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2019年12月17日

高水寺斯波家

高水寺斯波家

高水寺城(現在の岩手県紫波郡紫波町高水寺)を拠点に栄えた斯波氏(奥州斯波御所家)の一族は1335年鎌倉で敗死した斯波家長の直系子孫だという。『続群書類従』には簡易な系図が挙げられているものの裏付となる資料も乏しく、系図は必ずしもはっきりしていない[注釈 6]。南北朝時代に高水寺城によった斯波一族は、延文年間(1356年 - 1360年)大巻舘にあった南朝側河村氏を次第に圧迫し、応永3年(1396年)河村秀基はその傘下に下ったという[要出典]。かくして斯波郡一帯を傘下に収めた斯波氏は足利氏の血を引く貴種であることから「斯波御所」「奥の斯波殿」と尊称され、書札礼でも大崎氏と同格であった。永享7年(1435年)に発生した和賀の大乱では大崎氏の職務代行者として北奥の諸氏を指揮している。

「奥南落穂集」によれば、大崎氏7代大崎教兼の子・斯波詮高に始まるとされる。南部氏が天文9年(1540年)に岩手郡に侵攻して滴石(現在の岩手県岩手郡雫石町)の戸沢氏を攻略し角館へ退去させると、これに対し斯波詮高は天文14年(1545年)、南部氏から太田(現在の岩手県盛岡市内)、滴石地方を奪い取るなど積極的な拡大を見せている。詮高は嫡男・経詮に家督を継がせ、次男・詮貞を滴石から改称した雫石城(現在の岩手郡雫石町下町東)に置き、三男・詮義を猪去城(現在の盛岡市猪去)に置いて、南部氏の反攻に備えた。斯波氏の格式の高さから近隣では本家は「斯波御所」、または居館の地名で「高水寺御所」、新領に配置された庶子は同じく地名から「滴石御所(雫石御所)」、「猪去御所」と呼ばれた。また和賀氏や阿曽沼氏庶流鱒沢氏らと婚姻関係や養子縁組を積極的に行い、大いに威を張った。

だが後に南部氏の圧力が増すと、斯波詮真は南部氏24代・南部晴政の圧力に屈して、南部一族の九戸氏から弥五郎(後の康実)を婿として受け入れたが、詮真の子詮直(詮元)の代になると確執して、弥五郎から改名した高田康実は天正14年(1586年)、南部氏26代・南部信直の下へ出奔する。それに対し詮真は南部領へ攻め入るも南部軍の反撃にあい逆に侵攻されてしまい、高水寺斯波一族の雫石久詮と猪去義方は攻められて本家の斯波御所に逃れ、雫石御所ならび猪去御所が滅ぼされる。結果稗貫氏立ち会いの下で両家は和睦し、斯波氏は岩手郡見前、津志田、中野、飯岡の地(いずれも現在の盛岡市内)を失ってしまう。

斯波詮直は家中の統率が取れず、天正16年(1588年)(南部との和睦と同年天正14年中の説もある)、南部に仕えた康実に岩清水義教らが内通し謀反を起こす。詮直は岩清水義教の兄・岩清水義長に命じて、弟の居城である岩清水城(現在の岩手県紫波郡矢巾町岩清水)を攻めさせるが、この混乱に乗じて南部信直が自ら出陣してくる。詮直は領内に動員令を発するも多くの家臣らは参陣せず、離反して南部軍に投降するか屋敷に籠り、高水寺城に駆けつけたのは岩清水義長、家老細川長門守、稲藤大炊助など少数だった。詮直は高水寺城を放棄して大崎氏のもとへ逃亡、義長は高水寺城で戦死する。詮直はその後諸国を放浪し、子孫は南部氏に仕えたとも、二条家に仕えたともされている。

一方、続群書類従の『奥州斯波系図』では斯波詮高からの人物は記載されず、家長を祖として続いており、南部氏の圧力により領地を失い滅亡した当主も詮直ではなく斯波詮森(兵部大輔)となっている。また「大萱生系図」では滅亡したのは詮元(奥州斯波系図の詮森の父)とある。なお詮元の子孫・斯波義眞は水戸徳川家家臣になったものの乱心で死去したとする。

『岩手県史』では、諸記録・諸系図から、「詮元(詮直・詮基)」の時に滅亡し、その子に詮森、孫に詮国があったとみなしている。
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