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2023年01月01日

あけましておめでとうございます。【年末の紅白とエーレンファスト】

あけましておめでとうございます。

今年も宜しくお願い致します。

昨年末は、
急ぎで作業しました。
1.玄関先掃除
2.家の窓の掃除
3.軒先の花の補充(花を買ってきました)
4.バイクの状況確認(タンクが開きません)

とくに、バイクはキックが下りるのですが
エンジンがかかりません。キル・スイッチが
効いているようで電気系から点検しないと動きません。

先ずタンクを開けてドレンして

燃料計が一安心であると確認した後で

一つ一つ作業していきたいところです。

年明けにドレンのボルトをいじってみます。

臭い液が出るでしょうか。

そして、残っている作業は年賀状作成でした。
何とか年内に完了した次第です。
年の瀬の楽しみの一つなので
呑気にお酒を飲みながら作業していました。

黒柳徹子・89歳の紅白司会も見ることなく
寝てしまい年を越した訳です。

思えば、昨年末の当ブログは偶然、
エーレンファストが最後のトリを務めて
少し感慨深いです。

科学史の中でエーレンファストは
とても大事な役割を果たし
今後も語り継がれていきます。

また、

年末に川崎に行く道すがら

増上寺に「謹賀新年」の文字が

大きく書いてあったので、

それを見て年始に行きたくなりました。

初詣はどこに行くかも検討中です。

赤羽八幡もネタになりそうな初詣ですね。


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中村清二
1/1改訂【地球物理・実験物理を研究し多くの人材を育てました】

こんにちはコウジです!
「中村清二」の原稿を改定します。


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【1869年10月28日〜1960年7月18日】



中村清二の時代のキャリア形成


中村清二は福井県に生まれ東京帝国大学に進みます。そこで田中舘愛橘の指導を受けるのですが、そこから先のキャリアに時代を感じました。


1903年に30代で助教授の地位にあったのですが、その時代に中村はドイツへ留学します。時代を感じた部分とはその後なのですが、中村は帰国後に博士号をとるのです。


その時代の修士課程の扱いは詳しく存じませんが、博士課程を終える前に助教授として学生を指導して、留学をして、更にその後に博士号をとっていたのです。時代が違うと感じました。


今であれば博士号を取っていない助教授(准教授)って居ない気がするのです。



中村清二の研究業績


何より先ず、中村は光学の研究で知られています。量子力学が成立してゆく時代に関連の仕事をしていき、光弾性実験やプリズムの最小偏角を研究したりしています。


また中村は地球物理学の分野でも研究を進めています。特に三原山が大正時代に噴火したときは地球内部の物理学に関心を持ちました。火山学を確立していき、三原山や浅間山の研究体制の整備に貢献しています。。


また、熱心に物理の教科書をまとめ上げる作業を繰り返しました。特に、東大での講義科目の一つであった実験物理学は、後の我が国の人材を育て上げて物理学発展の礎を固めました。1925年に理科年表が世に出されるのですが、その際には、物理の部門でのの監修者として中村は仕事を残しています。
また中村は定年後は八代海の不知火や魔鏡の研究を行なっています。



中村清二の人柄など


中村は妻との間に二男二女を設け得ました。
作家の中村正常は兄の子で、三原山の調査に同行したこともあしました。
正常の長女が女優の中村メイコです。
そうした多くの仕事と繋がりを残し、中村は召されました。
享年91歳の大往生です。



〆最後に〆


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(対応英訳)


Seiji Nakamura was born in Fukui prefecture and enterd into the University of Tokyo. There, he was taught by Tanakadate Aikitsu, and from there I felt the times in his future career. He was an assistant professor in his thirties in 1903, when he went to Germany to study abroad. The part where I felt the times was when I thought about it, but Nakamura got his PhD after returning to Japan. I don't know how to treated a master's degree at that time, but before finishing his doctoral course, he taught students as an assistant professor, studied abroad, and then got a PhD. He felt that the times were different.


Nakamura is known for his research in optics. He has been doing related work in the era when quantum mechanics was established, and he is studying photoelastic experiments and the minimum declination of prisms.


Nakamura is also conducting research in the field of geophysics. Especially when Mt. Mihara erupted in the Taisho era, he was interested in the physics inside the earth. He has established volcanology and is contributing to the development of research systems for Mt. Mihara and Mt. Asama. ..


He also repeated the work he enthusiastically put together a physics textbook. In addition, experimental physics, one of the lecture subjects at the University of Tokyo, cultivated human resources in Japan laters and laid the foundation for the development of physics. His science chronology was released in 1925, when he left his job as a supervisor in the physics department.
After retirement, Nakamura is conducting research on Shiranui and magic mirrors in the Yashiro Sea.


Personality of Seiji Nakamura, etc.
Nakamura could have a second son and a second daughter with his wife.
The writer, Masatsune Nakamura, was the son of his older brother and also accompanied him to the investigation of Mt. Mihara.
The normal eldest daughter is Meiko Nakamura, an actress.
Nakamura was called, leaving behind many of them. He is 91 years old.


 

2022年12月31日

ゾンマーフェルト
12/31改訂【粒子の運動を考察して量子化条件を進化】

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【1868年12月5日生まれ ~ 1951年4月26日没】



ドイツのゾンマーフェルトは


 

パウリハイゼンベルク の指導をして


育てあげた大きな実績があります。


 

 この二人は量子力学で大きな仕事をしていて


この二人が抜けていたら


量子力学の発展は大きく遅れていたでしょう。


「とても意義深い仕事」をしてきた人達でした。


パウリもハイゼンベルグも


ゾンマーフェルトの研究室を離れた後に


対象の深い部分に対しての考察を進めています。


また、ゾンマーフェルトを語るうえで忘れたくないのはボーア・ゾンマーフェルトの量子化条件です。粒子の運動を語り出した時に大きさスケールで具体的に従来の枠組みで語れない量子化された世界を考えるきっかけを作りました。ゾンマーフェルトの貢献は非常に大きいです。

個人的にゾンマーフェルトを考察すると、


積分の経路に工夫を凝らして展開計算


していった手法が印象的でした。そこがまさに


電子軌道の自由度を考える事に繋がったのです



ゾンマーフェルトの考えは


単純な円軌道で電子が運動しないで


楕円の軌跡を描く筈だと言う物です。


より詳細にはボーアの提唱した量子化条件を


進化させてより高次の拡張を展開していった


と言えるでしょう。同時期の


ウィルソンや石原純の理論も特筆すべきです。


 

【以下2原論文はWikipediaより引用しました】



  • Wilson, W. (1915). “The Quantum Theory of Radiation and Line Spectra”. Phil. Mag.. Series 6 29 (174): 795-802. doi:10.1080/14786440608635362.

  • Ishihara, J. (1915). “Die universelle Bedeutung dse Wirkungsquantums”. Tokyo Sugaku Buturigakkai Kizi. Ser. 2 8: 106–116. JOI:JST.Journalarchive/ptmps1907/8.106.


こういった話をしていて感じるのは
どうやっても見えない世界に
何とか形を与える事は素晴らしい、
という事実です。


実際に形を与える事は文化的発展に繋がり


世界を変えていくのです。


ダイナミックな世界かと思います。


日々の暮らしでは感じられない世界です。


 


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Sommerfeld in Germany has a great track record


of growing up with the guidance of Pauli and Heisenberg. If these two people were missing, the development of quantum mechanics would have been greatly delayed. They were people who had done "very meaningful work". Both Pauli and Heisenberg have been thinking about the deeper parts of the subject after leaving Sommerfeld's laboratory.


Personally in Sommerfeld's work, I was impressed with the method of expanding and calculating the integral path. I thought that was exactly what led to thinking about the degree of freedom of electron orbits. ..


Sommerfeld's idea is that an electron should draw an elliptical locus without moving in a simple circular orbit. In more detail, it can be said that Bohr's proposed quantization conditions were evolved to develop higher-order extensions. The theory of Wilson and Jun Ishiwara at the same time is also noteworthy.



[The following two original papers are quoted from Wikipedia]


Wilson, W. (1915). “The Quantum Theory of Radiation and Line Spectra”. Phil. Mag .. Series 6 29 (174): 795-802. Doi: 10.1080 / 14786440608635362.
Ishihara, J. (1915). “Die universelle Bedeutung dse Wirkungsquantums”. Tokyo Sugaku Buturigakkai Kizi. Ser. 2 8: 106–116. JOI: JST.Journalarchive / plotms1907 / 8.106.


What I feel when talking about this is that it is wonderful to somehow give shape to the invisible world. Actually giving shape leads to cultural development and changes the world. I think it's a dynamic world. It's a world you can't feel in your daily life.


2022年12月30日

ロバート・ミリカン
‗12/30改訂【油滴重量から電気素量を導いた米国の実験家】

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【1868年3月22日 ~ 1953年12月19日】



ミリカンは非常に優れたアメリカの実験家でした。


コロンビア大学で物理学の博士号をとりますが、ミリカンが


同大学での初めての物理博士習得者だったそうです。


光に粒子性と波動性がある事を実証していく段階で


波動性を前面に出した理論を展開していきます。


ただ、実験事実として粒子性を前提に考えた実験が


非常につじつまの合う結果を出していたことに


ミリカン自身も自問自答を繰返したと思えます。


結果としてアインシュタインが論じた光電効果を


ミリカンも実験的に裏付けます。また、そうした


実験と光の波長からプランク定数を定めました。



電気素量を導き出した実験


金属板の間を落下する液体の運動を考えミリカンらは


重力効果に対してクーロン力の兼ね合いを計算に取込み、


厳密に計測値が求まる油滴重量から電気素量を導きます。


この油滴の実験の素晴らしい所は量子化する事で電子の


粒子性を示した点です。電流が計測されるイメージを考え


みた時に、その担い手の電子が連続量なのか粒子のように


考えられるか、当時は不確かだったのです。


ミリカンの実験結果では粒子性が示されました。


この2つの業績でミリカンはノーベル賞を受けました。



ミリカンは非常に優れた教育者


多くの教科書を世に送り、その中で少し先んじた


概念を紹介しています。更にミリカンは


カリフォルニア工科大学の創設に大きく関わりました。


今でも同大学に彼の名を冠した建物があるそうです。


【そもそも米国の通例で、1号館と言う代わりに
ミリカン・ホールという名をつけたりします】





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Millican was a very good American experimenter.


He holds a PhD in physics from Columbia University, and Millican was the first PhD in physics at Columbia University.


He develops a theory that puts wave nature in the foreground at the stage of demonstrating that light has particle nature and wave nature. However, it seems that Millican himself repeatedly asked himself that the experiment that assumed particle nature as an experimental fact produced very consistent results.


As a result, Millican also experimentally supports the photoelectric effect discussed by Einstein. We also determined Planck's constant from such experiments and the wavelength of light. In addition, the experiment that derived the elementary charge is also wonderful. Considering the movement of the liquid falling between the metal plates, Millican et al. Incorporated the balance of Coulomb force against the gravitational effect into the calculation.



The elementary charge is derived from the weight of the oil droplet


, for which the measured value can be obtained exactly. The great thing about this oil drop experiment is that it shows the particle nature of electrons by quantization. When I thought about the image of measuring the electric current, it was uncertain at that time whether the electrons of the bearer were considered to be continuous quantities or particles. Millican received the Nobel Prize for these two achievements.


Millican has also sent many textbooks to the world as a very good educator, introducing concepts that are a little ahead of the game. In addition, Millican was heavily involved in the founding of the California Institute of Technology. It seems that there is still a building bearing his name at the university.


[In the first place, it is customary in the United States to call it Millican Hall instead of Building No. 1.]


2022年12月29日

マリ・キュリー
12/29改訂【特定原子の遷移を示したフランスの偉人】

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【1867年11月7日生れ ~ 1934年7月4日没】



マリア・スクウォドフスカ=キュリー


:Maria Salomea Skłodowska-Curieですが


フランス語でマリ・キューリと呼ばれる事が多いです。


彼女は物理学と化学で2度ノーベル賞を受けています。マリ・キューリの父は研究者でしたが貴族階級の出身だった為に、帝政ロシアの支配下の元で教壇に立つことを禁じられていました。マリ・キューリは10歳をなる前に大変苦労します。父の非合法の講義が発覚して職・住を失い、母の結核による他界があり、更には投機での失敗もあり、マリーは親戚等の世話になります。


 

そんな苦しい時期にマリ・キューリにも


恋をした時間がありました。


当時、マリ・キューリは家庭教師を生業としていましたが、カジュミェシュ・ゾラフスキという青年と恋仲に落ちます。共に避暑旅行に出かけたりして幸せな時間を過ごしますが、最終的には破局を迎えました。この事がマリ・キューリのパリ行きに繋がった様です。



パリでもマリ・キューリは苦労します


屋根裏部屋に住んで、寒い時には持っている全ての服を着ながら勉学に励みます。そんなパリ生活は大学の学部を卒業する迄、続きました。


 

そんなマリ・キューリに


光明がさします。知り合いを通じて


ピエール・キューリと出会ったのです。


 

そのピエール・キューリは国外で評価を受けていて1893年には英国のケルヴィン卿が訪ねてくる程でした。ところが、ピエール・キューリは勲章を辞退してしまうような性格でひたすら研究に励んでいました。


そんな二人が惹かれ合い、認め合い、マリの帰国後もピエールは恋文を贈り続け、遂にはマリの心が動き、2人は簡素な結婚式をあげます。


幸せな結婚だったと思います。


祝いの宴もなく、結婚指輪も無い、


つつましい形式でしたが


祝い金で買った自転車に乗り、


フランスの片田舎へと新婚旅行に旅立ちます。


ピエールが自転車をこぎ、


その後ろにマリが乗り、長閑な道を


語りながら進んでいった事でしょう。


料理を頑張り、長女に恵まれながら学問を続け、ベクレルの見出した放射線に対して二人は研究していきました。そこで。光や温度といったパラメターではなくウラン含有量の「量」が放射現象には本質的であるとの結論を得ます。
その後、マリとピエールの夫妻は元素の精製に心血を注ぎます。純度をあげる事で同位体の存在に近づいていったのです。関心のある精製にキューリー夫妻は全てを注ぎ込みます。結果として、夫ピエールは度重なる発作に苦しみ、妻マリは神経衰弱から睡眠時遊行症に陥ります。
そんな中で第2子を流産してしましました。そうした犠牲を払い、夫婦は物理学で大きな成果をあげます。



新しい概念の提唱に至ります


新しい発見とは即ち、


「特定元素は別の元素へ変化する」


という事実です。


そして、その過程で放射線を放出して一見エネルギー保存の法則に相反する変化を起こしますが、それを追ってラザフォードらが研究成果を次々に発表します。
原子核の崩壊過程では素粒子の結合に関わる様々なエネルギーが関与します。現在では簡素にダイヤグラムで理解する手法が確立されていますが、当時は手探りの状況理解でした。
そして夫ピエールが放射線に医学的効果を期待出来ると発見をしていくのです。ラジウムの効果でした。微量のラジウムならば古くから「ラジウム温泉」の効果は広く知られていました(ただし、明確に「ラジウム」という言葉は使われていませんでした)。


また、現在では分かっているのですが過度のラジウムは身体に悪影響を与えます。放射線の影響を直接・装置で患者に対して考慮し始めたのです。ピエールの発見は大きな人類の知見へと繋がっていきます。


当初は、妻マリーの博士学位習得が放射線研究の目的であったのですが最終的にはマリー・ピエール・ベクレルの3人に対してノーベル賞が贈られます。苦労してきた二人にとって、まさに栄誉の極みでした。


所が、その後突然の不幸が訪れました。夫ピエールが46歳の若さにして交通事故で命を落とすのです。妻マリーは悲痛にくれます。当然でした。その後、傷が癒えるまでに多くの言葉と時間が必要でしたが、最終的に妻マリーは夫ピエールの大学での職位と実験室の後任を引き継ぎます。研究者として活動を始めたのです。



ケルビン卿との議論


マリー・キューリ―はケルヴィン卿と対峙します。夫を認めてくれていた恩人でもあるのですがケルビン卿はラジウムを元素ではなく化合物であると考えていたのです。マリーは実験事実で論破してケルビン卿の誤りを正しました。そしてカメリーオネスと低温状態のラジウム放射線を研究していこうと話を進めます。


また第一回ソルベー会議で論文を発表していた若き日のアインシュタインを評価して、チューリッヒ大学教職への推薦状を書いています。そうした当時の綺羅星の物理学者が彼女と交流を持ちました。反面、ゴシップ騒動に追われていた部分も有、マリーはマスコミを嫌います。二度目のノーベル賞を受ける際にはスウェーデン側からも授与を見合せる打診がありましたがマリーは毅然と対応して、ゴシップネタとされた関係を「成果をあげた関係」であると語りました。
旦那様の教え子、ランジュバンとの成果でした。


そして、、、語らなければなりません。何より悲しかったのは放射線のもたらした弊害です。研究の過程で放射線被曝が重なりマリーは頭痛・耳鳴り・怪我がなかなか治らないといった障害に悩まされ続けます。そして終には死に至りますが、当時はまだその関連性が明確ではなかったようです。


波乱に満ちたマリー・キューリの人生は幕を閉じましたがその後人々は彼女の残した物を高く評価しています。1995年、夫妻の墓はパリのパンテオンに移されました。フランス史の偉人の一人として今でも祭られています。そして、物理の世界の偉人として世界中で語り継がれています。




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(2021年9月時点での対応英訳)



Maria Salomea Skłodowska-Curie
She is often called Mari Curie in French.


She has received two Nobel Prizes in physics and chemistry. Mari Curie's father was a researcher, but because he was from the aristocratic class, he was forbidden to teach under the rule of imperial Russia. Mari Curie has a hard time before she turns 10. Marie takes care of her relatives and others as her father's illegal lectures are discovered and she loses her job and residence, her mother died of tuberculosis, and her speculative failure. Become.


I had a time when I fell in love with Mari Curie during such a difficult time. At the time, Mari Curie was a tutor, but she fell in love with a young man named Kajumjesh Zorafski. She spends a happy time together on a summer trip, but in the end it was catastrophic. This seems to have led to Mari Curie going to Paris.


Mari Curie has a hard time even in Paris. She lives in the attic and works hard at her studies while wearing all her clothes she has when it's cold. Her life in Paris continued until she graduated from college.


Her light shines on such Mari . She had met Pierre Curie through her acquaintance. The Pierre Curie was well received abroad, and in 1893, Sir Kelvin of England visited him. However, Pierre Curie was devoted to his research with a personality that would decline his medal.


The two were attracted to each other and acknowledged each other, and even after her return to Paris, Pierre continued to give her a love story, and finally Mali's heart moved, and the two had a simple wedding ceremony. I think it was a happy marriage. There was no celebration party, no wedding ring, and although it was a humble format, I rode a bicycle I bought for the celebration and set out on my honeymoon to a remote country in France. Pierre would ride a bicycle, and Mali would ride behind him, talking about a quiet road. They worked hard on cooking, continued their studies while being blessed with her eldest daughter, and studied the radiation found by Becquerel.


Therefore. We conclude that the "amount" of uranium content, rather than parameters such as light and temperature, is essential for radiation phenomena. After that, Mari and Pierre devoted themselves to the purification of the elements. By increasing the purity, we approached the existence of isotopes.


Mr Curie and his wife put everything into the refinement of interest. As a result, her husband Pierre suffers from repeated seizures and his wife Mari suffers from sleepwalking due to memory weakness. Meanwhile, I had a miscarriage of my second child. At that cost, we come up with a new concept. That is, "a specific element changes to another element"
The fact is.


Then, in the process, it emits radiation and causes changes that seemingly contradict the law of conservation of energy, but Rutherford et al. Will announce their research results one after another. Various energies involved in the bonding of elementary particles are involved in the decay process of atomic nuclei. Nowadays, a simple method of understanding with a diagram has been established, but at that time it was a fumbling understanding of the situation.


And her husband Pierre discovers that radiation can be expected to have a medical effect. It was the effect of radium. The effect of "radium hot springs" has long been widely known for trace amounts of radium (although the word "radium" was not explicitly used). Also, as we now know, excessive radium has a negative effect on the body. We began to consider the effects of radiation on patients directly and with equipment. The discovery of Pierre will lead to great human knowledge.


Initially, the purpose of radiation research was to obtain a doctoral degree from his wife Marie, but in the end, the Nobel Prize will be given to three people, Marie Pierre Becquerel. It was a great honor for the two who had a hard time.


However, sudden misfortune came after that. Her husband, Pierre, died in a car accident at the young age of 46. Her wife Marie is in pain. It was natural. After that, it took a lot of words and time for her wounds to heal, but eventually her wife Marie took over her husband Pierre's college position and laboratory successor. She started her career as a researcher.



Discussion with Sir Kelvin


Marie Curie confronts Sir Kelvin. Sir Kelvin, who was also her benefactor who acknowledged her husband, considered radium to be a compound rather than an element. Marie argued with her experimental facts and corrected Sir Kelvin's mistakes. She then goes on to study Cameriones and cold radium radiation. She wrote a letter of recommendation for the University of Zurich teaching profession in recognition of her youthful Einstein, who had published her treatise at the first Solvay Conferences. The physicist of Kirasei at that time had an exchange with her.


On the other hand, Marie Curie has been chased by the gossip turmoil, and Marie hates the media. When sMari received her second Nobel Prize, the Swedish side also asked her to forgo her award, but Marie responded resolutely and described her relationship as her gossip story as "successful." "It's a relationship," she said.
It was an achievement with her husband's student, Langevin.


And ... I have to talk. The most sad thing was the harmful effects of radiation. In the process of her research, radiation exposure overlaps and Marie continues to suffer from disabilities such as her headaches, tinnitus and injuries that are difficult to heal. She and she eventually died, but it seems that the relevance was not yet clear at the time.


Her turbulent life with Marie Curie ended, but people have since appreciated her leftovers. In 1995, the tombs of the couple were moved to the Pantheon in Paris. She is still celebrated as one of the great men of French history. And she has been handed down all over the world as she is a great man in the physical world.

2022年12月28日

長岡半太郎‗12/28改訂【ボルツマンに学び原子の土星モデルを提唱】

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【1865年8月19日生まれ ~ 1950年12月11日没】



長岡半太郎の豊かな人脈


 

この長岡半太郎は大村藩の流れに生まれます。


学生時代は東大で山川 健次郎田中舘愛橘に学び、


助教授としてドイツ留学していた


時期にボルツマンに学びます。それだから実証主義


の考え方も、留学以後は踏まえながら議論をしていった


のでしょうか。どこまで核心に迫っていったか


論じる際には当時の日本における量子論での


現象把握を考えると良いでしょう。そんな事を考えながら、


科学史の観点から論文を読んでみたくなりました。


別の面から調べてみたら話は進む時があると


思えるからです。そして長岡半太郎の子供時代は


学業成績は芳しくなかったようです。


この点は同時期の本多光太郎を思い出します。因みに、この二人に加わえて鈴木梅太郎の三人は「理化学研究所の三太郎」と呼ばれていたそうです。携帯電話のコマーシャルで似たような人達居ましたね。



長岡半太郎の研究業績


長岡半太郎は田中舘愛橘と地震の論文を纏めたり、


本多光太郎と磁気の論文を纏めたりしていますが、


長岡半太郎の研究業績として大きいのは、


なんと言っても原子モデルでしょうボルツマン仕込みで


ミクロへの探求を進めていたのです。トムソン


ブドウパンの中のブドウのような形で


中心からの距離や軌跡と無関係に


電子の存在を仮定していたのに対し、


長岡半太郎は原子の周りを電子が回転する


土星のようなモデルを提唱しました。


この話は、不確定性関係と合わせて論じてみたいと思います。後に確立された不確定性関係では対象粒子の位置と運動量の関係が論じられます。この二要素が関連して論じられる訳です。


不確定性の考え方の枠組みでは運動量が確定している電子に対して位置は不確定であって当然です。具体的には個体原子の位置は止まっていると見なせそうですが、動き回る電子の位置の確定が難しいのです。「運動量」の観測精度を高めている電子に対して位置情報はどんどんぼやけてきてしまいます。


時代を戻して長岡半太郎の時代に電子を観測


することを考えてみて、電子の挙動をとらえる


帯電物質を想定してみても帯電体の中を


動き回る電子の動きを止める事は出来ません。


電子とは何時も動いている物体だからです。


それだから、初めの時点での


モデル化の難しさが出てくるのです。


今日の物理学、特に量子力学的な知見では不完全なモデルとも言えますが、長岡半太郎のモデルは当時の原子モデルを大きく変えた点で高く評価出来ると思えます。


全く知見の無かった原子という存在をに対して初期的なイメージを作る事が出来たのです。そのモデルをもとに帯電物質である電子の挙動が議論できたのです。
素晴らしいパラダイムシフトでした。



〆最後に〆



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Hantaro Nagaoka's rich personal connections


This Hantaro Nagaoka was born in the flow of the Omura domain as well as Hideki Yukawa. He studied with Kenjiro Yamakawa and Aikitsu Tanaka at the University of Tokyo when he was a student, and with Boltzmann when he was studying abroad in Germany as an assistant professor. So did he discuss the idea of ​​positivism based on his study abroad? When discussing how close he was to the core, it would be good to consider the phenomenon grasp in quantum theory in Japan at that time. With that in mind, I wanted to read the treatise from the perspective of the history of science. If you look at it from another side, it seems that there are times when the story goes on. And it seems that his academic performance was not good when he was a child of Hantaro Nagaoka.


This point reminds me of Kotaro Honda at the same time. By the way, in addition to these two people, Umetaro Suzuki was called Santaro of RIKEN. There were similar people in mobile phone commercials.



Research achievements of Hantaro Nagaoka


Hantaro Nagaoka has compiled papers on earthquakes with Tanakadate Aikitsu and papers on magnetism with Kotaro Honda, but the major research achievement of Hantaro Nagaoka is probably the atomic model. I was pursuing a quest for the micro. Whereas Thomson assumed the existence of electrons in the shape of grapes in grape bread regardless of the distance or trajectory from the center, Hantaro Nagaoka created a Saturn-like model in which electrons rotate around an atom. Advocated.


I would like to discuss this story together with the uncertainty relation. The uncertainty relation established later discusses the relationship between the position of the target particle and the momentum. These two factors are discussed in relation to each other. In the framework of that idea, it is natural that the position is uncertain with respect to the electron whose momentum is fixed. Specifically, it seems that the position of a solid atom is stopped, but it is difficult to determine the position of moving electrons. The position information becomes more and more blurred for the electrons that improve the observation accuracy of "momentum".



Considering going back in time


and observing electrons in the time of Hantaro Nagaoka, even if we imagine a charged substance that captures the behavior of electrons, we cannot stop the movement of electrons moving around in the charged body. Because an electron is an object that is always moving. That's why it's difficult to model at the beginning.


Although it can be said that it is an incomplete model in today's physics, especially in quantum mechanics, Hantaro Nagaoka's model can be highly evaluated because it changed the atomic model at that time. I was able to create an initial image of the existence of an atom that I had no knowledge of. Based on that model, we were able to discuss the behavior of electrons, which are charged substances.
It was a wonderful paradigm shift.

2022年12月27日

ピーター・ゼーマン‗12/27改訂【縮退の解放でナトリウム原子の電子特性を説明】

こんにちはコウジです。「ゼーマン」の原稿を改定します。投稿作業としては関連リンク、内部リンクの改定、個別の人物の追加をしています。今後もご覧下さい。また、ブログ宣伝でツイッター使います。
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ピーター・ゼーマン【1865年5月25日生まれ ~ 1943年10月9日没】



その名の綴りはPieter Zeeman


ゼーマンはオランダの小さな町、


ゾンネメレに生まれています。


またゼーマンはローレンツと同じ時代の理論家で


ローレンツと同時にノーベル賞を受賞してます。


当然、アインシュタインとも交流をもちます。


ゼーマンにとって幸運だったのは


ローレンツカメリー・オネスに師事した事


です。稀代の理論家と実験家の指導のもと、


ゼーマンは素晴らしい環境で育ちます。


そんなゼーマン等が出した結果がゼーマン効果です。


具体的には磁場中に置かれたナトリウム原子のスペクトル


を観察した時に、それが分裂していたのです。


ローレンツとゼーマンによってなされた説明は


ナトリウム原子の内部構造についてのものでした。


細かくは原子内部の電子が電荷を持ち、


磁場中では今で言う縮退状態からの開放される


ので(スピンの性質から)放射特性が変化するのです。


更には、その電荷の物理量が別に理論を進めていた


J・J・トムソンのそれと近しい値をとった事で


ローレンツとゼーマンの理論は説得力


をもちました。結果、


ノーベル賞が贈られます。



また、ノーベル賞受賞後


ゼーマンはアムステルダムで
研究所を運営し、そこで電磁光学
の研究を進めています。特に、
移動する媒質の中での光の伝播
に関しても研究していますが、
それは相対論の形成に有益
ローレンツアインシュタイン
も評価していたと言われています。
因みにこの3人を考えると年齢順で
ローレンツ(1853年生まれ)
ゼーマン(1865年生まれ)
アインシュタイン(1879年生まれ)
の順番です。実験事実が確立していき、
相対性理論が熟成されていくのです。


ローレンツとゼーマンの素晴らしい
点はナトリウム原子の構造を
解明した手法にあったと思います。
実験結果の積み重ね、仮設の設定、
そして全てを使った理論構築の
モデルはその後に多くの学者が活用可能で
再現可能な手法だったかと思えます。
その後に他の原子も次々と性格が
明らかにされていきます。




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The name is spelled Pieter Zeeman.


Seeman was born in the small Dutch town of Zonnemaire. Zeeman is a theorist of the same age as Lorenz and has won the Nobel Prize at the same time as Lorenz. Naturally, he also interacts with Einstein.


Fortunately for Zeeman, he studied under Lorenz and Kamerlingh Onness. Under the guidance of rare theorists and experimenters, Zeeman grows up in a wonderful environment. The result of such Zeeman is the Zeeman effect. Specifically, when I observed the spectrum of the sodium atom placed in the magnetic field, it was split.


The explanation given by Lorenz and Zeeman was about the internal structure of the sodium atom. In detail, the electrons inside the atom have an electric charge, and in a magnetic field, they are released from the degenerate state as they are now called, so the radiation characteristics change (due to the nature of spin).



Furthermore, Lorenz and Zeeman's


theory was convincing because the physical quantity of the electric charge took a value close to that of J.J. Thomson, who was advancing the theory separately. As a result, the Nobel Prize will be awarded.


After receiving the Nobel Prize, Zeeman runs a laboratory in Amsterdam, where he pursues research in electromagnetic optics. He is particularly studying the propagation of light in moving media, which is said to have been useful in the formation of relativity and was also appreciated by Lorenz and Einstein. By the way, considering these three people, in order of age
Lorenz (born 1853)
Zeeman (born 1865)
Einstein (born 1879)
It is the order of. Experimental facts will be established and the theory of relativity will be matured.


I think the great thing about Lorenz and Zeeman was the method of elucidating the structure of the sodium atom. It seems that the accumulation of experimental results, the setting of temporary settings, and the model of theory construction using all of them were methods that many scholars could utilize and reproduce after that. After that, the characteristics of other atoms will be revealed one after another.


2022年12月26日

W・C・ヴィーン
12/26改訂【黒体放射の研究ウィーンの法則の先駆者】

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W・C・ヴィーン【1864年1月13日生まれ ~ 1928年8月30日没】



その名を正確に記すとヴィルヘルム・カール・ヴェルナー・オットー・フリッツ・フランツ・ヴィーン:Wilhelm Carl Werner Otto Fritz Franz Wien


熱力学における黒体放射の研究で有名です。ヴィーンは東プロイセンで農夫の子として生まれ、ベルリン大学でヘルツの元で学位を取ります。そこでの学位論文は光の回析特性に関する論文でした。


その後ヴィーンはレントゲンの後任としてヴュルツブルク大学で教鞭をとっています。またヴィーンはドイツ物理学会で会長を努めていて、前任はゾンマーフェルトでした。

さて、今日までヴィーンの業績・人となりを
調べていて断片的な印象を持ってしまいました。
それだから、ヴィーンの「人柄」が伝えられないのです。
実際の性格もあるのでしょうが、考えてみてたら、
当時の時代背景も大きいと思えてきました。
ヴィーンはドイツで生まれドイツで亡くなっています。
その時代のヨーロッパでは大戦がありました。
特にドイツはユダヤ人を迫害し、
何人ものユダヤ人物理学者が
反ドイツの体制で活動していました。
ヴィーンが生きたのは、そんな時代なのです。


そんな時代にヴィーンはソルベーユ会議に出ていて
国を代表して物理学会に関わっていたでしょうが、
政治絡みの考えは他のメンバーと独自のものとなって
いたと考えられます。時節柄、修業を兼ねて他国へ
留学したり協同研究をしたりする環境とは
大きく異なっていたのでしょう。ドイツ帝国の人ですから。
ヴィーンは現代とは異なった環境に生きていたのです。



ヴィーンの業績について考えてみると、
ヴィーンの法則はプランクの法則の極限
として考える事が出来ます。この法則は
反応を起こす物質の温度と放出される
電磁波の波長を関連付けますが、
対象物質の内部構造迄、踏み込んだ議論
を垣間見る事は出来ません。現象の
不完全な定式化であって独自の理論です。


考えを進めさせて頂くと、
マッハとボルツマンの考え方の
対立も思い起こされます。

ソルベー会議に出席する中で
ヴィーンもまた従来の考え方を守る立場で、
伝統的な枠組みの中で葛藤していたのでしょうか。


はっきりと確定して言える内容に悩み、
使っている推論の妥当性に対して悩みます。
ミクロの現象に対するモデルが大きく変更される
時代に当事者達は大胆かつ慎重に
判断せねばならなかった筈です。
いつかまた考えてみたいと思っています。


それにつけても、
ヴィーンの法則は我々に新しい知見を
もたらしていて、物質内部での反応に対し
変化を定量的議論の枠組みに乗せて
次なる議論の礎を作っています。
確かな一歩でした。





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The exact name is Wilhelm Carl Werner Otto Fritz Franz Wien.


He is famous for his work on blackbody radiation in thermodynamics. Wien was born in East Prussia as a child of a farmer and holds a degree from Hertz at the University of Berlin. His bachelor's thesis there was a treatise on the diffractive properties of light. Wien has since taught at the University of Würzburg as a successor to Roentgen. Wien was also chairman of the German Physical Society, and his predecessor was Sommerfeld.


By the way, until today, I have been investigating Veen's achievements and personality, and I have a fragmentary impression. That is why Veen's "personality" cannot be conveyed. He may have an actual personality, but when I think about it, I think he has a big historical background at that time. Vein was born in Germany and died in Germany. There was a great war in Europe at that time. Germany, in particular, persecuted Jews, with a number of Jewish physicists operating in an anti-German regime. It was at that time that Veen lived.


At that time, Veen would have been involved in the Physical Society of Japan on behalf of the country at the Solbeille Conference, but it is probable that his political ideas were unique to the other members. Perhaps it was very different from the environment in which students study abroad or collaborate in research in other countries for the purpose of training. He is from the German Empire. Veen lived in a different environment than it is today.



Considering Wien's achievements


 

, Wien's law can be thought of as the limit of Planck's law. This law associates the temperature of the substance that causes the reaction with the wavelength of the emitted electromagnetic wave, but we cannot get a glimpse of the in-depth discussion of the internal structure of the target substance. It is an incomplete formulation of the phenomenon and is an original theory.


As I move forward, I also recall the conflict between Mach and Boltzmann's ideas. Was Veen also struggling within the traditional framework in attending the Solvay Conferences, in a position to uphold his traditional thinking? He is worried about what he can say clearly and definitely, and about the validity of the reasoning he is using. The parties would have had to make bold and careful decisions in an era when the model for microscopic phenomena changed drastically. I would like to think about it again someday.


Even so, Wien's law brings us new insights, laying the foundation for the next debate by putting changes in the reaction within matter within the framework of a quantitative debate. It was a solid step.



2022年12月25日

D・ヒルベルト‗12/25改訂【現代数学の父・高木貞治の師・そしてノイマンを評価】

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ダーヴィット・ヒルベルト【1862年1月23日 〜 1943年2月14日】


 

ヒルベルトの名前を英語でつづるとDavid Hilbertとなり
ドイツ語:でつづるとˈdaːvɪt ˈhɪlbɐtとなります。誰しもが認める
「現代数学の父」がヒルベルトです。遅ればせながら、
誰しもが認める大物をご紹介します。
ヒルベルトは当時プロイセン王国領だったケーニヒスベルク
(今はロシア領であるカリーニングラード)に生まれました。


ヒルベルトはケーニヒスベルク大学に進学し学びますが、この大学では別途、カントが(別の時代に)学び、学長を務めていたような歴史ある大学です。もともとドイツ騎士団だった人物が設置した大学で、第二次大戦後はソビエト連邦領として統治されていました。


記事を書いている2022年にはウクライナとロシアの紛争が続いていますがロシアの領土を巡る経緯は非常に根深いものがあると感じさせる地方です。思えば旧東ドイツも実質的にロシアの支配下あったとも言えます。


プロイセン王国ではありますが、後の時代には別の国であったような地方でヒルベルトは生まれ学びました。後に多彩な才能がヒルベルトを育てました。特にウェーバーはドイツ数学の影響をヒルベルトに与えたと言われています。


更に、同大学でヘルマン・ミンコフスキーとアドルフ・フルヴィッツと刺激を与えあう関係を持ちます。なかんずくミンコフスキーとは「最良にして、本当の友人」と感じるような関係を築きました。


またヒルベルトは偉大な数学者を多数、指導輩出しています。教育者として非常に優れています。ヒルベルトはゲッティンゲン大学で色々な人を指導していきました。


ゲッティンゲン大学に居た一人であるヨハネス・ルートヴィヒ・フォン・ノイマン(のちのジョン・フォン・ノイマン)の論文を評価していて、ノイマンは後に原子爆弾やコンピュータの開発で特筆される業績を残します。


また、後述する「ヒルベルト空間」の名付け親はノイマンだと言われています。「三次元ユークリッド空間」を発展させていったのです。ヒルベルトは当時22歳であったノイマンをゲッティンゲン大学に招いて育てたのです。


また日本人では東大の高木貞治がドイツ留学時代ヒルベルトの指導を受けたと言われています。思い返せば恐縮ながら、私も高木貞治の教科書を使っていたので、日本で数学を志す若者もヒルベルトの影響を受けていたのです。明文化すると少し感慨深いです。


ヒルベルトの業績で大きいと思えるのは数学概念の統合計画」と言える仕事だと思えます。それは不変式論、抽象代数学、代数的整数論、積分方程式、関数解析学、幾何学の公理系の研究、一般相対性理論などで個別にあった公理を整理して応用を考えました。


また現実の現象(人間の頭の中での認識群)との相関を考えた時に、多岐に及ぶ業績を「結びつける試み」であると思えます。
ヒルベルトの「公理論と数学的な整合性の証明」に関する一連の計画
はヒルベルト・プログラムと呼ばれ、現代で理解されています。


後にフォンノイマンも議論を続け、ヒルベルト空間と呼ぶ空間を3次元ミンコフスキー空間から発展させています。また、ヒルベルトの零点定理などに名前が残っています。


何よりヒルベルトはドイツの数学レベルを世界最高の水準ひきあげた数学者達の一人でした。一流の数学者でした。そんなヒルベルトは、晩年にナチスドイツによるユダヤ人迫害を目の当たりにしています。ドイツの数学研究所からユダヤ人たちが一人一人いなくなっていく様子に心を痛めていたそうです。



〆最後に〆




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(対応英訳)


Hilbert's name is spelled in English as David Hilbert and German: as ˈdaːvɪt ˈhɪlbɐt. The undisputed "father of modern mathematics" is Hilbert. I will introduce the big game that everyone recognizes, though it is late. Hilbert was born in Königsberg (now Russian territory Kaliningrad), which was then the Kingdom of Prussia.


Hilbert goes on to study at the University of Königsberg, which is a historic university where Kant studied (at another time) and was the president. The university was originally set up by a man who was the Teutonic Order, and was ruled as the Soviet Union territory after World War II. In 2022, when I wrote the article, the conflict between Ukraine and Russia continued, but it is a region that makes me feel that the history of Russia's territory is very deep-rooted. If you think about it, it can be said that the former East Germany was also under the control of Russia. Although it is the Kingdom of Prussia, Hilbert was born and learned in a region that would have been another country in later times. Later, various talents raised Hilbert. In particular, Weber is said to have influenced Hilbert with German mathematics. In addition, he has an inspiring relationship with Hermann Minkowski and Adolf Hurwitz at the university. Above all, he had a relationship with Minkowski that made him feel "best and true friend".


Hilbert has also produced many great mathematicians. He is very good as an educator. Hilbert taught various people at the University of Göttingen. He appreciates the paper of one of them, Johannes Ludwig von Neumann (later John von Neumann), who later made remarkable achievements in the development of atomic bombs and computers. In addition, it is said that Neumann is the godfather of "Hilbert space" described later. He developed the "three-dimensional Euclidean space". Hilbert invited Neumann, who was 22 at the time, to the University of Göttingen to raise him. It is said that Teiji Takagi of the University of Tokyo received guidance from Hilbert when he was studying in Germany. Looking back, I'm sorry to say that I also used Teiji Takagi's textbook, so young people who aspired to mathematics in Japan were also influenced by Hilbert. I am a little deeply moved when it is written.


What seems to be a big achievement of Hilbert is the work that can be said to be the integration plan of mathematical concepts. It is an invariant theory, abstract algebra, algebraic integer theory, integral equations, functional analysis, research on axioms of geometry, general relativity theory, etc. When considering the correlation with the phenomenon (recognition group in the human mind), it seems to be an "attempt to connect" a wide range of achievements. Hilbert's program, a series of plans for proof of mathematical consistency with Hilbert's public theory, is called the Hilbert Program and is understood today. Later, von Neumann continued his discussion, developing a space called Hilbert space from the three-dimensional Minkowski space. In addition, the name remains in Hilbert's zero point theorem.


Above all, Hilbert was one of the mathematicians who raised the level of mathematics in Germany to the highest level in the world. He was a leading mathematician. Hilbert witnessed the persecution of Jews by Nazi Germany in his later years. He was hurt by the disappearance of each Jew from the Deutsche Mathematics Institute.

2022年12月24日

Pキューリ_12/24改訂【ピエゾ効果等を研究して定式化した優れた実験家】

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ピエール・キューリ【1859年5月15日生まれ 〜 1906年4月19日没】



ピエール・キューリって有名


ご紹介するマダム・キューリの旦那様ですが、


調べていけばいくほど良い男です。


ピエールはフランスのパリに生まれましたが、


学校に行きたがらず、お医者だった


お父様や家庭教師等に勉強を


教えてもらって自宅で勉強していました。


特に数学で優秀さを発揮して、とりわけ幾何学で光る所を見せるようになっていき、16歳でパリ大学に入学します。そしてなんとピエールは18歳で学士号を得てしまいます。今の日本では現役学生が入学試験を受ける年齢ですね。びっくりです。ご家庭の事情で博士号習得はあきらめて物理研究室の助手として働きます。原子に対して知見が集まりつつあった未開の時代に数々の業績を残しています。


 

パリ大学鉱物学助手時代に圧電効果


圧電効果とピエゾ効果発見


ピエールは同じ大学の兄ジャックと協同研究進めます。水晶等の結晶に圧力差が生じた時に電位差が発生する現象を定理化して「圧電効果」または「ピエゾ効果」と呼ばれる法則を明確に定式化して、公表しました。更に、彼等はもう一つの現象も示します。水晶に電界を加えた時に形が変わるという現象を発表しましています。



現代の工業製品での応用


現在の工業製品ではこの応用である水晶振動子がデジタル回路で使われています。固有周波数を持つので時計やコンピュータの回路で時間(クロック)の基準となっているのです。


 

ピエールと磁性


ピエールは磁性に対して更に研究を進めています。その中で自差係数を計測するための精密なねじりばかりを使っていますが、その装置は後に精密計測で世界中の研究者に広く使われています。ピエール・キュリーは博士論文のテーマとして強磁性、常磁性、反磁性について研究をおこないました。特に常磁性への温度特性を「キュリーの法則」として定式化しています。。その式に出てくる物質固有の定数は「キュリー定数」と呼ばれています。更に強磁性体の磁性損失も明らかにしています。「キュリー点」です。キュリー天秤も作りました。沢山の業績を残していますね。


 

そんな沢山の成果をあげていましたが、


ピエールは薄給に甘んじ出世に興味をもたず教育功労勲章も断っていました。そんなピエールを外国では高く評価していて、1893年には英国のケルヴィン卿が訪問してきています。その後ピエールはポーランド人のマリア・スクウォドフスカ(後のキューリ夫人)と出逢い結婚しています。何度もピエールは恋文を送っていたようです。簡素な下宿で温かい時間を過ごしていました。その後は夫婦共同で放射性物質の研究をしていて、ポロニウムとラジウムを発見、放射能という用語の提案を行っています。そして遂にピエールは学生と共に核エネルギーを発見します。


原子核の遷移は熱を生んでいたのです。学生との発見は続き、アルファ線、ベータ線、ガンマ線を見付けています。それぞれの放射線の帯電特性に気付いた訳です。


 

こうした成果をピエールがあげていく中で、過度の研究の中でピエールの心身のダメージは徐々に蓄積していきました。リウマチの症状で毎晩ピエールは激痛に襲われて悲鳴をあげていたそうです。妻マリアとベクレルと共にノーベル物理学賞を受賞した際には体調不良で授賞式に出られませんでした。



そして運命の日が来ます。1906年4月19日木曜日です。


当時パリ大学教授になったばかりのピエールは昼食後2時半頃に目的地に徒歩で移動していました。パリの狭い道を多くの馬車が混走していました。道を渡り損ねた彼は馬車にひかれてしまい、頭蓋骨にひどいダメージを負って即死してしまうのです。一瞬の悲劇でした。フランスは宝を失います。


彼の死後に妻マリアは2度目のノーベル賞を得ています。また娘のイレーヌ・ジョリオ=キュリーとその夫で研究所の助手だったフレデリック・ジョリオ=キュリーも放射性元素の研究でノーベル賞を受賞しています。もう1人の娘エーヴは、母の伝記を書き残しました。孫の ヘレン ランジュバン ジョリオ はパリ大学の核物理学教授で、同じく孫の ピエール ジョリオ は生化学者です。


そして今ピエールとマリの魂はパリのパンテオンの


地下聖堂に眠ってます。他のフランスの産んだ


偉人達と共に。フランスの名誉と共に。


夫婦で深い安らかな眠りを続けています。




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(2021年9月時点での対応英訳)



Pierre Curie is the famous Madame Curie husband


, but the more you look up, the better he is.


Pierre was born in Paris, France, but he didn't want to go to school and was studying at home with his father, a doctor, and a tutor. He entered the University of Paris at the age of 16, especially as he demonstrated his excellence in mathematics, especially in geometry.


And Pierre gets his bachelor's degree at the age of 18. In Japan today, it's the age at which active students take entrance exams. That's surprising. Due to family circumstances, I give up my PhD and work as an assistant in the physics laboratory. He has made many achievements in the undeveloped era when knowledge about atoms was gathering.


He works with his brother Jack, who was also an assistant in mineralogy at the University of Paris. The phenomenon that a potential difference occurs when a pressure difference occurs in a crystal such as quartz is theoremized, and the law called "piezoelectric effect" or "piezo effect" is clarified and published. In addition, they show another phenomenon. We are announcing the phenomenon that the shape changes when an electric field is applied to the crystal. In current industrial products, this application, the crystal unit, is used in digital circuits. Since it has a unique frequency, it is the standard for time (clock) in clock and computer circuits.



Pierre is researching magnetism


 

. Among them, he uses only precision torsion to measure the deviation coefficient, but the device was later widely used by researchers all over the world for precision measurement.


Pierre Curie studied ferromagnetism, paramagnetism, and diamagnetism as the theme of his dissertation. He especially formulates the temperature characteristics for paramagnetism as "Curie's law". .. The substance-specific constants that appear in the formula are called the "Curie's constant". Furthermore, the magnetic loss of the ferromagnet is also clarified. It is a "Curie point". He also made a Curie balance. You have a lot of achievements.


Although he had achieved many such achievements, Pierre was content with a low salary and was not interested in his career and refused the Order of Educational Achievement. Such Pierre is highly evaluated in foreign countries, and in 1893, Sir Kelvin of England visited. Pierre then met and married the Polish Maria Squadovska (later Mrs. Curie).


Pierre seems to have sent a love letter many times. He had a warm time in a simple boarding house. After that, my husband and wife were jointly researching radioactive materials.


He discovered polonium and radium and proposed the term radioactivity. And finally Pierre discovers nuclear energy with his students. Nuclear transitions were producing heat. His discoveries with his students continued, finding alpha, beta, and gamma rays. I noticed the charging characteristics of each radiation.


As Pierre achieved these achievements, Pierre's physical and psychological damage gradually accumulated through his excessive research. Pierre was screaming every night because of the symptoms of rheumatism. When he won the Nobel Prize in Physics with his wives Maria and Becquerel, he was ill and could not attend the award ceremony.



And the day of his destiny will come.


It is Thursday, April 19, 1906. Pierre, who had just become a professor at the University of Paris at the time, was walking to his destination around 2:30 after lunch. He was crowded with many carriages on the narrow streets of Paris. He fails to cross the road and is run over by a carriage, causing terrible damage to his skull and dying instantly. It was a momentary tragedy. France loses treasure.


His wife Maria has won the Nobel Prize for the second time after his death. Her daughter, Irene Joliot-Curie, and her husband, an assistant at the institute, Frederick Jorio-Curie, have also won the Nobel Prize for her work on radioactive elements. Another daughter, Ave, wrote down her mother's biography. Her grandson her Helen her Langevin her Jorio is a professor of nuclear physics at the University of Paris, and her grandson her Pierre her Jorio is a biochemist.


And now the souls of Pierre and Mali are sleeping in the crypt of the Panthéon in Paris. With other great men from France. With the honor of France. The couple continues to sleep deeply and peacefully.