臼杵神社(うすきじんじゃ)は、大分県臼杵市大字稲田字林西平に鎮座する神社である。
概要
通称は「臼塚さま」。大友時代臼杵五社の一つ。臼塚古墳の後円部を社殿敷地とし、境内には、舟形石棺2基及び短甲形石人2基がある。
祭神
少彦名命、大己貴命、菅原神。
このうち菅原神は、明治9年(1876年)、同市大字稲田字天神に鎮座していた天満社を合併したものである。境内社として、稲荷神社1社(祭神:倉稲魂命)がある。
例祭
古文献類では、6月19日及び11月19日とされているが、現在では、4月第2日曜日及び12月19日近日曜日である。例祭で奉納される獅子舞は、寛政7年(1795年)に始まったものである。
境内
臼塚古墳(前方後円墳)をすべて境内としている。後円部には、社殿と船形石棺2基がある。また、拝殿前(前方・後円の接続部)に、短甲形石人2基(重要文化財)があったが、現在は、境内整備により、鳥居付近に移動されている。
なお、この短甲形石人については、臼と杵を模ったように見えることから、現在の「臼杵」の名の由来であるとする説がある。
歴史
天孫降臨の際に臼と杵を降ろした地とする口承があるが、文保2年(1318年)、託宣により創建されたといい、初めは「臼塚大明神」と称した。
享保14年11月19日(1730年1月7日)「臼杵大明神」と社名を改称し、寛政7年(1795年)に獅子舞が始められ、文化8年(1811年)、神道講釈を開催。天保2年(1831年)と同5年(1834年)には臼杵領内神主20家による湯立神楽が奉納され、安政元年(1854年)、安政南海地震により、境内の石燈が倒壊。
明治9年(1876年)12月、同市大字稲田字天神に鎮座していた天満社1社を合併し、「稲田神社」と社名を改称。大正11年(1920年)、氏子らに社名復旧の動きがあり、「臼杵神社」と社名を改称した。
文化財
重要文化財
短甲形石人 2箇(重要文化財指定名称は「石甲」)
交通アクセス
JR日豊本線 熊崎駅下車、徒歩15分。
所在地 大分県臼杵市大字稲田字林西平131番地
位置 北緯33度8分36.6秒 東経131度47分10.3秒
主祭神 少彦名命
大己貴命
菅原神
社格等 旧村社
創建 文保2年(1318年)
札所等 臼杵五社
例祭 4月第2日曜日・12月19日直近の日曜日
2023年06月24日
2023年06月23日
内子座(うちこざ)は、愛媛県喜多郡内子町の重要伝統的建造物群保存地区「八日市護国」の近くにある芝居小屋
内子座(うちこざ)は、愛媛県喜多郡内子町の重要伝統的建造物群保存地区「八日市護国」の近くにある芝居小屋。1916年(大正5年)に大正天皇の即位を祝い、内子町の有志によって建設された。1982年に内子町指定有形文化財に指定。その後、1983年から1985年にかけて往時の姿に復元する工事が実施された。2015年に国の重要文化財に指定された。
沿革
明治末から大正にかけて内子の町が木蝋や生糸などの生産で栄えていた頃、地元の人々の娯楽の場として発案され、大正天皇の即位を祝して地元有志の出資により創建された。農閑期に歌舞伎や文楽、後に映画や落語なども演じられた。その後昭和40年代にはホール的に活用されていたが、老朽化により取り壊されようとしていた。しかしながら、町並み保存地区に近接していることもあり、まちづくりの核として活用していくべきとの町民からの要望により復原された。文楽のほか、各種講演やまちづくりの会合等に活用されている。
年表
1915年(大正4年)2月 - 中田鹿太郎ほか17名の発起人により「大典記念株式会社内子座」設立
1915年(大正4年)8月 - 着工
1916年(大正5年)2月 - 落成式。
以後、歌舞伎や人形芝居、映画、演説会会場等として利用
1950年(昭和25年) - 一階桝席の座を撤去し椅子式に改造、映画館的色彩を強める。
1967年(昭和42年)3月 - 会社解散、内山商工会に所有が移る
1967年(昭和42年)5月 - 商工会館として使用するため、両桟敷及び二階桟敷撤去を含めた大改造。
以後、主に商工会館、映画・演劇会場としてホール的に使われる
1982年(昭和57年)9月 - 内山商工会から内子町に寄付
1982年(昭和57年)9月 - 内子町が有形文化財として指定
1983年(昭和58年)3月 - 内子地区旧市街地を中心に愛媛県指定文化の里「木蝋と白壁の町並み」となる。
1983年(昭和58年)10月 - 文化の里の一環として第一次内子座復元事業に着手
1985年(昭和60年)9月 - 復原事業完成
1985年(昭和60年)10月 - 町民の浄財と篤志家の寄付により内部設備を充実。こけら落しを行う。
1995年(平成7年)10月 - 第二期整備事業完成。奈落、迫の改修、照明・音響器具・設備の改修により、内子座文楽などの規模の大きな興行に対応可能となる。
2015年(平成27年)7月 - 国の重要文化財に指定。
改修
内子町では2020年から改修のための調査を実施しており、2022年度末に調査結果が明らかになる予定である。2023年秋頃から約4年間改修のために閉館となる予定であるが、閉館時期や改修期間は調査結果を踏まえて決定されることになっている。
施設概要
木造2階建て瓦葺き入母屋造り
収容人員 650名
敷地 302坪
建築面積 1階177坪、3階65坪、計242坪
主要設備
枡席
廻り舞台
奈落
すっぽん
用途 芝居小屋
建築主 大典記念株式会社
管理運営 大典記念株式会社→内山商工会→内子町
構造形式 木造
敷地面積 302坪
延床面積 1階177坪、3階65坪、計242坪
階数 地上2階
着工 1915年
竣工 1916年2月
開館開所 1916年2月
所在地 〒791-3301
愛媛県喜多郡内子町内子2102
座標 北緯33度33分5.2秒 東経132度39分0.7秒
文化財 国の重要文化財
指定・登録等日 2015年7月8日
備考 枡席、廻り舞台、奈落、すっぽん設備あり
沿革
明治末から大正にかけて内子の町が木蝋や生糸などの生産で栄えていた頃、地元の人々の娯楽の場として発案され、大正天皇の即位を祝して地元有志の出資により創建された。農閑期に歌舞伎や文楽、後に映画や落語なども演じられた。その後昭和40年代にはホール的に活用されていたが、老朽化により取り壊されようとしていた。しかしながら、町並み保存地区に近接していることもあり、まちづくりの核として活用していくべきとの町民からの要望により復原された。文楽のほか、各種講演やまちづくりの会合等に活用されている。
年表
1915年(大正4年)2月 - 中田鹿太郎ほか17名の発起人により「大典記念株式会社内子座」設立
1915年(大正4年)8月 - 着工
1916年(大正5年)2月 - 落成式。
以後、歌舞伎や人形芝居、映画、演説会会場等として利用
1950年(昭和25年) - 一階桝席の座を撤去し椅子式に改造、映画館的色彩を強める。
1967年(昭和42年)3月 - 会社解散、内山商工会に所有が移る
1967年(昭和42年)5月 - 商工会館として使用するため、両桟敷及び二階桟敷撤去を含めた大改造。
以後、主に商工会館、映画・演劇会場としてホール的に使われる
1982年(昭和57年)9月 - 内山商工会から内子町に寄付
1982年(昭和57年)9月 - 内子町が有形文化財として指定
1983年(昭和58年)3月 - 内子地区旧市街地を中心に愛媛県指定文化の里「木蝋と白壁の町並み」となる。
1983年(昭和58年)10月 - 文化の里の一環として第一次内子座復元事業に着手
1985年(昭和60年)9月 - 復原事業完成
1985年(昭和60年)10月 - 町民の浄財と篤志家の寄付により内部設備を充実。こけら落しを行う。
1995年(平成7年)10月 - 第二期整備事業完成。奈落、迫の改修、照明・音響器具・設備の改修により、内子座文楽などの規模の大きな興行に対応可能となる。
2015年(平成27年)7月 - 国の重要文化財に指定。
改修
内子町では2020年から改修のための調査を実施しており、2022年度末に調査結果が明らかになる予定である。2023年秋頃から約4年間改修のために閉館となる予定であるが、閉館時期や改修期間は調査結果を踏まえて決定されることになっている。
施設概要
木造2階建て瓦葺き入母屋造り
収容人員 650名
敷地 302坪
建築面積 1階177坪、3階65坪、計242坪
主要設備
枡席
廻り舞台
奈落
すっぽん
用途 芝居小屋
建築主 大典記念株式会社
管理運営 大典記念株式会社→内山商工会→内子町
構造形式 木造
敷地面積 302坪
延床面積 1階177坪、3階65坪、計242坪
階数 地上2階
着工 1915年
竣工 1916年2月
開館開所 1916年2月
所在地 〒791-3301
愛媛県喜多郡内子町内子2102
座標 北緯33度33分5.2秒 東経132度39分0.7秒
文化財 国の重要文化財
指定・登録等日 2015年7月8日
備考 枡席、廻り舞台、奈落、すっぽん設備あり
2023年06月22日
如庵(じょあん)は、愛知県犬山市の有楽苑にある茶室
如庵(じょあん)は、愛知県犬山市の有楽苑にある茶室である。
概要
昭和47年(1972年)に、名古屋鉄道によって現在地に移築された。国宝指定は昭和26年(1951年)。この如庵という名称は、一説によれば庵主織田有楽斎のクリスチャンネーム「Joan」または「Johan」から付けられたという。なお、有楽斎はこれより前に如庵の名を持つ茶室を大坂天満屋敷にも好んで(造って)おり、同じ有楽苑内に「元庵」の名で復元されている。現在は見学不可。
歴史
元和4年(1618年)に、織田信長の弟・織田有楽斎によって、京都・建仁寺の塔頭・正伝院が再興された際に建造された茶室である。明治6年(1873年)に正伝院は永源庵跡地に移転したが、その際に、祇園町の有志に払い下げられた。明治41年(1908年)に東京の三井本邸に移築された。この際、解体せず原型のまま車両に積んで東海道を東京まで運搬したのは、京都の数寄屋大工平井家4代竹次郎である。三井の重役で、著名な茶人の益田孝がこれを愛用した。
昭和11年(1936年)に重要文化財(旧国宝)に指定された。その後、昭和13年(1938年)に、三井高棟によって神奈川県中郡大磯の別荘に移築された[注釈 2]。移築時には茶室の周りに袴付、寄付、前後軒、待合、腰掛待合、管理所が設置された。
昭和47年(1972年)に、名古屋鉄道によって堀口捨己の指揮の下で現在地に移築されている。昭和26年(1951年)に文化財保護法による国宝に指定されている。
構成
正面左側に袖壁を持つ土間庇を設け、右躙り口、正面控えの間(扈従の間)へのアプローチとする。躙り口入って左側奥に四尺の出床、その右手やや奥に勝手からの入り口。茶道口と給仕口を兼ねるこの勝手口からは給仕の動線に沿って斜行する壁を立て足元には三角形の板畳「鱗板(うろこいた)」を敷く。ナグリの床柱はそのチョウナの目痕に武家らしい剛直さを感じさせるが決して粗野ではない。勝手口から入ったところの台目畳が亭主座。横に道庫。床の間は亭主の右手後方に位置することになるが、出床にしたため距離的には離れない。亭主座の風炉先に中柱を立て板壁で仕切っている。中柱と板壁で風炉先にある相伴席の半畳を亭主畳と区切るとともに下部は丸く切り欠いて吹き通しにして相伴者の視線への配慮もぬかりない。鱗板とともに異例の構成であるが不合理性は感じられず、「利休七哲とは別格」といわれる有楽斎の並々ならぬ技量を示す。二畳の小間と違ってゆとりがありかつ緊張感を失わない室内空間は、「二畳半、一畳半は客を苦しめるに似たり」と言い切った如庵・有楽斎の面目躍如と言うべきだろう。篠竹を打ち詰めた「有楽窓」、古暦を腰に貼った「暦張り」も有名。前庇下の室内は勾配そのままに化粧軒裏の掛け込み天井になっていて中央には突き上げ窓が穿たれている。壁面にはつごう5カ所の窓が設けられているが、ひとつは袖壁のある土間庇に向けられているし、南側の二箇所は通常直射日光を嫌って光量は押さえられるし、さらに東壁の二箇所は竹を詰め打ちにした有楽窓であるから、光量としては十分とは言えない。しかし室のほぼ中央に設けられた突き上げ窓からの光がこれを補って余りある。むしろ周囲の窓からの光量を絞り込むことにより天窓からの光の効果をより劇的なものにしている。現代的な視点からこの茶室を眺めてみても、そこに貫かれている合理性はほとんど完璧なものと言っていい。勝手の間は三畳、炉と水屋を備える。無双窓はしっかりとした造作でここにも有楽斎の武人らしい好みが反映されている。
総じて端正で利休の草庵茶室とは一線を画しており「武家の節度」を感じさせる名席中の名席。各地に写しの茶席が残る。別名「暦張りの席」。
Layout of Jo-an teahouse Chashitsu 茶室, Mizuya 水屋, Rōka no ma 廊下の間, Nijiri guchi躙り口, Musō mado無双窓, Renji mado 連子窓, Shitaji mado 下地窓, Uraku mado 有楽窓, Dōko 洞庫, Ro 炉, Maru ro 丸炉, Toko 床, Shoin 書院
概要
昭和47年(1972年)に、名古屋鉄道によって現在地に移築された。国宝指定は昭和26年(1951年)。この如庵という名称は、一説によれば庵主織田有楽斎のクリスチャンネーム「Joan」または「Johan」から付けられたという。なお、有楽斎はこれより前に如庵の名を持つ茶室を大坂天満屋敷にも好んで(造って)おり、同じ有楽苑内に「元庵」の名で復元されている。現在は見学不可。
歴史
元和4年(1618年)に、織田信長の弟・織田有楽斎によって、京都・建仁寺の塔頭・正伝院が再興された際に建造された茶室である。明治6年(1873年)に正伝院は永源庵跡地に移転したが、その際に、祇園町の有志に払い下げられた。明治41年(1908年)に東京の三井本邸に移築された。この際、解体せず原型のまま車両に積んで東海道を東京まで運搬したのは、京都の数寄屋大工平井家4代竹次郎である。三井の重役で、著名な茶人の益田孝がこれを愛用した。
昭和11年(1936年)に重要文化財(旧国宝)に指定された。その後、昭和13年(1938年)に、三井高棟によって神奈川県中郡大磯の別荘に移築された[注釈 2]。移築時には茶室の周りに袴付、寄付、前後軒、待合、腰掛待合、管理所が設置された。
昭和47年(1972年)に、名古屋鉄道によって堀口捨己の指揮の下で現在地に移築されている。昭和26年(1951年)に文化財保護法による国宝に指定されている。
構成
正面左側に袖壁を持つ土間庇を設け、右躙り口、正面控えの間(扈従の間)へのアプローチとする。躙り口入って左側奥に四尺の出床、その右手やや奥に勝手からの入り口。茶道口と給仕口を兼ねるこの勝手口からは給仕の動線に沿って斜行する壁を立て足元には三角形の板畳「鱗板(うろこいた)」を敷く。ナグリの床柱はそのチョウナの目痕に武家らしい剛直さを感じさせるが決して粗野ではない。勝手口から入ったところの台目畳が亭主座。横に道庫。床の間は亭主の右手後方に位置することになるが、出床にしたため距離的には離れない。亭主座の風炉先に中柱を立て板壁で仕切っている。中柱と板壁で風炉先にある相伴席の半畳を亭主畳と区切るとともに下部は丸く切り欠いて吹き通しにして相伴者の視線への配慮もぬかりない。鱗板とともに異例の構成であるが不合理性は感じられず、「利休七哲とは別格」といわれる有楽斎の並々ならぬ技量を示す。二畳の小間と違ってゆとりがありかつ緊張感を失わない室内空間は、「二畳半、一畳半は客を苦しめるに似たり」と言い切った如庵・有楽斎の面目躍如と言うべきだろう。篠竹を打ち詰めた「有楽窓」、古暦を腰に貼った「暦張り」も有名。前庇下の室内は勾配そのままに化粧軒裏の掛け込み天井になっていて中央には突き上げ窓が穿たれている。壁面にはつごう5カ所の窓が設けられているが、ひとつは袖壁のある土間庇に向けられているし、南側の二箇所は通常直射日光を嫌って光量は押さえられるし、さらに東壁の二箇所は竹を詰め打ちにした有楽窓であるから、光量としては十分とは言えない。しかし室のほぼ中央に設けられた突き上げ窓からの光がこれを補って余りある。むしろ周囲の窓からの光量を絞り込むことにより天窓からの光の効果をより劇的なものにしている。現代的な視点からこの茶室を眺めてみても、そこに貫かれている合理性はほとんど完璧なものと言っていい。勝手の間は三畳、炉と水屋を備える。無双窓はしっかりとした造作でここにも有楽斎の武人らしい好みが反映されている。
総じて端正で利休の草庵茶室とは一線を画しており「武家の節度」を感じさせる名席中の名席。各地に写しの茶席が残る。別名「暦張りの席」。
Layout of Jo-an teahouse Chashitsu 茶室, Mizuya 水屋, Rōka no ma 廊下の間, Nijiri guchi躙り口, Musō mado無双窓, Renji mado 連子窓, Shitaji mado 下地窓, Uraku mado 有楽窓, Dōko 洞庫, Ro 炉, Maru ro 丸炉, Toko 床, Shoin 書院
タグ:国宝・如庵(じょあん)
2023年06月21日
旧小原家住宅(きゅうおばらけじゅうたく)は、岩手県花巻市東和町に所在する江戸時代の建築物
旧小原家住宅(きゅうおばらけじゅうたく)は、岩手県花巻市東和町に所在する江戸時代の建築物。重要文化財に指定されている。
概要
明確な資料がなく、由緒及び住宅の建築年代とも明らかではないが、平面や構造手法からみて18世紀中頃と推定される。建物は曲り家で、突出部が非常に小さく、曲り家として古い形態といえる。平面は他の曲り家と大差ないが、外回りに壁が多く、構造上では上屋柱の省略が少なく、柱の太いことが目立つ。古い時期に直家から曲り家に改造されたもので、発生過程を窺うことのできる貴重な遺構である。1969年(昭和44年)12月18日に重要文化財指定を受け、1975年(昭和50年)に所有者から東和町(当時、現・花巻市)が寄贈され、現在地に移築された。
建築
桁行16.3m、梁間9.6m、寄棟造、茅葺。南面突出部桁行5.6m、梁間4.8m。
交通アクセス
釜石線土沢駅または晴山駅よりタクシーで約10分
釜石自動車道東和インターチェンジより車15分
用途 住宅
管理運営 花巻市総合文化財センター
所在地 〒028-0122
岩手県花巻市東和町谷内6-37
座標 北緯39度20分57.6秒 東経141度16分21秒
文化財 重要文化財
指定・登録等日 1969年12月18日
概要
明確な資料がなく、由緒及び住宅の建築年代とも明らかではないが、平面や構造手法からみて18世紀中頃と推定される。建物は曲り家で、突出部が非常に小さく、曲り家として古い形態といえる。平面は他の曲り家と大差ないが、外回りに壁が多く、構造上では上屋柱の省略が少なく、柱の太いことが目立つ。古い時期に直家から曲り家に改造されたもので、発生過程を窺うことのできる貴重な遺構である。1969年(昭和44年)12月18日に重要文化財指定を受け、1975年(昭和50年)に所有者から東和町(当時、現・花巻市)が寄贈され、現在地に移築された。
建築
桁行16.3m、梁間9.6m、寄棟造、茅葺。南面突出部桁行5.6m、梁間4.8m。
交通アクセス
釜石線土沢駅または晴山駅よりタクシーで約10分
釜石自動車道東和インターチェンジより車15分
用途 住宅
管理運営 花巻市総合文化財センター
所在地 〒028-0122
岩手県花巻市東和町谷内6-37
座標 北緯39度20分57.6秒 東経141度16分21秒
文化財 重要文化財
指定・登録等日 1969年12月18日
2023年06月20日
旧飛田家住宅(きゅうとびたけじゅうたく)は茨城県古河市古河総合公園内にある歴史的建造物
旧飛田家住宅(きゅうとびたけじゅうたく)は茨城県古河市古河総合公園内にある歴史的建造物。
概要
元は常陸太田市(旧久慈郡金砂郷村)岩手にあった飛田徳有氏所有、18世紀前半の曲屋形式農家建築である。昭和43年(1968年)、国の重要文化財に指定され、昭和50年(1975年)、現在地に移築された。
周辺情報
古河街角美術館
古河総合公園
古河公方館
旧中山家住宅
古河城跡
古河文学館
古河歴史博物館
鷹見泉石記念館
篆刻美術館
永井路子旧宅
交通アクセス
JR東北本線古河駅下車バス・車10分
東北自動車道久喜インターチェンジより約30分
所在地 茨城県古河市鴻巣1024
位置 北緯36度10分35.02秒 東経139度42分5.79秒
旧所在地 茨城県常陸太田市金砂郷
類型 農家
形式・構造 木造、曲屋形式寄棟造、茅葺
延床面積 142.46平方メートル
建築年 江戸時代中期(18世紀前半)
文化財 国の重要文化財
所在施設・区域 古河総合公園
概要
元は常陸太田市(旧久慈郡金砂郷村)岩手にあった飛田徳有氏所有、18世紀前半の曲屋形式農家建築である。昭和43年(1968年)、国の重要文化財に指定され、昭和50年(1975年)、現在地に移築された。
周辺情報
古河街角美術館
古河総合公園
古河公方館
旧中山家住宅
古河城跡
古河文学館
古河歴史博物館
鷹見泉石記念館
篆刻美術館
永井路子旧宅
交通アクセス
JR東北本線古河駅下車バス・車10分
東北自動車道久喜インターチェンジより約30分
所在地 茨城県古河市鴻巣1024
位置 北緯36度10分35.02秒 東経139度42分5.79秒
旧所在地 茨城県常陸太田市金砂郷
類型 農家
形式・構造 木造、曲屋形式寄棟造、茅葺
延床面積 142.46平方メートル
建築年 江戸時代中期(18世紀前半)
文化財 国の重要文化財
所在施設・区域 古河総合公園
2023年06月19日
三内丸山遺跡(さんないまるやまいせき)は、青森県青森市大字三内字丸山にある、縄文時代前期中頃から中期末葉(約5900-4200年前)の大規模集落跡
三内丸山遺跡(さんないまるやまいせき)は、青森県青森市大字三内字丸山にある、縄文時代前期中頃から中期末葉(約5900-4200年前)の大規模集落跡。沖館川右岸の河岸段丘上に立地する。1997年3月5日、国の特別史跡に指定。2021年7月27日、国際連合教育科学文化機関により、「北海道・北東北の縄文遺跡群」として世界文化遺産に登録された。遺跡には住居群、倉庫群のほか、シンボル的な3層の掘立柱建物が再現されており、資料や出土品の展示施設「縄文時遊館」もある。青森県教育庁三内丸山遺跡センターが継続的に発掘調査を行っている。
三内丸山遺跡
遺跡保存の経緯
この地に遺跡が存在することは江戸時代から既に知られていた。山崎立朴が弘前藩の諸事情を記した『永禄日記』(えいろくにっき、館野越本)の元和九年(1623年)正月二日条に多量の土偶が出土したことが記録されているほか、菅江真澄の紀行文『栖家の山』(すみかのやま)の寛政八年(1796年)四月十四日条に、三内の村の古い堰が崩れた場所から、瓦や甕、土偶のような破片が見つかったことが記録されている。
本格的な調査は新しい県営野球場を建設する事前調査として1992年から行われた。その結果、この遺跡が大規模な集落跡とみられることが分かり、1994年には直径約1メートルの栗の柱が6本見つかり、大型建物の跡とも考えられた。 これを受け同年、県では既に着工していた野球場建設を中止し、遺跡の保存を決定した。
その後、資料館を作って整備を行い、1996年には六本柱建物跡においては湿度を一定に保った保存ドームを作り、柱の現物は他の場所に保存しレプリカを代わりに元の場所に置くなどの措置を行った。また、墓の道の遺構が非常に長く延びていることが分かったため都市計画道路も建設を中止した。
翡翠製大珠(縄文時遊館展示)
遺跡の概要
八甲田山から続く緩やかな丘陵の先端に位置し、標高は約20メートルで、遺跡は約40ヘクタールの広大な範囲に広がっている。集落は住居、墓、捨て場、大型掘立柱建物、掘立柱建物、貯蔵穴、墓・土坑墓、粘土採掘穴、盛り土、道路などが、計画的に配置されている。
この遺跡は現在の敷地から、広場を囲むように住居が造られた環状集落であると見られることもあるが、住居が非同心円状に機能別に配置されているところから見て、それとは異なる形式であると考えられる。現在の遺跡の環状構造はかつて野球場建設の際、その敷地が円形であった跡であり、遺跡とは関係ないものである。
遺跡には、通常の遺跡でも見られる竪穴建物、高床倉庫の他に、大型竪穴建物が10棟以上、約780軒にもおよぶ建物跡、さらに祭祀用に使われたと思われる大型掘立柱建物が存在したと想定されている。また、他の遺跡に比べて土偶の出土が多く、板のように薄く造られていて板状土偶と呼ばれる。次の縄文後期や晩期の立体的に体の各部を表現した土偶とは大きく異なっている。
遺跡から出土した栗をDNA鑑定したところ、それが栽培されていたものであることなども分かった。多数の堅果類(クリ、クルミ、トチなど)の殻、さらには一年草のエゴマ、ヒョウタン、ゴボウ、マメなどといった栽培植物も出土した。三内丸山の人たちは、自然の恵みの採取活動のみに依存せず、集落の周辺に堅果類の樹木を多数植栽しており、一年草を栽培していた可能性も考えられる。このことを通してこの遺跡の居住者数は数百人と考える事ができる。平成6年(1994年)9月に青森市で開催された「北のまほろばシンポジュウム」では最盛期の縄文時代中期後半には500人の居住者がいたのではないかとの発言があったが、異論も出た。
それらは縄文時代の文化が従来考えられていたものよりも進んだものであることを示すものであった。遺跡は他の近くの遺跡に繋がっている可能性が高く、未だに全容は把握しきれていない。
六本柱建物(復元)
大型竪穴建物(復元)
大型竪穴建物の内部
遺跡整備の方針
1998年に遺跡整備の基本計画が取りまとめられ、遺跡整備の基本方針として以下の点が掲げられた。
保存を検討しながら実物遺構を公開展示する。
建物の復元だけでなく、植生も復元する。
縄文時代を体験・体感できるような企画性に富んだ遺跡の活用をする。
見学者が憩い楽しめるような環境作りと、充実した各種サービスを提供できる場とする。
継続的な調査・研究を行い、縄文文化研究の拠点となる施設と体制を整備する。
保存・活用の計画を段階的に推進する。
年間イベント
縄文春祭り:平成26年5月3日〜5月6日 三内丸山遺跡/縄文時遊館
縄文夏祭り:平成26年8月9日・10日、8月16日・17日 三内丸山遺跡/縄文時遊館
縄文秋祭り:平成26年10月25日・26日 三内丸山遺跡/縄文時遊館
縄文冬祭り:平成29年2月11日・12日 三内丸山遺跡/縄文時遊館
アクセス
東北自動車道青森ICもしくは青森自動車道青森中央ICから国道7号青森環状道路経由で青森市道都市計画道路3・4・15号里見丸山線[15]に入ってすぐ。
東日本旅客鉄道(JR東日本)・北海道旅客鉄道(JR北海道)新青森駅からあおもりシャトルdeルートバス「ねぶたん号」で終点「三内丸山遺跡前」バス停下車。
JR東日本・青い森鉄道青森駅から青森市営バス三内丸山遺跡線で「三内丸山遺跡」バス停下車。
高床建物
所在地 青森県青森市大字三内字丸山
座標 北緯40度48分41秒 東経140度41分48秒
種類 遺跡
歴史
時代 縄文時代
管理者 青森県
文化財指定 国特別史跡(2000年指定)
三内丸山遺跡
遺跡保存の経緯
この地に遺跡が存在することは江戸時代から既に知られていた。山崎立朴が弘前藩の諸事情を記した『永禄日記』(えいろくにっき、館野越本)の元和九年(1623年)正月二日条に多量の土偶が出土したことが記録されているほか、菅江真澄の紀行文『栖家の山』(すみかのやま)の寛政八年(1796年)四月十四日条に、三内の村の古い堰が崩れた場所から、瓦や甕、土偶のような破片が見つかったことが記録されている。
本格的な調査は新しい県営野球場を建設する事前調査として1992年から行われた。その結果、この遺跡が大規模な集落跡とみられることが分かり、1994年には直径約1メートルの栗の柱が6本見つかり、大型建物の跡とも考えられた。 これを受け同年、県では既に着工していた野球場建設を中止し、遺跡の保存を決定した。
その後、資料館を作って整備を行い、1996年には六本柱建物跡においては湿度を一定に保った保存ドームを作り、柱の現物は他の場所に保存しレプリカを代わりに元の場所に置くなどの措置を行った。また、墓の道の遺構が非常に長く延びていることが分かったため都市計画道路も建設を中止した。
翡翠製大珠(縄文時遊館展示)
遺跡の概要
八甲田山から続く緩やかな丘陵の先端に位置し、標高は約20メートルで、遺跡は約40ヘクタールの広大な範囲に広がっている。集落は住居、墓、捨て場、大型掘立柱建物、掘立柱建物、貯蔵穴、墓・土坑墓、粘土採掘穴、盛り土、道路などが、計画的に配置されている。
この遺跡は現在の敷地から、広場を囲むように住居が造られた環状集落であると見られることもあるが、住居が非同心円状に機能別に配置されているところから見て、それとは異なる形式であると考えられる。現在の遺跡の環状構造はかつて野球場建設の際、その敷地が円形であった跡であり、遺跡とは関係ないものである。
遺跡には、通常の遺跡でも見られる竪穴建物、高床倉庫の他に、大型竪穴建物が10棟以上、約780軒にもおよぶ建物跡、さらに祭祀用に使われたと思われる大型掘立柱建物が存在したと想定されている。また、他の遺跡に比べて土偶の出土が多く、板のように薄く造られていて板状土偶と呼ばれる。次の縄文後期や晩期の立体的に体の各部を表現した土偶とは大きく異なっている。
遺跡から出土した栗をDNA鑑定したところ、それが栽培されていたものであることなども分かった。多数の堅果類(クリ、クルミ、トチなど)の殻、さらには一年草のエゴマ、ヒョウタン、ゴボウ、マメなどといった栽培植物も出土した。三内丸山の人たちは、自然の恵みの採取活動のみに依存せず、集落の周辺に堅果類の樹木を多数植栽しており、一年草を栽培していた可能性も考えられる。このことを通してこの遺跡の居住者数は数百人と考える事ができる。平成6年(1994年)9月に青森市で開催された「北のまほろばシンポジュウム」では最盛期の縄文時代中期後半には500人の居住者がいたのではないかとの発言があったが、異論も出た。
それらは縄文時代の文化が従来考えられていたものよりも進んだものであることを示すものであった。遺跡は他の近くの遺跡に繋がっている可能性が高く、未だに全容は把握しきれていない。
六本柱建物(復元)
大型竪穴建物(復元)
大型竪穴建物の内部
遺跡整備の方針
1998年に遺跡整備の基本計画が取りまとめられ、遺跡整備の基本方針として以下の点が掲げられた。
保存を検討しながら実物遺構を公開展示する。
建物の復元だけでなく、植生も復元する。
縄文時代を体験・体感できるような企画性に富んだ遺跡の活用をする。
見学者が憩い楽しめるような環境作りと、充実した各種サービスを提供できる場とする。
継続的な調査・研究を行い、縄文文化研究の拠点となる施設と体制を整備する。
保存・活用の計画を段階的に推進する。
年間イベント
縄文春祭り:平成26年5月3日〜5月6日 三内丸山遺跡/縄文時遊館
縄文夏祭り:平成26年8月9日・10日、8月16日・17日 三内丸山遺跡/縄文時遊館
縄文秋祭り:平成26年10月25日・26日 三内丸山遺跡/縄文時遊館
縄文冬祭り:平成29年2月11日・12日 三内丸山遺跡/縄文時遊館
アクセス
東北自動車道青森ICもしくは青森自動車道青森中央ICから国道7号青森環状道路経由で青森市道都市計画道路3・4・15号里見丸山線[15]に入ってすぐ。
東日本旅客鉄道(JR東日本)・北海道旅客鉄道(JR北海道)新青森駅からあおもりシャトルdeルートバス「ねぶたん号」で終点「三内丸山遺跡前」バス停下車。
JR東日本・青い森鉄道青森駅から青森市営バス三内丸山遺跡線で「三内丸山遺跡」バス停下車。
高床建物
所在地 青森県青森市大字三内字丸山
座標 北緯40度48分41秒 東経140度41分48秒
種類 遺跡
歴史
時代 縄文時代
管理者 青森県
文化財指定 国特別史跡(2000年指定)
2023年06月18日
康楽館(こうらくかん)は、秋田県鹿角郡小坂町にある小坂町立の芝居小屋
康楽館(こうらくかん)は、秋田県鹿角郡小坂町にある小坂町立の芝居小屋。建物は国の重要文化財である。旧金毘羅大芝居(香川県仲多度郡琴平町)や永楽館(兵庫県豊岡市)とともに、日本最古級の劇場の一つとして知られる。2011年(平成23年)に指定管理者制度を導入し、町の直営から第三セクター企業小坂まちづくり株式会社の管理に移行した。
沿革
1910年(明治43年) - 小坂鉱山の厚生施設として誕生。杮落としは大阪歌舞伎の尾上松鶴一座の公演であった。
1970年(昭和45年) - 建物の老朽化やカラーテレビが普及したことにより、舞台演劇が衰退し、いったん一般興行が休止となる。
1986年(昭和61年) - 秋田県指定有形文化財に指定。同年7月2日再開館。初の常設公演は大江戸つるぎ太鼓。
2002年(平成14年)5月23日 - 国の重要文化財に指定された(小坂鉱山事務所も同日付で指定)。
2022年(令和4年)12月12日 - 秋田県の「未来に伝えたい秋田のインフラ50選」に康楽館(建築物)が選出される。
概要
木造2階建、切妻造妻入りで、屋根は銅板葺(当初は杉板葺)とする。平面規模は正面約28.2メートル、奥行約38.2メートル。小坂鉱山を経営していた合名会社藤田組によって建てられたもので、棟札により明治43年(1910年)の建築であることが判明する。設計者は小坂鉱山工作課営繕掛長の山本辰之助とされる。
下見板張りの白塗り、上げ下げ式窓と鋸歯状の軒飾りが並び洋館風の外観を持つ一方、桟敷、花道、切穴など典型的な和風芝居小屋の内装で、和洋折衷の造りが特徴である。
移築や復元を行わず、現在も利用されている和洋折衷の木造芝居小屋として最古である。当館より9年古い1901年(明治34年)築の永楽館は、2008年(平成20年)に創建時への復元工事をして再利用されている。現存する日本最古の劇場である1835年(天保6年)築の旧金毘羅大芝居は、1972年から1976年にかけて移築復元されている。
歌舞伎大芝居などの特別な公演がある日と休館日(年末年始のみ)以外は常設公演の有無に関わらず施設内を見学でき、特に12月から3月の舞台が空いている場合に限り、舞台を回す体験などができる。
アクセス
JR奥羽本線大館駅より、秋北バスの路線バス「小坂操車場ゆき」に乗車し「小坂町」下車。
JR花輪線鹿角花輪駅・十和田南駅より、秋北バスの路線バス「小坂操車場ゆき」に乗車し「小坂町」下車。
東北自動車道高速バス「小坂バスストップ」より、徒歩15〜20分程度。
用途 芝居小屋
設計者 山本辰之助
建築主 藤田組
事業主体 小坂町[1]
管理運営 小坂まちづくり株式会社(指定管理者)
構造形式 木造
建築面積 767.93 m2
延床面積 1,097.25 m2
階数 地上2階、一部地下1階
着工 1909年
竣工 1910年8月13日
開館開所 1910年8月16日
所在地 〒017-0202
秋田県鹿角郡小坂町小坂鉱山字松ノ下2
座標 北緯40度19分35.61秒 東経140度44分42.60秒
文化財 重要文化財
指定・登録等日 2002年(平成14年)5月23日
沿革
1910年(明治43年) - 小坂鉱山の厚生施設として誕生。杮落としは大阪歌舞伎の尾上松鶴一座の公演であった。
1970年(昭和45年) - 建物の老朽化やカラーテレビが普及したことにより、舞台演劇が衰退し、いったん一般興行が休止となる。
1986年(昭和61年) - 秋田県指定有形文化財に指定。同年7月2日再開館。初の常設公演は大江戸つるぎ太鼓。
2002年(平成14年)5月23日 - 国の重要文化財に指定された(小坂鉱山事務所も同日付で指定)。
2022年(令和4年)12月12日 - 秋田県の「未来に伝えたい秋田のインフラ50選」に康楽館(建築物)が選出される。
概要
木造2階建、切妻造妻入りで、屋根は銅板葺(当初は杉板葺)とする。平面規模は正面約28.2メートル、奥行約38.2メートル。小坂鉱山を経営していた合名会社藤田組によって建てられたもので、棟札により明治43年(1910年)の建築であることが判明する。設計者は小坂鉱山工作課営繕掛長の山本辰之助とされる。
下見板張りの白塗り、上げ下げ式窓と鋸歯状の軒飾りが並び洋館風の外観を持つ一方、桟敷、花道、切穴など典型的な和風芝居小屋の内装で、和洋折衷の造りが特徴である。
移築や復元を行わず、現在も利用されている和洋折衷の木造芝居小屋として最古である。当館より9年古い1901年(明治34年)築の永楽館は、2008年(平成20年)に創建時への復元工事をして再利用されている。現存する日本最古の劇場である1835年(天保6年)築の旧金毘羅大芝居は、1972年から1976年にかけて移築復元されている。
歌舞伎大芝居などの特別な公演がある日と休館日(年末年始のみ)以外は常設公演の有無に関わらず施設内を見学でき、特に12月から3月の舞台が空いている場合に限り、舞台を回す体験などができる。
アクセス
JR奥羽本線大館駅より、秋北バスの路線バス「小坂操車場ゆき」に乗車し「小坂町」下車。
JR花輪線鹿角花輪駅・十和田南駅より、秋北バスの路線バス「小坂操車場ゆき」に乗車し「小坂町」下車。
東北自動車道高速バス「小坂バスストップ」より、徒歩15〜20分程度。
用途 芝居小屋
設計者 山本辰之助
建築主 藤田組
事業主体 小坂町[1]
管理運営 小坂まちづくり株式会社(指定管理者)
構造形式 木造
建築面積 767.93 m2
延床面積 1,097.25 m2
階数 地上2階、一部地下1階
着工 1909年
竣工 1910年8月13日
開館開所 1910年8月16日
所在地 〒017-0202
秋田県鹿角郡小坂町小坂鉱山字松ノ下2
座標 北緯40度19分35.61秒 東経140度44分42.60秒
文化財 重要文化財
指定・登録等日 2002年(平成14年)5月23日
2023年06月17日
菅生石部神社(すごういそべじんじゃ)は、石川県加賀市大聖寺敷地にある神社
菅生石部神社(すごういそべじんじゃ)は、石川県加賀市大聖寺敷地にある神社。式内社、加賀国二宮で、旧社格は国幣小社。現在は神社本庁の別表神社。通称を「敷地天神」・「菅生天神」とも。
菅生石部神社 拝殿
祭神
現在の祭神は「菅生石部神」となっており、これは天津日高日子穗穗出見命、豐玉毘賣命、鵜葺草葺不合命の三柱の総称としている。
祭神については諸説あり、少彦名神とする説もある。菅生石部神の本体三柱も、元は祭神の諸説の一つであった。
歴史
社伝によれば、用明天皇元年(585年)、この地で疾病が流行したとき、宮中で祀られていた菅生石部神が勧請されたのに始まるという。延喜式神名帳では小社に列し、加賀国二宮とされた。古来より朝廷・武門からの崇敬が篤く、天慶3年には正四位下の神階が授けられた。『平家物語』巻七には、木曾義仲が当社へ「のみ(野美)の庄」を寄進したとの記述がある。中世には、一帯は北野天満宮の社領となっていた。「天神」の通称はそこからきたものであり、現在もその名残で境内に牛の像が残っている。
明治29年(1896年)に国幣小社に昇格した。
京都の敷地神社(わら天神)は、当社からの勧請と伝える。
本殿
歴史
社伝によれば、用明天皇元年(585年)、この地で疾病が流行したとき、宮中で祀られていた菅生石部神が勧請されたのに始まるという。延喜式神名帳では小社に列し、加賀国二宮とされた。古来より朝廷・武門からの崇敬が篤く、天慶3年には正四位下の神階が授けられた。『平家物語』巻七には、木曾義仲が当社へ「のみ(野美)の庄」を寄進したとの記述がある。中世には、一帯は北野天満宮の社領となっていた。「天神」の通称はそこからきたものであり、現在もその名残で境内に牛の像が残っている。
明治29年(1896年)に国幣小社に昇格した。
京都の敷地神社(わら天神)は、当社からの勧請と伝える。
鳥居
祭事
毎年2月10日の例祭では、「竹わりまつり」の異名を持つ御願神事(ごんがんしんじ)が行われる。御願神事は1987年に石川県指定無形民俗文化財となる。
文化財
重要文化財(国指定)
蒔絵角赤手箱(附 文章1巻)(工芸品) - 東京国立博物館寄託。1900年(明治33年)4月7日指定。
正親町天皇宸翰御詠草 永禄四年八月十五日夜三条西公条点(書跡・典籍) - 石川県立美術館寄託。1900年(明治33年)4月7日指定。
石川県指定文化財
無形民俗文化財
御願神事 - 1987年(昭和62年)3月23日指定。
神門(加賀市指定文化財)
所在地 石川県加賀市大聖寺敷地ル乙81
位置 北緯36度18分46.95秒 東経136度19分14.94秒
主祭神 菅生石部神
社格等 式内社(小)
加賀国二宮
旧国幣小社
別表神社
創建 (伝)用明天皇元年(585年)
本殿の様式 流造
例祭 2月10日
菅生石部神社 拝殿
祭神
現在の祭神は「菅生石部神」となっており、これは天津日高日子穗穗出見命、豐玉毘賣命、鵜葺草葺不合命の三柱の総称としている。
祭神については諸説あり、少彦名神とする説もある。菅生石部神の本体三柱も、元は祭神の諸説の一つであった。
歴史
社伝によれば、用明天皇元年(585年)、この地で疾病が流行したとき、宮中で祀られていた菅生石部神が勧請されたのに始まるという。延喜式神名帳では小社に列し、加賀国二宮とされた。古来より朝廷・武門からの崇敬が篤く、天慶3年には正四位下の神階が授けられた。『平家物語』巻七には、木曾義仲が当社へ「のみ(野美)の庄」を寄進したとの記述がある。中世には、一帯は北野天満宮の社領となっていた。「天神」の通称はそこからきたものであり、現在もその名残で境内に牛の像が残っている。
明治29年(1896年)に国幣小社に昇格した。
京都の敷地神社(わら天神)は、当社からの勧請と伝える。
本殿
歴史
社伝によれば、用明天皇元年(585年)、この地で疾病が流行したとき、宮中で祀られていた菅生石部神が勧請されたのに始まるという。延喜式神名帳では小社に列し、加賀国二宮とされた。古来より朝廷・武門からの崇敬が篤く、天慶3年には正四位下の神階が授けられた。『平家物語』巻七には、木曾義仲が当社へ「のみ(野美)の庄」を寄進したとの記述がある。中世には、一帯は北野天満宮の社領となっていた。「天神」の通称はそこからきたものであり、現在もその名残で境内に牛の像が残っている。
明治29年(1896年)に国幣小社に昇格した。
京都の敷地神社(わら天神)は、当社からの勧請と伝える。
鳥居
祭事
毎年2月10日の例祭では、「竹わりまつり」の異名を持つ御願神事(ごんがんしんじ)が行われる。御願神事は1987年に石川県指定無形民俗文化財となる。
文化財
重要文化財(国指定)
蒔絵角赤手箱(附 文章1巻)(工芸品) - 東京国立博物館寄託。1900年(明治33年)4月7日指定。
正親町天皇宸翰御詠草 永禄四年八月十五日夜三条西公条点(書跡・典籍) - 石川県立美術館寄託。1900年(明治33年)4月7日指定。
石川県指定文化財
無形民俗文化財
御願神事 - 1987年(昭和62年)3月23日指定。
神門(加賀市指定文化財)
所在地 石川県加賀市大聖寺敷地ル乙81
位置 北緯36度18分46.95秒 東経136度19分14.94秒
主祭神 菅生石部神
社格等 式内社(小)
加賀国二宮
旧国幣小社
別表神社
創建 (伝)用明天皇元年(585年)
本殿の様式 流造
例祭 2月10日
2023年06月16日
仁科神明宮(にしなしんめいぐう)は、長野県大町市大字社字宮本にある神社
仁科神明宮(にしなしんめいぐう)は、長野県大町市大字社字宮本にある神社。天照大神を奉祀している。1872年(明治5年)より郷社、1876年(明治9年)より府県社、1893年(明治26年)より県社となる。
歴史
古来、安曇郡一帯は諏訪神社と穂高神社との力が交々深く及んでいた地方であるが、神明宮に関する限り、創祀以来御祭神は御一座のままである。神明宮の創祀は皇大神宮御領であった仁科御厨の鎮護のため、仁科氏によって伊勢神宮内宮が勧請されたことに基いている。1192年(建久3年)8月、二所大神宮神主が職事の仰せによって神領の仔細を注進したものを編輯した「皇大神宮建久己下古文書」によれば、当時信濃国には僅かに麻績(東筑摩郡麻績村)・長田(長野市若穂)・藤長(長野市篠ノ井)及び仁科の四御厨しか現存せず、しかも仁科に限り「件御厨往古建立也、度々被下宣旨、所停止御厨内濫行也」と注記し、当時既にその創建の年次が不明であったと述べており、信濃で最古の御厨と推定される。信濃国内の御厨は後世の立荘も含めて全て伊勢神宮領であった。
神宮雑例集の記事によれば、信濃に初めて神戸が封ぜられたのは後冷泉天皇の1048年(永承3年)12月のことであるから、御厨の建立はそれ以後とみられる。国司から荘園整理の干渉を受けたが、宣旨により内宮の御厨となった。
その一方で、仁科氏は御厨以外の自領を荘園として開発し、仁科荘を成立させた。承久の乱において仁科盛遠が、後鳥羽上皇の帷握に参じ奉り、越中礪波山の戦いに戦死してから、所領は一旦幕府に没収するところとなり、改めて後堀河天皇の父・守貞親王に奉献されたのであるが、親王はこれを皇女式乾門院に譲り、門院は更に後堀河天皇の第一皇女室町院に伝え、仁科荘は室町院領となった。『神鳳鈔』に見える仁科御厨の領域はわずか40町で、安曇郡矢原御厨の1691町と比べれば遥かに狭小であるが、郷土史家の一志茂樹の推定によれば、仁科荘成立後も、御厨は完全にその神領を保っており、1376年(永和2年)の棟札に見られるような整った式年造営が維持された、とする。
御厨の領域は大町市大字社の宮本、閏田、曽根原を中心とし、藤尾郷(大町市大字八坂)を包摂した。1179年(治承3年)地頭の仁科盛家(平盛家)が覚薗寺に寄進した千手観音像の木札に「信州安曇郡(仁科)御厨藤尾郷」とある。また1228年(安貞2年)には仁科康盛(平康盛)が地頭を務めている。
神明宮が創祀以来20年一度の式年造替を滞ることなく今日まで継続し、しかもその祭祀・神事等に古式を伝えて厳かに之を執行し、少しも衰徴の跡を見せずして御厨神明たるに相応しい伝統を持続してきた事実に顧みるとき、相当後年まで神役を奉仕していたのではないかと想像されるのである。殊に領家であった仁科氏は藤原時代以降500年間、信濃の於ける古族であり名族である家門の誇りを伝えてその勢力を張り、しかも勤王の精忠に終始して戦国時代末期まで及んでいたことに思いを致した場合、時代の波に動かされることなく、深い伝統と信仰とをもった御厨神人等と共にその忠誠を果たしたであろうことが想見出来るのである。
仁科氏が永禄末年に至って遂に武田氏に滅ぼされてからは、武田信玄の五男盛信が大町に入って仁科氏の名跡を継ぎ、同様に神明宮の祭祀に従ったのであるが、1582年(天正10年)織田氏の甲州征伐で武田・仁科両氏が滅亡すると、小笠原貞慶が仁科氏の旧領である安曇郡を安堵され、神領として朱印15石の地を寄進し、1638年(寛永15年)以降黒印23石となり、累代の松本藩主が共進して造営・祭祀をも奉仕し明治維新に及んでいる。松本藩領内で神明宮の黒印高が他の神社に比して最も多かった理由は、仁科氏の勢力の跡によったものであろう。1872年(明治5年)11月郷社に列し、1893年(明治26年)8月24日県社に昇格して今日に及んでいる。古来仁科六十六郷の惣社として神威ままねく、又我が国七神明の一つとして古くから世に知られていた神社である。
式年造替については、創祀以来、皇大神宮にならって20年ごとに行われており、1376年(永和2年)から20年ごとに行われた造替の際の棟札が保存されている。600年以上の長きにわたる式年造替は全国的に見ても珍しい。
仁科氏が主家の武田氏と共に滅亡してからは、松本藩主がこれに代わって式年造替を奉仕したが、1636年(寛永13年)の造替を最後として、その後は新築ではなく修造に留まり現在に至っている。現在の社殿は、寛永造替時のものと推定され、300年を経ている 修造に当たっては、多くの巨大な用材が使われるので、古例にのっとって、高瀬川入神明宮御料林から伐木され、当時の大町組、池田組、松川組の3組に科して奉仕された。
明治時代に入り、その責任は氏子ならびに崇敬する者の双肩にかかり、1878年(明治11年)の式年造替にあたっては、第11(社地区)、第12(大町、平地区)両大区会議に、その後は北安曇郡町村町会によって負担的寄付をあおぎ、この大祭を滞りなく続けてきた。なお式年の年ごと八代神明宮では、当社の古材をもって修理を行い、大祭には仁科神明宮からは神職や関係者が参列して大祭を行う慣わしになっている。2019年(令和元年)に式年造替(屋根の葺き替え等の修理)が行われた。
本殿(国宝)
アクセス
JR大糸線安曇沓掛駅 徒歩30分
JR大糸線信濃大町駅から大町市民バス社コースで約25分「仁科神明宮下」下車。徒歩約5分
宮本は大町市と篠ノ井線明科駅とを結ぶ池田街道添いの部落で、神明宮は仁科神明宮下バス停留所から東へ約500m坂道を登って部落を通り抜けた山際にある。その境内は宮山の南麗の斜面で、山に向かって長方形にのび、面積は19,257uあって、南側は平坦となり道路を隔て畑であるが、他の三方は山林に直接隣接している。入口に近い部分と社殿周辺に特に老巨木が繁る[20]。東は大峯山系に連なり、西は田園地帯と高瀬川の清流を見下ろす、遠く北アルプス連峰を望むことが出来る風光明媚な地に鎮座す神社である。
所在地 長野県大町市大字社宮本1159
位置 北緯36度26分59.8秒 東経137度52分44.5秒
主祭神 天照皇大神
社格等 県社
創建 崇神天皇から景行天皇の代に渡る、紀元前後のあたり
本殿の様式 神明造
例祭 9月15日(太々神楽献奏)
主な神事 三大祭、祈年祭3月15日、例祭9月15日、新嘗祭11月23日、その他、元始祭1月1日、交通安全祈願祭1月1日〜3日、山の神社祭3月17日と11月17日、津破岐社祭3月17日、大祓祭6月30日と12月31日、風祭8月20日
歴史
古来、安曇郡一帯は諏訪神社と穂高神社との力が交々深く及んでいた地方であるが、神明宮に関する限り、創祀以来御祭神は御一座のままである。神明宮の創祀は皇大神宮御領であった仁科御厨の鎮護のため、仁科氏によって伊勢神宮内宮が勧請されたことに基いている。1192年(建久3年)8月、二所大神宮神主が職事の仰せによって神領の仔細を注進したものを編輯した「皇大神宮建久己下古文書」によれば、当時信濃国には僅かに麻績(東筑摩郡麻績村)・長田(長野市若穂)・藤長(長野市篠ノ井)及び仁科の四御厨しか現存せず、しかも仁科に限り「件御厨往古建立也、度々被下宣旨、所停止御厨内濫行也」と注記し、当時既にその創建の年次が不明であったと述べており、信濃で最古の御厨と推定される。信濃国内の御厨は後世の立荘も含めて全て伊勢神宮領であった。
神宮雑例集の記事によれば、信濃に初めて神戸が封ぜられたのは後冷泉天皇の1048年(永承3年)12月のことであるから、御厨の建立はそれ以後とみられる。国司から荘園整理の干渉を受けたが、宣旨により内宮の御厨となった。
その一方で、仁科氏は御厨以外の自領を荘園として開発し、仁科荘を成立させた。承久の乱において仁科盛遠が、後鳥羽上皇の帷握に参じ奉り、越中礪波山の戦いに戦死してから、所領は一旦幕府に没収するところとなり、改めて後堀河天皇の父・守貞親王に奉献されたのであるが、親王はこれを皇女式乾門院に譲り、門院は更に後堀河天皇の第一皇女室町院に伝え、仁科荘は室町院領となった。『神鳳鈔』に見える仁科御厨の領域はわずか40町で、安曇郡矢原御厨の1691町と比べれば遥かに狭小であるが、郷土史家の一志茂樹の推定によれば、仁科荘成立後も、御厨は完全にその神領を保っており、1376年(永和2年)の棟札に見られるような整った式年造営が維持された、とする。
御厨の領域は大町市大字社の宮本、閏田、曽根原を中心とし、藤尾郷(大町市大字八坂)を包摂した。1179年(治承3年)地頭の仁科盛家(平盛家)が覚薗寺に寄進した千手観音像の木札に「信州安曇郡(仁科)御厨藤尾郷」とある。また1228年(安貞2年)には仁科康盛(平康盛)が地頭を務めている。
神明宮が創祀以来20年一度の式年造替を滞ることなく今日まで継続し、しかもその祭祀・神事等に古式を伝えて厳かに之を執行し、少しも衰徴の跡を見せずして御厨神明たるに相応しい伝統を持続してきた事実に顧みるとき、相当後年まで神役を奉仕していたのではないかと想像されるのである。殊に領家であった仁科氏は藤原時代以降500年間、信濃の於ける古族であり名族である家門の誇りを伝えてその勢力を張り、しかも勤王の精忠に終始して戦国時代末期まで及んでいたことに思いを致した場合、時代の波に動かされることなく、深い伝統と信仰とをもった御厨神人等と共にその忠誠を果たしたであろうことが想見出来るのである。
仁科氏が永禄末年に至って遂に武田氏に滅ぼされてからは、武田信玄の五男盛信が大町に入って仁科氏の名跡を継ぎ、同様に神明宮の祭祀に従ったのであるが、1582年(天正10年)織田氏の甲州征伐で武田・仁科両氏が滅亡すると、小笠原貞慶が仁科氏の旧領である安曇郡を安堵され、神領として朱印15石の地を寄進し、1638年(寛永15年)以降黒印23石となり、累代の松本藩主が共進して造営・祭祀をも奉仕し明治維新に及んでいる。松本藩領内で神明宮の黒印高が他の神社に比して最も多かった理由は、仁科氏の勢力の跡によったものであろう。1872年(明治5年)11月郷社に列し、1893年(明治26年)8月24日県社に昇格して今日に及んでいる。古来仁科六十六郷の惣社として神威ままねく、又我が国七神明の一つとして古くから世に知られていた神社である。
式年造替については、創祀以来、皇大神宮にならって20年ごとに行われており、1376年(永和2年)から20年ごとに行われた造替の際の棟札が保存されている。600年以上の長きにわたる式年造替は全国的に見ても珍しい。
仁科氏が主家の武田氏と共に滅亡してからは、松本藩主がこれに代わって式年造替を奉仕したが、1636年(寛永13年)の造替を最後として、その後は新築ではなく修造に留まり現在に至っている。現在の社殿は、寛永造替時のものと推定され、300年を経ている 修造に当たっては、多くの巨大な用材が使われるので、古例にのっとって、高瀬川入神明宮御料林から伐木され、当時の大町組、池田組、松川組の3組に科して奉仕された。
明治時代に入り、その責任は氏子ならびに崇敬する者の双肩にかかり、1878年(明治11年)の式年造替にあたっては、第11(社地区)、第12(大町、平地区)両大区会議に、その後は北安曇郡町村町会によって負担的寄付をあおぎ、この大祭を滞りなく続けてきた。なお式年の年ごと八代神明宮では、当社の古材をもって修理を行い、大祭には仁科神明宮からは神職や関係者が参列して大祭を行う慣わしになっている。2019年(令和元年)に式年造替(屋根の葺き替え等の修理)が行われた。
本殿(国宝)
アクセス
JR大糸線安曇沓掛駅 徒歩30分
JR大糸線信濃大町駅から大町市民バス社コースで約25分「仁科神明宮下」下車。徒歩約5分
宮本は大町市と篠ノ井線明科駅とを結ぶ池田街道添いの部落で、神明宮は仁科神明宮下バス停留所から東へ約500m坂道を登って部落を通り抜けた山際にある。その境内は宮山の南麗の斜面で、山に向かって長方形にのび、面積は19,257uあって、南側は平坦となり道路を隔て畑であるが、他の三方は山林に直接隣接している。入口に近い部分と社殿周辺に特に老巨木が繁る[20]。東は大峯山系に連なり、西は田園地帯と高瀬川の清流を見下ろす、遠く北アルプス連峰を望むことが出来る風光明媚な地に鎮座す神社である。
所在地 長野県大町市大字社宮本1159
位置 北緯36度26分59.8秒 東経137度52分44.5秒
主祭神 天照皇大神
社格等 県社
創建 崇神天皇から景行天皇の代に渡る、紀元前後のあたり
本殿の様式 神明造
例祭 9月15日(太々神楽献奏)
主な神事 三大祭、祈年祭3月15日、例祭9月15日、新嘗祭11月23日、その他、元始祭1月1日、交通安全祈願祭1月1日〜3日、山の神社祭3月17日と11月17日、津破岐社祭3月17日、大祓祭6月30日と12月31日、風祭8月20日
2023年06月15日
巖浄閣(がんじょうかく)は、富山県南砺市苗島にある、学校建築
巖浄閣(がんじょうかく)は、富山県南砺市苗島にある、学校建築。富山県立農学校(現在の富山県立南砺福野高等学校)の本館として建設された。現在の敷地は南砺福野高等学校の校内である。1997年に国の重要文化財に指定された。
概要
1903年に竣工。設計と施工は砺波市出身の宮大工、藤井介之丞による。農学校の建設は、資産家で県会議員も務めた島巌の遺志(自らの資産を学校建築のため県に寄付)によるものである。
木造2階建てで和洋折衷の下見板張り(コロニアル様式)である。
1968年8月に現在地に移転・修復された際に、当時の富山県知事だった吉田実によって島巌に由来する「巖浄閣」の名称がつけられた。
沿革
1903年(明治36年)4月 富山県立農学校本館として建設。
1909年(明治42年) 皇太子(のちの大正天皇)の御座所となる。
1913年(大正2年)ピンク色に塗りかえる。〈元は淡い緑色)
1967年(昭和42年)現在の位置に移築(曳屋)。修復工事を行う。
1968年(昭和43年)8月8日 県知事の吉田実を迎え、「巖浄閣」と命名される。
1987年(昭和62年) 「富山県の建築百選」に選定。
1997年(平成9年)5月 国の重要文化財に指定。
2005年(平成17年)保存修理工事竣工。
公開
平日は公開されており、富山県立南砺福野高等学校の事務室に依頼して見学が可能である。内部には富山県農学校等に関する資料が保存展示されている。
アクセス
城端線福野駅より徒歩7分
旧名称 富山県立農学校本館
設計者 藤井介之丞
管理運営 富山県
構造形式 木造、桟瓦葺
建築面積 333.3 m2
階数 2階建て
戸数 1棟
竣工 1903年(明治36年)4月
改築 1967年(昭和42年)
2005年(平成17年)
所在地 〒939-1517
日本の旗 日本
富山県南砺市苗島453番地
座標 北緯36度35分19秒 東経136度55分45秒
文化財 重要文化財
(建造物)
指定・登録等日 1997年(平成9年)
5月29日
概要
1903年に竣工。設計と施工は砺波市出身の宮大工、藤井介之丞による。農学校の建設は、資産家で県会議員も務めた島巌の遺志(自らの資産を学校建築のため県に寄付)によるものである。
木造2階建てで和洋折衷の下見板張り(コロニアル様式)である。
1968年8月に現在地に移転・修復された際に、当時の富山県知事だった吉田実によって島巌に由来する「巖浄閣」の名称がつけられた。
沿革
1903年(明治36年)4月 富山県立農学校本館として建設。
1909年(明治42年) 皇太子(のちの大正天皇)の御座所となる。
1913年(大正2年)ピンク色に塗りかえる。〈元は淡い緑色)
1967年(昭和42年)現在の位置に移築(曳屋)。修復工事を行う。
1968年(昭和43年)8月8日 県知事の吉田実を迎え、「巖浄閣」と命名される。
1987年(昭和62年) 「富山県の建築百選」に選定。
1997年(平成9年)5月 国の重要文化財に指定。
2005年(平成17年)保存修理工事竣工。
公開
平日は公開されており、富山県立南砺福野高等学校の事務室に依頼して見学が可能である。内部には富山県農学校等に関する資料が保存展示されている。
アクセス
城端線福野駅より徒歩7分
旧名称 富山県立農学校本館
設計者 藤井介之丞
管理運営 富山県
構造形式 木造、桟瓦葺
建築面積 333.3 m2
階数 2階建て
戸数 1棟
竣工 1903年(明治36年)4月
改築 1967年(昭和42年)
2005年(平成17年)
所在地 〒939-1517
日本の旗 日本
富山県南砺市苗島453番地
座標 北緯36度35分19秒 東経136度55分45秒
文化財 重要文化財
(建造物)
指定・登録等日 1997年(平成9年)
5月29日