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2022年12月14日

赤穂浪士吉良邸討ち入り



12月14日は、歌舞伎や映画・講談・浪曲などでおなじみの“忠臣蔵”で知られる、赤穂浪士の吉良邸討ち入りがあった日です。
今回は、吉良邸討ち入りを中心に忠臣蔵(赤穂事件)について取り上げたいと思います。



赤穂事件のあらまし


松の廊下刃傷事件


事の発端は、元禄14年(1701年)3月14日に起こった「松の廊下刃傷事件」(殿中刃傷事件)になります。

播州赤穂藩主浅野内匠頭長矩が、高家筆頭吉良上野介義央に対し、刃傷に及んだことによります。

浅野内匠頭は、勅使饗応役に任じられます。

その指南役になったのが、幕府の儀礼祭典を掌握する役目のである高家筆頭吉良上野介でした。

諸説ありますが、吉良上野介が浅野内匠頭は何も礼儀をつくさず、進物(賄賂)もしなかったことに腹を立てて、嫌がらせをしたことによる恨み。

あるいは、吉良の領地でも、製塩事業を行っていたが、良質な塩が出来なかった。

そこで、浅野内匠頭に秘法の伝授を乞うたが、教えなかったことに対して、嫌がらせをしたことによる恨み。

などといった説があるが、不和説の決め手はまだありません。

いずれにせよ、浅野内匠頭が「この間の遺恨覚えたるか」と言って、切りつけていますので、何か恨みがあったことは間違いありません。

幕府の裁定



朝廷からの使者すなわち勅使をお迎えし、御礼を奏上する大事な儀式の直前に、刃傷事件が起こったものだから、将軍徳川綱吉は報告を聞いて、大激怒したといいます。

また、直後の取調べの際に、浅野内匠頭が「私の遺恨これあり」と述べたことも、激怒を助長させたともいわれています。

なぜ大事な儀式の場所で、私ごとの遺恨を晴らそうとしたのか。

場所柄もわきまえず、刃傷に及んだのは不届き至極である、と言うのが将軍綱吉の考えであった。

そして、綱吉は即決で裁定を下しました。

浅野内匠頭は即日切腹。浅野家は御家断絶、領地召し上げ、弟の浅野大学は閉門、親族は出仕遠慮となりました。

一方の吉良家は、場所柄をわきまえて手向かいしなかったとして、お咎めなしとしました。

しかし、赤穂浪士たちは、これは「浅野家と吉良家の喧嘩」だとして、“喧嘩両成敗”を主張するようになりました。
吉良家も御家断絶しないと不公平だという考えで、不満が募っていくようになりました。

やがて、不満は吉良上野介を討ち取って主君の恨みを晴らし、吉良家を断絶しようとする復讐計画へと変化していくのでした。


吉良邸討ち入り


吉良家とは


吉良家は、高家を務める格式の高い家柄でした。

高家とは、幕府の儀礼祭典を掌る役職で、大沢・武田・畠山・吉良・大友などの26家が世襲であたりました。

吉良家は、足利将軍家の一族で、吉良家の始祖足利義氏の母は、北条時政の娘で、尼将軍と言われた北条政子の甥にあたります。

足利義氏は承久の乱で戦功があったので、三河の守護職になり、幡豆郡西条を領地としました。

吉良家と切っても切れない縁戚関係にあったのが、名門上杉家です。

吉良上野介が18歳の時に、上杉家から藩主上杉定勝の娘富子を妻としました。

その後、家督を継いだ富子の兄上杉綱勝が急死したため、吉良上野介と富子の長子三之助は上杉綱憲と名乗り、上杉家の家督を継ぎました。

その後、吉良上野介と富子の間に次男が誕生したが、わずか8歳で夭逝したため、上杉綱憲の次男義周を養子に迎え、後継ぎとしました。

また、長女鶴は、薩摩藩主島津綱貴の継室に、次女阿栗は、旗本津軽家へ、三女菊は公家大炊御門家へ嫁いでいます。

さらに、上杉綱憲は紀州徳川家光貞の三女為姫を正室に迎えています。

討ち入りは事前にわからなかったのか


大石内蔵助以下、赤穂浪士たちが江戸に入って、討ち入りの準備を進めてきたが、幕府の役人たちは不穏な動きを見抜けなかったのだろうか。

一説によると、幕府が仇討ちを容認していたのではないかと言われています。

吉良邸が本所松坂町に引っ越したのも、討ち入りしやすくするために幕府が仕掛けたとも言われています。

しかし、仇討ちを容認するということは、幕府の裁定すなわち将軍綱吉の裁定を否定することになるばかりか、幕府の権威にも傷がついてしまいます。

将軍綱吉の時代、御家断絶や減封になった大名は50家ちかくになります。

禄を失った武士たちは新しい仕官を求めて、大名が多くいる江戸へ集まっていました。

赤穂浪士たちが江戸へやってきても何ら不審に思うことはありません。

また、浪人の数も多くなり、日々暮らすことが精いっぱいでしたので、謀反や騒乱を起こす余裕などありませんでした。

そんな世の中でしたので、幕府の役人はじめ、江戸の人々の誰もが、赤穂浪士たちが吉良上野介を討つなど想像していなかったのです。

吉良邸は警戒していたのか


俗説では、吉良邸には赤穂浪士たちの襲来に備えて、腕利きの剣客たちを召し抱えたり、抜け穴や落とし穴を用意していたとされています。

しかし、それほど警戒していたら、夜間の不寝番や巡回をするはずだがしていなかった。

まして、当日は茶会を行い、吉良上野介・義周親子が在宅していたので、それこそ厳重警戒しなければならなかったはずなのにしていなかった。

それは、幕府の役人たち同様に、赤穂浪士たちが襲撃してくることは予測していなかったということです。

茶会で疲れ切って寝静まった頃に、奇襲をかけられて狼狽したというのが実態でした。

そもそも、幕府の儀礼祭典を掌る高家には、剣客を召し抱える必要はなかったので、襲撃に備えることも考えていなかったはずです。

本当に赤穂浪士たちの襲来を警戒していたならば、わが子の米沢藩主上杉綱憲の庇護を受けたに違いありません。

謙信公以来武門の誇る上杉家に隠まわれたら、赤穂浪士たちも手足が出せなかったはずだからです。

まとめ


忠臣蔵で知られる赤穂事件は、播州赤穂藩主浅野内匠頭長矩の吉良上野介義央に対する私的な恨みから、松の廊下で刃傷を行ったのですが、不和説の真相は解明されていません。

また、幕府の裁定も私的な恨みということで、浅野内匠頭の即日切腹、御家断絶など浅野家のみに下し、赤穂浪士たちには不満がありました。

幕府の役人たちも、吉良家の人たちも、赤穂浪士たちが復讐計画を企てているとは知らずにいたので、襲撃(討ち入り)するなど微塵も考えていませんでした。

そのため、深夜の討ち入りに対して、何ら応戦できずに吉良上野介が討たれてしまったのです。

今回は、忠臣蔵で知られる赤穂浪士討ち入りについて、取り上げてみました。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。


★参考にした書籍










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