「仁科 芳雄」の原稿を改定します。
今回の主たる改定はタイトルの再考です。ベートーベンは居ない時代。
初見の人が検索結果を見て記事内容が分かり易いように再推敲します。
SNSは戦略的に使っていきます。そして記述に誤解を生む表現がないかを
チェックし続けてます。ご意見・関連投稿は歓迎します。
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【1890年12月6日生まれ ~ 1951年1月10日没】
人を育てた仁科さん
仁科芳雄は稀代の「人たらし」だったと言われています。
仁科さんは人に惚れ込む性格でした。
仁科さんが人に入れあげる性格で、
その人の良い所を見つけて、それを伸ばす。
そんな仁科さんの元に人が集まる。
そんな風にして仁科さんの下に集まった沢山の人達を
育てあげていった凄さが仁科さんにはあるんです。
仁科さん本人はオランダ・コペンハーゲンの
ニールス・ボーアのもとで育ち、その自由闊達な
コペンハーゲンの学風を日本に持ち込み、
多くの学者を育てました。
1928年にオスカル・クラインとコンプトン散乱の
有効断面積を議論しています。
また帰国後にはハイゼンベルクやディラックを
日本に招待して日本の中での物理学への
理解を深め啓蒙活動を続けています。
更には、師であるボーアを日本に呼び寄せています。
仁科さんとサイクロン
研究内容として仁科さんはサイクロンの建設を進めて、
様々な成果をあげてます。そのサイクロトロンは
国内初、世界で二番目の開発でした。
以後理化学研究所を拠点として開発は進み
「サイクロトロン建造技術はまさに理研のお家芸」
となっていくのです。【理化学件HPより抜粋】
そして、現在でもサイクロトロンを使った
素粒子の研究は続いています。
そのサイクロンを大型化する際には仁科さんは
大変苦労しています。先行する
カリフォルニア大学のローレンスとは日米関係の悪化に伴い
関係が悪くなっていったのです。実際、サイクロトロン関係の
情報交換は軍事的な側面を持つので出来なります。
そして終戦と共に、
仁科さんが苦心して作り上げたサイクロンは
GHQにより東京湾に破棄されてしまいます。
仁科さんの晩年
戦後には仁科さんは理化学研究所の所長を務め、
科研製薬の前身となる会社で社長を務めましたが、
肝臓ガンを患い61歳で亡なってしまいます。
放射線被ばくの影響もあったであろうと言われていて、
残念です。多くの人材育成に捧げた人生だったと感じています。
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以上、間違い・ご意見は
次のアドレスまでお願いします。
適時、返信・改定を致します。
nowkouji226@gmail.com
2020/12/13_初版投稿
2023/08/14_改定投稿
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(2021年10月時点での対応英訳)
Nishina who raised people
Yoshio Nishina is said to have been a rare "human being". Nishina-san had a personality that fell in love with people. He has the personality that Nishina puts into a person, and he finds the good points of that person and develops them. People gather under Mr. Nishina. In that way, many people gathered under Mr. Nishina, and Mr. Nishina has the awesomeness of raising them.
Mr. Nishina himself grew up under Niels Bohr in Copenhagen, the Netherlands, and brought his free-spirited Copenhagen academic style to Japan and raised many scholars. He discusses the effective cross-sectional area of Compton scattering with Oskar Klein in 1928. After returning to Japan, he invited Heisenberg and Dirac to Japan to deepen his understanding of physics in Japan and continue his enlightenment activities. In addition, he is calling his teacher, Bohr, to Japan.
Nishina-san and Cyclone
As a research content, Mr. Nishina is proceeding with the construction of a cyclone and has achieved various results. Mr. Nishina is having a great deal of trouble in enlarging the cyclone. His relationship with the University of California, Berkeley, which preceded him, became worse as the relationship between Japan and the United States deteriorated. In fact, exchanging information related to cyclotrons is possible because it has a military aspect. And at the end of the war, the cyclone that was painstakingly created will be destroyed by GHQ in Tokyo Bay.
Nishina's later years
After the war, Mr. Nishina was the director of RIKEN and the predecessor of Kaken Pharmaceutical, but he suffered from liver cancer and died at the age of 61. It is a pity that he was said to have been affected by radiation exposure. He feels that he was a life dedicated to a lot of human resources development.
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