2022年08月11日
167系修学旅行用電車の思い出
どうもです。
今年はあっという間に梅雨が明けて、既に季節はお盆直前です。
それにしても早く梅雨が明けると大抵その後大雨になるので、梅雨明け宣言って何でしょうって感じです。
しかも最近は災害級の大雨になるんで危険極まりないですね。
さて、今回は雨の話題とは一見何の関係もない国鉄167系電車についてちょっとだけ思い出話を書きました。
鉄道ネタなので、詳しくない方にはあまり優しくない内容かもしれません。
まあ既に梅雨は終わりましたが、毎年梅雨の時期になると何となく思い出すことの一つに小学生の時の修学旅行があるんですよ。
その修学旅行の際に乗ったのが今回の167系電車なんですね。
167系電車とはある程度の年齢から上の方には思い出深い電車ではないかと。
167系とは国鉄の修学旅行用電車として製作された最後の系列で、登場は1965年の事でした。
ちょっとだけ説明すると、先に登場していた165系急行型電車をもとに製作されたので、153系ベースの155・159系よりも出力の高いMT54主電動機を搭載しており、勾配抑速ブレーキ付きでした。
165系との外観上の違いは塗装の他に、客扉が1000ミリ幅から当時の特急型車両と同じ700ミリ幅になっているといったところですが、制御電動車(クモハ)は無くてクハ+モハ+モハ+クハの4連が基本編成でした。
私よりもう少し上の世代だと修学旅行電車と言えば155系や159系になるのかもしれませんが、私の世代でも実際コレに乗って修学旅行に行ったという方はどれくらい居たのでしょう。
既に修学旅行専用列車は廃止されており、私の小学生の時分には波動輸送用として使われており、この頃にはもう塗装も湘南色に塗替えが終わっていました。
地域などによってはそもそも鉄道を使わないところもあるでしょうから、今回の話はピンとこない方もいると思いますが、個人の思い出話という事で読んでいただければと思います。
私の小学校は神奈川の横浜で、この頃は6年生の6月頃になると修学旅行に行ってたんですよ。
今はどうなのか分かりませんが、当時は日光へ行くのが決まりでした。
で、当時の小学生はこの167系に乗車して日光へ行くわけです。
恐らく私の通っていた小学校の近隣エリアの小学校は皆この電車で日光へ行っていると思います。
(詳しく調べていませんが、神奈川や東京都の学校は結構使っていたようです)
私の場合は国鉄(現JR)の大船から乗車したんですが、他の学校の生徒もいたように記憶してます。
この後も途中駅でいくつかの学校の生徒を拾いながら日光を目指すんですが、始発はどこだったんでしょう?
車両ごとに各小学校に割り振られているので、別の車両に行くと他所の学校の生徒が乗っているはずでした。
自分は別の車両にはいかなかったので分かりませんが、確かそうなっていたはずです。
当時の編成はどれくらいだったんでしょう?
恐らくですが先に書いたようにクハ+モハ+モハ+クハの4連が基本だったので、4連x2の8両編成くらいだったんじゃないかな?
実はその辺の記憶が全くないんですよ。
そもそも自分たちが乗車した車両はモハだったのかクハだったのかさえ覚えていないんですよね。
車内で楽しく過ごしたことは覚えてるんですけど、今なら絶対確認しているはずの車種を覚えていないなんて情けなや・・・
これは自分たちが乗った頃より後の昭和61年頃撮影した167系
クッソみたいな写真ですが、たまたま別の被写体を撮影しに行ったとき偶然通りかかったのを急ぎ撮影したもので、それぞれ別の日に撮ったもの。
走っている線路はどちらも横須賀線の上り線で、場所は大船〜戸塚間
ヘッドマークを掲示してますが、恐らく「修学旅行」だったと思います。
1枚目はともかく、2枚目は明らかに夕方なんで多分回送でしょうね。
話を戻して、今では驚きもしないですが当時は東京から上野への直通運転は無かった時代に大船から東京を抜けて上野を通り、その後は東北本線を宇都宮まで進んでから日光線へ入る普段通ることのないルートを車内から見ることが出来たので、鉄道好きの少年たちにはある種堪らないものでした。
この頃はまだ新幹線東京駅乗入工事前の時代ですから、線路自体は繋がっていたのでしょうか?
その後工事が始まると日光へ行く修学旅行電車のルートも変更され、品川から山手線経由で新宿方面へ迂回してたみたいですね。
今はどうなっているのやら。
全く分かりません。
・・・実はちょっと記憶が怪しいところもあるんですが、自分たちは多分間違いなく東京から直接上野へ向かっているはずです。
その証拠に東北新幹線開業目前で最後の活躍をしていた181系を見ているので間違いありません。
この時期はもう新宿からは181系「あずさ」は消えているので、181系は上野から出ている「とき」しかありえないんですよ。
だから新宿方面から回っていたらまず見るはずがないと思うんです。
しかもその時見た「とき」には、元151系最後の生き残りとして当時有名だったモハ181-29が偶然組み込まれていたのを発見して興奮したのを覚えているのでそこだけは記憶がはっきりしているわけなんですね。
このモハ181-29が旧151系の生き残りだという情報は、コロタン文庫の国電オール百科で仕入れた情報でしたが、今となってはカメラを持っていなかったことが悔やまれます。
その後も、大宮では川越線用(当時はそこまで詳しくないので大宮とか川越線なんて言うもの後年の知識による)のキハ35系が隣に並びましたが、その中にタラコ色のキハ35 900番台がいることに目ざとく気付き一人ほくそ笑む自分(笑)。
宇都宮からはスイッチバックをして日光線へ入るので今までとは逆向きに電車が進み、これも初めての事で新鮮でした。(宇都宮では宇都宮運転所が見えてここでもひとり喜ぶ・・・まあ友人も見てましたけどね)
日光線に入ると、割と間もないタイミングで当時最新鋭だったキハ183系が側線(工場の敷地内?)に見えたのですが、それを友人に伝えると本人はそれに気付いていなくて信じてもらえませんでした。
信じてもらえなかったのでちょっと頭に来て、帰りに見てみろと言ってオヤツを賭けたんですが、既に居なくなっててまんまとオヤツを掠め取られました(泣)
後にそこは富士重工の工場があったというのを知りましたが、当時はそんなことは知らずにたまたま見えるところにキハ183系が留置されていたという事のようです。
そんな楽しい電車での旅も終点の日光でおしまいです。
その後はバスで各地を回ったんですが、梅雨の時期だったからなのか旅行中は初日以外雨模様でした。
東照宮の見学の時はまだ天気が良かったので雨に降られることはなかったんですけど、それ以降の行程は雨に祟られ、華厳の滝は辛うじて見えたといった感じで、中禅寺湖や戦場ヶ原などは散策が中止になりバスで通過して車内から景色を見ただけ。
後は常に傘を差しての見学だったので、何だかその記憶が濃くて見学したところの記憶が薄くなってしまっています。
そして確か2泊3日の旅行は無事に終わり、帰りはまた日光駅から167系で帰ったのですが、あんまり帰りの記憶もありません。
先の賭けは覚えてるんですが、それ以外がもう定かではないです。
やっぱり行きは期待が大きくて楽しい記憶が残ってるんですが、帰りになると現実に戻されてしまうのでテンションが下がってるんでしょうね。
しかしこの写真は刀や笛を持ってポーズをとっているので、間違いなく帰りの車内です(笑)
黄色いシャツの子供が若かりし頃の自分です。
二枚目は女の子たちがメインの写真ですが、自分が写っていたので購入したんでしょう。
お陰で車内の様子が良く分かりますね。
当時はカメラマンが一緒に旅行に添乗していてたくさん写真を撮ってくれてましたね。
それらがあとで廊下に番号を付けて張り出されて、そこから何番を1枚、みたいな買い方をしてた覚えがあります。
今回この記事を書いていると色々と細かい記憶が呼び覚まされる部分もありましたけど、現地での出来事よりも行きの電車内での記憶の方がはっきりしていますね〜。
結局旅行そのものよりも167系に乗って出掛けたこと自体が楽しい思い出になってるみたいです。
でもその割に細かい部分の記憶はあやふやなままですけどね。
既に40年前の出来事ですが、何故か今でも思い出すのは車内ではしゃいでいた記憶ばっかりで、皆で刀を買ったはずの宿での記憶などがほぼ無いのが不思議です。
最後に、このネタを書く為に当時の写真を引っ張り出して最後に改めてよく見ると、修学旅行に行ったのは6月じゃなくて5月でした(笑)
今回は以上です。
ではまた
今年はあっという間に梅雨が明けて、既に季節はお盆直前です。
それにしても早く梅雨が明けると大抵その後大雨になるので、梅雨明け宣言って何でしょうって感じです。
しかも最近は災害級の大雨になるんで危険極まりないですね。
さて、今回は雨の話題とは一見何の関係もない国鉄167系電車についてちょっとだけ思い出話を書きました。
鉄道ネタなので、詳しくない方にはあまり優しくない内容かもしれません。
まあ既に梅雨は終わりましたが、毎年梅雨の時期になると何となく思い出すことの一つに小学生の時の修学旅行があるんですよ。
その修学旅行の際に乗ったのが今回の167系電車なんですね。
167系電車とはある程度の年齢から上の方には思い出深い電車ではないかと。
167系とは国鉄の修学旅行用電車として製作された最後の系列で、登場は1965年の事でした。
ちょっとだけ説明すると、先に登場していた165系急行型電車をもとに製作されたので、153系ベースの155・159系よりも出力の高いMT54主電動機を搭載しており、勾配抑速ブレーキ付きでした。
165系との外観上の違いは塗装の他に、客扉が1000ミリ幅から当時の特急型車両と同じ700ミリ幅になっているといったところですが、制御電動車(クモハ)は無くてクハ+モハ+モハ+クハの4連が基本編成でした。
私よりもう少し上の世代だと修学旅行電車と言えば155系や159系になるのかもしれませんが、私の世代でも実際コレに乗って修学旅行に行ったという方はどれくらい居たのでしょう。
既に修学旅行専用列車は廃止されており、私の小学生の時分には波動輸送用として使われており、この頃にはもう塗装も湘南色に塗替えが終わっていました。
地域などによってはそもそも鉄道を使わないところもあるでしょうから、今回の話はピンとこない方もいると思いますが、個人の思い出話という事で読んでいただければと思います。
私の小学校は神奈川の横浜で、この頃は6年生の6月頃になると修学旅行に行ってたんですよ。
今はどうなのか分かりませんが、当時は日光へ行くのが決まりでした。
で、当時の小学生はこの167系に乗車して日光へ行くわけです。
恐らく私の通っていた小学校の近隣エリアの小学校は皆この電車で日光へ行っていると思います。
(詳しく調べていませんが、神奈川や東京都の学校は結構使っていたようです)
私の場合は国鉄(現JR)の大船から乗車したんですが、他の学校の生徒もいたように記憶してます。
この後も途中駅でいくつかの学校の生徒を拾いながら日光を目指すんですが、始発はどこだったんでしょう?
車両ごとに各小学校に割り振られているので、別の車両に行くと他所の学校の生徒が乗っているはずでした。
自分は別の車両にはいかなかったので分かりませんが、確かそうなっていたはずです。
当時の編成はどれくらいだったんでしょう?
恐らくですが先に書いたようにクハ+モハ+モハ+クハの4連が基本だったので、4連x2の8両編成くらいだったんじゃないかな?
実はその辺の記憶が全くないんですよ。
そもそも自分たちが乗車した車両はモハだったのかクハだったのかさえ覚えていないんですよね。
車内で楽しく過ごしたことは覚えてるんですけど、今なら絶対確認しているはずの車種を覚えていないなんて情けなや・・・
これは自分たちが乗った頃より後の昭和61年頃撮影した167系
走っている線路はどちらも横須賀線の上り線で、場所は大船〜戸塚間
ヘッドマークを掲示してますが、恐らく「修学旅行」だったと思います。
1枚目はともかく、2枚目は明らかに夕方なんで多分回送でしょうね。
話を戻して、今では驚きもしないですが当時は東京から上野への直通運転は無かった時代に大船から東京を抜けて上野を通り、その後は東北本線を宇都宮まで進んでから日光線へ入る普段通ることのないルートを車内から見ることが出来たので、鉄道好きの少年たちにはある種堪らないものでした。
この頃はまだ新幹線東京駅乗入工事前の時代ですから、線路自体は繋がっていたのでしょうか?
その後工事が始まると日光へ行く修学旅行電車のルートも変更され、品川から山手線経由で新宿方面へ迂回してたみたいですね。
今はどうなっているのやら。
全く分かりません。
・・・実はちょっと記憶が怪しいところもあるんですが、自分たちは多分間違いなく東京から直接上野へ向かっているはずです。
その証拠に東北新幹線開業目前で最後の活躍をしていた181系を見ているので間違いありません。
この時期はもう新宿からは181系「あずさ」は消えているので、181系は上野から出ている「とき」しかありえないんですよ。
だから新宿方面から回っていたらまず見るはずがないと思うんです。
しかもその時見た「とき」には、元151系最後の生き残りとして当時有名だったモハ181-29が偶然組み込まれていたのを発見して興奮したのを覚えているのでそこだけは記憶がはっきりしているわけなんですね。
このモハ181-29が旧151系の生き残りだという情報は、コロタン文庫の国電オール百科で仕入れた情報でしたが、今となってはカメラを持っていなかったことが悔やまれます。
その後も、大宮では川越線用(当時はそこまで詳しくないので大宮とか川越線なんて言うもの後年の知識による)のキハ35系が隣に並びましたが、その中にタラコ色のキハ35 900番台がいることに目ざとく気付き一人ほくそ笑む自分(笑)。
宇都宮からはスイッチバックをして日光線へ入るので今までとは逆向きに電車が進み、これも初めての事で新鮮でした。(宇都宮では宇都宮運転所が見えてここでもひとり喜ぶ・・・まあ友人も見てましたけどね)
日光線に入ると、割と間もないタイミングで当時最新鋭だったキハ183系が側線(工場の敷地内?)に見えたのですが、それを友人に伝えると本人はそれに気付いていなくて信じてもらえませんでした。
信じてもらえなかったのでちょっと頭に来て、帰りに見てみろと言ってオヤツを賭けたんですが、既に居なくなっててまんまとオヤツを掠め取られました(泣)
後にそこは富士重工の工場があったというのを知りましたが、当時はそんなことは知らずにたまたま見えるところにキハ183系が留置されていたという事のようです。
そんな楽しい電車での旅も終点の日光でおしまいです。
その後はバスで各地を回ったんですが、梅雨の時期だったからなのか旅行中は初日以外雨模様でした。
東照宮の見学の時はまだ天気が良かったので雨に降られることはなかったんですけど、それ以降の行程は雨に祟られ、華厳の滝は辛うじて見えたといった感じで、中禅寺湖や戦場ヶ原などは散策が中止になりバスで通過して車内から景色を見ただけ。
後は常に傘を差しての見学だったので、何だかその記憶が濃くて見学したところの記憶が薄くなってしまっています。
そして確か2泊3日の旅行は無事に終わり、帰りはまた日光駅から167系で帰ったのですが、あんまり帰りの記憶もありません。
先の賭けは覚えてるんですが、それ以外がもう定かではないです。
やっぱり行きは期待が大きくて楽しい記憶が残ってるんですが、帰りになると現実に戻されてしまうのでテンションが下がってるんでしょうね。
しかしこの写真は刀や笛を持ってポーズをとっているので、間違いなく帰りの車内です(笑)
二枚目は女の子たちがメインの写真ですが、自分が写っていたので購入したんでしょう。
お陰で車内の様子が良く分かりますね。
当時はカメラマンが一緒に旅行に添乗していてたくさん写真を撮ってくれてましたね。
それらがあとで廊下に番号を付けて張り出されて、そこから何番を1枚、みたいな買い方をしてた覚えがあります。
今回この記事を書いていると色々と細かい記憶が呼び覚まされる部分もありましたけど、現地での出来事よりも行きの電車内での記憶の方がはっきりしていますね〜。
結局旅行そのものよりも167系に乗って出掛けたこと自体が楽しい思い出になってるみたいです。
でもその割に細かい部分の記憶はあやふやなままですけどね。
既に40年前の出来事ですが、何故か今でも思い出すのは車内ではしゃいでいた記憶ばっかりで、皆で刀を買ったはずの宿での記憶などがほぼ無いのが不思議です。
最後に、このネタを書く為に当時の写真を引っ張り出して最後に改めてよく見ると、修学旅行に行ったのは6月じゃなくて5月でした(笑)
今回は以上です。
ではまた
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初めまして
コメントありがとうございます。
東武鉄道で日光へ修学旅行へ行ったという話は友人からも聞いたので、都内でも地域によって結構違いがあったのですね。
けっこう漬け(笑)
これで話が通じるんですね〜
うちも兄弟3人なのですが、そんな話はした事がなかったです。
国鉄急行型は子供の頃当たり前に走っていたのに、いつの間にかいなくなってしまいました。
153系や165系、上野に行くと169系がいて、修学旅行では167系にお世話になり…身近であればあるほど気がついた時には目の前から無くなっている、って事が多いのかもしれませんね。
この度はブログに興味を持っていただきありがとうございました。
修学旅行電車のことを調べていてたどり着きました。
神奈川は国鉄で日光へ行ったのですね。
私は1980年代前半に東京の小学校へ通っていましたが日光林間学校は東武電車でした。
行きは8000系で通路に長ベンチを置いて座席を増やしたもの、帰りは転換クロスシートの5700系でした。
3人兄弟同じ小学校に通っていて全員このルートでした。
その証拠に5700系の座席のヘッドレストカバーの広告「日光のけっこう漬け」から、われわれ兄弟の間では「日光林間学校のけっこう漬け電車」で会話が成立します。(笑)
国鉄の修学旅行電車、乗ってみたかったですね。
同系の急行型電車もそのうち趣味的に乗りに行こうと思っていたらあっと言う間に過去帳入りしてしまいました。
親の実家の不幸があり急行アルプスに乗ったことだけが記憶にあります。
コメントありがとうございます。
167系で日光へ行った世代ですと私とそれほど年齢的に違わないのでしょうか?
子供の頃は当たり前に思っていたものが、気が付くと無くなっているというのは寂しいものです。
実際に乗車できたのは今にして思えば幸運でしたね。
最後の方はずいぶん見た目が変わってしまいましたが、自分にとっては思い出の車両です。
自分も主様と同じ167系で日光に行った世代です。懐かしい思い出が蘇りました。
自分が乗った車両はクハ167-12だったの覚えています。当時湘南色で普通のクロスシートだった同車もその後塗装やシート変更されてましたね。
時の流れとはいえ廃車された時は寂しかったです。
おはようございます。
思いの外修学旅行の話に興味を持って頂いたようで(笑)
私の中学生の時は新幹線と近鉄で奈良、京都と巡ったはずなんですが、新幹線は当然0系時代で何の変哲もなかったですが、実はこれが自分の新幹線初乗車なんですね。
その後の近鉄は正直写真も撮影してなく、記憶がかなり曖昧なんですが、なんだが狭いホームから乗車した電車が二階建てだったな〜,と言う程度の記憶なんですよ。
なのでもしかすると勘違いの可能性も有ります。
しかし、奈良から京都へはどうやって移動したのか?
全く記憶から消え去っています。
高校生の時は189系あさまで長野まで移動したのですが、やはり一番記憶に残っているのが横川でのEF63の連結シーンです。
友人たちはこの間にホームへ降りて釜飯を買っていましたが、私は写真撮影に忙しく買いそびれてしまいました。長野からはバスで何ヵ所か巡っているのですが、この辺もあやふやでして、記憶が確かなのは何日目かで行った黒部ダムです。
この時は当時でも珍しいトロリーバスに乗車できたのが嬉しくて、架線の下を走るバスという不思議な感覚を味わいました。
道程の最後はバスで名古屋まで行き、そこから新幹線で新横浜まで帰ってきました。
その時最初で最後の100系に乗車でき、2階部分の食堂車での食事は叶いませんでしたが、下の売店で食べ物を買って座席で食べたのは懐かしい思い出です。
残念ながら門鉄局さんのように可愛いガイドさんの記憶はありませんが(笑)
以上,長々と失礼しました。
以前送信されてなかったことがあったので改めて送ってしまいましたが結果的に二重投稿になってしまいました、ごめんなさい。
いろいろ思い出してきたのでついでにもう少しお付き合いくださいますか?(笑)
私は修学旅行では全く鉄道運⁉には恵まれず小学校はバス、中学は私の年から信州にスキーでバス、かろうじて高校は九州だったので博多までは新幹線でしたが、九州内はバスでした。高校の時はバスガイド付きで各クラス1台の合計12台行だったのですが私のバスともう1台のガイドさんがバツグンに可愛かったので一緒に写真を撮ろうと他クラスの野郎共まで長蛇の列を作った思い出があります(てめえのクラスのガイドと写真撮れよ!)。お礼の葉書を送ったら便箋3枚の丁寧な返事が返ってきて感動しました。
トモさんの修学旅行のお話もっと聞きたいです。中学は新幹線と近鉄、高校はあさまで横軽越えなんて羨ましいです。末期はマニアの聖地⁉と化した碓氷峠ですが関西からは行きにくく、私は遂に乗らないままでした。
155系は急行比叡に組み込まれていました。もう終末期でグリーン車はなく大阪寄り3両が153系にクハ165、クハ153に155系のモハユニットクハ165という4+4の混合編成でした。専務車掌さんが「この列車の6号車7号車は冷房がございません、ご了承ください」と放送していました。修学旅行用時代のままの枕木方向の蛍光灯を確認したのち7月だったので冷房の効いた8号車のクハ165に納まりました。153・155系はこの年(昭和57年)の11月ダイヤ改正で全廃、急行比叡も60年3月改正で廃止されてしまいました。
続けてコメント頂いていたのに、返事が遅くなってしまいました。
宮原にも約半分の167系が配置されていたので、関西圏も同じようなものかと思っていましたが、そうでも無かったのですね。
そちらは民鉄が強いので、やはり修学旅行でも国鉄以外を利用する地区も多かったのでしょうか?
神奈川県は日光が定番で、167系は恐らく意識しないでも小学生の頃に乗車している同年齢は多いと思います。
しかし、東京の千葉寄りに住んでいる知人は同じ日光の修学旅行でも東武線利用だったと言ってました。
子供の頃に辛うじて修学旅行色の167系を見た記憶はありますが,まだ知識がなかったので派手な色の電車だなくらいの認識でした。
キハの800番代は流石に見る機会がなかったです。
155系や159系はもしかすると湘南色になってから153系と区別できないで見ている可能性はありますね。
中学になると修学旅行は定番の京都・奈良で、確か新幹線で名古屋まで行き、そこから近鉄のあおぞらに乗車して先に奈良に向かった記憶があります。
何となく二階建て車両だったのが珍しかった覚えがあるので。
そして高校では信州と金沢方面だったので、上野からあさまで碓氷峠越えと言う鉄チャンには堪らない道程でした。
長々と失礼しました。
世代によって思い出は色々みたいですね。
東北生まれの年配の知人に聞いたら上野まで汽車で、そこから新幹線だったとか、関東でも修学旅行は寝台列車だったと言う人もいて、こんな話を年上の人に聞くのも楽しいです。
小学校の修学旅行の定番は関西はお伊勢参り、関東は日光だったのですね。
職場の同僚や先輩によると神戸市は12系客車による修学旅行列車で草津線・関西本線・紀勢本線・参宮線のルート、大先輩になると旧形客車だったとか非電化区間は蒸気牽引だったとか。大阪市民の従兄弟は近鉄利用で片道は20100系のあおぞらだったそうでいずれにしてもバス利用だった私には羨ましかったものです。
167系電車は宮原電車区にも配置されていたので臨時急行や団体列車でよく見る機会がありました。すでに湘南色に塗り替えられていて修学旅行色を見たことはありません。両親の郷里の北九州には毎年帰省していましたが、直方気動車区にキハ58・28の800番台が配置されていてこちらは塗替え前を見たことがありますが、気動車は汚れがひどくもともとが鮮やかな色だけにガッカリした記憶があります。
楽しそうなお写真を見ていると遥か彼方に去った子供時代を思い出します。もうみんな50才オーバーなんですね。トモさんも可愛いです!
167系電車懐かしいですね。関西では宮原電車区に配置されていたのでちくま・くろよんなどの急行や臨時列車に充当されているのを見ました。黄色と朱色の155系登場時に中学生から公募したカラーが修学旅行電車を主張していましたが合理化で湘南色になってしまいドア幅が狭いのとモハのパンタグラフ部分が低屋根であること以外165系と変わらなくなってしまいました。ちなみに朱色3号は廃止されたのかと思いきや関西線快速の113系で生き残っていました。誰が言い出したのか春日色なんて呼ばれてました。
小学校の修学旅行が一番楽しかった思い出があります。京阪神地区はお伊勢参りが普通でしたが高槻市はバリ左の教職員組合が強く私の年だけ大山登山、妹のときは広島へ平和学習でした。従弟は大阪市だったので近鉄20100系のあおぞらで羨ましかったものでした。