2019年12月17日
最上氏
最上氏(もがみし)
斯波家兼が四管領並立を制し奥州管領の地位を確保すると、1356年次男斯波兼頼を出羽国へ送り込み、兼頼は南朝勢力を巧みに退けながら最上郡への勢力の扶植に成功する。出羽国における南朝側の最後の組織的な抵抗となった漆川の戦いには、鎌倉公方足利氏満と大崎氏も兵を出したという。室町幕府から屋形号を許され最上屋形を称するようになって以降は最上氏を名乗り羽州探題を世襲する。しかし、分散配置した庶流が次第に独立傾向を強めるなど一枚岩とは言えない状況となる。
1385年置賜郡に本拠を持つ長井氏が滅ぼされると伊達氏と接するようになり、1514年伊達稙宗の侵攻を受け傘下に組み込まれる。この時一時傀儡化されたが天文の乱を機に独立を果たし、永禄6年(1563年)最上義守は嫡男義光の偏諱授与のお礼言上のため、京に上り御所号で応対される。最上義光の家督継承時に父子間で争いがあり、伊達氏や周辺国人を巻き込む争いに発展する(天正最上の乱)。この争いで戦いを優位に進めた義光は家臣団の組織化に成功し、村山郡・最上郡に領国を広げ、庄内地方をめぐり上杉氏と激しく抗争した。その後、秀吉の小田原征伐に参陣し最上郡・村山郡20万石余の大名として所領を安堵され、また羽柴姓・羽州探題職を与えられた。秀吉の死後は徳川家康に接近し、関ヶ原の戦いでは東軍に加わったため西軍の上杉景勝から攻撃され窮地に立たされたが、関ヶ原本戦での西軍敗北の報が届くと上杉軍は撤退し、庄内地方の奪取にも成功(慶長出羽合戦)。この功により、最上家は最上郡・村山郡・庄内地方および由利郡を有する58万石の大大名に列せられた。しかし、孫の最上義俊の代にお家騒動(最上騒動)が起こり、江戸幕府の命により改易とされ、出羽国内所領を失い、大名としての最上氏の終焉のきっかけとなった。
義俊は改めて近江に1万石を与えられたが、義俊の死後、子の義智が幼少であったため5,000石に減ぜられ名目としての大名の地位も失ったが、子孫は交代寄合として続いた。義俊の叔父で御家騒動の原因でもあった山野辺義忠は徳川頼房に取り立てられ、子孫は水戸藩家老の山野辺家として続いた。
斯波家兼が四管領並立を制し奥州管領の地位を確保すると、1356年次男斯波兼頼を出羽国へ送り込み、兼頼は南朝勢力を巧みに退けながら最上郡への勢力の扶植に成功する。出羽国における南朝側の最後の組織的な抵抗となった漆川の戦いには、鎌倉公方足利氏満と大崎氏も兵を出したという。室町幕府から屋形号を許され最上屋形を称するようになって以降は最上氏を名乗り羽州探題を世襲する。しかし、分散配置した庶流が次第に独立傾向を強めるなど一枚岩とは言えない状況となる。
1385年置賜郡に本拠を持つ長井氏が滅ぼされると伊達氏と接するようになり、1514年伊達稙宗の侵攻を受け傘下に組み込まれる。この時一時傀儡化されたが天文の乱を機に独立を果たし、永禄6年(1563年)最上義守は嫡男義光の偏諱授与のお礼言上のため、京に上り御所号で応対される。最上義光の家督継承時に父子間で争いがあり、伊達氏や周辺国人を巻き込む争いに発展する(天正最上の乱)。この争いで戦いを優位に進めた義光は家臣団の組織化に成功し、村山郡・最上郡に領国を広げ、庄内地方をめぐり上杉氏と激しく抗争した。その後、秀吉の小田原征伐に参陣し最上郡・村山郡20万石余の大名として所領を安堵され、また羽柴姓・羽州探題職を与えられた。秀吉の死後は徳川家康に接近し、関ヶ原の戦いでは東軍に加わったため西軍の上杉景勝から攻撃され窮地に立たされたが、関ヶ原本戦での西軍敗北の報が届くと上杉軍は撤退し、庄内地方の奪取にも成功(慶長出羽合戦)。この功により、最上家は最上郡・村山郡・庄内地方および由利郡を有する58万石の大大名に列せられた。しかし、孫の最上義俊の代にお家騒動(最上騒動)が起こり、江戸幕府の命により改易とされ、出羽国内所領を失い、大名としての最上氏の終焉のきっかけとなった。
義俊は改めて近江に1万石を与えられたが、義俊の死後、子の義智が幼少であったため5,000石に減ぜられ名目としての大名の地位も失ったが、子孫は交代寄合として続いた。義俊の叔父で御家騒動の原因でもあった山野辺義忠は徳川頼房に取り立てられ、子孫は水戸藩家老の山野辺家として続いた。
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