうぞ、おついでに』
と出す人、いないでしょう。」(86頁〜90頁)
私は宗教を頭ごなしに否定するつもりは御座いませんが、
イエスや釈尊は、
教団をつくりたかった訳ではありません。
教えを広めたかっただけです。
愛(慈愛・博愛)の精神を伝えたかっただけです。
宗教と信仰を混同してはいけません。
宗教は団体で、
信仰は個人的なものです。
教団に所属せずとも信仰することはできます。
大切なことは、
individual・personalな信仰心を持つことです。
なぜなら、
人生は、
自己の “魂の修行” の場であり、
個人的なものだからです。
『私が知りたいのは神の意思だ。それ以外はすべて些細なことでしかない』
我は神なり愛と光なり
汝も神なり愛と光なり
我は救世主なり
汝も救世主なり
世界中の一人ひとりが救世主
世界平和と人類全体の幸福の実現に寄与しましょう。
地球ユートピアの実現を目指しましょう
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