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2023年06月30日

旧有路家住宅(きゅうありじけじゅうたく)は、山形県最上郡最上町大字堺田にある古民家

旧有路家住宅(きゅうありじけじゅうたく)は、山形県最上郡最上町大字堺田にある古民家。江戸時代初期に建てられた当時の庄屋の住宅(民家)である。1969年(昭和44年)12月18日に国の重要文化財(建造物)に指定された。所有者は最上町で、1971年(昭和46年)から1973年(昭和48年)にかけて解体復元修理が行われた。

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概要
有路家は、1638年から1647年頃までの間に独立した村となった堺田村で、代々この家に住んで、村の庄屋を勤めた家柄である。建物は役屋(村役場)としての性格を持ち、問屋や旅館としての機能も備えていたとみられている。仙台藩領と新庄藩領の国境を守る役人という立場でもあったとされ、芭蕉により「おくのほそ道」に、封人の家(ほうじんのいえ、国境を守る役人の家)と綴られている。元禄2年5月15日(グレゴリオ暦1689年7月1日)、仙台藩領から出羽国に向かっていた俳人、松尾芭蕉と曽良が、梅雨時の雨のために2泊3日、この家に滞在したといわれている。その時に詠んだ句、「蚤虱 馬の尿する 枕もと」が有名である。付近は1954年(昭和29年)に最上町となる以前は「小国」を名乗る(東小国村)山形県内で随一の馬産地で、江戸時代にも馬を寒さから守ろうと家人の住まう主屋に飼っていたことがこの句の背景にあった。

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構造形式
桁行(間口)25.5m、梁間(奥行)11.2m、寄棟造、茅葺

利用案内
期間 期間限定 4月〜10月(冬季閉鎖)
時間 9:00〜17:00 料金 120円 - 小中生/250円 - 高校生以上
駐車場 20台

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所在地
〒999-6106 山形県最上郡最上町大字堺田59番地の3

アクセス
東日本旅客鉄道堺田駅より徒歩5分
posted by Kazu at 09:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 山形県

2023年06月29日

忌宮神社(いみのみやじんじゃ)は、山口県下関市にある神社

忌宮神社(いみのみやじんじゃ)は、山口県下関市にある神社。長府(城下町エリア)のほぼ中心に位置し、仲哀天皇が熊襲平定の際に滞在した行宮である豊浦宮の跡とされる。

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概要
式内社で、旧社格は国幣小社。長門国二宮とされ、現在は神社本庁の別表神社である。飛地境内として国の天然記念物満珠島干珠島を有している。

また、魁傑將晃が現役時代、荒熊稲荷神社で九州場所の必勝祈願を行い優勝したことが縁となり、毎年11月3日の三日相撲に合わせて参拝する。荒熊稲荷神社脇には相撲資料館が併設され魁傑や大乃国康(現:芝田山)の化粧まわしや優勝杯、大銀杏などが展示されている。

祭神
本殿 第一殿:仲哀天皇、第二殿:神功皇后、第三殿:応神天皇

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歴史
仲哀天皇元年(192年)に熊襲の征討に訪れ、仲哀天皇2年(193年)に行宮豊浦宮を建てられた。三代実録によれば、仲哀天皇4年(195年)に秦の始皇11代の孫功満王(こまおう)が渡来して日本に住みつき、珍しい宝物である蚕(かいこ)の卵を奉献したとされ、豊浦宮(現在の忌宮神社)が蚕種渡来の地とされる。

仲哀天皇8年(199年)に天照大神と住吉三神による託宣を疑ったため筑紫の香椎で亡くなった仲哀天皇を、神功皇后が三韓征伐からの帰途、豊浦宮の跡に祀ったのに始まると伝える。聖武天皇の時代に神功皇后・応神天皇を奉斎して、仲哀天皇を祀る神殿を「豊浦宮」、神功皇后を祀る神殿を「忌宮」、応神天皇を祀る神殿を「豊明宮」と称し、三殿別立となっていた。中世に、火災により全て「忌宮」に合祀したことから「忌宮」と呼ばれるようになった。延喜式神名帳では「長門国豊浦郡 忌宮神社」と記載され、小社に列している。

延元元年(1336年)、足利尊氏が忌宮神社で戦勝祈願を行い延元2年(1337年)に法楽和歌を奉納する。長府毛利家の厚い庇護を受け、境内社として歴代藩主を祀る豊功神社も置かれた(現在は長府海岸近くの宮崎八幡宮と合祀され豊功神社として祀られている)。古来、文武の神・勝運の神として歴朝の尊崇厚く、また安産の神として庶民の信仰を受けてきた。

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文化財
重要文化財
刀 無銘(伝則宗)折り紙付き
太刀 銘備州長船盛光 応永廿三年八月日
豊浦宮法楽和歌 (足利尊氏奉納)
忌宮神社文書 28巻3冊(372通)・忌宮神社境内絵図1幅(附:忌宮神社記録2巻12冊)
県指定文化財
狩野芳崖奉納の絵馬
市指定文化財
能面・狂言面

所在地 山口県下関市長府宮の内1-18
位置 北緯33度59分56.3秒 東経130度59分15.2秒
主祭神 仲哀天皇
神功皇后
応神天皇
社格等 式内社(小)
長門国二宮
旧国幣小社
別表神社
創建 仲哀天皇8年(199年)
例祭 12月15日
主な神事 数方庭祭(8月7日 - 13日)
御斎神事(12月7日 - 15日)
posted by Kazu at 09:41| Comment(0) | TrackBack(0) | 山口県

2023年06月28日

一宮浅間神社(いちのみやせんげんじんじゃ)は、山梨県西八代郡市川三郷町高田にある神社

一宮浅間神社(いちのみやせんげんじんじゃ)は、山梨県西八代郡市川三郷町高田にある神社。式内社(名神大社)論社で、旧社格は村社。

鎮座地は高田集落の南方、西八代台地の西北端に位置し、神社は古くは単に「一宮」や、「一ノ宮明神」「市川一の宮」などと称された。

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祭神
主祭神
木花咲耶姫命 (このはなのさくやひめのみこと)
相殿神
瓊瓊杵命 (ににぎのみこと)
彦火火出見命 (ひこほほでみのみこと)

歴史
社伝によれば景行天皇朝の創祀で、『日本三代実録』に864年(貞観6年)の富士山の大噴火を受けてその神の神意を慰めるため、翌865年(貞観7年)に勅命によって甲斐国八代郡に創建され、官社に列されるとともに祝と祢宜が置かれたという「浅間明神の祠」に相当し、『延喜式神名帳』に載せる甲斐国八代郡の名神大社「浅間神社」であり、「一宮」の古称も甲斐国の一宮とされたことに因むものであるという。もっとも式内名神大社の「浅間神社」の比定には笛吹市の浅間神社か富士河口湖町の浅間神社(河口浅間神社)が有力視されており、甲斐国一宮は通説として笛吹市浅間神社に当てられているので「一宮」の称も鎮座地である旧市川郷のそれであると考えられる。なお、750メートル程隔たった地に「二の宮」と称される弓削神社が鎮座するが、甲斐国の二宮は笛吹市の美和神社とされているので、これも同様に市川郷の一宮であった当神社に対しての「二の宮」の称であったと考えられる。

貞観の創建は富士山の神である木花咲耶姫命が現鎮座地南方の御正体山(みしょうたいざん)に噴火の難を逃れるために遷ったのが契機であったといい、その後924年(延長2年)に御正体山に対する里宮であった現社地へ遷座、山上の旧址には山宮として山祇社を奉斎した[8]。『甲斐国社記・寺記』(以下『社記』と記す)によると、朝野の崇敬篤く延長2年(924年)10月、永万3年11月(1167年 - 1168年)、1186年(文治2年4月)、1382年(永徳2年10月)の社殿造営が知られる他、神領地30町(およそ3,600坪)を有し、社家12人が所属していたという。

その後武田氏が甲斐国内の神社の神官を対象に府中八幡社(現甲府市の八幡神社)へ2日2晩の勤番を命じたが、その1561年(永禄4年)の「府中八幡社勤番帳(武田氏番帳)」の45番に「一の宮の祢き(祢宜)」と見える「一の宮」が当神社の事と考えられている。『社記』によれば1582年(天正10年)に徳川家康が甲斐に入国、当神社に布陣したと伝え、その際の兵乱で社領が没収されて一時荒廃に帰したが、その後再興されたようで、1603年(慶長8年)には徳川四奉行の黒印で市河高田村(現高田)中に1石6斗5升の社領と神官の屋敷分として260坪が安堵されたり、家康からも狩衣や太刀が寄進されたといい、1649年(慶安2年)には将軍徳川家光から改めて1石6斗余の朱印領が安堵されるとともに社領内の竹木山林や神主屋敷等は諸役免除の除地とされ、それらは江戸時代を通して維持された。また1643年(寛永20年)に後陽成天皇の第8皇子で甲斐国に配流された良純法親王も当地において崇敬し、額等を奉納したという。

明治初め(19世紀中頃)に村社に列した。

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現地情報
所在地
山梨県西八代郡市川三郷町高田字宮本3696

交通アクセス
最寄駅:東海旅客鉄道(JR東海)身延線 市川大門駅 (徒歩約12分)
posted by Kazu at 08:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 山梨県

2023年06月27日

慈尊院(じそんいん)は、和歌山県伊都郡九度山町慈尊院にある高野山真言宗の寺院

慈尊院(じそんいん)は、和歌山県伊都郡九度山町慈尊院にある高野山真言宗の寺院。山号は万年山。本尊は弥勒仏(慈尊と呼ばれる)。高野山の政所として創建され、高野山町石道の登り口にある。

境内は、国の史跡「高野参詣道」を構成する「町石道」の一部として指定されている。本堂の弥勒堂は、ユネスコの世界遺産『紀伊山地の霊場と参詣道』の一部として登録されている。

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歴史
空海(弘法大師)が真言密教の道場の根拠地を求め歩いて大和国宇智郡に入ったとき、そこで猟師の姿に扮した地主神・狩場明神(高野御子大神)に紀伊国にある霊地・高野山の存在を教えられた。狩場明神はその使いである白・黒二匹の犬に空海を高野山まで導かせた。この後、弘仁7年(816年)、空海は嵯峨天皇から高野山の地を賜った。そして、高野山参詣の要所に当たるこの九度山の雨引山麓に、高野山への表玄関として伽藍を創建し、高野山一山の庶務を司る政所(寺務所)を置いて、高野山への宿所ならびに冬期避寒修行の場である慈氏寺(慈氏とは弥勒仏のこと)を建立した。また、高野山の狩場明神とその母である丹生都比売大神も祀ることとし、慈氏寺の南側に丹生高野明神社(別名・神通寺)も設けた。慈氏寺の壇(弥勒の壇)と神通寺の壇(明神の壇)を合わせて慈尊院と呼ばれた。

高齢となった空海の母・阿刀氏(伝承では玉依御前)は、讃岐国多度郡(現・香川県善通寺市)から息子の空海が開いた高野山を一目見ようとやって来たが、当時高野山内は7里四方が女人禁制となっていたため、麓にあるこの政所に滞在し、本尊の弥勒仏を篤く信仰していた。空海はひと月に9度(正確に9度というわけではなく、それだけ頻繁にということの例えだといわれている)は必ず20数kmに及ぶ山道(高野山町石道)を下って政所にいる母を訪ねてきたので、この辺りに「九度山」という地名が付けられた。

空海の母は承和2年(835年)2月5日に死去したが、そのとき空海は弥勒仏の霊夢を見たので、廟堂を建立し自作の弥勒仏像と母公の霊を祀ったという。弥勒仏の別名を「慈尊」とも呼ぶことから、この政所は慈尊院と呼ばれるようになった。空海の母がこの弥勒仏を熱心に信仰していたため、入滅(死去)して本尊に化身したという信仰が盛んになり、慈尊院は女人結縁の寺として知られるようになり、女人の高野山参りはここ、ということで「女人高野」とも呼ばれている。

高野山の政所に関して「慈尊院」という名称が文献に現れた最も早い例は三条実行(藤原実行)の『鳥羽上皇高野御幸記』で、天治元年(1124年)、鳥羽上皇が当地に行幸し、慈尊院の由来について尋ねたことが記されている。

文明6年(1474年)、御廟を現在地に移す。天文9年(1540年)、紀ノ川の氾濫により慈尊院の堂舎は大半が流れてしまい、弥勒檀(現在地)に移転する。その際、高野山が政所の事務を山上に移し、当院の宝物も山上に移された。天文13年(1544年)7月、再び紀ノ川が洪水を起こし、残っていた移転前の建物は全て流された。

境内の南にある階段を上ると途中に町石・百八十町石があり、さらに上ると丹生官省符神社がある。

当院の絵馬は乳房型絵馬といい、絵馬に布製の乳房が付いている。

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世界遺産
本堂の弥勒堂は、ユネスコの世界遺産『紀伊山地の霊場と参詣道』を構成する「高野山」の一部として登録されている。

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交通
南海高野線九度山駅から徒歩約25〜30分(約1.5km)

所在地 和歌山県伊都郡九度山町慈尊院832
位置 北緯34度17分43秒 東経135度33分0秒
山号 万年山
宗派 高野山真言宗
本尊 弥勒仏(国宝)
創建年 伝・弘仁7年(816年)
開山 伝・空海
札所等 仏塔古寺十八尊第6番
紀伊之国十三佛霊場第6番
伊都郡四国八十八ヵ所第1番
神仏霊場巡拝の道第10番(和歌山第10番)
文化財 木造弥勒仏坐像(国宝)
弥勒堂、絹本著色弥勒菩薩像(重要文化財)
世界遺産
posted by Kazu at 08:19| Comment(0) | TrackBack(0) | 和歌山県

2023年06月26日

旧片山家住宅(きゅうかたやまけじゅうたく)は、岡山県高梁市成羽町吹屋にあるベンガラ製造で栄えた片山家の本家邸宅

旧片山家住宅(きゅうかたやまけじゅうたく)は、岡山県高梁市成羽町吹屋にあるベンガラ製造で栄えた片山家の本家邸宅である。

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高梁市成羽町吹屋の旧片山家住宅

概要
旧片山家住宅は、岡山県高梁市成羽町吹屋に所在する。片山家は片山の総本山で本片山と呼ばれ、屋号は「胡屋」という。 本格的に弁柄製造を創業した1795年(宝暦9年)から二百余年弁柄製造に携わり弁柄株仲間を組織し企業の統制を取るとともに優良品質で市場を拡大し特産品としての吹屋弁柄の地位を守り続けた豪商である。郷土館の向かいにあり、主屋・宝蔵・米蔵・弁柄蔵・仕事場および部屋の5棟が国の重要文化財に指定されている。伝統的建造物群の核とするべきだと考え、2003年(平成15年)から保存修理が行われ、2005年(平成17年)8月から建物の内部も一般公開されている。

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旧片山家住宅 主屋内部

沿革
当主は代々「浅治郎」の名を襲名し、1971年(昭和46年)に廃業した当時の当主は9代目であった[5]。

片山家の系譜
片山家の始祖からの系譜を記録した資料は現存しておらず、存在が明確にわかっているのは、ベンガラ(弁柄)業を始めたとされる初代浅治郎(生年不明〜1804年(文化4年))以降である。2代目(1777年頃(安永6年)〜1847年(弘化4年))から4代目(1821年(文政3年)〜没年不明)までの時代に当たる近世末から明治にかけて、吹屋弁柄が最盛期を迎えており、この頃に多くの財を成し、建物の増改築を行ったと考えられている。9代目(1907年(明治40年)〜1975年(昭和50年))のとき、片山家の弁柄製造は終焉を迎え、10代目当主(2002年(平成14年)没)の死後、片山家住宅は成羽町に寄贈され、現在に至っている。

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建造物
主屋・宝蔵・米蔵・弁柄蔵・仕事場及び部屋の計5棟が「旧片山家住宅」の名称で国の重要文化財に指定され、家相図3枚が重要文化財の附指定となっている。さらにこれらとは別に玄米蔵・弁柄箱・道具蔵が高梁市指定文化財となっている。

屋敷地は通りに面して北を正面とし、敷地北端に主屋、その西に宝蔵、主屋の南に米蔵と弁柄蔵、弁柄蔵の西に仕事場及び部屋が建つ。さらに、裏門を出て南側の敷地には玄米蔵、弁柄箱、道具蔵、これらの東に南蔵が建つ。

なお、以下の解説は『旧片山家住宅調査報告書』(成羽町教育委員会、2004)に基づくものであり、建物の名称が2006年の重要文化財指定時の名称と一部異なっている。

弁柄倉庫 - 重要文化財指定時の名称では「弁柄蔵」と「米蔵」の2棟とする。
たきもの小屋 - 重要文化財指定時の名称は「仕事場及び部屋」。
各建物の建立年代は、片山家に伝わる家相図などから、次のように判断される。主屋は主体部が18世紀末の建立で、主体部南側の増築部と仏間部が文政13年(1830年)以前、座敷部が明治8年(1875年)の増築である。宝蔵は主屋の仏間部増築と同じ頃の建立、米蔵・弁柄蔵・仕事場及び部屋は安政2年(1855年)以前の建立である。

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所在地
岡山県高梁市成羽町吹屋367

交通アクセス
JR伯備線備中高梁駅バス吹屋行き終点から徒歩すぐ

利用情報
開館時間
午前9時〜午後5時(12月〜3月は午前10時〜午後4時)
休館日
12月29日〜31日
入館料
大人 400円
小人 200円(20人以上1割引き)
周遊券(4施設) 850円(20人以上750円)
posted by Kazu at 08:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 岡山県

2023年06月25日

慈眼院(じげんいん)は、大阪府泉佐野市日根野にある真言宗御室派の寺院

慈眼院(じげんいん)は、大阪府泉佐野市日根野にある真言宗御室派の寺院。山号は大悲山。本尊は薬師如来。近世末までは隣接する日根神社の神宮寺であった。国宝の多宝塔は石山寺多宝塔、金剛三昧院多宝塔とともに日本の多宝塔の三名塔の一つとして知られる。また境内が「日根荘遺跡」の一部として国の史跡に指定されている。

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多宝塔 (国宝)

歴史
伝承によれば、天武天皇2年(673年)、天皇の勅願寺として、また日根神社の神宮寺として井堰山願成就寺無辺光院の名で覚豪阿闍梨により開創され、奈良時代の天平年間(729年 - 749年)、聖武天皇の勅願寺となり、寺領1千石が加増されたという。その後、弘仁6年(815年)、空海(弘法大師)によって金堂、多宝塔をはじめとする諸堂が再興されたと伝える。

南北朝の正平8年(1353年)、戦火を受けて焼失。その後、後村上天皇と後亀山天皇の勅命により再興された。

慈眼院の位置する日根荘(ひねのしよう、日根野荘)は、五摂家の1つである九条家の荘園であった。文亀元年(1501年)から4年間、前関白の九条政基が日根に滞在して領地の直接経営にあたり、日記「政基公旅引付」(宮内庁書陵部蔵)を残している。

天正13年(1585年)には羽柴秀吉の紀州征伐の兵火を受けて無辺光院は金堂、多宝塔を除いた全山が焼失する。その後慶長7年(1602年)、豊臣秀頼によって伽藍の再興が始められ、奥之坊、山之坊、明王院、戒躰院、稲之坊、中之坊、下之坊(現・日根神社社務所)、東方寺、上之坊、明神社、観音堂、毘沙門堂、護摩堂の堂宇が建立された。寛文年間(1661年 - 1673年)には岸和田藩藩主岡部行隆により修復が行われ、寛文5年(1665年)、中之坊が仁和寺の性承門跡から現在の院号「慈眼院」を賜り、仁和寺の末寺となった。

明治時代になり、神仏分離が行われると無辺光院は隣接する日根神社と切り離されてしまう。その上、無辺光院及び諸塔頭は廃絶され、慈眼院のみが残された。宗派は現在は真言宗御室派となっている。

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金堂

境内
本堂
庫裏
金堂(毘沙門堂、重要文化財) - 一願薬師堂とも呼ばれる。鎌倉時代後期の建立。方3間、単層、寄棟造、本瓦葺。「杮経(笹塔婆)」が保管されている。
多宝塔(国宝) - 文永8年(1271年)建立。高さ約10m。屋外にある木造多宝塔で国宝・重要文化財に指定されているものの中では日本最小。石山寺塔、金剛三昧院塔とともに日本の多宝塔の三名塔の一つとされる。初層内部には大日如来坐像(府指定有形文化財)を安置する。
庭園
石仏群
本邦洋式製革始祖碑 - 明治時代。
表門
弘法大師像
鐘楼 - 境内の外にある。
慈眼院の姥桜(大阪府指定天然記念物) - 日根神社の参道脇にある。

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拝観情報
開門時間 - 8:00から17:00(要予約)
交通アクセス - 南海電鉄 泉佐野駅または阪和線 日根野駅から南海バス「犬鳴山」行きで8分、「東上」下車すぐ

所在地 大阪府泉佐野市日根野626
位置 北緯34度22分27.3秒 東経135度20分36秒
山号 大悲山
井堰山(旧称)
宗旨 古義真言宗
宗派 真言宗御室派
本尊 薬師如来
創建年 伝・天武天皇2年(673年)
開山 覚豪
正式名 大悲山 願成就寺 慈眼院
井堰山 願成就寺 無邊光院(旧称)
別称 大井堰御坊 慈眼院
札所等 仏塔古寺十八尊第12番
和泉西国三十三箇所客番
阪和西国三十三ヶ所観音霊場第20番
文化財 多宝塔(国宝)
金堂(重要文化財)
境内(国の史跡)
posted by Kazu at 09:41| Comment(0) | TrackBack(0) | 大阪府

2023年06月24日

臼杵神社(うすきじんじゃ)は、大分県臼杵市大字稲田字林西平に鎮座する神社

臼杵神社(うすきじんじゃ)は、大分県臼杵市大字稲田字林西平に鎮座する神社である。

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概要
通称は「臼塚さま」。大友時代臼杵五社の一つ。臼塚古墳の後円部を社殿敷地とし、境内には、舟形石棺2基及び短甲形石人2基がある。

祭神
少彦名命、大己貴命、菅原神。

このうち菅原神は、明治9年(1876年)、同市大字稲田字天神に鎮座していた天満社を合併したものである。境内社として、稲荷神社1社(祭神:倉稲魂命)がある。

例祭
古文献類では、6月19日及び11月19日とされているが、現在では、4月第2日曜日及び12月19日近日曜日である。例祭で奉納される獅子舞は、寛政7年(1795年)に始まったものである。

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境内
臼塚古墳(前方後円墳)をすべて境内としている。後円部には、社殿と船形石棺2基がある。また、拝殿前(前方・後円の接続部)に、短甲形石人2基(重要文化財)があったが、現在は、境内整備により、鳥居付近に移動されている。

なお、この短甲形石人については、臼と杵を模ったように見えることから、現在の「臼杵」の名の由来であるとする説がある。

歴史
天孫降臨の際に臼と杵を降ろした地とする口承があるが、文保2年(1318年)、託宣により創建されたといい、初めは「臼塚大明神」と称した。

享保14年11月19日(1730年1月7日)「臼杵大明神」と社名を改称し、寛政7年(1795年)に獅子舞が始められ、文化8年(1811年)、神道講釈を開催。天保2年(1831年)と同5年(1834年)には臼杵領内神主20家による湯立神楽が奉納され、安政元年(1854年)、安政南海地震により、境内の石燈が倒壊。

明治9年(1876年)12月、同市大字稲田字天神に鎮座していた天満社1社を合併し、「稲田神社」と社名を改称。大正11年(1920年)、氏子らに社名復旧の動きがあり、「臼杵神社」と社名を改称した。

文化財
重要文化財
短甲形石人 2箇(重要文化財指定名称は「石甲」)

交通アクセス
JR日豊本線 熊崎駅下車、徒歩15分。

所在地 大分県臼杵市大字稲田字林西平131番地
位置 北緯33度8分36.6秒 東経131度47分10.3秒
主祭神 少彦名命
大己貴命
菅原神
社格等 旧村社
創建 文保2年(1318年)
札所等 臼杵五社
例祭 4月第2日曜日・12月19日直近の日曜日
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2023年06月23日

内子座(うちこざ)は、愛媛県喜多郡内子町の重要伝統的建造物群保存地区「八日市護国」の近くにある芝居小屋

内子座(うちこざ)は、愛媛県喜多郡内子町の重要伝統的建造物群保存地区「八日市護国」の近くにある芝居小屋。1916年(大正5年)に大正天皇の即位を祝い、内子町の有志によって建設された。1982年に内子町指定有形文化財に指定。その後、1983年から1985年にかけて往時の姿に復元する工事が実施された。2015年に国の重要文化財に指定された。

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沿革
明治末から大正にかけて内子の町が木蝋や生糸などの生産で栄えていた頃、地元の人々の娯楽の場として発案され、大正天皇の即位を祝して地元有志の出資により創建された。農閑期に歌舞伎や文楽、後に映画や落語なども演じられた。その後昭和40年代にはホール的に活用されていたが、老朽化により取り壊されようとしていた。しかしながら、町並み保存地区に近接していることもあり、まちづくりの核として活用していくべきとの町民からの要望により復原された。文楽のほか、各種講演やまちづくりの会合等に活用されている。

年表
1915年(大正4年)2月 - 中田鹿太郎ほか17名の発起人により「大典記念株式会社内子座」設立
1915年(大正4年)8月 - 着工
1916年(大正5年)2月 - 落成式。
以後、歌舞伎や人形芝居、映画、演説会会場等として利用
1950年(昭和25年) - 一階桝席の座を撤去し椅子式に改造、映画館的色彩を強める。
1967年(昭和42年)3月 - 会社解散、内山商工会に所有が移る
1967年(昭和42年)5月 - 商工会館として使用するため、両桟敷及び二階桟敷撤去を含めた大改造。
以後、主に商工会館、映画・演劇会場としてホール的に使われる
1982年(昭和57年)9月 - 内山商工会から内子町に寄付
1982年(昭和57年)9月 - 内子町が有形文化財として指定
1983年(昭和58年)3月 - 内子地区旧市街地を中心に愛媛県指定文化の里「木蝋と白壁の町並み」となる。
1983年(昭和58年)10月 - 文化の里の一環として第一次内子座復元事業に着手
1985年(昭和60年)9月 - 復原事業完成
1985年(昭和60年)10月 - 町民の浄財と篤志家の寄付により内部設備を充実。こけら落しを行う。
1995年(平成7年)10月 - 第二期整備事業完成。奈落、迫の改修、照明・音響器具・設備の改修により、内子座文楽などの規模の大きな興行に対応可能となる。
2015年(平成27年)7月 - 国の重要文化財に指定。

改修
内子町では2020年から改修のための調査を実施しており、2022年度末に調査結果が明らかになる予定である。2023年秋頃から約4年間改修のために閉館となる予定であるが、閉館時期や改修期間は調査結果を踏まえて決定されることになっている。

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施設概要
木造2階建て瓦葺き入母屋造り
収容人員 650名
敷地 302坪
建築面積 1階177坪、3階65坪、計242坪
主要設備
枡席
廻り舞台
奈落
すっぽん

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用途 芝居小屋
建築主 大典記念株式会社
管理運営 大典記念株式会社→内山商工会→内子町
構造形式 木造
敷地面積 302坪
延床面積 1階177坪、3階65坪、計242坪
階数 地上2階
着工 1915年
竣工 1916年2月
開館開所 1916年2月
所在地 〒791-3301
愛媛県喜多郡内子町内子2102
座標 北緯33度33分5.2秒 東経132度39分0.7秒
文化財 国の重要文化財
指定・登録等日 2015年7月8日
備考 枡席、廻り舞台、奈落、すっぽん設備あり
posted by Kazu at 08:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 愛媛県

2023年06月22日

如庵(じょあん)は、愛知県犬山市の有楽苑にある茶室

如庵(じょあん)は、愛知県犬山市の有楽苑にある茶室である。

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概要
昭和47年(1972年)に、名古屋鉄道によって現在地に移築された。国宝指定は昭和26年(1951年)。この如庵という名称は、一説によれば庵主織田有楽斎のクリスチャンネーム「Joan」または「Johan」から付けられたという。なお、有楽斎はこれより前に如庵の名を持つ茶室を大坂天満屋敷にも好んで(造って)おり、同じ有楽苑内に「元庵」の名で復元されている。現在は見学不可。

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歴史
元和4年(1618年)に、織田信長の弟・織田有楽斎によって、京都・建仁寺の塔頭・正伝院が再興された際に建造された茶室である。明治6年(1873年)に正伝院は永源庵跡地に移転したが、その際に、祇園町の有志に払い下げられた。明治41年(1908年)に東京の三井本邸に移築された。この際、解体せず原型のまま車両に積んで東海道を東京まで運搬したのは、京都の数寄屋大工平井家4代竹次郎である。三井の重役で、著名な茶人の益田孝がこれを愛用した。

昭和11年(1936年)に重要文化財(旧国宝)に指定された。その後、昭和13年(1938年)に、三井高棟によって神奈川県中郡大磯の別荘に移築された[注釈 2]。移築時には茶室の周りに袴付、寄付、前後軒、待合、腰掛待合、管理所が設置された。

昭和47年(1972年)に、名古屋鉄道によって堀口捨己の指揮の下で現在地に移築されている。昭和26年(1951年)に文化財保護法による国宝に指定されている。

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構成
正面左側に袖壁を持つ土間庇を設け、右躙り口、正面控えの間(扈従の間)へのアプローチとする。躙り口入って左側奥に四尺の出床、その右手やや奥に勝手からの入り口。茶道口と給仕口を兼ねるこの勝手口からは給仕の動線に沿って斜行する壁を立て足元には三角形の板畳「鱗板(うろこいた)」を敷く。ナグリの床柱はそのチョウナの目痕に武家らしい剛直さを感じさせるが決して粗野ではない。勝手口から入ったところの台目畳が亭主座。横に道庫。床の間は亭主の右手後方に位置することになるが、出床にしたため距離的には離れない。亭主座の風炉先に中柱を立て板壁で仕切っている。中柱と板壁で風炉先にある相伴席の半畳を亭主畳と区切るとともに下部は丸く切り欠いて吹き通しにして相伴者の視線への配慮もぬかりない。鱗板とともに異例の構成であるが不合理性は感じられず、「利休七哲とは別格」といわれる有楽斎の並々ならぬ技量を示す。二畳の小間と違ってゆとりがありかつ緊張感を失わない室内空間は、「二畳半、一畳半は客を苦しめるに似たり」と言い切った如庵・有楽斎の面目躍如と言うべきだろう。篠竹を打ち詰めた「有楽窓」、古暦を腰に貼った「暦張り」も有名。前庇下の室内は勾配そのままに化粧軒裏の掛け込み天井になっていて中央には突き上げ窓が穿たれている。壁面にはつごう5カ所の窓が設けられているが、ひとつは袖壁のある土間庇に向けられているし、南側の二箇所は通常直射日光を嫌って光量は押さえられるし、さらに東壁の二箇所は竹を詰め打ちにした有楽窓であるから、光量としては十分とは言えない。しかし室のほぼ中央に設けられた突き上げ窓からの光がこれを補って余りある。むしろ周囲の窓からの光量を絞り込むことにより天窓からの光の効果をより劇的なものにしている。現代的な視点からこの茶室を眺めてみても、そこに貫かれている合理性はほとんど完璧なものと言っていい。勝手の間は三畳、炉と水屋を備える。無双窓はしっかりとした造作でここにも有楽斎の武人らしい好みが反映されている。

総じて端正で利休の草庵茶室とは一線を画しており「武家の節度」を感じさせる名席中の名席。各地に写しの茶席が残る。別名「暦張りの席」。

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Layout of Jo-an teahouse Chashitsu 茶室, Mizuya 水屋, Rōka no ma 廊下の間, Nijiri guchi躙り口, Musō mado無双窓, Renji mado 連子窓, Shitaji mado 下地窓, Uraku mado 有楽窓, Dōko 洞庫, Ro 炉, Maru ro 丸炉, Toko 床, Shoin 書院

posted by Kazu at 08:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 愛知県

2023年06月21日

旧小原家住宅(きゅうおばらけじゅうたく)は、岩手県花巻市東和町に所在する江戸時代の建築物

旧小原家住宅(きゅうおばらけじゅうたく)は、岩手県花巻市東和町に所在する江戸時代の建築物。重要文化財に指定されている。

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概要
明確な資料がなく、由緒及び住宅の建築年代とも明らかではないが、平面や構造手法からみて18世紀中頃と推定される。建物は曲り家で、突出部が非常に小さく、曲り家として古い形態といえる。平面は他の曲り家と大差ないが、外回りに壁が多く、構造上では上屋柱の省略が少なく、柱の太いことが目立つ。古い時期に直家から曲り家に改造されたもので、発生過程を窺うことのできる貴重な遺構である。1969年(昭和44年)12月18日に重要文化財指定を受け、1975年(昭和50年)に所有者から東和町(当時、現・花巻市)が寄贈され、現在地に移築された。

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建築
桁行16.3m、梁間9.6m、寄棟造、茅葺。南面突出部桁行5.6m、梁間4.8m。

交通アクセス
釜石線土沢駅または晴山駅よりタクシーで約10分
釜石自動車道東和インターチェンジより車15分

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用途 住宅
管理運営 花巻市総合文化財センター
所在地 〒028-0122
岩手県花巻市東和町谷内6-37
座標 北緯39度20分57.6秒 東経141度16分21秒
文化財 重要文化財
指定・登録等日 1969年12月18日
posted by Kazu at 08:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 岩手県
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