2020年03月09日
フォアグラだけがどうこうという問題じゃないと思っていたけれど/その他・妄想
最近、カワウという水鳥について調べてショックを受けました。
カワウは昔日本にたくさんいたけれど、
一時期環境破壊によって極端に数が減り絶滅が心配されました。
しかし今は環境が良くなったのか逆に増えすぎ、
駆除されたりしたそうです。
それを聞いて私は「自然を大事に」とか「命は尊い」とか
そういう言葉って一体なんなのだろうと考えてしまいました。
多いものは価値がない、迷惑。
少ないものは貴重、大事。
数が変われば命の重みも変わるのでしょうか。
また、外来種の植物の情報を見ていると、
かつて観賞用として持ち込まれたという記述も目につきます。
偶然見かけたオオキンケイギクという花に興味を持ったのですが、この花は
以前人の手で植えられたけれど今は駆除の対象だと書かれています。
そういう場合でも、外来種は外から勝手にやってきた侵略者のように
描かれていることが多い……ように思います。
そりゃ、悪者にしないと
「人間の都合でコロコロ対応を変えて駆除するなんておかしい」
「命をなんだと思っているんだ」という話になってしまうのだから
「この生物はこんな被害をもたらします!」とのみ
書かないといけないのでしょうが……。
なんか、人々や「世間」が真っ当だと思うことも理不尽だと思うことも
全部有力な誰かの情報発信に操作され・煽動され
どこかに火の手が及ばないようにコントロールされていそうですね。
話は変わりますが最近水鳥について調べていて
偶然目にしたフォアグラに関するウェブページを覗いてしまいました。
フォアグラがどのように作られているか、
今までも話には聞いていましたが
「フォアグラだけがどうこうという問題じゃないよな」と思っていました。
人も生き物も何かを食べて生きている……そのサイクルは延々と続くのだし
それが残酷だと言い始めたらどうしようもないからです。
しかし写真つきのページと文章を見てみると、なるほど確かに……
フォアグラが残酷だと問題にされる意味が分かりました。
私は今までにも毛皮に関することや、と殺、動物虐待、
犬猫の殺処分に関する文章・動画・本を覗いてきました。
今もたまにそのような情報を見ています。
しかしベジタリアンになろうとしても
肉の魅力に取り付かれているためにどうしても食べたくなって
いつもそこ止まりです。
私はそこまで食いしん坊ではないと思っていました。
しかしそれは毎日おなかいっぱい食べているから
飢えた本能が露呈することがあまりないだけで
ちょっとおなかがすけばすぐ、頭の中は肉でいっぱいになってしまいます。
食欲というものを自分は、自分が思うより強く持っていました。
肉が食べられなくなることを思うとそれは無理だとなります。
なかなか恐ろしい本能……いや煩悩ですね。
栄養云々よりまず、肉が食べられなくなることに耐えられそうにないです。
できる限りいい人ぶろうとしても……
知的で冷静で温厚なフリをしようとしても……
心の奥底に隠しきれない本性が揺らめいている気がします。
……常に。
今日もテレビや新聞は人間の話ばかりです。
外へ出ても、人間が生き物を殺している様子は目に見えません。
店には食べるための整ったお肉やお魚。
公園には可愛いお花と身近な野鳥たち。
整ったお肉やお魚と、外で暮らしている「生き物」は別物のようです。
……殺戮は綺麗に隠されているんですね。
そして、食べるためのものと食べ物ではないものを頭の中で分けています。
ショックな話を聞く度に、日常がどんどん嘘臭く見えてきます。
ありふれた、平凡な、なんとなく永遠に続くであろう毎日。
「明日は何しようかな」「来年は」と未来について考え、
手帳に数ヶ月先まで計画を書き込む自由がある「人間」の生活。
私は普通に善人で、嫌なことはやめたり理不尽なことには怒ったりできる。
そんな前提を暗黙の了解で持ち続け、人のことを批判したり、
「今日やなことあったー」なんて愚痴ったりできる毎日。
「私は幸せになりたい」とか「こう考えたら幸せになれるかもよ」
とか人間同士で「ステキな考え方」をシェアしあう日々。
他の生き物たちはきっと、
いつ殺されるかか分からない、そんな今一瞬を
文句も言わず生き抜いているのに。
生き物たちにとっての幸せってなんだろう。
多分私たちが思っている「何事もない平穏な毎日」というのは望めない。
そして過酷な一生を生き抜く権利を与えられることや
死によって肉体から解き放たれることすらも「神様からの愛」であり
お肉になる生き物たちもフォアグラになる鳥も
駆除される外来種もすべて平等に神様に愛されているとするならば
我々が神に平穏無事やその他いろいろを願うことは、
自然の摂理や命を何か誤解しているのかもしれません。
私に「私、善人だから幸せになりたいです〜」って言いながら
笑う権利なんてあるんでしょうか。
神様に私の思う「幸せ」を願う権利なんてあるでしょうか。
……もっと自由になりたいです。
「どうやったらお金を得られるか」「一生食べていけるか」
「病気にならず、災害が起こらず、健康で過ごせますように」
「おなかがすいた、あれが食べたい」
そんな、自分を構成する、ありふれた唯一の思考から抜け出して……。
嫌なことを嫌と言う権利は人間だけのもの。
幸せを追い求め、幸せを語る権利は人間だけのもの。
本に書いてある「幸せな考え方」を
他の生き物に当てはめて考えてみるとつじつまが合わない。
もし自分が、お肉にされる動物に生まれたら
誰に「助けて」と言えばいい?
身動きとれない状態で有害物質を投与される実験動物だったら?
そこから考え方や行動次第で幸せになれるものでしょうか。
万が一、自分だけなんらかのアクションで注目されて
「食べられる運命から逃れた奇跡のアニマル!」と
もてはやされ助かったとしても
他の仲間たちはあいかわらず人間に食べられる状況の中で
「私幸せになりました」って心の底から言えるでしょうか……。
今だってそうです。
こんなに食べているのに、人間だけ特別で
「幸せ〜♪」って考えるべきなのでしょうか。
そして別に人間だけ自然のサイクルから外れておかしいわけでもなく
動物の世界も弱肉強食で……。
目指すべき場所がどこか、守るべき命が誰かは結局分かりません。
だから自由になりたいです。
こんなくだらない文句を言う自由さえ
死んでいった動物たちにはなかった。
そう思うとこんなこと言うのおこがましいけれど、
人間も生き物も不自由に感じます。
いつだって、生きるためのシステムに縛られて。
だから自由になりたいです。
カワウは昔日本にたくさんいたけれど、
一時期環境破壊によって極端に数が減り絶滅が心配されました。
しかし今は環境が良くなったのか逆に増えすぎ、
駆除されたりしたそうです。
それを聞いて私は「自然を大事に」とか「命は尊い」とか
そういう言葉って一体なんなのだろうと考えてしまいました。
多いものは価値がない、迷惑。
少ないものは貴重、大事。
数が変われば命の重みも変わるのでしょうか。
また、外来種の植物の情報を見ていると、
かつて観賞用として持ち込まれたという記述も目につきます。
偶然見かけたオオキンケイギクという花に興味を持ったのですが、この花は
以前人の手で植えられたけれど今は駆除の対象だと書かれています。
そういう場合でも、外来種は外から勝手にやってきた侵略者のように
描かれていることが多い……ように思います。
そりゃ、悪者にしないと
「人間の都合でコロコロ対応を変えて駆除するなんておかしい」
「命をなんだと思っているんだ」という話になってしまうのだから
「この生物はこんな被害をもたらします!」とのみ
書かないといけないのでしょうが……。
なんか、人々や「世間」が真っ当だと思うことも理不尽だと思うことも
全部有力な誰かの情報発信に操作され・煽動され
どこかに火の手が及ばないようにコントロールされていそうですね。
話は変わりますが最近水鳥について調べていて
偶然目にしたフォアグラに関するウェブページを覗いてしまいました。
フォアグラがどのように作られているか、
今までも話には聞いていましたが
「フォアグラだけがどうこうという問題じゃないよな」と思っていました。
人も生き物も何かを食べて生きている……そのサイクルは延々と続くのだし
それが残酷だと言い始めたらどうしようもないからです。
しかし写真つきのページと文章を見てみると、なるほど確かに……
フォアグラが残酷だと問題にされる意味が分かりました。
私は今までにも毛皮に関することや、と殺、動物虐待、
犬猫の殺処分に関する文章・動画・本を覗いてきました。
今もたまにそのような情報を見ています。
しかしベジタリアンになろうとしても
肉の魅力に取り付かれているためにどうしても食べたくなって
いつもそこ止まりです。
私はそこまで食いしん坊ではないと思っていました。
しかしそれは毎日おなかいっぱい食べているから
飢えた本能が露呈することがあまりないだけで
ちょっとおなかがすけばすぐ、頭の中は肉でいっぱいになってしまいます。
食欲というものを自分は、自分が思うより強く持っていました。
肉が食べられなくなることを思うとそれは無理だとなります。
なかなか恐ろしい本能……いや煩悩ですね。
栄養云々よりまず、肉が食べられなくなることに耐えられそうにないです。
できる限りいい人ぶろうとしても……
知的で冷静で温厚なフリをしようとしても……
心の奥底に隠しきれない本性が揺らめいている気がします。
……常に。
今日もテレビや新聞は人間の話ばかりです。
外へ出ても、人間が生き物を殺している様子は目に見えません。
店には食べるための整ったお肉やお魚。
公園には可愛いお花と身近な野鳥たち。
整ったお肉やお魚と、外で暮らしている「生き物」は別物のようです。
……殺戮は綺麗に隠されているんですね。
そして、食べるためのものと食べ物ではないものを頭の中で分けています。
ショックな話を聞く度に、日常がどんどん嘘臭く見えてきます。
ありふれた、平凡な、なんとなく永遠に続くであろう毎日。
「明日は何しようかな」「来年は」と未来について考え、
手帳に数ヶ月先まで計画を書き込む自由がある「人間」の生活。
私は普通に善人で、嫌なことはやめたり理不尽なことには怒ったりできる。
そんな前提を暗黙の了解で持ち続け、人のことを批判したり、
「今日やなことあったー」なんて愚痴ったりできる毎日。
「私は幸せになりたい」とか「こう考えたら幸せになれるかもよ」
とか人間同士で「ステキな考え方」をシェアしあう日々。
他の生き物たちはきっと、
いつ殺されるかか分からない、そんな今一瞬を
文句も言わず生き抜いているのに。
生き物たちにとっての幸せってなんだろう。
多分私たちが思っている「何事もない平穏な毎日」というのは望めない。
そして過酷な一生を生き抜く権利を与えられることや
死によって肉体から解き放たれることすらも「神様からの愛」であり
お肉になる生き物たちもフォアグラになる鳥も
駆除される外来種もすべて平等に神様に愛されているとするならば
我々が神に平穏無事やその他いろいろを願うことは、
自然の摂理や命を何か誤解しているのかもしれません。
私に「私、善人だから幸せになりたいです〜」って言いながら
笑う権利なんてあるんでしょうか。
神様に私の思う「幸せ」を願う権利なんてあるでしょうか。
……もっと自由になりたいです。
「どうやったらお金を得られるか」「一生食べていけるか」
「病気にならず、災害が起こらず、健康で過ごせますように」
「おなかがすいた、あれが食べたい」
そんな、自分を構成する、ありふれた唯一の思考から抜け出して……。
嫌なことを嫌と言う権利は人間だけのもの。
幸せを追い求め、幸せを語る権利は人間だけのもの。
本に書いてある「幸せな考え方」を
他の生き物に当てはめて考えてみるとつじつまが合わない。
もし自分が、お肉にされる動物に生まれたら
誰に「助けて」と言えばいい?
身動きとれない状態で有害物質を投与される実験動物だったら?
そこから考え方や行動次第で幸せになれるものでしょうか。
万が一、自分だけなんらかのアクションで注目されて
「食べられる運命から逃れた奇跡のアニマル!」と
もてはやされ助かったとしても
他の仲間たちはあいかわらず人間に食べられる状況の中で
「私幸せになりました」って心の底から言えるでしょうか……。
今だってそうです。
こんなに食べているのに、人間だけ特別で
「幸せ〜♪」って考えるべきなのでしょうか。
そして別に人間だけ自然のサイクルから外れておかしいわけでもなく
動物の世界も弱肉強食で……。
目指すべき場所がどこか、守るべき命が誰かは結局分かりません。
だから自由になりたいです。
こんなくだらない文句を言う自由さえ
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