【Memo_急ぎ原稿改定を進めて、
お恥ずかしい誤記等を改めたいと考えています。
細かくは、
ブログの稼働が9月頃だと考え、四半期の周期で
改定を繰り返していく形で定期的に改稿して、
より正確な内容をお届けしたいと考えています。
だから、、
一月の早い内に第一回改訂を終えたいですね。】
@ハッブル
Aローレンス
Bアンダーソン
Cボイル
Dゲルマン
Eマクローリン
F小柴昌俊
【@ハッブル原稿】
ハッブルは近代を代表する天文学者で、ハッブルの法則
等が有名です。そんな大天文学者ですが、
高校時代は陸上でイリノイ州の記録を更新したりしていました。
そんな少年時代は後の人生と全く違いますね。
そして、大学時代はボクシングでならし、
とあるプロモーターから世界チャンピオンとの
一戦を持ちかけられたほどの強さでした。これまた意外。
ハッブルの業績で大きいのは赤方偏移の発見でしょう。
1929年にセファイド変光星の観測から明るさと変光周期の関係
を観測していく事で赤方偏移を導きました。
ハッブルが考えていた宇宙論では、無論のこと実験は出来ず、
使える理論も検証の為に理論が必要となる学問体系でした。
そこでハッブルのもたらした赤方偏移は理論に明快に方向性を与え、
次なる考えにつながっていくのです。赤方偏移の考えから
膨張宇宙論の考えが裏付けられて、ひいては
ビックバーン理論へとつながっていったのです。
以上、間違い・ご意見は以下アドレスまでお願いします。
時間がかかるかもしれませんが必ず返信・改定をします。
nowkouji226@gmail.com
2020/11/1_初稿投稿
【Aローレンスの初稿原稿】
ローレンスは優れた実験家で
今でも頻繁に応用されている
サイクロトロンを発明した事
で広く知られています。
ローレンスの博士号習得時には
イェール大学で光電効果に関する
研究をしていたようです。その後、
恩師だったスワン先生がイェール大学
を去るタイミングでカリフォルニア大
に移ります。ローレンスは実験家
として大変、有望視されていました。
サイクロトロンを使った実験で、
ローレンスがその装置を活用
した応用が人工放射性元素でした。
ローレンスと彼の率いるバークレー国立研究所は
自然界に存在する元素だけでなく、
不安定な元素を作り出したのです。
強い磁場を使い帯電しているイオンを
ビーム状に出す事が出来るので
ローレンスの作ったサイクロトロンは
イオンが反応する状態を作れる
のです。例えば特定金属に
イオンビームを当て続ける事が
出来る訳です。
以上、間違い・ご意見は以下アドレスまでお願いします。
時間がかかるかもしれませんが必ず返信・改定をします。
nowkouji226@gmail.com
2020/10/31_記
【Bアンダーソンの初稿投稿】
物性研究で有名なアンダーソン博士をご紹介します。
所属研究機関としてはハーバード大で学びベル研・
ケンブリッジ大・プリンストン大学で勤務しました。
米国の綺羅星が並んでいますね。素晴らしい研究人生です。
アンダーソンの研究で思い出すのはアンダーソン局在です。
無秩序系における電子の基本的な性格で、物性論の基礎になっています。
その理論では電子が局在した状態は非局在の状態と明らかに異なり
エネルギー的に区別されます。更に、長さ・時間のスケールを
変換する理論をスケーリング理論として展開して
理論を発展させたのです。こういった業績を評価され、
アンダーソンはノーベル物理学賞を受賞しています。
そしてアンダーソンは 東京大学から名誉博士号
を贈られています。物性研で記念植樹されていたようですが、
赤坂・防衛省の近くでしょうか。柏でしょうか。
何時か見に行きたいと思います。
最後に、アンダーソンの残した業績は大きいのですが、
残した言葉を一つご紹介します。
More is different
そして、
アンダーソンは多様性の中から秩序を拾い出しました。
以上、間違い・ご意見は以下アドレスまでお願いします。
時間がかかるかもしれませんが必ず返信・改定をします。
nowkouji226@gmail.com
2020/11/3_記
【Cボイル原稿】
その名は正確には
サー・ロバート・ボイル: Sir Robert Boyle_
英国アイルランド生まれの物理学者です。
初代コーク伯爵リチャード・ボイルと
キャサリンの間に7番目の男子として生まれ
現地の家庭に里子に出されます。
その結果、ボイルはアイルランド語を
理解し、通訳レベルまで習得しました。
ボイルはフランス人の家庭教師と
海外旅行をしていて、1641年冬には
イタリアのフィレンツェで過ごし、
ガリレオ・ガリレイの教えを受けます。
ガリレオは1642年に亡くなりますが、
まさに晩年、ガリレオと接したのですね。
今の日本人なら中学生でしょうか。
多感な時期に良い刺激を受けた事でしょう。
1644年に大陸の長旅を終えるとボイルは
多くの時間を科学に使い、後の王立協会
に繋がる集まりであるロンドン理学協会
、不可視の学院とも呼ばれた集まりに
参加するようになります。先代が亡くなって
いましたので、ボイルはアイルランドでの
立場もあったのですが、ロンドンで頻繁に
会合が開かれた事情もあり彼は最終的には
オックスフォードに移り住みます。
実験器具が入手し辛いといった切実な
側面もあったようです。
その後、フックを助手としてボイルは空気
ポンプを制作して圧力の研究を始めます。
やがてはその研究は体積との関係を示す、
ボイルの法則に繋がります。
ただ1660年迄に
体積は圧力に反比例すると明言していて、
書物での記録はあるようですが、
温度や分子量との関連を含め、
現象の定式化には至らなかったようです。
実際の定式化はヘンリー・パワーによって
1661年になされているようです。
最後に、ボイルは錬金術の伝統を受継いで
いましたが、近代的な視点を持ち「元素」を想定して、
混合物と化合物を明確に区別した点で秀でています。
ボイルが明確にしたパラダイムシフト
は非常に大きな業績だと言えるのではないでしょうか。
以上、間違い・ご意見は以下アドレスまでお願いします。
時間がかかるかもしれませんが必ず返信・改定をします。
nowkouji226@gmail.com
2020/11/4_記
【Dゲルマン原稿】
ゲルマンは米ニューヨーク生まれの理論家です。
素粒子論の世界でノーベル賞を受けています。
ゲルマンの名を本来はゲル-マンと書きますが、
【Gell-Mannと書きますが、】
本稿ではゲルマンとします。
ゲルマンはイェール大で学士号を受け、
MITで博士号を受けました。その後、
プリンストン高等研究所、コロンビア大、
シカゴ大、カリフォルニア工科大で
研究を続けます。サンタフェ研究所の
設立者の一人でもあります。
ゲルマンの研究実績としてはクォークの提唱
が大きかったですね。加速器の開発後には
様々な粒子が未整理のまま次々と発見され、
それらの関係と性質は未解決のまま
問題が蓄積されていきます。
それらを整理・理解する手段がクォーク
だと言えるでしょうか。
ゲルマンの理解体系では対象性が使われて
いて、ストレンジネス・カラーといった
概念で素粒子が理解されていきます。
秩序ある奥深い理論だと思います。
さて、ゲルマンの業績として素粒子の
分類に関する側面を取り上げてきましたが、
ゲルマンの研究での真骨頂は粒子の反応
に関しての研究ではないでしょうか。
関連してR・P・ファインマンという
論敵がいました。
あくまで伝えられている内容なのですが、
ゲルマンとファイン・マンの論争は
まるで子供の喧嘩みたいにも思えます。
激怒したファイン・マンが、
貴様の名前綴りからハイフォン消すぞ!
【Gell-Mann改めGellmannとするぞ!の意】
と怒鳴りつけたら、ゲルマンが
お前の名前をハイフォン付きで書いてやる!
【Feynman改めFeyn-Manとしてやる!の意】
と言い返す有り様だったようです。
アメリカ人の感覚なのでしょうか。
西部劇の勢いなのでしょうか。
ただ少し理解出来るかも、と思ったのは
互いの家を侮辱していたのてすよね。
瞬間的に家祖を汚す発想は、頭の切れる
天才同士の喧嘩だったのでしょう。
そんなゼーマンとファイン・マンは
それぞれに素晴らしい業績を残しました。
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nowkouji226@gmail.com
2020/11/5_記
【Eマクローリン原稿】
マクローリンの名を耳にするのは数学の中ではないでしょうか。
特に彼の名にちなんだ展開で有名です。その内容は
0を中心としたテイラー展開であって、
とても特別な場合なのですが
その有益性は非常に大きいのです。
その有益性は単純な私達では思い付かなかったでしょう。
マクローリンは英スコットランドに生まれました。
ニュートンと仕事をする中で彼の信頼を得て、
大学への推薦状を書いてもらう程でした。
マクローリン自身もニュートンの考えに惚れ込んでいて、
その紹介を目的として出版活動をしていました。
こうした仕事を通じてスコットランド啓蒙運動
に勤しんだ【いそしんだ】のです。
多くの人は高校時代以降に数学を使わなくなるでしょうが、
実生活の中で数学の世界はとても役に立っています。
特に、今回ご紹介しているマクローリンの考えは
一般関数の級数展開といった考えにつながり、
その考えはひいてはデジタル回路における近似処理
に繋がるのです。スマホの中とかの回路での処理原理です。
一般の人は意識しませんが恩恵を受けています。
理工学系の過程に進む初学者は以上の点を少し意識して下さい。
一見関係ないように思える数学の世界も、その概念を
土台として現代の応用技術が成り立っているのです。
無意味乾燥に思える講義の内容が
貴方の人生で思わぬ成果を生む場合があります。
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nowkouji226@gmail.com
2020/11/6_記
【F小柴昌俊の原稿】
日本の物理学の新しい分野を切り開いた先人でした。
2020/11/12の夜に老衰の為、都内の病院でお亡くなりになりました。
享年94歳の大往生です。
小柴昌俊は物質の基本元素を構成する素粒子の1つニュートリノ
を観測にかける事に成功しました。その結果をもとに今では
ニュートリノ天文学という新しい分野を確立しました。
ニュートリーノは星の進化過程で発生します。驚いたのですが、
ニュートリーノを観測にかけたのは、小柴昌俊が東京大学を
定年退官する一月前の観測でした。強運を指摘された小柴氏は
「運はだれにでも等しく降り注ぐが、捕まえる準備をしているのか、
していないのかで差がつく」(のですよ、と)反論しました。
東京大学宇宙線研究所に所属しているの梶田隆章は
小柴昌俊の弟子にあたりますが、
ニュートリーノに質量がある事を示しノーベル賞を受けています。
また、戸塚洋二も小柴昌俊の弟子にあたります。
朝永振一郎から可愛がられた若かり時代を経て
梶田隆章教授、戸塚洋二教授を育てたのです。
小柴昌俊は俊岐阜県飛驒市にある鉱山地下、1000メートルに
3000トンの水を使った、巨大装置、カミオカンデを建設し、
天体からのニュートリノを観測しました。その装置では
ニュートリーノが飛来する方向、観測した時刻、
エネルギー分布を明確に検出します。実際に観測をしました。
カミオカンデの主目的はニュートリーノではありませんでしたが、
ニュートリーノも、という二段作戦で成功を得たのです。
小柴昌俊はそうした結果を使いニュートリーノ物理学を進めたのです。
何より彼は大変な努力家でした。そんな男が
大きな仕事を成し遂げた後、静かな眠りに落ちたのですね。
大きなお悔やみを申し上げます。合掌。
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nowkouji226@gmail.com
2020/11/12_記
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