2022年06月14日
大鹿村 平家 行こうとしてたら雨になってしまった。
撮影2016年5月9日、7:44:40
駒ケ根市・伊那市・大鹿村の分岐となる峠です。南下すると大鹿村です。ここが、ゼロ地場という場所です。中央構造線という大断層の真上です。
今日は、私が生まれた場所に行って、1日見て回ろうかなと思っていました。だが、季節は梅雨で、雨が降ってきてしまった。
明日にしようか、これからでも行こうか・・・・と、30分もすれば峠を越えて着いてしまう。でも止めとくかな。雨が降っていると、遠くが見渡せない。
長野県下伊那郡大鹿村鹿塩(おおしかむら かしお)と読みます。平家の里として、語り継がれています。
この伊那谷は、奈良に王朝があった時代から、馬牧場として使われていました。木曽谷も馬牧場跡です。木曽駒ケ岳は東西に馬牧場跡です。駒ケ岳の「駒」は「馬」のことです。伊那谷の南にある大鹿谷・秋葉街道沿いも馬牧場でした。
この大鹿村は、平家の里と語り継がれ、平家の起こりは桓武平家と呼ばれる、桓武天皇の曾孫系ですね。桓武天皇の曾孫の高望親王が、皇室を出て臣籍降下となる折に、「平」姓を賜りました。この時に「たいら」平氏を名乗ります。
この平は、武装したことから、武士の起こりでもありました。武家・平高望(たいらのたかもち)の誕生です。
この後も、武家としての平は大きく分けても8つの流れに分かれます。平清盛・平将門も出て来ます。その後も別れに分かれて、現在も引き継がれております。
その1つの系統が、京都並河家・江戸並河家となって、その後もさらに分かれておりますが、連綿として受け継いでおります。その系統に私がおります。
平成13年5月北澤聡明氏謹書(鉛筆書きは私のメモ)
実は、この時代公家「平家」も同時に誕生しております。平氏は桓武天皇を始祖とする桓武平氏だけが残りましたが、桓武平氏の中でも平氏は大きく2つの流れに分かれます。平高棟(高棟王)の系統である「公家平氏(くげへいし)」と、平高望(高望王)の系統である「武家平氏(ぶけへいし)」です。平氏というと平将門や平清盛のような武家のイメージが強いと思いますが、公家の平氏も歴史上重要な役割を果たしています。桓武天皇の孫にあたる平高棟(高棟王)の子孫は京の公家(貴族)となりました。この公家になった平氏は堂上の資格(公家の中でも昇殿を許される家柄=公卿になれる家柄)を持ったことから「堂上平氏(どうじょうへいし)」と呼ばれるようになりました。
堂上平氏の中では平高棟自身が「正三位大納言」という高い役職に任じられただけでなく、その支流からも多くの有力者が輩出されました。平安時代後期になると時信の娘である時子(二位尼)が平清盛の室となって徳子を生み、徳子が高倉天皇の中宮となって安徳天皇の母となったのみならず、時子の妹滋子が後白河天皇の女御となって高倉天皇の母となるなど、高望流の子孫である平清盛一門(武家)と並ぶほど、公家としても繁栄したのです。西洞院・平松・長谷・交野・諸家に分立して明治時代まで続いていきました。時忠の子である時国の子孫は平家滅亡後に能登国(石川県能登半島)に流されますが、子孫は能登屈指の名家、時国家(ときくにけ)となります。
(青字部分の引用・参考 下記)
平氏と平家とは区別します。以下に詳細があります。
桓武平氏の子孫は今でも続く。平家が滅びた後の平氏の歴史。 | 家系図作成の家樹-Kaju- (ka-ju.co.jp)
撮影2016年5月9日、7:44:40
駒ケ根市・伊那市・大鹿村の分岐となる峠です。南下すると大鹿村です。ここが、ゼロ地場という場所です。中央構造線という大断層の真上です。
今日は、私が生まれた場所に行って、1日見て回ろうかなと思っていました。だが、季節は梅雨で、雨が降ってきてしまった。
明日にしようか、これからでも行こうか・・・・と、30分もすれば峠を越えて着いてしまう。でも止めとくかな。雨が降っていると、遠くが見渡せない。
長野県下伊那郡大鹿村鹿塩(おおしかむら かしお)と読みます。平家の里として、語り継がれています。
この伊那谷は、奈良に王朝があった時代から、馬牧場として使われていました。木曽谷も馬牧場跡です。木曽駒ケ岳は東西に馬牧場跡です。駒ケ岳の「駒」は「馬」のことです。伊那谷の南にある大鹿谷・秋葉街道沿いも馬牧場でした。
この大鹿村は、平家の里と語り継がれ、平家の起こりは桓武平家と呼ばれる、桓武天皇の曾孫系ですね。桓武天皇の曾孫の高望親王が、皇室を出て臣籍降下となる折に、「平」姓を賜りました。この時に「たいら」平氏を名乗ります。
この平は、武装したことから、武士の起こりでもありました。武家・平高望(たいらのたかもち)の誕生です。
この後も、武家としての平は大きく分けても8つの流れに分かれます。平清盛・平将門も出て来ます。その後も別れに分かれて、現在も引き継がれております。
その1つの系統が、京都並河家・江戸並河家となって、その後もさらに分かれておりますが、連綿として受け継いでおります。その系統に私がおります。
平成13年5月北澤聡明氏謹書(鉛筆書きは私のメモ)
実は、この時代公家「平家」も同時に誕生しております。平氏は桓武天皇を始祖とする桓武平氏だけが残りましたが、桓武平氏の中でも平氏は大きく2つの流れに分かれます。平高棟(高棟王)の系統である「公家平氏(くげへいし)」と、平高望(高望王)の系統である「武家平氏(ぶけへいし)」です。平氏というと平将門や平清盛のような武家のイメージが強いと思いますが、公家の平氏も歴史上重要な役割を果たしています。桓武天皇の孫にあたる平高棟(高棟王)の子孫は京の公家(貴族)となりました。この公家になった平氏は堂上の資格(公家の中でも昇殿を許される家柄=公卿になれる家柄)を持ったことから「堂上平氏(どうじょうへいし)」と呼ばれるようになりました。
堂上平氏の中では平高棟自身が「正三位大納言」という高い役職に任じられただけでなく、その支流からも多くの有力者が輩出されました。平安時代後期になると時信の娘である時子(二位尼)が平清盛の室となって徳子を生み、徳子が高倉天皇の中宮となって安徳天皇の母となったのみならず、時子の妹滋子が後白河天皇の女御となって高倉天皇の母となるなど、高望流の子孫である平清盛一門(武家)と並ぶほど、公家としても繁栄したのです。西洞院・平松・長谷・交野・諸家に分立して明治時代まで続いていきました。時忠の子である時国の子孫は平家滅亡後に能登国(石川県能登半島)に流されますが、子孫は能登屈指の名家、時国家(ときくにけ)となります。
(青字部分の引用・参考 下記)
平氏と平家とは区別します。以下に詳細があります。
桓武平氏の子孫は今でも続く。平家が滅びた後の平氏の歴史。 | 家系図作成の家樹-Kaju- (ka-ju.co.jp)
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