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2018年02月26日

イシグロ氏スピーチは著作模様の精密描写が連発

スピーチは著作模様の精密描写が連発





ノーベル文学賞のカズオ・イシグロ氏が行った受
賞記念スピーチの全文がありました。イギリスで
の暮らしや成長の過程などの部分もかなりありま
す。作家になるまで、そしてその後の作家活動も
述べられています。


5歳の時、家族で日本からイギリスへ渡り、イギ
リス滞在がもう1年だけもう1年だけと延び延びに
なったこと、その結果かどうか、日本のことをよ
く知らないのに長崎を舞台にした小説を書いたこ
とも語られています。


色々な時期のイギリス社会の動きや文化や文学の
傾向なども語られたようです。カズオ・イシグロ
氏が日本をどう感じているか、どう見ていたかを
知りたい方もいるでしょう。「私の日本」と呼ん
で、大切にしまっておこうと考えたということで
す。こんな表現をするスピーチを聞いたスウェー
デン・アカデミーほか、ノーベル賞の運営に関係
している人々は大いに喜び、楽しんだのではない
でしょうか。


長編小説1冊の完成まで執筆の間に色々の考えが
浮かぶ経過、参考にした作品、聞いた歌や曲など
も述べられています。カズオ・イシグロ氏個人へ
の理解も進むように思われます。最後の部分には
これからの文学や作家のあり方なども述べられて
います。落ち着いて読んでみましょう。 
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

カズオ・イシグロさん 2017年ノーベル文学賞記念スピーチ 全文



「私の20世紀の夜、そしてその他のささやかな突破口の数々」

 あなたがもし、1979年の秋に私に出くわしたとしたら、私が何者なのか、人種は何なのか、判断するのが難しかったかもしれません。私はその時24歳でした。容姿は日本人に見えたでしょうが、あのころ英国にいた日本の男性とは違って、髪を肩まで伸ばし、垂れ下がった強盗のような口ひげを生やしていました。
私が話す英語には、イングランドの南部で育った人特有のアクセントがあり、時代遅れのヒッピー時代の言い方が混じるときもあったでしょう。私たちが話をすることになったら、話題はオランダのトータルフットボーラーズやボブ・ディランの最新アルバム、あるいは私がロンドンでホームレスの人たちと過ごした1年間などについてだったかもしれません。
あなたが日本を話題にし、日本の文化について質問すれば、私は5歳の時に日本を離れて以来、休暇を含めて一度も日本へ帰っていないので日本についてはよく知らないといって、多少のいらだちを見せたかもしれません。

 この秋、私はリュックサックを背負い、ギターとポータブル・タイプライターを持って、英国ノーフォークのバクストンという、古い水車があり、畑に囲まれた小さな村に着きました。イースト・アングリア大学大学院の1年間の創作コースに入学を認められたからです。大学はバクストンから約16キロ離れたノーウッチという大聖堂で有名な町にありました。車はなかったので、朝、昼、夕の3便しかないバスで大学へ行かなければなりませんでした。すぐに分かったのですが、これは大した問題ではありませんでした。大学には多くても週に2度ほど行くだけでよかったからです。妻に逃げられたばかりという30代の男が住む小さな家に部屋を借りました。男からすれば、その家はきっと壊れた夢の亡霊でいっぱいだったのでしょう。あるいは、単に私を避けようとしたのかもしれません。ともかく私は何日も、男と目を合わせませんでした。言ってみれば、ロンドンでの騒々しい生活の後、私はここで、自分を作家にしてくれることになる、とてつもない静けさと誰にも邪魔されない孤独に身を置くことになりました。

これには驚きました。今なら、複数の文化的伝統を持つ意欲的な若い作家が自分のルーツを探る作品を書くことはほとんど本能のようなもの、という雰囲気が広く行き渡っています。でも、それよりずっと前でした。英国で「多文化主義」の文学が開花するのはまだ先でした。サルマン・ラシュディは、絶版となった本を1冊出しただけで、知られてはいませんでした。
当時の指導的な若手作家は誰かと聞かれたら、人々はマーガレット・ドラブル、上の世代ではアイリス・マードック、キングズリー・エイミス、ウィリアム・ゴールディング、アンソニー・バージェス、ジョン・ファウルズを挙げたかもしれません。ガブリエル・ガルシア=マルケス、ミラン・クンデラ、ボルヘスといった外国人作家は限られた人々に読まれていただけで、読者家にとってもあまり意味のない名前でした。

これが、私が初めての日本を舞台にした小説を書き上げ、新しい重要な方向を発見したという気持ちになったころの文学的な雰囲気です。私はすぐに、日本の作品を書くという方向転換が、自分を甘やかしていると見られないだろうか、すぐにでも「正常な」主題に戻るべきではないのかと考え始めました。
しばらく迷った末に私は自分の小説をみんなに見せて回り、そのとき、クラスメートたち、マルコム・ブラッドベリ、アンジェラ・カーターなどの教師たち、作家、ポール・ベイリーらが確信をもって励ましてくれたことを、今も感謝しています。あれほど肯定的に反応してくれなかったら、私は二度と日本を題材にした小説は書いていなかったでしょう。そんなわけで、私は部屋に戻って、書いて、書いて、書きまくりました。

1979年から80年の冬から春にかけ、私は5人の同級生、朝食用のシリアルとラムキドニーなど命の糧を買う食料品店の店員、2週間に1度、週末に訪ねて来る当時のガールフレンドのローナ(現在の妻です)を除いて、ほとんど誰とも口をききませんでした。バランスのとれた暮らしではありませんでしたが、この数カ月間で、原爆投下後の復興期にあった長崎を舞台にした最初の長編小説「遠い山なみの光」の半分を何とか完成させます。そういえば、この頃、舞台が日本ではない短編小説を考え、すぐに興味を失ったこともありました。

私にとって決定的な数カ月でした。あの時がなければ、私は作家になっていなかったでしょう。あれ以来、当時を思い出して、たびたび自分に尋ねました。あの時の自分に何が起きていたのだろう? あの奇妙な情熱は何だったのか? 私はあの時、急いで残さなくてはならないという気持ちから、あんなふうに行動したというのが、私の結論です。その説明をするには少し時間を戻さなくてはなりません。

1960年4月、私が5歳の時、両親とともに英国に渡り、サリー州ギルフォードに移り住みました。ロンドンの南、約48キロにあって「ストックブローカー・ベルト(株式仲買人が多く住む地域)」と呼ばれる裕福な町でした。海洋学者の父が英国政府の招きで働くことになったからです。ちなみに、父が後に発明した機械は今、ロンドンの科学博物館の常設展示品になっています。

私たちが英国に着いて間もなくの頃に撮影した写真には、既に失われた英国が写っています。男性はVネックセーターの下にネクタイを締め、自動車にはステップがあり、後方にはスペアタイヤが取りつけてありました。ビートルズをはじめ、性革命、学園闘争など、英国で「多文化主義」が始まろうとしていましたが、私たちが初めて出会った英国でそれを想像するのは難しいことでした。フランス人やイタリア人と顔を合わせるのでさえ十分に珍しいのですから、日本人に会うことなどほとんどあり得ませんでした。

 私たちは、舗装道路と原っぱの境の袋小路に建つ12軒の家のひとつに住みました。近くの農場へは5分足らずで行けました。道の先にはたくさんの乳牛がいて、牧草地から牧草地へとのろのろ歩きまわっていました。牛乳を配達したのは馬車でした。英国へ来て最初のころの鮮明な記憶はハリネズミです。トゲがあって、夜行性の可愛らしい動物で、田舎でよく見ました。夜の間に自動車にひかれたハリネズミが朝露のなか、きちんと道路脇に重ねられ、ゴミ回収を待つ光景を覚えています。

 近所の人はみな教会へ行っていました。私がその人たちの子どもと遊んでいる時、子どもたちが食事前にお祈りを唱えるのに気づきました。私は教会の日曜学校に通い、しばらくして教会の聖歌隊で歌うようになり、10歳になるとギルフォードで初の日本人のヘッド聖歌隊員となりました。私は地元の小学校に通い、そこではたったひとりの、おそらく学校史上初の英国人ではない生徒でした。11歳になると、近くの町のグラマースクールに入学し、毎朝、ロンドンのオフィスへ向かう大勢のピンストライプの背広姿の男性たちと同じ列車で通学しました。

 この頃までに、私は英国の中産階級の男子に当時、必要とされた行儀作法をすっかり身につけていました。友人の家に行った時に大人が部屋に入って来たらすぐに立ち上がらないといけないと知っていました。食事中にテーブルを離れる前に許可を求めなくてはならない、ということも学んでいました。近所でたったひとりの外国人少年だったので、ある意味で地元の有名人のように扱われました。子どもたちは、知り合う前から私のことを知っていました。道路や商店などで見ず知らずの大人に名前で話しかけられたりしました。

 あの頃を振り返り、日本を宿敵とした戦いが終結して20年もたっていないことを思う時、英国の普通の共同体が私たち一家に心を開き、寛容な心づかいで接してくれたことに驚かされます。第二次世界大戦を切り抜け、戦後の英国を見事な福祉国家につくり上げた何世代にもわたる英国人に対し、今日まで愛情と敬意と関心を持ち続けてきたのは、この頃の個人的体験があるからです。

 その一方で、日本人の両親と暮らす自分の家では別の人生を送っていました。家にはよそとは違う規則があり、期待されることも言葉も違いました。両親の当初の考えは、1年後あるいは2年後には日本に帰るだろうということでした。実際、英国へ来てからの最初の11年間、私たちはずっと「来年に」帰国すると言い続けてきました。両親はそのため、自分たちは移住者ではなく訪問者だと考えていたようです。土地の人々の奇妙な風習などを話題にするとき、自分たちには、それに従う義務はないというような口ぶりでした。それから長い間、いつか帰国して日本人として暮らすのだからという理由で、日本の教育に遅れないように、さまざまな努力がなされました。毎月、日本からマンガや雑誌、学習書などを詰めた小包が届くのが待ち遠しく、私はその全部をむさぼるように読みました。

 祖父が亡くなったからでしょう、10代のある時期から小包は来なくなりましたが、両親が昔の友人や親戚の話、日本でのさまざまな出来事を話してくれたので、日本のイメージや印象は途絶えませんでした。そして、私にはいつも記憶の倉庫がありました。祖父母のこと、日本に置いてきた大好きなおもちゃのこと、一家が住んでいた昔ながらの日本の家(今でも、ひと部屋ごとに思い出せます)、幼稚園、路面電車の停留所、橋のそばにいた怖いイヌ、床屋の大きな鏡の前の自動車のハンドルが付いた男の子用の椅子まで、不思議なほどたくさんのことをはっきりと記憶しています。

 つまり、虚構の世界を創造する作家になるずっと以前から、私が何らかの形で属した日本という土地を、ある意味でアイデンティティーや自尊心を得ていた場所を、頭の中で一生懸命につくりながら育ったということになります。この時期に日本に帰らなかったことで、私が思い描く日本はより鮮明で個人的なものになりました。

 そこで必要になったのが保存することだったのです。というのも、その時はしっかりとは意識していませんでしたが、20代半ばにいくつかの重要なことに気づきました。「私の」日本は、飛行機に乗って行ける現実の場所ではないこと、両親が話したり、幼い頃に私が記憶したりしていた「私の」日本の暮らしは1960年代から70年代にかけて大半が失われてしまったこと、私の頭の中にあった日本は、子どもが自分の記憶、想像、推測をもとに作った感情の産物である−−と認め始めていたのです。何よりも重要だったのは、年を取れば取るほど、私が育った日本という「私の日本」がぼやけてくるのを認識したことでしょう。

 「私の」日本はかけがえのないものであると同時にとても壊れやすく、ほかのだれも検証はできないのだ−−という気持ちが、ノーフォークの小さな部屋で私を突き動かしたと、今なら分かります。私がやったのは、私が覚えていることが消えてしまう前に、私が知っている日本の特別な色彩や習慣、礼儀作法、尊厳、欠点などすべてを書き残しておくことでした。小説を書いて「私の」日本をつくろう、安全なところにしまっておこう。そうすれば、本を指さして「そう、この中に『私の』日本がある」と言えるのではないかと思ったのでした。

     ◇

 それから3年半たった1983年の春、妻のローナと二人でロンドンの最も高い丘のひとつに建つアパート最上階の2部屋だけの家に住んでいました。近くにテレビ塔があって、家でレコードを聴こうとすると、幽霊のようなラジオ放送の声が散発的にステレオを侵略します。ソファやひじかけ椅子はありませんでしたが、マットレスふたつを床に置いて、その上にクッションを置いていました。大きなテーブルがあり、日中は私がそこで原稿を書き、夜はそこで夕食をとりました。豪華な住まいではありませんでしたが、ふたりとも気に入っていました。その前の年に私は最初の小説を出版し、短編ドラマの脚本も書いていて、英国のテレビ局での放送も間近でした。

 初めて書いた小説にはそれなりの誇りを感じていましたが、この年の春になって、納得できない気持ちに悩まされていました。問題はこうです。初めての小説と初めてのテレビ脚本が似すぎているのです。内容ではなく、方法やスタイルが、です。見れば見るほど、私が書いた小説が、会話とト書きで作られている脚本にそっくりでした。ある程度なら似ていても構わないでしょうが、私は小説という形でしかできないフィクションを書きたかったのです。テレビで小説と同じようなことが経験できるなら、なぜ小説を書くのか? 書き言葉という形の小説が、小説だけができること、ほかのメディアではできないことを提供しないで、映画やテレビに対抗して生き残れるのか?

 その頃私はインフルエンザで2、3日、寝込んでいました。最悪の時期を過ぎ、一日中寝ているような気分でなくなったとき、ベッドの間に挟まって、しばらくの間、体に当たっていた重い物を見つけます。それがマルセル・プルーストの「失われた時を求めて」の第1巻でした。そうか、と思って読み始めました。熱がまだ残っていたせいでしょうか、序章と第1部「コンブレー」を読んだころには目がくぎ付けになりました。いくども読み返しました。文章そのものの美しさはともかく、私はプルーストがひとつのエピソードを次につなげる方法にぞくぞくしました。出来事や場面の順番は、一般的な時系列や筋ではありませんでした。関係のない連想や記憶の気まぐれによって、エピソードからエピソードへと展開する。どうして、ふたつのまったく違った瞬間が語り手の頭の中で隣り合っているんだろう、と不思議に思うことがよくありました。

私はそこで突然、この自由でわくわくする方法を2作目の小説の構成に使えることに気づきました。ページの流れを豊かにしてくれ、画面では決してとらえられない人間の内面の動きを見せることができる方法です。もし語り手の連想や記憶によって話をつなげていけるなら、抽象画の画家のようにキャンバスにさまざまな形や色を置いていけるのではないか。2日前のことを20年前と並べ、読者にふたつの関係を考えてもらえるのではないか。そういう方法なら、自分や自分の過去に対する見方を覆っている何層もの自己欺瞞(ぎまん)を読者に見せることができるかもしれない、と考え始めました。 

 1988年3月、私は33歳でした。今や自宅にはソファがあり、私はそこに寝転んでトム・ウェイツのアルバムを聴いていました。その前の年、ローナと私はロンドンの南のおしゃれとはいえないけれど住みやすい所に家を買っていました。私は初めて自分の書斎をもちました。小さくてドアもない書斎でしたが、書類を広げても夜に片付けなくて済むのをうれしく思っていました。その書斎で私は3作目を書き終えたと思っていました。日本を舞台に2本の小説を書いたことで、私にとっての個人的な日本は以前よりは壊れにくくなっていました。

実際、「日の名残り」と呼ばれることになる新作は極端に英国的だとみなされました。しかし、古い世代の英国人作家が英国を題材に書いてきた手法とは明らかに違います、私もそう望んでいました。こうした英国作家たちの多くが、英国的なニュアンスや関心事に親近感をもつ英国人を読者に推定していたようですが、私の方はそう考えないよう注意しました。その頃になると、サルマン・ラシュディやV・S・ナイポールのように、英国中心の考えや英国に特有の重要性などを意識しないで、より国際的で前向きな作家が登場していました。広い意味で彼らの作品はポスト・コロニアルといわれるものです。私もこうした作家のように、英国独特の世界を舞台にしながら、文化や言語の障壁をやすやすと越えられる、国際的に通じるフィクションを書きたいと思いました。私が書いた英国はある意味の神話的世界で、英国に来たことがない人をふくめ世界中の人々の想像の中に存在しているもの、と信じていました。

「日の名残り」は、晩年を迎えた英国人の執事が、これまで誤った価値観を守って生きてきたこと、人生の最も大切な年月をナチス支持者の主人に仕えてきたこと、倫理的そして政治的に責任を取らなかったことに気づき、人生を無駄にしたという思いに至る物語です。さらに、この主人公は完全な執事になろうとして、人を愛することと、ひとりの好きな女性に愛されることを、自分に禁じてもいました。 何度も原稿を読み返し、そこそこには満足していました。しかし、何かが足りないのです。

 ソファに横になってトム・ウェイツの歌を聴いていたのはそんな時でした。「ルビーズ・アームズ」という歌でした。皆さんの中に知っている方がいるかもしれません(ここで私が歌ってみようかとも考えていたのですが、やめました)。これは、愛する女性がベッドで寝ているうちに去って行こうとする兵士の気持ちを歌ったバラードです。早朝、駅まで行って列車に乗る。何も特別なことはありません。それなのに、胸の奥の感情を表すことに不慣れな、いかにも無愛想なアメリカ人の男の声で歌われます。曲の半ばまできて、男が自分の胸が張り裂けそうだと歌います。聴いている方は、ここで耐え難いほどに感情が高ぶります。男の感情そのものと、感情を表に出すまいとしてきた彼の強い抵抗力がぶつかり合って、ついに感情があふれ出る−−という緊張感のためです。トム・ウェイツは、みごとなカタルシスをこめて歌い、男がずっと一生かけて守ってきたタフガイとしての禁欲主義が、あまりにも大きな悲しみのために崩れてしまったのだ−−と聴いている人に感じさせます。

 トム・ウェイツの歌を聴いて、私にはまだやるべき仕事があると気づきました。あまり考えないままに、前から決めていたのは、私が書く英国人執事は、自分の感情を出さないよう自分を防衛し、最後の最後まで、自分からも読者からも感情を隠し切るということでした。でも、その決心を変えなくてはなりません。物語の最後のほんの一瞬、それもどこがよいのか慎重に選んだうえで、執事の心のヨロイにひびを入れ、その下にとてつもなく悲劇的な感情があることを見せなくてはならないと思いました。

 今回に限らず、私は、歌い手たちの声から何度も重要なことを学んできました。歌詞というより、歌っている人の実際の声からです。人間の歌う声は、極めて複雑に混じり合う感情を表現できます。私の書くものはここ何年もの間、いくつもの面で、ボブ・ディラン、ニーナ・シモン、エミルー・ハリス、レイ・チャールズ、ブルース・スプリングスティーン、ジリアン・ウェルチ、そして友人で共同作業者のステイシー・ケントをはじめとするミュージシャンから、影響を受けてきました。歌を聴きながら、「そう、これだ、あの場面はこういうものにしよう、こんな感じに近いものに」と、独り言を言っていました。それはしばしば、私がうまく文章にできないような感情でした。でも、そこに歌があり、歌う声を聞いて、自分が目指すべきものを教えられたのです。

 1999年10月、ドイツの詩人、クリストフ・ホイプナーが、国際アウシュビッツ委員会を代表して、ポーランドにある強制収容所跡を2、3日かけて訪問する旅に招待してくれました。アウシュビッツ・ユース・ミーティング・センターというのが私の宿舎で、それは最初に訪問したアウシュビッツの収容所とそこから3キロほど離れたビルケナウの収容所の間にありました。近くを案内してもらい、かつてその場所に収容されたことがある生存者3人にも非公式に会いました。私はその時、少なくとも地理的には、これまで私たちの世代に影を落としていた暗く暴力的なものの核心の近くに来ている、と感じました。

 ある雨の日の午後、ビルケナウへ行って、ガレキになったガス室跡の前に立ちました。不思議なことに、そこはだれも注意を払わず、面倒をみる人もいない場所で、赤軍の進軍を前にドイツ軍が爆破したまま放置されていました。ガス室跡は今や湿って壊れた板切れとなり、ポーランドの厳しい気候にさらされ、年ごとにさらに傷んでいくようでした。私を呼んでくれた人たちは、自分たちはジレンマを抱えているのです、と言いました。収容所跡は保存されるべきなのか? 次世代の人々に見てもらうため、アクリルのカバーなどで覆って保存すべきなのか? あるいはゆっくりと自然のまま朽ち果てさせてよいものか? これは、もっと大きなジレンマのメタファー(隠喩)に思えました。こうした記憶はどう保存すべきなのか? ガラスのドームをかぶせれば、悪と苦痛を象徴する遺跡を、博物館にあるようなおとなしい展示物に変えることができるのか? 私たちは何を記憶すべきなのか? いつになったら、忘れて先へ進んだ方がいいと言えるのか?

 私は44歳でした。その時まで私は、第二次世界大戦というもの、その恐怖や勝利などは両親の世代に属していると考えていました。ところが、そこで思ったのは、もうしばらくたてば、とてつもない大戦を実際に経験した人々がいなくなるということでした。そうすればどうなるのだろう? 私たちの世代が記憶という責任を負うことになるのか? 私たちは戦時中には生まれていませんでしたが、少なくとも戦争によって自分たちの人生が影響された両親に育てられました。物語を書く者として、今まで気づいていなかった義務があるのではないか? 私たちには、両親の世代の記憶や教訓を、できる限り次の世代に伝えるという義務があるのではないか。

 それからしばらくして東京で講演をする機会があり、そこでフロアから、次はどんなものを書くかという、いつも聞かれるような質問を受けました。具体的に言うと、この質問者から、私の小説には社会的、政治的な激動の時期を生きてきて、後に人生を振り返り、自分の暗い恥ずかしい過去と折り合いをつけられなくて悩むような人たちがしばしば登場する。これからも同じ領域を扱うのか、と聞かれたのです。

 まったく用意していなかった答えを口にしていました。「そうです。私はこれまで、忘れることと記憶することの間で葛藤する個人を書いてきました。でも、これから本当に書きたいのは国家や共同体が同じ問題にどう向き合うかというテーマです」。国家は、個人と同じように記憶したり、忘れたりするのだろうか? 個人と国家で、重要な違いはあるのだろうか? 国家の記憶とは一体、何なのか? どこに保存されるのか? どういう形で記憶され、どういう形で管理されるのか? 忘れることでしか暴力の連鎖を止めたり、大混乱や戦争を招きかねない分裂を止めたりができない時もあるのではないか? その一方で、意図的に記憶を喪失し、公正さが守られない地盤に、安定した自由な国家をつくれるのか? 私は質問した人に、こうしたことを書く方法を見つけたいのだが、残念ながら今のところ見つかっていない、と答えていました。 

 2001年初めのある晩、ローナと私は(当時、住んでいた)ロンドンの北にある家の明かりを落とした居間で、まあまあの画質のビデオテープで「特急二十世紀」という1934年のハワード・ホークスの映画を見ていました。まもなく分かったのですが、題名の「20世紀」はちょっと前に過去のものとなった「20世紀」ではなくて、映画製作当時、シカゴとニューヨークを結んでいた有名な豪華列車の名前でした。ご存じのように、これは列車を舞台に、ブロードウェーのプロデューサーが、自分のところの売れっ子女優が映画スターになるべくハリウッドへ向かうのを阻止しようとして四苦八苦するドタバタ喜劇です。映画は、当時の偉大な俳優の一人、ジョン・バリモアの演技を中心に展開します。彼の表情、ジェスチャー、せりふには、皮肉や矛盾、自己中心性と一人芝居におぼれる男の醜悪さが表れていました。バリモアの演技はさまざまな点で見事なものでした。それなのに、物語が進むにつれ、不思議なくらい映画に入っていけなくなりました。初めは疑問でした。バリモアは好きな俳優ですし、ホークス監督の「ヒズ・ガール・フライデー」や「コンドル」など、他の作品も大好きでした。そして1時間くらいたった時、シンプルながら衝撃的な考えが浮かびました。 

小説や映画や演劇の多くの登場人物たちが、どんなに生々しく、どんなに否定しがたいほどの説得力があっても、感動できないことがたびたびあったのは、登場人物たちがほかの登場人物と結びついて、面白い人間関係をつくっていないからでした。次に思ったのは、自分の仕事についてでした。人物設定を気にするのはやめて、それぞれの関係にもっと目を向けるべきではないのか。

 列車はさらに西へ走り、ジョン・バリモアがますますヒステリックになったとき、私はE・M・フォースターが語った、有名な人物設定の二次元と三次元の違いについて考えていました。ある登場人物は、私たちを説得力をもって驚かせてくれるという事実によって、三次元の登場人物となる、とフォースターはいいます。そうすれば「丸く」なる、と。しかし、今思っているのは、もし登場人物のひとりが三次元で、ほかの人物がすべてそうでなかったらということです。フォースターはまた同じ講演で、小説の中から筋の一部を、まるでくねくねした虫のようにピンセットで抜き取り、そこに明るい光をあてて詳しく調べるというユーモラスなイメージで説明を試みました。私もそれと同じように、物語を交差する人間関係に、明るい光を当てられないだろうか? 書き終えた小説やこれから書こうとする小説などの仕事で同じことができないだろうか? たとえば寄宿舎の指導者と生徒との人間関係を考えてみるとする。ふたりの関係は十分に洞察力に富み、新鮮だろうか? あるいは、じっくり見ていれば、ほかの何百という良くも悪くもない小説と同じように、使い古されたステレオタイプの関係だとわかるかもしれない? ライバルでもあるふたりの友人たちの関係はどうか? ダイナミックか? 感情の共鳴はあるか? 発展していくか? 説得力をもって驚かせることができているか? 三次元になっているか? 私はここで突然、これまでの仕事のさまざまな場面で、どんなに修正してもうまくいかなかった理由が分かったと感じました。ジョン・バリモアをじっと見つめながら、語り口が革新的か伝統的かを問わず、良い小説には、私たちを感動させ、楽しませ、怒らせ、そして驚かせるような人間関係が入っていなければならない。もしかすると、これからは登場人物たちの関係に力をもっと注げば、登場人物が自分で人物設定をしてくれるのだろうかと思いました。

 いまここで話しことは、皆さんがご存じだったかもしれません。ただ、申し上げたかったのは、これは、作家人生のだいぶ後になって思い至ったものだということです。きょう披露してきたほかの例と同じく、今思えば私の転換点でした。その時から私は小説の作り方を変えました。例えば「わたしを離さないで」では、登場人物3人の関係を中心に据えよう、そうすればほかの関係もそこからおのずと展開していくだろう、と考えて書き始めました。

     ◇

 作家人生にとっての重要な転換点は、ほかのさまざまな職業と同じく、こんなふうにしてもたらされます。多くの場合、ささやかなみすぼらしいものです。その人だけに起きる新発見という静かな火花です。転換点はめったにやって来ません。来たとしても、たいていはファンファーレを鳴らしたりしないし、指導者や同僚が推奨してくれることもありません。多くの場合、もっと大きな音をたてる、もっと緊急の要請のように見えるものと、どちらが注意を向けてもらえるか、競わなくてはなりません。時には、広く行き渡っている知恵に反することを言ってくるかもしれません。でも、それが来た時には、大事なものなのだと認識できることが重要です。そうでないと、あなたの手のひらからこぼれ落ちてしまいます。

 私はここまで、ごくささいな個人的なことに重点をおいて語ってきました。というのも、それが私の仕事だからです。静かな部屋で文章を書き、別の静かな部屋、あるいはそれほど静かではない部屋でそれを読むだろう、ひとりとの関係をつくる。物語は人を楽しませることができます。時には教訓を与えたり、議論を提起したりできます。でも私にとって本質的に重要なのは、感情を伝えることです。感情こそが境界線や溝を超え、同じ人間として共有できるものだからです。物語の周囲を、出版産業、映画産業、テレビ産業、演劇産業など巨大な産業が、取り巻いています。しかし、物語とは結局、ひとりがもうひとりに語るものです。私にはそんなふうに感じています。分かってもらえるでしょうか? 皆さんも同じように感じておられますか? 

 さて、現在のことです。最近になって私は、ここ何年もの間、泡の中で生きていたのではないかという考えに目覚めました。周りにいた大勢の人々がいらだったり、不安を感じたりしていたことに気が付いていませんでした。「私の世界」つまり、皮肉が好きでリベラルな精神をもった人々でいっぱいの、文化的で刺激的な世界は、実際にはこれまで想像していたものよりずっと小さかったことが分かりました。2016年は驚きの、私にとっては気がめいる年でした。欧州や米国での政治状況、世界中で起きた気分が悪くなるようなテロ行為の数々によって、子どもの頃から当たり前とみなしていたリベラルで人道主義的な価値が、実は幻想だったかもしれない、と思わざるを得なくなりました。

 私は楽観主義を信じる世代の一員で、それには理由があります。私たちは、上の世代の人たちが、全体主義的な政権と大量虐殺と歴史上例のない殺りくの地だった欧州を、人がうらやむような、ほとんど国境を越えたといえる友情でつないだ、自由で民主的な地域へと変身させるのに成功したところを見てきました。世界のあちこちでかつての植民地帝国が、その体制を支えていた非難されるべき思い上がりとともに崩壊するのを目撃しました。フェミニズムや同性愛者の権利、人種差別に反対するいくつもの戦線で著しい進歩があったことも知っています。私たちは、資本主義と共産主義の間で繰り広げられたイデオロギーや武力の大きな対立を背景にして育ち、そしてハッピーエンドと多くの人が考える結果になったところを目撃しました。

 しかし、今振り返ってみると、ベルリンの壁崩壊以降は、自己満足の時代、機会喪失の時代だったように思えます。富や機会を巡る大きな不平等が、国と国の間で、またひとつの国のなかで拡大するのを見ています。中でも2003年のイラク侵攻、2008年に起きたスキャンダラスな経済危機に続いて普通の人々に対して何年も施行された緊縮政策は、さまざまな極右イデオロギーと民族ナショナリズムが拡散する現在をもたらしました。人種差別−−伝統的な形の、そしてより売り込みにたけた現代的な形態の−−が再び深刻さを増し、地中に埋められていた怪物が目覚めたかのように、私たちの文明化された街の地盤を揺り動かしています。今はまだ、私たちを結びつけるような進歩主義的な運動が見つかっていません。それに代わって、裕福な西側の民主主義国家でさえ、対立する集団に分裂し、富や権力を巡って激しい競争を繰り広げています。

 もうそこに、いやもう既に峠を越えたかもしれませんが、科学、技術、医学の分野で驚くべき突破口が開かれたことで、いくつもの挑戦に直面しています。CRISPR(クリスパー)といったゲノム編集などの新世代技術、人工知能やロボット技術の進歩は、命を救う素晴らしい利益をもたらしてくれる一方で、アパルトヘイト(南アフリカなどの人種隔離政策)にも似た容赦ない能力主義社会や、エリート専門家とされる人たちも含めた大量の失業者を生み出すかもしれません。

 そうして、60代のひとりの男である私は目をこすって、霧の向こうにあるいくつかのことがらをより分け、昨日まで存在していることすら考えていなかった、この世界に持って来ようと試みています。知的な意味で疲れた世代の出身である、疲れた作家の私に、今この見知らぬ世界を診断するエネルギーを見つけることができるでしょうか? 社会がこの大きな変化に適応しようとするにあたって、私に、物の見方を提供するのを助けたり、さまざまな議論や闘いや戦争といったものに感情の層を重ねることに手を貸したりする、いくばくかのエネルギーは残っているでしょうか。

 このまま頑張り続け、できるだけのことをしなければなりません。というのも、私は今も文学は重要で、この困難な領域を越える時にはより重要だからです。でも私は、私たちを刺激し導いてくれる若い世代の作家たちに期待しています。今は彼らの時代です。彼らこそ私に欠けている知識や直感を持つことになるでしょう。本や映画、テレビ、演劇などの世界には今日、冒険好きでわくわくさせてくれる、40代、30代、20代の才能ある女性と男性がいます。だから私は楽観的です。そうでない理由はありません。

 でも、最後に私の訴えを聞いてください。もしよければ、これが私のノーベル賞アピールです! 世界中で解決策を議論することは難しいでしょうが、少なくとも片隅にある私たちの世界、私たちが読み、書き、出版し、推薦し、批判し、本に対して賞を与えるといった「文学」という片隅の世界で、どう準備すればよいか考えてみましょう。不透明な将来で重要な役割を果たそうとするなら、今日のそして明日の作家たちから最良のものを引き出そうとするなら、私たちはもっと多様になるべきです。とくにこれからお話しするふたつの点においてです。

 第一に、私たちはエリート優先の文化世界という居心地のいい領域を超えて、もっとたくさんの新しい声を取り込み、私たちが共有するこの文学世界を広げなくてはなりません。私たちは情熱を込めて、遠方の国に住んでいる作家であるか、自分たちの共同体にいる作家であるかを問わず、今もって知られていない文学の文化の中から貴石を見つけなくてはなりません。

第二に、優れた文学を定義するにあたって、あまりにも狭く保守的な縛りをかけないよう細心の注意を払わなければなりません。次世代の作家たちは、重要で素晴らしい物語を語るために新しく、時には私たちを惑わすような手法を携えてやって来るでしょう。私たちは、特にジャンルや形態について、彼らに心を開かなくてはなりません。そうすれば、彼らの最も優れた部分を育て愛(め)でることができるでしょう。分断が危険なほど深まっている時だからこそ、私たちは耳を澄ませて聞かなくてはなりません。良いものを書き、良いものを読めば、障壁を打ち破ることができます。そこで新しい考えや、私たちをつなぐ人間的で偉大な視点も見つかるかもしれません。

 スウェーデン・アカデミーの皆さま、ノーベル財団の皆さま、そしてこれまで何年にもわたって、ノーベル賞を人類が目指すべき善なるものの輝かしい象徴にしてくださったスウェーデンの皆さまに、感謝申し上げます。


毎日新聞2017年12月11日より

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