2017年05月02日
儒と 私と 関西と 縁
前回、京都並河家の誠所が江戸に出て、独立して近藤家を起こして水戸藩御典医となる。と書きました。念のために家系図を読むと、誠(誠所)は、京都並河の長男で京都並河家を継いで、その末裔が今日に京都におります。
江戸に近藤家を起こして独立したのは、2男の永(ひさし)でした。その時4男の尚義(なおよし)も江戸に出て、江戸並河家(医家)として独立したとありました。なので、水戸藩江戸屋敷御典医となり、医家近藤家の始祖となったのは2男の永
ということになります。以後6代、幕末まで仕えたのでした。
京都並河家を継ぐ長男の誠所は、大阪の学問所懐徳堂の講師として招かれ、享保11年(1726)10月から半年間務めたとあります。この懐徳堂は、大阪の商人たちが「学問は武士だけのものではない」として、力を合わせて設立したもの
です。設立は享保9年ですから、設立間もないころです。。この時の定書には「書生の交わりは、貴賤富貴を論ぜず、同輩と為すべき事」という言葉があり、その後もこの方針は守られました。
この、大阪懐徳堂に祖先の足跡を見た私は、駒ケ根で私を随分贔屓にしてくれることになる、平栗氏も大阪出身であることに想いを巡らすのでした。氏は、2重床のトップメーカーとして見事な会社を創り上げた方です。
その祖父は、日本で最初に特許登録が認められた「製品を造った」大阪の企業人でした。父に当たる方は残念なことに早逝しております。平栗氏は、現在認知症になってしまい、第一線を退いております。その氏の母方を辿ると、氏の祖母
に当たる方は、養命酒蔵創家の塩沢家に嫁いでいます。私が経営者時代に、養命酒と取引が始まると随分喜んで頂いたものです。氏と御縁の始まりは私がまだ20歳前のボウやの頃でした。そのころから、なぜか私を離さないのでした。
氏の会社を辞めても、次の会社を紹介してくれるのは平栗氏です。私は何社か氏の案内で会社を移るのですが、入社試験というものを受けたことがないのです。そんなもの要らないのでした。定年退職の年齢に達する頃には、また氏の
会社に入社して定年を向えることになるのでした。つづきます。
江戸に近藤家を起こして独立したのは、2男の永(ひさし)でした。その時4男の尚義(なおよし)も江戸に出て、江戸並河家(医家)として独立したとありました。なので、水戸藩江戸屋敷御典医となり、医家近藤家の始祖となったのは2男の永
ということになります。以後6代、幕末まで仕えたのでした。
京都並河家を継ぐ長男の誠所は、大阪の学問所懐徳堂の講師として招かれ、享保11年(1726)10月から半年間務めたとあります。この懐徳堂は、大阪の商人たちが「学問は武士だけのものではない」として、力を合わせて設立したもの
です。設立は享保9年ですから、設立間もないころです。。この時の定書には「書生の交わりは、貴賤富貴を論ぜず、同輩と為すべき事」という言葉があり、その後もこの方針は守られました。
この、大阪懐徳堂に祖先の足跡を見た私は、駒ケ根で私を随分贔屓にしてくれることになる、平栗氏も大阪出身であることに想いを巡らすのでした。氏は、2重床のトップメーカーとして見事な会社を創り上げた方です。
その祖父は、日本で最初に特許登録が認められた「製品を造った」大阪の企業人でした。父に当たる方は残念なことに早逝しております。平栗氏は、現在認知症になってしまい、第一線を退いております。その氏の母方を辿ると、氏の祖母
に当たる方は、養命酒蔵創家の塩沢家に嫁いでいます。私が経営者時代に、養命酒と取引が始まると随分喜んで頂いたものです。氏と御縁の始まりは私がまだ20歳前のボウやの頃でした。そのころから、なぜか私を離さないのでした。
氏の会社を辞めても、次の会社を紹介してくれるのは平栗氏です。私は何社か氏の案内で会社を移るのですが、入社試験というものを受けたことがないのです。そんなもの要らないのでした。定年退職の年齢に達する頃には、また氏の
会社に入社して定年を向えることになるのでした。つづきます。
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