2019年02月15日
神奈川中央交通 三太号
どうもです。
今回は、写真を整理していたら出てきた一枚から。
神奈中の三太号です。
この三太号は、神奈川中央交通(以後神奈中)の創立60周年記念に際し代燃車として1981年に復元されたもので、1950年式のトヨタトラックのボンネット及びシャシー部分と、日産180型バスボディーを合体させて製作されたものです。
詳しくはウィキぺディアに書かれていますが、トラックシャシーは1979年まで消防車として現役だったFS型を基にし、シャシーを延長して使用したそうです。バスボディについては長野県内で発見された「日本国有鉄道橋本工場製」の廃車体を再生したとのこと。
(現在ではまず探しても残っていないでしょうね)
そこへガス発生装置をリアオーバーハングへ取り付け、終戦直後に活躍したバスを再現したわけです。
バスの場合、基本的にシャシーメーカーとボディメーカーは別で、シャシー(この場合はトヨタ)とエンジンなど走行に必要な部分をシャシーメーカーは製造、供給し、ボディーメーカーが客先の仕様にあわせて車体を架装するのが普通でした。
これは今でも同じで、昔に比べて違いは少なくなりましたが、細かい装備の差異などは今でもユーザーの注文に沿ってボディメーカーが架装しています。
ただ、独立系のボディメーカーは減り、現在ほとんどはシャシーメーカー(三菱、いすゞ、日野、UDなど)の子会社となっているようです。
また、ガス発生装置はこのために新製されたもので、当時の技術者の記憶を頼りに図面を起こして製作されたとあります。
このガス発生装置と言うのは、戦争当時にはガソリンが国によって統制され一般には入手不可能だったために苦肉の策として開発された代物で、薪や木炭を燃やし、不完全燃焼をさせて発生した一酸化炭素を主としたガスをキャブレターに送り込みエンジンを回すために作られた装置です。
この発生炉で作られたガスをろ過装置を通して煤などと分離してキャブレターに送り込みますが、当然不純物も多く、通常のガソリンに対して相当出力的にも厳しかったようです。
当時の話を読むと、坂道等では満員のバスは登りきれずにお客に降りてもらい押して上がったとか、しょっちゅうエンジンの分解整備が必要だったとか、ガス発生炉操作中に一酸化炭素中毒になったなんて話がゴロゴロあったようです。
この三太号、小学生の頃に友人の家にあった車の本に載っていたのを見たのが最初ですが、それから10年近くたって初めて本物にお目にかかった次第です。
そもそも三太号と言う名前すら知りませんでしたが、今回改めて調べるまでかなりあやふやな感じでしか覚えてなかったんですよね。
この写真は多分1991年頃の撮影だと思うのですが、当時バイトしていたディーラーの陸送の仕事中に、神奈中の舞岡車庫の前を走行しているのを偶然目撃。
急いで「写ルンです」片手に車庫へ舞い戻り、写真撮影の許可を貰って写したものです。
懐かしい・・・
そのときは既に舞岡車庫の構内におり、職員さんたちが記念撮影をしているような状況でした。
リアに背負っているガス発生装置
奥に写っているバスも既に懐かしいですね
一般人?っぽい人はいなかったような気がするんですけど、オフレコだったんでしょうかね?
その後、運良く構内一周の試乗に同乗させてもらい、最後に職員さんが写真を撮ってくれました。
顔は伏せさせてくだされ・・・
シンプルな運転席周りの様子
インパネ真ん中の白いレバー状のものは腕木式方向指示器(ウインカー)のスイッチ
左の袋の中身は木炭か?
中々に貴重でラッキーな体験だったと当時思っていたんですけど、どうやらこの前後に三太号は大規模な修復をしていたんです。
当時既にオリジナル(トヨタFS)の製造から40年以上が経ち、エンジンの修繕が必要な状態だったことと、ガス発生炉の寿命から新製が必要になっていたこと、1991年には神奈中70周年と言う節目だった事もあって改めて安心して自走可能なように修復が行なわれたそうなんです。
自分はどうもこの時期にたまたま出くわしたようです。
詳しく調べていないので真相は分かりませんが、各車庫を回ってお披露目でもしていたのでしょうかね?
明らかにイベントではなかったんで(平日でしたし)会場を警備している人も無く、あくまでも内輪でやってるような感じでしたよ。
今はまた自走が難しい状態になっているそうですが、普段は厚木車庫に保管されているそうです。
元々製作時にはガソリンでも走行可能なようにキャブレターが切り替え式になっているそうですが、今まで実際にガソリンで走行したことは無いらしいです。
一応知らない方のために述べておきますが、当時はまだディーゼル車は一般的ではなく、これくらいのサイズの車でもまだ多くはガソリン車でした。
ディーゼルエンジンのバスが普及するのは昭和20年代半ば以降からですね。
いすゞBX型というボンネットバスがディーゼルバス普及の最初ではないでしょうか。
それ以前にも日野のトレーラーバス等もディーゼルエンジンでしたが、アレはかなり特殊なバスなんで。
(この日野のトレーラーバスのトラクタが搭載しているディーゼルエンジンは、元をただすと旧陸軍統制型ディーゼルエンジンだそうで・・・)
最後になりますが、乗り心地などを思い出してみようと思ったんですけど実際は構内を低速で走っただけなんで特に記憶に残っているフィーリングなどは無いんですね。
ただ、運転士さんがギアチェンジするのにダブルクラッチを駆使していたのだけははっきり覚えてます。
やはり慣れた運転手さんじゃなければスムーズに走らせるのは難しいのでしょうね。
自分は構内での試乗しかしていないのでなんともいえませんけど、路上を走行させるとなれば現在の交通の流れに乗せるのも気を使うでしょうし、事故などがあれば部品の確保もままならないと思うので大変だと思います。
外装だけでなくエンジンなどの補修部品も無いでしょうし、再度動態保存にもっていくのは天下の神奈中さんでも簡単な事ではないとは思います。
それでも出来ることならば、また自走可能な状態へ復元を果たして是非イベントなどでお披露目してもらいたいと考えてしまうのは無責任かもしれません。
でも個人的にはまた走る姿を見たいと思ってしまうんですけど・・・駄目ですかね?
ではまた
今回は、写真を整理していたら出てきた一枚から。
神奈中の三太号です。
この三太号は、神奈川中央交通(以後神奈中)の創立60周年記念に際し代燃車として1981年に復元されたもので、1950年式のトヨタトラックのボンネット及びシャシー部分と、日産180型バスボディーを合体させて製作されたものです。
詳しくはウィキぺディアに書かれていますが、トラックシャシーは1979年まで消防車として現役だったFS型を基にし、シャシーを延長して使用したそうです。バスボディについては長野県内で発見された「日本国有鉄道橋本工場製」の廃車体を再生したとのこと。
(現在ではまず探しても残っていないでしょうね)
そこへガス発生装置をリアオーバーハングへ取り付け、終戦直後に活躍したバスを再現したわけです。
バスの場合、基本的にシャシーメーカーとボディメーカーは別で、シャシー(この場合はトヨタ)とエンジンなど走行に必要な部分をシャシーメーカーは製造、供給し、ボディーメーカーが客先の仕様にあわせて車体を架装するのが普通でした。
これは今でも同じで、昔に比べて違いは少なくなりましたが、細かい装備の差異などは今でもユーザーの注文に沿ってボディメーカーが架装しています。
ただ、独立系のボディメーカーは減り、現在ほとんどはシャシーメーカー(三菱、いすゞ、日野、UDなど)の子会社となっているようです。
また、ガス発生装置はこのために新製されたもので、当時の技術者の記憶を頼りに図面を起こして製作されたとあります。
このガス発生装置と言うのは、戦争当時にはガソリンが国によって統制され一般には入手不可能だったために苦肉の策として開発された代物で、薪や木炭を燃やし、不完全燃焼をさせて発生した一酸化炭素を主としたガスをキャブレターに送り込みエンジンを回すために作られた装置です。
この発生炉で作られたガスをろ過装置を通して煤などと分離してキャブレターに送り込みますが、当然不純物も多く、通常のガソリンに対して相当出力的にも厳しかったようです。
当時の話を読むと、坂道等では満員のバスは登りきれずにお客に降りてもらい押して上がったとか、しょっちゅうエンジンの分解整備が必要だったとか、ガス発生炉操作中に一酸化炭素中毒になったなんて話がゴロゴロあったようです。
この三太号、小学生の頃に友人の家にあった車の本に載っていたのを見たのが最初ですが、それから10年近くたって初めて本物にお目にかかった次第です。
そもそも三太号と言う名前すら知りませんでしたが、今回改めて調べるまでかなりあやふやな感じでしか覚えてなかったんですよね。
この写真は多分1991年頃の撮影だと思うのですが、当時バイトしていたディーラーの陸送の仕事中に、神奈中の舞岡車庫の前を走行しているのを偶然目撃。
急いで「写ルンです」片手に車庫へ舞い戻り、写真撮影の許可を貰って写したものです。
富士フィルム NEW 写ルンですシンプルエース 27枚撮り LFS-ACE SP FL 価格:819円 |
懐かしい・・・
そのときは既に舞岡車庫の構内におり、職員さんたちが記念撮影をしているような状況でした。
リアに背負っているガス発生装置
奥に写っているバスも既に懐かしいですね
一般人?っぽい人はいなかったような気がするんですけど、オフレコだったんでしょうかね?
その後、運良く構内一周の試乗に同乗させてもらい、最後に職員さんが写真を撮ってくれました。
顔は伏せさせてくだされ・・・
シンプルな運転席周りの様子
インパネ真ん中の白いレバー状のものは腕木式方向指示器(ウインカー)のスイッチ
左の袋の中身は木炭か?
中々に貴重でラッキーな体験だったと当時思っていたんですけど、どうやらこの前後に三太号は大規模な修復をしていたんです。
当時既にオリジナル(トヨタFS)の製造から40年以上が経ち、エンジンの修繕が必要な状態だったことと、ガス発生炉の寿命から新製が必要になっていたこと、1991年には神奈中70周年と言う節目だった事もあって改めて安心して自走可能なように修復が行なわれたそうなんです。
自分はどうもこの時期にたまたま出くわしたようです。
詳しく調べていないので真相は分かりませんが、各車庫を回ってお披露目でもしていたのでしょうかね?
明らかにイベントではなかったんで(平日でしたし)会場を警備している人も無く、あくまでも内輪でやってるような感じでしたよ。
今はまた自走が難しい状態になっているそうですが、普段は厚木車庫に保管されているそうです。
元々製作時にはガソリンでも走行可能なようにキャブレターが切り替え式になっているそうですが、今まで実際にガソリンで走行したことは無いらしいです。
一応知らない方のために述べておきますが、当時はまだディーゼル車は一般的ではなく、これくらいのサイズの車でもまだ多くはガソリン車でした。
ディーゼルエンジンのバスが普及するのは昭和20年代半ば以降からですね。
いすゞBX型というボンネットバスがディーゼルバス普及の最初ではないでしょうか。
それ以前にも日野のトレーラーバス等もディーゼルエンジンでしたが、アレはかなり特殊なバスなんで。
(この日野のトレーラーバスのトラクタが搭載しているディーゼルエンジンは、元をただすと旧陸軍統制型ディーゼルエンジンだそうで・・・)
最後になりますが、乗り心地などを思い出してみようと思ったんですけど実際は構内を低速で走っただけなんで特に記憶に残っているフィーリングなどは無いんですね。
ただ、運転士さんがギアチェンジするのにダブルクラッチを駆使していたのだけははっきり覚えてます。
やはり慣れた運転手さんじゃなければスムーズに走らせるのは難しいのでしょうね。
自分は構内での試乗しかしていないのでなんともいえませんけど、路上を走行させるとなれば現在の交通の流れに乗せるのも気を使うでしょうし、事故などがあれば部品の確保もままならないと思うので大変だと思います。
外装だけでなくエンジンなどの補修部品も無いでしょうし、再度動態保存にもっていくのは天下の神奈中さんでも簡単な事ではないとは思います。
それでも出来ることならば、また自走可能な状態へ復元を果たして是非イベントなどでお披露目してもらいたいと考えてしまうのは無責任かもしれません。
でも個人的にはまた走る姿を見たいと思ってしまうんですけど・・・駄目ですかね?
ではまた
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この記事へのコメント
この三太号、1981年「世界の自動車」(朝日新聞社刊)の表紙に、後に赤いいすゞピアッツァを従えて出ていたことは憶えております。
Posted by 真鍋清 at 2020年03月08日 14:09
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