2019年12月17日
大崎氏
大崎氏(おおさきし)
そもそも斯波氏の名乗りの起源は陸奥斯波郡とされており、奥州は斯波氏にとっては本貫である。南北朝時代の建武2年(1335年)斯波家長が南朝側鎮守府将軍北畠顕家を抑えるために奥州総大将に任じられるが、足利尊氏の子足利義詮の執事を務めていたため下向はしなかったとみられる。現地勢力である相馬氏などを味方に付けたという。その後、奥州総大将は軍事指揮権だけでなく、検断・沙汰の権限、管国内の知行安堵、恩賞などの推挙権を持つ奥州管領に格上げされる。観応の擾乱期には畠山国氏・吉良貞家らが任ぜられたが、斯波家兼が管領に任ぜられると四管領並立の混乱期を平定し、子孫である大崎氏がやがて世襲する。
奥羽は南北朝時代に南朝の北畠顕家・北畠顕信らが、郡ごとの有力国人に軍事指揮権や検断権など強い権限を与えた「分郡」とも呼ばれる独自の制度を採ったため、南北朝の争いが終結した後も非常に国人の力が強く、当初は有効に働いた奥州管領斯波氏の支配力も次第に衰えていく。斯波氏は大崎地方と陸奥国府付近を実効支配し、大崎氏と呼ばれるようになった。大崎氏の権威低下に伴って、一時奥羽は鎌倉府管内に編入されるが、幕府と鎌倉府の争いが激化し奥州南半に鎌倉公方の分家である篠川御所・稲村御所が設置されると、幕府は鎌倉府に対抗するため奥州探題職を作り大崎氏を代々探題に任命する。探題は管領と同じ権限を持ったと思われるが、奥州南部の有力国人は自らの権益を守るため将軍家と直接主従関係を結ぶ京都扶持衆となり、奥州探題の権威からは半ば独立した形であった。既に大崎氏には奥州管領時代のように奥州全体を統括する威勢はなく、奥州北部における権威を行使するのみであった。
以後徐々に衰退した大崎氏は、足利満直亡き後陸奥守護として奥州南部に急速に勢力を拡大する伊達稙宗の圧力をまともに受けることとなった。大崎義直は家中の騒乱を自力で鎮圧できず、稙宗の支援を受けて鎮圧したが、稙宗の子・義宣を養子として送り込まれ従属した。天文の乱に乗じて義宣を排除して伊達氏への吸収合併は免れたものの、従属関係からの脱却には至らなかった。大崎義隆の代には義弟の最上義光・弟の養父黒川晴氏の支援を受けて伊達政宗の侵攻を退けたが(大崎合戦)、小田原征伐に参陣しなかったため豊臣秀吉に改易された。大崎氏旧臣は義隆の復帰を求めて一揆(葛西大崎一揆)を起こしたが、ついに大名復帰は叶わなかった。義隆は越後または会津で不遇の死を遂げたといい、子孫は最上氏や南部氏に仕えたという。
そもそも斯波氏の名乗りの起源は陸奥斯波郡とされており、奥州は斯波氏にとっては本貫である。南北朝時代の建武2年(1335年)斯波家長が南朝側鎮守府将軍北畠顕家を抑えるために奥州総大将に任じられるが、足利尊氏の子足利義詮の執事を務めていたため下向はしなかったとみられる。現地勢力である相馬氏などを味方に付けたという。その後、奥州総大将は軍事指揮権だけでなく、検断・沙汰の権限、管国内の知行安堵、恩賞などの推挙権を持つ奥州管領に格上げされる。観応の擾乱期には畠山国氏・吉良貞家らが任ぜられたが、斯波家兼が管領に任ぜられると四管領並立の混乱期を平定し、子孫である大崎氏がやがて世襲する。
奥羽は南北朝時代に南朝の北畠顕家・北畠顕信らが、郡ごとの有力国人に軍事指揮権や検断権など強い権限を与えた「分郡」とも呼ばれる独自の制度を採ったため、南北朝の争いが終結した後も非常に国人の力が強く、当初は有効に働いた奥州管領斯波氏の支配力も次第に衰えていく。斯波氏は大崎地方と陸奥国府付近を実効支配し、大崎氏と呼ばれるようになった。大崎氏の権威低下に伴って、一時奥羽は鎌倉府管内に編入されるが、幕府と鎌倉府の争いが激化し奥州南半に鎌倉公方の分家である篠川御所・稲村御所が設置されると、幕府は鎌倉府に対抗するため奥州探題職を作り大崎氏を代々探題に任命する。探題は管領と同じ権限を持ったと思われるが、奥州南部の有力国人は自らの権益を守るため将軍家と直接主従関係を結ぶ京都扶持衆となり、奥州探題の権威からは半ば独立した形であった。既に大崎氏には奥州管領時代のように奥州全体を統括する威勢はなく、奥州北部における権威を行使するのみであった。
以後徐々に衰退した大崎氏は、足利満直亡き後陸奥守護として奥州南部に急速に勢力を拡大する伊達稙宗の圧力をまともに受けることとなった。大崎義直は家中の騒乱を自力で鎮圧できず、稙宗の支援を受けて鎮圧したが、稙宗の子・義宣を養子として送り込まれ従属した。天文の乱に乗じて義宣を排除して伊達氏への吸収合併は免れたものの、従属関係からの脱却には至らなかった。大崎義隆の代には義弟の最上義光・弟の養父黒川晴氏の支援を受けて伊達政宗の侵攻を退けたが(大崎合戦)、小田原征伐に参陣しなかったため豊臣秀吉に改易された。大崎氏旧臣は義隆の復帰を求めて一揆(葛西大崎一揆)を起こしたが、ついに大名復帰は叶わなかった。義隆は越後または会津で不遇の死を遂げたといい、子孫は最上氏や南部氏に仕えたという。
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