2017年11月04日
いよいよ 来たヨ 始まったな 改憲の 地ならし 世論づくり
今度の政権は「改憲」を挙げてくる。まるで事前に世論を高めたいのか?下記の記事があつた。自国の領土が侵されそうであれば、素早く自衛隊を派遣して侵入を防げばいい。こういう時は、遅いと侵される。素早くしなければ価値がなくなる。
その位は今のままでも十分行動できる。そうしておいて、絶対平和主義を標榜して、戦争はしない。この位の芸当ができなくてどうする。しっかりしなよ・役人も政治家も。
崩れた米1強 海図なき安全保障
2017/11/4 7:00日本経済新聞 電子版
平成における日本の安全保障政策は、はじめから明確な海図があり、その通りに歩んだわけではない。押し寄せる危機の波に押され、日米同盟を立て直し、防衛体制を強めざるを得なかったのだ。その流れはさらに強まっている。
■尖閣問題、首相がひそかに指示
毎月中国の監視船がやってきて、領海への侵入が繰り返される尖閣諸島。2012年に日本が尖閣を国有化してから、中国からの挑発が強まり、緊張が高まっている。
側近によると、この問題で、安倍晋三首相はひそかに周辺にこんな趣旨の指示を出しているという。
尖閣諸島で何かあった時、いちばんやってはいけないのは米国に駆け込み「助けてください」と頼むことだ。まず自分たちで守ろうとしなければ米国も助けてはくれない――。
米国の支援が当てにならないわけではない。オバマ前政権は、日米安全保障条約は尖閣にも適用されると明言。トランプ大統領も2月、安倍首相との共同記者会見で、同じ立場を表明している。
それでも安倍首相がそうした指示を出すのは、米国一極支配の秩序が崩れるなか、米国におんぶに抱っこだけでは、日本の防衛が成り立たなくなってきたからだ。
■湾岸戦争の挫折
平成に入ってまもない1990年8月、日本をかつてない試練が襲った。イラクがクウェートに侵攻し、湾岸危機が勃発したのだ。
ブッシュ大統領(父親)から、海部俊樹首相に緊急の電話が入った。「自衛隊の掃海艇を中東に派遣してもらえないか」。国連の多国籍軍による作戦への支援を求めてきたのだった。専守防衛の原則から戦後、日本は自衛隊を海外に送ったことはない。強い要請に押され、海部政権は新法を制定して派遣にこぎつけようとするが、頓挫。91年の開戦となる。ようやく掃海艇をペルシャ湾に送ったのは、停戦後のことだ。
代わりに、日本は多国籍軍のために各国で最高の130億ドルを拠出した。だが、戦争終結後、クウェートが米紙に載せた約30カ国への感謝広告には、日本の名はなかった。多国籍軍に参加しなかったからだ。
このできごとは関係者に深い敗北感を刻印した。当時、外務省で安全保障政策室長を務め、対応に当たった森本敏氏もそのひとりだ。
「日本は湾岸戦争で莫大な資金を出したが、ほとんど評価されず、血を流す覚悟がない国と批判された。安保政策にかかわる人は誰でも、そのときの思いを抱えている。日本は多くの原油を中東に頼っており、いま思えば、当然の国際常識だった」
森本氏はこれを機に安全保障のプロを志すことを決意し、外務省を去る。そして民主党政権下の12年、防衛相に就き同盟の強化に努めた。
湾岸戦争での挫折を教訓に始まったのが、国連平和維持活動(PKO)への参加だ。日本は平和のために汗も流す。そんな姿勢を世界に示すためだ。ただ「紛争当事者間の停戦合意」などを条件とし戦闘地域には自衛隊を送らないようにしてきた。
■海を渡った自衛隊
日本にとり、次に大きな転機になったのが01年9月の米同時テロだ。
米国は報復としてアフガニスタンに開戦した。小泉純一郎首相はこれをすかさず支持、インド洋に自衛艦を送り、米軍への給油活動に踏み切った。戦闘中の米軍に自衛隊が後方支援するのは初めてだ。小泉政権は03年のイラク戦争でも米国の開戦を支持し、戦後の復興を助けるため陸上自衛隊を送った。
イラク開戦支持の是非をめぐっては、なお評価が分かれる。その一方で、小泉氏の行動はブッシュ大統領(息子)との結束をさらに強め、日米同盟は戦後最良ともいわれる「黄金期」を迎えた。当時、駐米大使だった加藤良三氏は振り返る。
「当時、フランス、ドイツといった国々が開戦に反対するなか、米国を支援する日本の存在感がとても目立った。大統領、副大統領、国務・国防長官といった要人との距離が近かった。彼らは日本を一種のトランキライザー(精神安定剤)だと思っていたような気がする」
だが、蜜月は長くは続かない。民主党の鳩山政権が09年に発足すると、沖縄の米軍普天間基地で日米はぶつかり、亀裂を深めた。
安倍氏は12年末、首相に返り咲くと同盟の立て直しに動き、米軍支援を大きく広げる安全保障関連法を制定、16年3月末に施行した。限定的とはいえ、日本は戦後初めて集団的自衛権を行使できる国になった。
突きつめれば平成とは、海外への自衛隊派遣の制限が、徐々に取り払われていった時代だった。日本はその分、自衛隊を「何に、どこまで」送るのか、より明確な判断基準を持たなければならない。
■米を組み込み、多国間協力網を
世界各地で戦争や危機が絶えないなか、日本が戦後、平和と安定を保ってこられたのは米国との同盟があったからにほかならない。
だが、同盟は生き物に似ていて、環境の変化に合わせて姿を進化させられなければ、生命を保つことができない。激動の平成史が物語るのは、まさにこの点だ。
では、今後も日米安保体制を保ち、日本の防衛に役立てるために、平成の教訓をどう生かせばよいのか。まずは米国の国力が相対的に下がり、もはや独力では「世界の警察」を担い切れなくなっている現実を直視することだ。
91年の湾岸戦争や03年のイラク戦争でも、米国は日本の貢献を期待した。ただ、当時の米政府当局者によると、日本に望んだのは、いわば、同盟国としての「心意気」を示すことに主眼があった。
「ショー・ザ・フラッグ(日の丸の旗を見せてほしい)」。米同時テロ後のアフガン開戦に先立ち、米政府高官は日本側にこう協力を促した。この言葉にも、そんな意味合いが込められている。
裏返せば、仮に日本などの支援を得られなくても、必要なら米国には単独で軍事行動する体力と気力があったといえる。
だが、そうした時代は終わりつつある。台頭する中国との国力差が縮まるなか、米国がアジアの平和と安定を守るには、日本やオーストラリア、韓国といった同盟国との協力をさらに深めるしかない。これは北朝鮮危機への対応にも当てはまる。
日米同盟を足場に、オーストラリアや韓国だけでなく、インドや東南アジアの友好国にも呼びかけ、域内に多国間の安全保障協力網を育てていく。そこに米国を組み込み、秩序を保つ――。
こんな構想を描き、実現に向けて各国と連携することが、日本に求められる役割だ。その成否がアジア太平洋の安定も左右する。(秋田浩之)
お主も 腹黒よ のオー まっ黒ヤンケ ちっとなおしなはれッ はいこれ ドヤネン
その位は今のままでも十分行動できる。そうしておいて、絶対平和主義を標榜して、戦争はしない。この位の芸当ができなくてどうする。しっかりしなよ・役人も政治家も。
崩れた米1強 海図なき安全保障
2017/11/4 7:00日本経済新聞 電子版
平成における日本の安全保障政策は、はじめから明確な海図があり、その通りに歩んだわけではない。押し寄せる危機の波に押され、日米同盟を立て直し、防衛体制を強めざるを得なかったのだ。その流れはさらに強まっている。
■尖閣問題、首相がひそかに指示
毎月中国の監視船がやってきて、領海への侵入が繰り返される尖閣諸島。2012年に日本が尖閣を国有化してから、中国からの挑発が強まり、緊張が高まっている。
側近によると、この問題で、安倍晋三首相はひそかに周辺にこんな趣旨の指示を出しているという。
尖閣諸島で何かあった時、いちばんやってはいけないのは米国に駆け込み「助けてください」と頼むことだ。まず自分たちで守ろうとしなければ米国も助けてはくれない――。
米国の支援が当てにならないわけではない。オバマ前政権は、日米安全保障条約は尖閣にも適用されると明言。トランプ大統領も2月、安倍首相との共同記者会見で、同じ立場を表明している。
それでも安倍首相がそうした指示を出すのは、米国一極支配の秩序が崩れるなか、米国におんぶに抱っこだけでは、日本の防衛が成り立たなくなってきたからだ。
■湾岸戦争の挫折
平成に入ってまもない1990年8月、日本をかつてない試練が襲った。イラクがクウェートに侵攻し、湾岸危機が勃発したのだ。
ブッシュ大統領(父親)から、海部俊樹首相に緊急の電話が入った。「自衛隊の掃海艇を中東に派遣してもらえないか」。国連の多国籍軍による作戦への支援を求めてきたのだった。専守防衛の原則から戦後、日本は自衛隊を海外に送ったことはない。強い要請に押され、海部政権は新法を制定して派遣にこぎつけようとするが、頓挫。91年の開戦となる。ようやく掃海艇をペルシャ湾に送ったのは、停戦後のことだ。
代わりに、日本は多国籍軍のために各国で最高の130億ドルを拠出した。だが、戦争終結後、クウェートが米紙に載せた約30カ国への感謝広告には、日本の名はなかった。多国籍軍に参加しなかったからだ。
このできごとは関係者に深い敗北感を刻印した。当時、外務省で安全保障政策室長を務め、対応に当たった森本敏氏もそのひとりだ。
「日本は湾岸戦争で莫大な資金を出したが、ほとんど評価されず、血を流す覚悟がない国と批判された。安保政策にかかわる人は誰でも、そのときの思いを抱えている。日本は多くの原油を中東に頼っており、いま思えば、当然の国際常識だった」
森本氏はこれを機に安全保障のプロを志すことを決意し、外務省を去る。そして民主党政権下の12年、防衛相に就き同盟の強化に努めた。
湾岸戦争での挫折を教訓に始まったのが、国連平和維持活動(PKO)への参加だ。日本は平和のために汗も流す。そんな姿勢を世界に示すためだ。ただ「紛争当事者間の停戦合意」などを条件とし戦闘地域には自衛隊を送らないようにしてきた。
■海を渡った自衛隊
日本にとり、次に大きな転機になったのが01年9月の米同時テロだ。
米国は報復としてアフガニスタンに開戦した。小泉純一郎首相はこれをすかさず支持、インド洋に自衛艦を送り、米軍への給油活動に踏み切った。戦闘中の米軍に自衛隊が後方支援するのは初めてだ。小泉政権は03年のイラク戦争でも米国の開戦を支持し、戦後の復興を助けるため陸上自衛隊を送った。
イラク開戦支持の是非をめぐっては、なお評価が分かれる。その一方で、小泉氏の行動はブッシュ大統領(息子)との結束をさらに強め、日米同盟は戦後最良ともいわれる「黄金期」を迎えた。当時、駐米大使だった加藤良三氏は振り返る。
「当時、フランス、ドイツといった国々が開戦に反対するなか、米国を支援する日本の存在感がとても目立った。大統領、副大統領、国務・国防長官といった要人との距離が近かった。彼らは日本を一種のトランキライザー(精神安定剤)だと思っていたような気がする」
だが、蜜月は長くは続かない。民主党の鳩山政権が09年に発足すると、沖縄の米軍普天間基地で日米はぶつかり、亀裂を深めた。
安倍氏は12年末、首相に返り咲くと同盟の立て直しに動き、米軍支援を大きく広げる安全保障関連法を制定、16年3月末に施行した。限定的とはいえ、日本は戦後初めて集団的自衛権を行使できる国になった。
突きつめれば平成とは、海外への自衛隊派遣の制限が、徐々に取り払われていった時代だった。日本はその分、自衛隊を「何に、どこまで」送るのか、より明確な判断基準を持たなければならない。
■米を組み込み、多国間協力網を
世界各地で戦争や危機が絶えないなか、日本が戦後、平和と安定を保ってこられたのは米国との同盟があったからにほかならない。
だが、同盟は生き物に似ていて、環境の変化に合わせて姿を進化させられなければ、生命を保つことができない。激動の平成史が物語るのは、まさにこの点だ。
では、今後も日米安保体制を保ち、日本の防衛に役立てるために、平成の教訓をどう生かせばよいのか。まずは米国の国力が相対的に下がり、もはや独力では「世界の警察」を担い切れなくなっている現実を直視することだ。
91年の湾岸戦争や03年のイラク戦争でも、米国は日本の貢献を期待した。ただ、当時の米政府当局者によると、日本に望んだのは、いわば、同盟国としての「心意気」を示すことに主眼があった。
「ショー・ザ・フラッグ(日の丸の旗を見せてほしい)」。米同時テロ後のアフガン開戦に先立ち、米政府高官は日本側にこう協力を促した。この言葉にも、そんな意味合いが込められている。
裏返せば、仮に日本などの支援を得られなくても、必要なら米国には単独で軍事行動する体力と気力があったといえる。
だが、そうした時代は終わりつつある。台頭する中国との国力差が縮まるなか、米国がアジアの平和と安定を守るには、日本やオーストラリア、韓国といった同盟国との協力をさらに深めるしかない。これは北朝鮮危機への対応にも当てはまる。
日米同盟を足場に、オーストラリアや韓国だけでなく、インドや東南アジアの友好国にも呼びかけ、域内に多国間の安全保障協力網を育てていく。そこに米国を組み込み、秩序を保つ――。
こんな構想を描き、実現に向けて各国と連携することが、日本に求められる役割だ。その成否がアジア太平洋の安定も左右する。(秋田浩之)
お主も 腹黒よ のオー まっ黒ヤンケ ちっとなおしなはれッ はいこれ ドヤネン
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