2017年01月08日
月照上人と西郷隆盛
旧鹿児島銀行本店の裏に古い石碑が建ってます。読んでみると月照という僧の死に哀悼の意を表す物でした。
月照は京都清水寺の僧侶で、僧の身分でありながら、熱心な尊皇攘夷派の人でした。
公家関係に太いパイプを持ち、討幕の活動家として熱心に説いて廻っていた頃、京都にいた薩摩藩の志士達とも交流を深め、西郷とも知己の間柄になりました。
しかしついに幕府方の知るところとなり、幕府方から命を狙われる立場になった為、西郷の案内で薩摩へ逃れる事になりました。ところが苦難の末ようやくたどり着いた薩摩で待っていたのは余りにも過酷な処遇だったのです。
「日向送りを命ず」。日向との国境まで数名の武士が付き添い、そこで斬殺するという意味です。これを聞いた西郷は、月照に対して申し訳ない気持ちでいっぱいになり、「二人で死にもんそ」と心中を決意し、夜間に小船で錦江湾に漕ぎ出し、頃合いを見て同時に入水しました。
しかし、たまたま近くで漁をしていた漁夫が大きな水音を聞き、波間に漂う西郷と月照の身体を発見。船に乗せ、急ぎ陸に上がり自宅で手当てした結果、西郷はなんとか息を吹き返しましたが月照の意識はついぞ戻る事はありませんでした。
こんなエピソードにも西郷隆盛がなぜ皆から慕われ愛されたのか分かるような気がします。「命もいらず名もいらず」西郷隆盛とは一貫して自らの行動を律し、精神世界の極みを求め続けた人物でした。
鹿児島市の藩主別邸「仙巌園」から、国道10号線を加治木方面に2kmほど先に、復元された「西郷蘇生の家」が建てられています。
月照は京都清水寺の僧侶で、僧の身分でありながら、熱心な尊皇攘夷派の人でした。
公家関係に太いパイプを持ち、討幕の活動家として熱心に説いて廻っていた頃、京都にいた薩摩藩の志士達とも交流を深め、西郷とも知己の間柄になりました。
しかしついに幕府方の知るところとなり、幕府方から命を狙われる立場になった為、西郷の案内で薩摩へ逃れる事になりました。ところが苦難の末ようやくたどり着いた薩摩で待っていたのは余りにも過酷な処遇だったのです。
「日向送りを命ず」。日向との国境まで数名の武士が付き添い、そこで斬殺するという意味です。これを聞いた西郷は、月照に対して申し訳ない気持ちでいっぱいになり、「二人で死にもんそ」と心中を決意し、夜間に小船で錦江湾に漕ぎ出し、頃合いを見て同時に入水しました。
しかし、たまたま近くで漁をしていた漁夫が大きな水音を聞き、波間に漂う西郷と月照の身体を発見。船に乗せ、急ぎ陸に上がり自宅で手当てした結果、西郷はなんとか息を吹き返しましたが月照の意識はついぞ戻る事はありませんでした。
こんなエピソードにも西郷隆盛がなぜ皆から慕われ愛されたのか分かるような気がします。「命もいらず名もいらず」西郷隆盛とは一貫して自らの行動を律し、精神世界の極みを求め続けた人物でした。
鹿児島市の藩主別邸「仙巌園」から、国道10号線を加治木方面に2kmほど先に、復元された「西郷蘇生の家」が建てられています。
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