「山川健次郎」の原稿を投稿します。原稿文字数は1131文字です。また、アマゾンアソシエートのリンク掲載に関して最後に記載しました。アマゾン関連の作業は嫁任せでしたがサイトの運営として記載します。読者満足度を考え関連書籍を記載します。作業として7月からの四半期で登場場所別に再考しています。この後、時代別のリライトを行います。また、学術論文を読む時には英語必須、他国の方と議論の時にも英語必須です。少しでも話せるようになる機会は大事ですので、オンライン英会話をご紹介しています。別途、個別の人物の追加もトピックスのご紹介もしていきたいです。今後もご覧下さい。また、ブログ宣伝でツイッター使います。7/11(日)朝の時点でフォロワーは合計【11691】でした。作業としてフォロワー増は暢気に続けます。それよりも紹介の内容を吟味します。【以下原稿です】
【1854年9月9日生まれ ~ 1931年6月26日没】
山川健次郎の人生
山川 健次郎は日本初の物理学者です。その家は会津藩の家老家で戊辰戦争では健次郎は白虎隊に所属していました。自刀していった仲間もいた中で、山川健次郎は落ち延びました。その後に米国へ国費留学を果たし、イェール大学で物理学を修めます。日本に戻り、最終的には東大総長・京大総長を務めます。
山川健次郎と辰野金吾
私の家祖が会津藩・彰義隊でしたので個人的に彼になんとなく親近感を持っていました。山川健次郎は国費留学生として イェール大学で学位を修めます。また、東京駅の設計に携わった建築家・辰野金吾とは奥様を通じて親戚関係となっています。
山川健次郎のお人柄と研究成果
山川健次郎のお人柄を表すエピソードとして日露戦争に関するものがあります。当時、彼は東大で総長を務めていましたが、愛国心に満ちた健次郎は陸軍に詰め寄り、一兵卒として従軍させろ、と担当を困らせたそうです。個人・家族・所属国家と意識が繋がっていたのですね。その時にはもはや、賊軍だった頃の意識は無いのでしょう。
山川健次郎の時期の物理学会は諸外国との交流を感じさせません。特にコペンハーゲン学派が中心となって次々と新しい知見をもたらしていた時代に日本の物理学は黎明期にありました。後の時代に原子核内の相互作用を解き明かしていく若者達を育てていく時代だったのです。山川健次郎と同年代のカメリー・オネスやローレンツは師に恵まれ論敵に恵まれて、マッハ、ボルツマンの構築した知見の中で考えを進めていたのです。大きく異なる環境から日本の物理学はスタートしています。
山川健次郎自身の研究成果は伝えられていません。研究内容をまとめた論文も広く知られていません。あるのでしょうか。それよりも寧ろ、後輩達を育てながら次の時代への為の土壌を育んでいたと考えるべきでしょう。また、この時代に千里眼を巡る話題が世間を騒がせていましたがそれに対して山川健次郎は批判的で冷静な立場をとっていたと伝えられています。今も昔も千里眼という不可思議な現象は「議論して解明できる内容ではない」と考える方が良いようです。
〆最後に〆
以上、間違い・ご意見は
以下アドレスまでお願いします。
最近全て返事が出来ていませんが
全て読んでいます。
適時、改定をします。
nowkouji226@gmail.com
2020/09/23_初回投稿
2021/07/18_改定投稿
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