2021年06月03日
プリンス社報 1963年7月号
どうもです。
先月は4月の反動からか更新が滞ってしまいました。
と言い訳しておきます。
さて、そろそろ恒例となりつつある?プリンス社報シリーズですが、今回は1963年7月の通算129号です。
このシリーズも気が付けば今回で7回目となりました。
流石に毎回すべてのページを紹介できるわけではないのですが、このブログを見に来てくださっている方が興味ありそうなところをピックアップしているつもりなので、楽しんでいただければと思います。
それでは早速。
7月号の表紙です
夜の公園の噴水ですが、後ろに日比谷公会堂と見えるので日比谷公園なのでしょうか?
そして表紙裏と目次
この時点ではまだ工事中だった村山工場内のテストコースの一部が完成したという記事です。
抜粋の最初は自販のお話です。
自販の状況について当時自販の副社長だった外山氏が語っています。
販売計画などの詳細が書かれていて興味を引きますが、この当時プリンスは未だ月販10,000台には至っておらず、トヨタ、日産とは販売台数でかなりの開きがありました。
残念ですが、この差は結局日産との合併まで縮まることは有りませんでした・・・
こちらは自動車運搬船就航のニュース
上半分は記事の内容が切れてしまって申し訳ありません。
個人的には下の「ぷりんす丸」の話題に興味があったので取り上げました。
現在の自動車運搬船とは規模が全く違いますが、自動車運搬専用の船としてプリンスが初めて自前で用意したのがこの第一ぷりんす丸です。
記事内の通り、積載台数は200台少々と少ないですが、トレーラーなどに積載して輸送することを考えると多くの車両を同時に運ぶことが出来るようになったのは大きいです。
このぷりんす丸は1963年に設立されたプリンス海運株式会社所属の船で、プリンス海運自体はプリンス自工車両の海上輸送を行う目的で作られた会社です。
実は今でも会社自体は存続しており、船の煙突に描かれているPマークを未だ屋号として使用しているのは嬉しいところ。
このぷりんす丸はその後も増船されて、プリンス時代には第三ぷりんす丸まで就航しました。
日産との合併後も船は増え続けますが、その後の船名も第◯ぷりんす丸となっており、プリンス時代の名称を使い続けていました。
興味のある方はプリンス海運のホームページでどうぞ。
次は発売間もないグロリアスーパー6の記事です。
上の囲み部分の記事はスーパー6が記者たちに好評だという、自画自賛(笑)の内容です。
ただ、実際に当時OHC6気筒エンジン搭載の国産車はスーパー6しかなかったわけで、エンジンのスムーズさやパワー感は確かにそれまでの乗用車では味わえない感覚だったのでしょう。
もう一つここで指摘されているのは価格の安さ。
正直他社と比べてそこまで安いわけではないのですが、グロリアデラックスに比べると価格差が少ないのでそう感じられたんでしょうね。
その後同年夏にはデラックスのマイナーチェンジが行われて車両価格が引き下げられました。
こちらは今回掲載する最後の記事になりますが、主にオートローンについて書かれているページ。
今のローンと比べると条件等なかなか厳しいですが、それでも現金一括で支払いすることと比べれば、購入したい側からすればかなり買いやすくなったのではと思います。
それでもやはり一般庶民には高嶺の花であったことは変わりませんが。
他に、日本交通へ記念品を贈呈したという話と杉並プリンス社屋の建設が始まったというニュースですね。
日本交通は当時プリンスを多数使用していたユーザーで、この時点でも全営業車中の1/3以上を占めており、プリンスとしても最大規模の顧客の一つだったはずです。
日本交通自体も古くからプリンス車を愛用しており、S40系グロリアもデラックス発売当初から導入しています。
その後に発売される廉価版のS40Sや、タクシー向けのグレードであるS40TMやTFまで含めるとかなりの台数を保有していました。
1962年10月号のプリンス社報でこのあたりについて少し触れられていますが、デラックスですので恐らくハイヤー用途での導入ではないかと個人的には思います。
最後は裏表紙
今回は以前このブログでも紹介した日野コンテッサです。
写真はマイナー後のフロントウインカー周辺が変わってからの物です。
フェンダーミラーが右側にしか付いていませんね。
この頃は法規的には問題ありませんでした。
初期のS40グロリアの公式写真でも右側しかミラーが装着されていないものがありますね。
今回は以上です。
それではまた
先月は4月の反動からか更新が滞ってしまいました。
と言い訳しておきます。
さて、そろそろ恒例となりつつある?プリンス社報シリーズですが、今回は1963年7月の通算129号です。
このシリーズも気が付けば今回で7回目となりました。
流石に毎回すべてのページを紹介できるわけではないのですが、このブログを見に来てくださっている方が興味ありそうなところをピックアップしているつもりなので、楽しんでいただければと思います。
それでは早速。
7月号の表紙です
夜の公園の噴水ですが、後ろに日比谷公会堂と見えるので日比谷公園なのでしょうか?
そして表紙裏と目次
この時点ではまだ工事中だった村山工場内のテストコースの一部が完成したという記事です。
抜粋の最初は自販のお話です。
自販の状況について当時自販の副社長だった外山氏が語っています。
販売計画などの詳細が書かれていて興味を引きますが、この当時プリンスは未だ月販10,000台には至っておらず、トヨタ、日産とは販売台数でかなりの開きがありました。
残念ですが、この差は結局日産との合併まで縮まることは有りませんでした・・・
こちらは自動車運搬船就航のニュース
上半分は記事の内容が切れてしまって申し訳ありません。
個人的には下の「ぷりんす丸」の話題に興味があったので取り上げました。
現在の自動車運搬船とは規模が全く違いますが、自動車運搬専用の船としてプリンスが初めて自前で用意したのがこの第一ぷりんす丸です。
記事内の通り、積載台数は200台少々と少ないですが、トレーラーなどに積載して輸送することを考えると多くの車両を同時に運ぶことが出来るようになったのは大きいです。
このぷりんす丸は1963年に設立されたプリンス海運株式会社所属の船で、プリンス海運自体はプリンス自工車両の海上輸送を行う目的で作られた会社です。
実は今でも会社自体は存続しており、船の煙突に描かれているPマークを未だ屋号として使用しているのは嬉しいところ。
このぷりんす丸はその後も増船されて、プリンス時代には第三ぷりんす丸まで就航しました。
日産との合併後も船は増え続けますが、その後の船名も第◯ぷりんす丸となっており、プリンス時代の名称を使い続けていました。
興味のある方はプリンス海運のホームページでどうぞ。
次は発売間もないグロリアスーパー6の記事です。
上の囲み部分の記事はスーパー6が記者たちに好評だという、自画自賛(笑)の内容です。
ただ、実際に当時OHC6気筒エンジン搭載の国産車はスーパー6しかなかったわけで、エンジンのスムーズさやパワー感は確かにそれまでの乗用車では味わえない感覚だったのでしょう。
もう一つここで指摘されているのは価格の安さ。
正直他社と比べてそこまで安いわけではないのですが、グロリアデラックスに比べると価格差が少ないのでそう感じられたんでしょうね。
その後同年夏にはデラックスのマイナーチェンジが行われて車両価格が引き下げられました。
こちらは今回掲載する最後の記事になりますが、主にオートローンについて書かれているページ。
今のローンと比べると条件等なかなか厳しいですが、それでも現金一括で支払いすることと比べれば、購入したい側からすればかなり買いやすくなったのではと思います。
それでもやはり一般庶民には高嶺の花であったことは変わりませんが。
他に、日本交通へ記念品を贈呈したという話と杉並プリンス社屋の建設が始まったというニュースですね。
日本交通は当時プリンスを多数使用していたユーザーで、この時点でも全営業車中の1/3以上を占めており、プリンスとしても最大規模の顧客の一つだったはずです。
日本交通自体も古くからプリンス車を愛用しており、S40系グロリアもデラックス発売当初から導入しています。
その後に発売される廉価版のS40Sや、タクシー向けのグレードであるS40TMやTFまで含めるとかなりの台数を保有していました。
1962年10月号のプリンス社報でこのあたりについて少し触れられていますが、デラックスですので恐らくハイヤー用途での導入ではないかと個人的には思います。
最後は裏表紙
今回は以前このブログでも紹介した日野コンテッサです。
写真はマイナー後のフロントウインカー周辺が変わってからの物です。
フェンダーミラーが右側にしか付いていませんね。
この頃は法規的には問題ありませんでした。
初期のS40グロリアの公式写真でも右側しかミラーが装着されていないものがありますね。
今回は以上です。
それではまた
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どうもです。
トヨタは昔から商売上手ですよね。
当時、トヨタは見えるところの作りがうまいなんて言ってましたが、今ではそんなことはないのでしょう。
ハイメカツインカム、懐かしい響きです。
確か初代セルシオもそうでした。
当時はなんじゃそれでしたけど、車に詳しい人間以外にはなんだか凄そうに思える名前ですよね?
今は日産の凋落ぶりが悲しいですが、90年代はかなり勢いがあってイケイケでした。
丁度その頃のホンの一時期ですが、日産系ディーラーに勤めていて楽しい日々を送ていました。
あの頃は32スカイラインに32Z、S13シルビア以外にもY31グランツーリスモやシーマに忘れちゃいけないプリメーラなど、かなり楽しい時代でした。
あの頃はラインナップが充実していたので欲しい車が無いということはなかったですよね。
(まあ新車よりも旧車に目がいってましたが)
今は皆さん余裕がないというのもあるでしょうが、当たり障りのないミニバンか軽自動車にならざるを得ないと言うことなんでしょうかね・・・
個人的には車も鉄道も完全に懐古趣味で今後も行くことになりそうです。
私がよく行くコメダ珈琲店にはCG誌の最新号が置いてありいつも楽しみです。
私が20代だった頃は鉄道趣味は少数派だったものの車に興味のない方が珍しかったくらいでした。
特に乗務員は通勤で必要なので車好きの先輩に「どれ買ったらいい?」なんて相談していました。
トヨタ党日産党は当時もあって私は当然日産党でしたが、トヨタの宣伝の上手さには関心していました。
レーザーに対してのプラズマ、レーザービームでエンジンが始動するのかと思った。プラズマ火花なんてそのまんまじゃん、ハイメカツインカムとかGOAとか特に技術的に向上してないのにネーミングがすごい!何も知らなかったらトヨタに限るってなっちゃいますね。
鉄道が面白くないのは仕方がないとして車もつまらない、自家用車って自己表現だと思うのですが。
ブログの更新がままならないのでコメントのしようがないですね(笑)
息子さんの免許取得先ずはおめでとうございます。
これで親子そろって車趣味に没頭できますね。
プリンスの最盛期は恐らく1963年頃だったのではないかと勝手に思っている次第です。
勢いだけで言うならば1964年のほうがありそうですが(グランプリ優勝などもあったので)、実際には債務が増えじわじわと首が絞まってきていたのではないかと考えます。
事実、翌年には合併が決まってしまいますからね。
もし、今でもプリンスが存続していたら・・・というのはやはり考えてしまいますが、うまくいけばスバルのようなメーカーになっていたかもしれませんね。
ただ、倒産して存在自体が無くなっていたという可能性もあるので合併でよかったのかもしれないという思いも少しあります。
最近のクルマには魅力的なものが少ない、というのは個人的には同意です。
ただ、旧車に魅力やロマンを感じない一般のユーザーにすれば特にそういったことはなのかもしれません。
確かに若い人はあまり車に興味が無くなってきているようですが、今の世の中それが当たり前で、寧ろ我々世代が世の流れに置いてきぼりを食っているのかもしれません・・・
個人的には残念なことですが、自分たちが免許を取得した時代ほどには車が必要とされない世の中になってしまったんでしょうね。
私の若い頃ならば、何はなくともまず免許!でしたけれど・・・
車自体も高くなったので、新車購入頭金なしの60回フルローンなんて今やったら狂気の沙汰かな?
でも金利は今の方が断然低いですけどね。
少しご無沙汰しておりましたがお元気でお過ごしでしょうか?
さていつも楽しみにしていますプリンス社報ですが、あの幻の名車スカイラインスポーツコンバーチブルですね。テストコースが一部完成してイケイケドンドン、数年後に日産に吸収合併されてしまうなどこの時誰が思ったでしょうか?
歴史にもし?はないというのは承知の上ですがやはり今プリンス自動車が存在していたら…と思ってしまいます。
先日息子が免許を取りましたので練習を兼ねて徳島までドライブしました。
私がハイブリッド車や電気自動車に興味がないのは職業柄もあってVVVFインバータは仕事だけでよい(笑)のですが、若い人が車自体や運転に興味がないというのは悲しくなります。
息子が「現行車で欲しい車はない」と言うのは私の偏向教育のせいだと思いますが、国産車がミニバンやSUVばっかりで魅力的なセダンやクーペが少ないのは嘆かわしいです。