綾部神社(あやべじんじゃ)は、佐賀県三養基郡みやき町にある神社。旧社格は村社。
八幡神が主神で「綾部八幡宮」「綾部八幡神社」とも呼ばれ、官公庁などでもこちらの表記が用いられることがある。風の神を祀る神社で、日本最古の天気予報ともいわれる「旗上げ神事」「旗下ろし神事」から「日本最古の気象台」とも呼ばれている。
歴史
文治5年(1189年)に起こった源頼朝と奥州藤原泰衡の争い(奥州合戦)に、綾部荘の地頭職にあった綾部四郎太夫通俊も弟の加世新太郎通宗等を率いて従軍した。その際に鎌倉の鶴岡八幡宮に参詣して祈念を込めたところ戦功を挙げたことから、元久2年(1205年)に鶴岡八幡の分霊を勧請し、加世新太郎通宗を宮司として居城である綾部城の麓に八幡神社を建立した。また、社領百町歩を寄進して東肥前の鎮護の神としたとされている。
室町時代には、足利一門の渋川氏が綾部城を九州探題府兼肥前守護所の拠点としている。現在でも綾部神社の周辺には、渋川氏が築いた複数の城の遺構が確認できる。
中世には宇佐八幡宮弥勒寺領綾部荘の鎮守八幡宮であり、慶長3年(1598年)には鍋島直茂が祭資を供進し綾部郷(佐賀藩が設けた行政区画で現在の上峰町・中原町辺り)の宗社とした。
日本最古の気象台
綾部神社では毎年7月15日に謹請風神御祈祷守護之璽(きんせいふうじんごきとうしゅごのじ)と書かれた幅1尺、長さ1尺2寸の麻で織った神旗を長さ18メートルの真竹に結び付け、締め込み姿の3名の神旗人(かみはたびと)と呼ばれる男衆によって神社境内のイチョウに高さ30メートルになるよう掲げられる。旗上げから5日後には台風の襲来、農作物の作柄などを宮司が予想する。また、旗下ろしは秋分の日の翌日に行われ、神旗をイチョウから下ろして旗の巻き具合などを観察し、予想の結果の確認を行う。このように旗の巻き具合によってその年の吉凶を占う風占行事は、県内はもとより全国でも他に類例を見ないもので、2017年(平成29年)には県重要無形民俗文化財に指定されている。
神事の由来は神社創建より古く、社伝によれば天暦5年(951年)に綾部では台風や大雨など天候不順に見舞われ、疫病や飢饉が広がったため、脊振千坊に住む隆信(りゅうしん)沙門という僧が50日間で法華経1万部を読誦する発願をし、また里人に「もし私が途中で死んだら私を風の神様として祀ってください。そうすればきっと皆さまをお救いします」と告げて風神信仰があった九千部山(石谷山とも)に入った。50日後、里人が山に入ると隆信は9千部で力尽き息絶えていた。そのため里人はその徳を称え、風神二柱(級長津彦神、級長戸辺神)と隆信沙門を祀った。それ以来山頂に神旗を掲げ豊作などを祈ったのが始まりとされている。後に神旗は綾部神社の御神木であるイチョウの木に移され、また天気を予知する便りともしたものである。また、神社にある1701年(元禄14年)建立の鳥居に、「旗が巻いて、風の具合を知らせる。旗が開いて、神の下す幸である豊穣を示す。一尺二寸其の旗を高く掲げる」という意味の銘も残っている。なお、この故事は九千部山の名称の由来でもある。
掲げられた旗(平成28年)
名物
参道では食べると幸福をもたらすというぼた餅が名物となっている。由来は古く、神社を建立した綾部四郎太夫通俊が奥州合戦から凱旋した際、祝い餅として兵に振る舞ったのが始まりとされる。現在は年中販売されているが、かつては旗上げ神事から旗下ろし神事までの7月‐9月のみ販売される夏の風物詩だった。九州一円から参拝客があり、戦前は十数軒の店があったが戦後も店を再開したのは僅か5軒で、その中の1店舗が参道沿いから県道31号線沿いに店を移してから年中販売されるようになっている。
なお、名称はぼた餅だが、米粒が残る程度に軽く搗いて丸めた餅ではなく完全な餅を用いるため、形状的には一般的に「あんころ餅」と呼ばれるものの方が近い。
所在地 佐賀県三養基郡みやき町原古賀2338
位置 北緯33度21分38秒 東経130度26分28秒座標: 北緯33度21分38秒 東経130度26分28秒
主祭神 八幡神(応神天皇、神功皇后、武内宿祢)・住吉大神・火具土大神・風神大神(級長津彦神、級長戸辺神、隆信沙門)
社格等 旧村社
創建 元久2年(1205年)
別名 綾部八幡宮・綾部八幡神社
例祭 9月彼岸中日(行列浮立)
主な神事 7月15日(旗上げ神事)
例祭翌日(旗下ろし神事)
2023年06月04日
2023年06月03日
甘棠院(かんとういん)は、埼玉県久喜市本町7丁目にある、第2代古河公方足利政氏が永正16年(1519年)に開いた寺院
甘棠院(かんとういん)は、埼玉県久喜市本町7丁目にある、第2代古河公方足利政氏が永正16年(1519年)に開いた寺院である。山号は永安山(えいあんざん)。臨済宗円覚寺派。
歴史
永正16年(1519年)、久喜に隠退した足利政氏は自らの館を寺として永安山甘棠院とし、子の貞巖(ていがん)を開山とした。その後、政氏に従ってきた家臣たちにより守られ、近世に入ってからも、徳川歴代将軍から朱印地100石を賜る格式を誇っていた。記録によると、政氏が館を寺に改めたのち、建物は天文17年(1548年)に火災により消失、翌年より再建に着手し、天文21年(1552年)に落成した。その後、天明2年(1782年)より4年がかりでさらに建て直しが行われている。さらに何回か手が加えられ、現在の本堂や庫裡は、昭和44年(1969年)からなされた大改修によって完成したものである。歴代住職についてみると、円覚寺や瑞泉寺との関係が深い。
甘棠院が所在している立地は住居表示以前かつて大字久喜本字馬場といい、周囲に比べ高台となっている。東側および西側は低地となっており、南側(南方)に久喜旧市街地が所在し、北側にはかつて大浦沼と称された湿地帯が所在していた。
文化財
重要文化財(国指定)
紙本着色伝貞巖和尚画像
重要美術品(国認定)
十三仏版木
銅製九曜菊散双雀鏡 - 政氏夫人の遺品。
埼玉県指定有形文化財
絹本着色足利政氏像 - 政氏が没する10年前、55、6歳ごろの姿を写した寿像。
埼玉県指定史跡
足利政氏館跡及び墓 - 1925年(大正14年)3月31日指定。
アクセス
久喜駅西口より朝日バス菖蒲仲橋行に乗車、「本町2丁目(乗車約3分)」下車北側へ徒歩約3分。(運賃100円)
久喜駅西口の久喜市内循環バスのりばから「久喜本循環 右回り」または「六万部・北中曽根循環」に乗車、「斉藤医院前(乗車約3分)」下車北側へ徒歩約4分。運賃はいずれも100円(1日乗車券は200円)[4]。
久喜駅西口より徒歩約15分。(道程約1km)
所在地 埼玉県久喜市本町七丁目2-8
位置 北緯36度4分24.3秒 東経139度40分6.7秒
山号 永安山
宗派 臨済宗円覚寺派
本尊 釈迦如来
創建年 永正16年(1519年)
開山 貞巖
開基 足利政氏
歴史
永正16年(1519年)、久喜に隠退した足利政氏は自らの館を寺として永安山甘棠院とし、子の貞巖(ていがん)を開山とした。その後、政氏に従ってきた家臣たちにより守られ、近世に入ってからも、徳川歴代将軍から朱印地100石を賜る格式を誇っていた。記録によると、政氏が館を寺に改めたのち、建物は天文17年(1548年)に火災により消失、翌年より再建に着手し、天文21年(1552年)に落成した。その後、天明2年(1782年)より4年がかりでさらに建て直しが行われている。さらに何回か手が加えられ、現在の本堂や庫裡は、昭和44年(1969年)からなされた大改修によって完成したものである。歴代住職についてみると、円覚寺や瑞泉寺との関係が深い。
甘棠院が所在している立地は住居表示以前かつて大字久喜本字馬場といい、周囲に比べ高台となっている。東側および西側は低地となっており、南側(南方)に久喜旧市街地が所在し、北側にはかつて大浦沼と称された湿地帯が所在していた。
文化財
重要文化財(国指定)
紙本着色伝貞巖和尚画像
重要美術品(国認定)
十三仏版木
銅製九曜菊散双雀鏡 - 政氏夫人の遺品。
埼玉県指定有形文化財
絹本着色足利政氏像 - 政氏が没する10年前、55、6歳ごろの姿を写した寿像。
埼玉県指定史跡
足利政氏館跡及び墓 - 1925年(大正14年)3月31日指定。
アクセス
久喜駅西口より朝日バス菖蒲仲橋行に乗車、「本町2丁目(乗車約3分)」下車北側へ徒歩約3分。(運賃100円)
久喜駅西口の久喜市内循環バスのりばから「久喜本循環 右回り」または「六万部・北中曽根循環」に乗車、「斉藤医院前(乗車約3分)」下車北側へ徒歩約4分。運賃はいずれも100円(1日乗車券は200円)[4]。
久喜駅西口より徒歩約15分。(道程約1km)
所在地 埼玉県久喜市本町七丁目2-8
位置 北緯36度4分24.3秒 東経139度40分6.7秒
山号 永安山
宗派 臨済宗円覚寺派
本尊 釈迦如来
創建年 永正16年(1519年)
開山 貞巖
開基 足利政氏
2023年06月02日
天忍穂別神社(あめのおしほわけじんじゃ/あまのおしほわけじんじゃ)は、高知県香南市香我美町山川にある神社
天忍穂別神社(あめのおしほわけじんじゃ/あまのおしほわけじんじゃ)は、高知県香南市香我美町山川にある神社。式内社で、旧社格は郷社。
参道
祭神
天忍穂耳尊 饒速日命の父神。
境内神社:棚機神社 棚機津女(たなばたつめ)=天萬栲幡千々姫(あめのよろずたくはたちぢひめ)=栲幡千千姫命(たくはたちぢひめ)は天忍穂耳尊の妻。
歴史
創祀年代不詳である。
香南市香我美町山川は、律令体制下『和名類聚抄』承平年間(931年 - 938年)編纂によると、香美郡の大忍郷という記載があり、現在の香我美町全域が大忍郷に包含されていたことが窺われる。(高知県香美郡十万遺跡発掘調査報告書)
土佐南学の谷秦山(名は重遠)が書いた秦山集 宝永2年(1705年)には、夜須町の北方約二里佘、東川村の山川とあり、巻十四の土佐国式社考に県社としての調査結果の記載がある。
棟札には「御石舟社、正和四年乙卯二月日(1315年) 物部末近」と書かれたものと「御石舟社、天正六年戊寅二月二日(1578年) 檀那物部末延萬介尉、神右衛門尉」と書かれたものが二枚現存。
近代社格では明治5年の登録時社格は県社であったが、後に郷社になった。
鳥居
社殿
拝殿
神事
11月15日に秋祭り
文化財
史跡
天忍穂別神社(石舟神社) - 1978年(昭和53年)4月1日指定。
天然記念物
石船神社のヒノキ - 2019年(令和元年)7月3日指定
所在地 高知県香南市香我美町山川字隅ヶ迫(スミガサコ)
位置 北緯33度35分13.1秒 東経133度46分52.4秒
主祭神 天忍穂耳尊
社格等 式内社(小)
旧郷社
別名 石舟神社
参道
祭神
天忍穂耳尊 饒速日命の父神。
境内神社:棚機神社 棚機津女(たなばたつめ)=天萬栲幡千々姫(あめのよろずたくはたちぢひめ)=栲幡千千姫命(たくはたちぢひめ)は天忍穂耳尊の妻。
歴史
創祀年代不詳である。
香南市香我美町山川は、律令体制下『和名類聚抄』承平年間(931年 - 938年)編纂によると、香美郡の大忍郷という記載があり、現在の香我美町全域が大忍郷に包含されていたことが窺われる。(高知県香美郡十万遺跡発掘調査報告書)
土佐南学の谷秦山(名は重遠)が書いた秦山集 宝永2年(1705年)には、夜須町の北方約二里佘、東川村の山川とあり、巻十四の土佐国式社考に県社としての調査結果の記載がある。
棟札には「御石舟社、正和四年乙卯二月日(1315年) 物部末近」と書かれたものと「御石舟社、天正六年戊寅二月二日(1578年) 檀那物部末延萬介尉、神右衛門尉」と書かれたものが二枚現存。
近代社格では明治5年の登録時社格は県社であったが、後に郷社になった。
鳥居
社殿
拝殿
神事
11月15日に秋祭り
文化財
史跡
天忍穂別神社(石舟神社) - 1978年(昭和53年)4月1日指定。
天然記念物
石船神社のヒノキ - 2019年(令和元年)7月3日指定
所在地 高知県香南市香我美町山川字隅ヶ迫(スミガサコ)
位置 北緯33度35分13.1秒 東経133度46分52.4秒
主祭神 天忍穂耳尊
社格等 式内社(小)
旧郷社
別名 石舟神社
2023年06月01日
青蓮寺(しょうれんじ)は、群馬県桐生市にある時宗の寺院
青蓮寺(しょうれんじ)は、群馬県桐生市にある時宗の寺院である。山号は仏守山(ぶっしゅざん)。院号は義国院(ぎこくいん)。本尊は阿弥陀三尊像。
歴史
もと新田荘岩松郷(現・群馬県太田市)にあり、天正年間(1573 - 1592年)上野国金山城主由良成繁により当地に移されたと伝える。岩松郷を本拠とした岩松氏の岩松政経は一遍に帰依し、青蓮寺道空という法名を名乗っている。このことから、政経の活動期である13世紀後半には青蓮寺が存在していたと推定される。本尊阿弥陀三尊像もその頃の造像である。
文化財
重要文化財
銅造阿弥陀如来及両脇侍立像
所在地 群馬県桐生市西久方町一丁目10番11号
位置 北緯36度25分32.4秒 東経139度20分54.0秒
山号 仏守山
宗派 時宗
本尊 阿弥陀如来
創建年 1575年(天正3年)
正式名 仏守山義国院青蓮寺
札所等 桐生七福神福禄寿
文化財 銅造阿弥陀如来及両脇侍立像(重要文化財)
歴史
もと新田荘岩松郷(現・群馬県太田市)にあり、天正年間(1573 - 1592年)上野国金山城主由良成繁により当地に移されたと伝える。岩松郷を本拠とした岩松氏の岩松政経は一遍に帰依し、青蓮寺道空という法名を名乗っている。このことから、政経の活動期である13世紀後半には青蓮寺が存在していたと推定される。本尊阿弥陀三尊像もその頃の造像である。
文化財
重要文化財
銅造阿弥陀如来及両脇侍立像
所在地 群馬県桐生市西久方町一丁目10番11号
位置 北緯36度25分32.4秒 東経139度20分54.0秒
山号 仏守山
宗派 時宗
本尊 阿弥陀如来
創建年 1575年(天正3年)
正式名 仏守山義国院青蓮寺
札所等 桐生七福神福禄寿
文化財 銅造阿弥陀如来及両脇侍立像(重要文化財)
2023年05月31日
祇園橋(ぎおんばし)は、熊本県天草市の町山口川に架かる石橋
祇園橋(ぎおんばし)は、熊本県天草市の町山口川に架かる石橋。日本百名橋に選ばれた。
概要
正式名はないが、北詰めに祇園社があることから祇園(祇園)橋と呼ばれる。 この地方一帯で見られる石造アーチ橋ではなく、石造の板橋ともとれる桁橋構造をしている。石材は下浦産の砂岩を加工したものである。
歴史
町山口川は島原の乱で激戦地となったと観光案会板、パンフレット等にあるが歴史上、文献には一切の記録がなく、郷土史家は早くから否定的だった。 天草・島原の乱で天草四郎軍勢の戦闘記録報告や見聞録が1985年5月、苓北町富岡の旧家で発見された。東大史料編纂所・五野井隆史名誉教授が翌1986年11月、貴重な乱の資料としてマイクロフィルムに収めている。 この資料は乱勃発後、熊本藩や久留米藩などの徳川幕府方の各藩や、従軍していた鉄砲奉行の鈴木重成(後の天草代官)が、戦闘の状況報告を書状にして征討軍の総指揮官・板倉内膳正重昌や大坂城代、江戸にあてたものの写しで、94枚の古文書。幕府が保管していたものを書き写し、ある時期に、天領の天草に持ち込んだものと見られる。(熊本日日新聞1985年5月17日付)それによると四郎軍は本渡町茂木根の海岸に上陸し、馬に乗って本渡を攻めるが途中、中村、今釜の地名は出てくるが、町山口川の地名は出てこない。むしろ広瀬川の小高い丘に富岡番台・三宅藤兵衛がこの地で激戦後、討ち死にし後、墓も作られている。上陸後、富岡を目指す四郎軍の軌跡と一致する。 東京出身の造船技師で詩人の橋本徳寿氏の詩「町山口川の流れせきとめし殉教者のむくろ数百千にして名をとゞめず」は地元の観光関係者からの聞き取りで作られたもので、しかもその詩碑は天草五橋開通当時に、観光振興のため氏の意思に関係なく作られたと『天草日記』(橋本徳寿著)に書かれている。
1832年、町山口村の庄屋・大谷健之助が発起人、下浦村の石屋辰右衛門が棟梁となって造られ、1975年には熊本県の文化財に指定された。
1997年7月に祇園社と祇園橋の間にあった「南蛮えのき」が伐採され、同年12月、国の重要文化財に指定された。
交通アクセス
熊本桜町バスターミナル・熊本駅から九州産交バスあまくさ号に乗車し「本渡バスセンター」下車。のってみゅうかーに乗り換え「中央新町」下車すぐ。
九州自動車道松橋インターチェンジより71q。
国 日本
所在地 熊本県天草市
交差物件 町山口川
建設 1832年
座標 北緯32度27分23秒 東経130度11分17秒
構造諸元
形式 10径間桁橋構造
材料 砂岩
全長 28.6m
幅 3.3m
概要
正式名はないが、北詰めに祇園社があることから祇園(祇園)橋と呼ばれる。 この地方一帯で見られる石造アーチ橋ではなく、石造の板橋ともとれる桁橋構造をしている。石材は下浦産の砂岩を加工したものである。
歴史
町山口川は島原の乱で激戦地となったと観光案会板、パンフレット等にあるが歴史上、文献には一切の記録がなく、郷土史家は早くから否定的だった。 天草・島原の乱で天草四郎軍勢の戦闘記録報告や見聞録が1985年5月、苓北町富岡の旧家で発見された。東大史料編纂所・五野井隆史名誉教授が翌1986年11月、貴重な乱の資料としてマイクロフィルムに収めている。 この資料は乱勃発後、熊本藩や久留米藩などの徳川幕府方の各藩や、従軍していた鉄砲奉行の鈴木重成(後の天草代官)が、戦闘の状況報告を書状にして征討軍の総指揮官・板倉内膳正重昌や大坂城代、江戸にあてたものの写しで、94枚の古文書。幕府が保管していたものを書き写し、ある時期に、天領の天草に持ち込んだものと見られる。(熊本日日新聞1985年5月17日付)それによると四郎軍は本渡町茂木根の海岸に上陸し、馬に乗って本渡を攻めるが途中、中村、今釜の地名は出てくるが、町山口川の地名は出てこない。むしろ広瀬川の小高い丘に富岡番台・三宅藤兵衛がこの地で激戦後、討ち死にし後、墓も作られている。上陸後、富岡を目指す四郎軍の軌跡と一致する。 東京出身の造船技師で詩人の橋本徳寿氏の詩「町山口川の流れせきとめし殉教者のむくろ数百千にして名をとゞめず」は地元の観光関係者からの聞き取りで作られたもので、しかもその詩碑は天草五橋開通当時に、観光振興のため氏の意思に関係なく作られたと『天草日記』(橋本徳寿著)に書かれている。
1832年、町山口村の庄屋・大谷健之助が発起人、下浦村の石屋辰右衛門が棟梁となって造られ、1975年には熊本県の文化財に指定された。
1997年7月に祇園社と祇園橋の間にあった「南蛮えのき」が伐採され、同年12月、国の重要文化財に指定された。
交通アクセス
熊本桜町バスターミナル・熊本駅から九州産交バスあまくさ号に乗車し「本渡バスセンター」下車。のってみゅうかーに乗り換え「中央新町」下車すぐ。
九州自動車道松橋インターチェンジより71q。
国 日本
所在地 熊本県天草市
交差物件 町山口川
建設 1832年
座標 北緯32度27分23秒 東経130度11分17秒
構造諸元
形式 10径間桁橋構造
材料 砂岩
全長 28.6m
幅 3.3m
2023年05月30日
海住山寺(かいじゅうせんじ)は、京都府木津川市加茂町例幣海住山にある真言宗智山派の寺院
海住山寺(かいじゅうせんじ)は、京都府木津川市加茂町例幣海住山にある真言宗智山派の寺院。山号は補陀洛山(ふだらくさん)。本尊は十一面観音。かつて恭仁京があった瓶原(みかのはら)を見下ろす三上山(海住山)中腹に位置する。奈良時代の創建を伝え、鎌倉時代に貞慶によって中興された。国宝の五重塔で知られる。仏塔古寺十八尊第3番札所。
五重塔(国宝)
歴史
当寺の創建事情については必ずしも明らかではないが、寺伝では天平7年(735年)、 聖武天皇の勅願により良弁(奈良東大寺の初代別当)を開山として藤尾山観音寺という寺号で開創したという。伝承によれば、聖武天皇は、平城京の鬼門にあたる現・海住山寺の地に伽藍を建立すれば、東大寺大仏の造立が無事成就するであろうとの夢告を受け、良弁に命じて一寺を建立させた。良弁が感得した十一面観音像を本尊として開創したのが、海住山寺の前身の観音寺であるという。なお、史実としては聖武天皇が大仏建立の詔を発したのは天平15年(743年)であり、平城京の地で大仏造立を開始したのは天平17年(745年)である。
その後、保延3年(1137年)に全山焼失し、70年余の間、再建されなかったという。海住山寺の歴史が史実として確認できるのは鎌倉時代の13世紀以降であるが、現本尊の十一面観音像は様式から10世紀頃の造像とみられ、その頃には海住山寺の前身寺院が存在した可能性がある。
寺は承元2年(1208年)11月、貞慶によって中興され、観音寺から補陀洛山海住山寺に改められた。貞慶は解脱上人(げだつしょうにん)とも称する平安時代末期 - 鎌倉時代初期の僧で、当時勢力を増しつつあった専修念仏の浄土宗を激しく批判し、戒律の復興に努めた。貞慶はもと興福寺に属したが、南都仏教の堕落と俗化を憂い、建久3年(1192年)、南山城の笠置寺に移った。その後、上述のように承元2年(1208年)に海住山寺に移り、建暦3年(1213年)に59歳で没するまで、晩年の5年ほどをこの地で過ごした。
海住山寺という寺号の由来については、『明本抄』「良算聞書」に以下のようにある。まず、「海」とは、観音の衆生を救済しようという誓願が海のように広大であることを意味し、海のような観音の誓願に安住するという意味があるとする。また、インドの仏教では観音の住処は南方海中の補陀洛山(ポータラカ山)にあるとされ、当寺を海に住する山である補陀洛山になぞらえる意味もあるという。
貞慶の没後は、その弟子の覚真が後を継いだ。覚真は出家前の俗名を藤原長房といい、貴族として参議にまで上った人物であったが、41歳にして出家し、貞慶の弟子となった。海住山寺の文書には、貞慶の一周忌にあたる建保2年(1224年)、覚真が仏舎利七粒を塔に安置したとの記録があり[注釈 1]、これが現存する五重塔の完成を意味するものと解釈されている。
室町時代には塔頭58ヶ坊を数えていたが、豊臣秀吉による太閤検地によって痛手を受けている。
海住山寺は近世まで興福寺(法相宗本山)の末寺にあったが、明治以降は真言宗智山派に転じている。
本堂
文化財
国宝
五重塔
重要文化財
文殊堂 - 鎌倉時代、銅板葺。
木造十一面観音立像 - 本堂安置、平安時代、像高189cm、一木造。
木造十一面観音立像 - 平安時代、奥の院像、像高45.5cm、一木造。
木造四天王立像 - 鎌倉時代。「大仏殿様」と呼ばれる東大寺鎌倉復興像の模刻像。奈良国立博物館寄託。
絹本著色法華経曼荼羅図 - 鎌倉時代。京都国立博物館寄託。
海住山寺文書(24通)16巻 - 鎌倉時代から室町時代。京都国立博物館寄託。
京都府指定有形文化財
絹本著色釈迦三尊十六羅漢図 3幅(絵画) - 奈良国立博物館寄託。1986年(昭和61年)4月15日指定。
絹本著色春日宮曼荼羅十六善神図(絵画) - 京都国立博物館寄託。2002年(平成14年)3月26日指定。
梵鐘(工芸品) - 室町時代、大永7年(1527年)の鋳物師丹治国忠作。奈良国立博物館寄託。1983年(昭和58年)4月15日指定。
木造扁額「海住山寺」 2面(工芸品) - 奈良国立博物館寄託。1992年(平成4年)4月14日指定。
楼門扁額 - 鎌倉時代。
本堂扁額 - 鎌倉時代。
金銅能作性塔・木造彩色宝珠台(工芸品) - 2022年(令和4年)3月22日指定。
文殊堂(重要文化財)
山門
利用情報
開門時間・9時 - 16時30分
入山料 - 山内無料、本堂・本坊拝観300円
所在地
〒619-1106 京都府木津川市加茂町例幣海住山境外20
交通アクセス
関西本線(JR西日本)加茂駅→奈良交通バス「和束町小杉」方面行きで3分、「岡崎」下車、徒歩40分
木津川市コミュニティバス「海住山寺口」下車徒歩25分(土日祝日運休で、平日も運転本数が少ないので注意)
駐車場 - あり
※バスは本数少なく、下車後、坂道を長時間歩くことになるので、自家用車またはタクシーの利用が現実的である。
五重塔(国宝)
歴史
当寺の創建事情については必ずしも明らかではないが、寺伝では天平7年(735年)、 聖武天皇の勅願により良弁(奈良東大寺の初代別当)を開山として藤尾山観音寺という寺号で開創したという。伝承によれば、聖武天皇は、平城京の鬼門にあたる現・海住山寺の地に伽藍を建立すれば、東大寺大仏の造立が無事成就するであろうとの夢告を受け、良弁に命じて一寺を建立させた。良弁が感得した十一面観音像を本尊として開創したのが、海住山寺の前身の観音寺であるという。なお、史実としては聖武天皇が大仏建立の詔を発したのは天平15年(743年)であり、平城京の地で大仏造立を開始したのは天平17年(745年)である。
その後、保延3年(1137年)に全山焼失し、70年余の間、再建されなかったという。海住山寺の歴史が史実として確認できるのは鎌倉時代の13世紀以降であるが、現本尊の十一面観音像は様式から10世紀頃の造像とみられ、その頃には海住山寺の前身寺院が存在した可能性がある。
寺は承元2年(1208年)11月、貞慶によって中興され、観音寺から補陀洛山海住山寺に改められた。貞慶は解脱上人(げだつしょうにん)とも称する平安時代末期 - 鎌倉時代初期の僧で、当時勢力を増しつつあった専修念仏の浄土宗を激しく批判し、戒律の復興に努めた。貞慶はもと興福寺に属したが、南都仏教の堕落と俗化を憂い、建久3年(1192年)、南山城の笠置寺に移った。その後、上述のように承元2年(1208年)に海住山寺に移り、建暦3年(1213年)に59歳で没するまで、晩年の5年ほどをこの地で過ごした。
海住山寺という寺号の由来については、『明本抄』「良算聞書」に以下のようにある。まず、「海」とは、観音の衆生を救済しようという誓願が海のように広大であることを意味し、海のような観音の誓願に安住するという意味があるとする。また、インドの仏教では観音の住処は南方海中の補陀洛山(ポータラカ山)にあるとされ、当寺を海に住する山である補陀洛山になぞらえる意味もあるという。
貞慶の没後は、その弟子の覚真が後を継いだ。覚真は出家前の俗名を藤原長房といい、貴族として参議にまで上った人物であったが、41歳にして出家し、貞慶の弟子となった。海住山寺の文書には、貞慶の一周忌にあたる建保2年(1224年)、覚真が仏舎利七粒を塔に安置したとの記録があり[注釈 1]、これが現存する五重塔の完成を意味するものと解釈されている。
室町時代には塔頭58ヶ坊を数えていたが、豊臣秀吉による太閤検地によって痛手を受けている。
海住山寺は近世まで興福寺(法相宗本山)の末寺にあったが、明治以降は真言宗智山派に転じている。
本堂
文化財
国宝
五重塔
重要文化財
文殊堂 - 鎌倉時代、銅板葺。
木造十一面観音立像 - 本堂安置、平安時代、像高189cm、一木造。
木造十一面観音立像 - 平安時代、奥の院像、像高45.5cm、一木造。
木造四天王立像 - 鎌倉時代。「大仏殿様」と呼ばれる東大寺鎌倉復興像の模刻像。奈良国立博物館寄託。
絹本著色法華経曼荼羅図 - 鎌倉時代。京都国立博物館寄託。
海住山寺文書(24通)16巻 - 鎌倉時代から室町時代。京都国立博物館寄託。
京都府指定有形文化財
絹本著色釈迦三尊十六羅漢図 3幅(絵画) - 奈良国立博物館寄託。1986年(昭和61年)4月15日指定。
絹本著色春日宮曼荼羅十六善神図(絵画) - 京都国立博物館寄託。2002年(平成14年)3月26日指定。
梵鐘(工芸品) - 室町時代、大永7年(1527年)の鋳物師丹治国忠作。奈良国立博物館寄託。1983年(昭和58年)4月15日指定。
木造扁額「海住山寺」 2面(工芸品) - 奈良国立博物館寄託。1992年(平成4年)4月14日指定。
楼門扁額 - 鎌倉時代。
本堂扁額 - 鎌倉時代。
金銅能作性塔・木造彩色宝珠台(工芸品) - 2022年(令和4年)3月22日指定。
文殊堂(重要文化財)
山門
利用情報
開門時間・9時 - 16時30分
入山料 - 山内無料、本堂・本坊拝観300円
所在地
〒619-1106 京都府木津川市加茂町例幣海住山境外20
交通アクセス
関西本線(JR西日本)加茂駅→奈良交通バス「和束町小杉」方面行きで3分、「岡崎」下車、徒歩40分
木津川市コミュニティバス「海住山寺口」下車徒歩25分(土日祝日運休で、平日も運転本数が少ないので注意)
駐車場 - あり
※バスは本数少なく、下車後、坂道を長時間歩くことになるので、自家用車またはタクシーの利用が現実的である。
2023年05月29日
旧笹川家住宅(きゅう ささがわけじゅうたく)は、新潟県新潟市南区味方に所在する歴史的建造物
旧笹川家住宅(きゅう ささがわけじゅうたく)は、新潟県新潟市南区味方に所在する歴史的建造物。通称笹川邸。1万4000平方メートルの敷地を有し、主屋など11棟の建造物と土地が国の重要文化財に指定されている。
所有者は新潟市であり、管理業務は同市南区地域課が行っている。
概要
江戸時代初期の慶安2年(1649年)から明治維新(1868年)まで9代にわたって村上藩味方組8カ村(味方・白根・板井・木場・黒鳥・北場・亀貝・小新)の大庄屋(おおじょうや)を勤めた笹川家の旧宅である。
味方組は村上藩の飛び領地、四万石領のひとつであった。七左衛門朋通(6代目)の代には、村上四万石領騒動が起こった。
米蔵に収納された年貢米は、中ノ口川を利用して新潟湊に輸送された。
笹川家は、もともと甲斐の武田家の出といわれ、武田氏の滅亡後、信州笹川村(現在の長野県飯山市)を経てこの地に移住してきたのだとされる。土蔵裏手の墓地には、武田姓の墓碑が何基か残してある。
敷地内には日本庭園が開け、一隅に「椎落葉掃き悠久の人住めり」と高浜虚子の句碑がある。
1953年(昭和28年)、柳宗悦、浜田庄司らとともに笹川家を訪れたイギリスの陶芸家バーナード・リーチは「わたしのこれまでに見たうちで最も魅力ある家屋の一つ」と、この家の印象を手記に書き残している。
建築
当住宅の特色は、大庄屋の役宅としての「主屋」の部分と、家族の日常生活の場である「居室」の部分が別棟となり、公私が明確に分けられている点にある。主屋(重要文化財指定名称は「表座敷及び台所」)は、東を正面として建てられ、桁行15間半(34.3メートル)、梁間7間(17.6メートル)。寄棟造、銅板葺き(もとはこけら葺き)。棟札から文政9年(1826年)の上棟と判明する。
主屋の正面左寄りには切妻造の式台玄関が突出する。そのすぐ右手(北)には柵を設けた脇玄関があり、そのさらに右手に一般玄関、もっとも右(下手)には土間への入口がある。このように、建物正面には4つもの入口がある。
式台玄関を入った先は18畳の「三の間」、その下手(右)、すなわち脇玄関を入ったところには28畳の「広間」がある。「三の間」の上手(左)には「二の間」があり、「二の間」の西には「上段の間」がある。「三の間」「二の間」「上段の間」の3室は矩折り(L字形)に連なり、役宅の接客用の表座敷を構成する。これらの室の外側には畳廊下と濡縁を回す。「二の間」と「上段の間」は、普通の畳を敷けばそれぞれ15畳及び12畳半の広さだが、本住宅の場合は特別に大きいサイズの畳を敷き、それぞれ12畳及び9畳になっている。以上の各室は内法(床から鴨居までの高さ)が高く、その分、建具も大型になっている。「広間」は梁組を現し、そのさらに上方に天井を張るため、天井高は4.9メートルに達する。
主屋の下手(北側)には土間を設け、土間の奥(西側)には板敷の「台所」(「囲炉裏の間」とも)がある。ここは往時は笹川家の使用人のたまり場になっていた。
居室部棟は、主屋の背後(西)に別棟で建ち、主屋とは渡廊下で接続している。桁行12間半(26.5メートル)、梁間5間(13.0メートル)。寄棟造、桟瓦葺き。棟札から、主屋よりやや早い文政4年(1821年)の上棟と判明する。居室部は主屋とは異なって棟を東西方向にして建てられており、内部は多くの室に分けられ、茶の間や家族用の座敷などを設ける。主体部南側の東端と西端に突出部を設け、さらに北側中央付近には「勝手」が突出する。東の突出部は客間であり、西の突出部は納戸(寝室)などを設ける。西の突出部のさらに先には矩折りに仏間がある。西の突出部の2階は明治末期に増築したもので、もとは平屋建てであった。
観覧料
近隣に所在する新潟市曽我・平澤記念館との一体的な運営が行われている。観覧料は両施設とも同一額で、どちらか一方の観覧料を支払えば、当日中に両施設とも観覧することができる。
一般(15歳以上) 500円
小・中学生 300円
20人以上の団体には割引が適用される。
一般 400円
小・中学生 200円
交通
新潟交通 W8 味方線「笹川邸入口」バス停より東へ徒歩約3分
W80系統(青山 - 味方・月潟)・W81系統(青山 - 木場・味方・潟東営業所)のいずれも利用可能。青山発着の路線であるため、新潟駅方面からはBRT萬代橋ラインからの乗り換えとなる。
北陸自動車道・巻潟東ICから車で約20分
国道8号・白根四ツ興野交差点から車で約5分
正式名称 重要文化財旧笹川家住宅
事業主体 新潟市
管理運営 新潟市(南区役所 地域課)
所在地 〒950-1261
新潟県新潟市南区味方216番地
位置 北緯37度46分35.0秒 東経139度0分36.0秒
所有者は新潟市であり、管理業務は同市南区地域課が行っている。
概要
江戸時代初期の慶安2年(1649年)から明治維新(1868年)まで9代にわたって村上藩味方組8カ村(味方・白根・板井・木場・黒鳥・北場・亀貝・小新)の大庄屋(おおじょうや)を勤めた笹川家の旧宅である。
味方組は村上藩の飛び領地、四万石領のひとつであった。七左衛門朋通(6代目)の代には、村上四万石領騒動が起こった。
米蔵に収納された年貢米は、中ノ口川を利用して新潟湊に輸送された。
笹川家は、もともと甲斐の武田家の出といわれ、武田氏の滅亡後、信州笹川村(現在の長野県飯山市)を経てこの地に移住してきたのだとされる。土蔵裏手の墓地には、武田姓の墓碑が何基か残してある。
敷地内には日本庭園が開け、一隅に「椎落葉掃き悠久の人住めり」と高浜虚子の句碑がある。
1953年(昭和28年)、柳宗悦、浜田庄司らとともに笹川家を訪れたイギリスの陶芸家バーナード・リーチは「わたしのこれまでに見たうちで最も魅力ある家屋の一つ」と、この家の印象を手記に書き残している。
建築
当住宅の特色は、大庄屋の役宅としての「主屋」の部分と、家族の日常生活の場である「居室」の部分が別棟となり、公私が明確に分けられている点にある。主屋(重要文化財指定名称は「表座敷及び台所」)は、東を正面として建てられ、桁行15間半(34.3メートル)、梁間7間(17.6メートル)。寄棟造、銅板葺き(もとはこけら葺き)。棟札から文政9年(1826年)の上棟と判明する。
主屋の正面左寄りには切妻造の式台玄関が突出する。そのすぐ右手(北)には柵を設けた脇玄関があり、そのさらに右手に一般玄関、もっとも右(下手)には土間への入口がある。このように、建物正面には4つもの入口がある。
式台玄関を入った先は18畳の「三の間」、その下手(右)、すなわち脇玄関を入ったところには28畳の「広間」がある。「三の間」の上手(左)には「二の間」があり、「二の間」の西には「上段の間」がある。「三の間」「二の間」「上段の間」の3室は矩折り(L字形)に連なり、役宅の接客用の表座敷を構成する。これらの室の外側には畳廊下と濡縁を回す。「二の間」と「上段の間」は、普通の畳を敷けばそれぞれ15畳及び12畳半の広さだが、本住宅の場合は特別に大きいサイズの畳を敷き、それぞれ12畳及び9畳になっている。以上の各室は内法(床から鴨居までの高さ)が高く、その分、建具も大型になっている。「広間」は梁組を現し、そのさらに上方に天井を張るため、天井高は4.9メートルに達する。
主屋の下手(北側)には土間を設け、土間の奥(西側)には板敷の「台所」(「囲炉裏の間」とも)がある。ここは往時は笹川家の使用人のたまり場になっていた。
居室部棟は、主屋の背後(西)に別棟で建ち、主屋とは渡廊下で接続している。桁行12間半(26.5メートル)、梁間5間(13.0メートル)。寄棟造、桟瓦葺き。棟札から、主屋よりやや早い文政4年(1821年)の上棟と判明する。居室部は主屋とは異なって棟を東西方向にして建てられており、内部は多くの室に分けられ、茶の間や家族用の座敷などを設ける。主体部南側の東端と西端に突出部を設け、さらに北側中央付近には「勝手」が突出する。東の突出部は客間であり、西の突出部は納戸(寝室)などを設ける。西の突出部のさらに先には矩折りに仏間がある。西の突出部の2階は明治末期に増築したもので、もとは平屋建てであった。
観覧料
近隣に所在する新潟市曽我・平澤記念館との一体的な運営が行われている。観覧料は両施設とも同一額で、どちらか一方の観覧料を支払えば、当日中に両施設とも観覧することができる。
一般(15歳以上) 500円
小・中学生 300円
20人以上の団体には割引が適用される。
一般 400円
小・中学生 200円
交通
新潟交通 W8 味方線「笹川邸入口」バス停より東へ徒歩約3分
W80系統(青山 - 味方・月潟)・W81系統(青山 - 木場・味方・潟東営業所)のいずれも利用可能。青山発着の路線であるため、新潟駅方面からはBRT萬代橋ラインからの乗り換えとなる。
北陸自動車道・巻潟東ICから車で約20分
国道8号・白根四ツ興野交差点から車で約5分
正式名称 重要文化財旧笹川家住宅
事業主体 新潟市
管理運営 新潟市(南区役所 地域課)
所在地 〒950-1261
新潟県新潟市南区味方216番地
位置 北緯37度46分35.0秒 東経139度0分36.0秒
2023年05月28日
意足寺(いそくじ)は、福井県大飯郡おおい町万願寺にある曹洞宗の寺院
意足寺(いそくじ)は、福井県大飯郡おおい町万願寺にある曹洞宗の寺院。山号は湯谷山。本尊は十一面千手観音菩薩。寺伝によれば延暦24年(805年)に心安宗隆大居士により開基され、規伯正模禅師勝が開山したと伝えられる。当初は小浜市太良荘長英寺にあったが、江戸時代初期に現在地の万願寺跡地に移転した。
文化財
重要文化財
木造千手観音立像(附 紙本墨書千手千眼陀羅尼経 1巻)
本像は身体から台座までヒノキの一木造、平安時代の作、像高は109.0cm、天冠上に10面の化仏をいただく42臂の千手観音立像である。
解体修理の際、像内に千手千眼陀羅尼経(附指定)が納められているのが確認された。応徳元年(1084年)の奥書があり、千手観音を造立する際に写経されたものと考えられる。
台風被害
昭和28年(1953年)の台風13号[3]で寺背後の山が崩れ、観音堂や庫裏が流出した。住職夫婦は亡くなったが、本尊は被害の直後、土砂の下から地元住民らによって発掘された。住民の多くが台風の被害に遭い、自宅に損害を受けた者も少なくなかったが、住民は本尊の救出を優先し、これが像の損傷を最低限に食い止めた大きな要因となった。迅速な発掘作業の結果、散逸した脇手などもほぼ全て回収され、像容も著しいダメージを受けることなく修復が可能となった。
交通アクセス
JR小浜線若狭本郷駅から車で15分
舞鶴若狭自動車道:大飯高浜ICから約4km
若狭西部広域農道多田から約4km
所在地 福井県大飯郡おおい町万願寺7-5
位置 北緯35度27分50.9秒 東経135度35分46.3秒
山号 旧湯谷山(ゆだにさん)→現萬願山(まんがんざん)
宗派 曹洞宗
本尊 十一面千手観音菩薩
創建年 (伝)延暦24年(805年)
開基 規伯正模禅師
正式名 湯谷山意足寺
文化財 木造千手観音菩薩立像(重要文化財)
文化財
重要文化財
木造千手観音立像(附 紙本墨書千手千眼陀羅尼経 1巻)
本像は身体から台座までヒノキの一木造、平安時代の作、像高は109.0cm、天冠上に10面の化仏をいただく42臂の千手観音立像である。
解体修理の際、像内に千手千眼陀羅尼経(附指定)が納められているのが確認された。応徳元年(1084年)の奥書があり、千手観音を造立する際に写経されたものと考えられる。
台風被害
昭和28年(1953年)の台風13号[3]で寺背後の山が崩れ、観音堂や庫裏が流出した。住職夫婦は亡くなったが、本尊は被害の直後、土砂の下から地元住民らによって発掘された。住民の多くが台風の被害に遭い、自宅に損害を受けた者も少なくなかったが、住民は本尊の救出を優先し、これが像の損傷を最低限に食い止めた大きな要因となった。迅速な発掘作業の結果、散逸した脇手などもほぼ全て回収され、像容も著しいダメージを受けることなく修復が可能となった。
交通アクセス
JR小浜線若狭本郷駅から車で15分
舞鶴若狭自動車道:大飯高浜ICから約4km
若狭西部広域農道多田から約4km
所在地 福井県大飯郡おおい町万願寺7-5
位置 北緯35度27分50.9秒 東経135度35分46.3秒
山号 旧湯谷山(ゆだにさん)→現萬願山(まんがんざん)
宗派 曹洞宗
本尊 十一面千手観音菩薩
創建年 (伝)延暦24年(805年)
開基 規伯正模禅師
正式名 湯谷山意足寺
文化財 木造千手観音菩薩立像(重要文化財)
2023年05月27日
阿多由太神社(あたゆたじんじゃ)は、岐阜県高山市にある神社
阿多由太神社(あたゆたじんじゃ)は、岐阜県高山市にある神社。
式内社であり、延喜式神名帳の飛騨国内八社の一つである。旧社格は郷社。本殿は国の重要文化財に指定されている。同じく本殿が2016年に日本遺産「飛騨匠の技・こころ / 国府盆地の中世社寺建築群」の一つとして認定された。
概要
創建時期は不明である。日本三代実録によると貞観9年(867年)に従五位上を授けられており、古くから位の高い神社であったことが確認できる。江戸時代には権現宮と称されていた。文化年間の調査で、式内社の荒城神社とされたが、再調査の末、式内社の阿多由太神社であることが判明する。そのころ、権現宮から阿多由太神社に改称する。
文化財
重要文化財(国指定)
本殿 - 室町時代後期の建立。三間社流見世棚造(さんげんしゃながれみせだなづくり)、柿葺。1961年(昭和36年)に指定された。
岐阜県指定文化財
木造随身(一対) - 平安時代の作とされる木造の神像。
高山市指定文化財
阿多由太神社稲荷社殿 - 嘉永年代の作とされる。
祭神
主神
大歳御祖神
大物主神
配祀
家津御子神
早玉之男神
熊野久須美命
阿須波之神
合祀
大己貴命
崇徳天皇
交通
高山本線飛騨国府駅より徒歩25分。
所在地 岐阜県高山市国府町木曽垣内1023
位置 北緯36度13分15.20秒 東経137度13分3.23秒
主祭神 大歳御祖神
社格等 式内社 旧郷社
式内社であり、延喜式神名帳の飛騨国内八社の一つである。旧社格は郷社。本殿は国の重要文化財に指定されている。同じく本殿が2016年に日本遺産「飛騨匠の技・こころ / 国府盆地の中世社寺建築群」の一つとして認定された。
概要
創建時期は不明である。日本三代実録によると貞観9年(867年)に従五位上を授けられており、古くから位の高い神社であったことが確認できる。江戸時代には権現宮と称されていた。文化年間の調査で、式内社の荒城神社とされたが、再調査の末、式内社の阿多由太神社であることが判明する。そのころ、権現宮から阿多由太神社に改称する。
文化財
重要文化財(国指定)
本殿 - 室町時代後期の建立。三間社流見世棚造(さんげんしゃながれみせだなづくり)、柿葺。1961年(昭和36年)に指定された。
岐阜県指定文化財
木造随身(一対) - 平安時代の作とされる木造の神像。
高山市指定文化財
阿多由太神社稲荷社殿 - 嘉永年代の作とされる。
祭神
主神
大歳御祖神
大物主神
配祀
家津御子神
早玉之男神
熊野久須美命
阿須波之神
合祀
大己貴命
崇徳天皇
交通
高山本線飛騨国府駅より徒歩25分。
所在地 岐阜県高山市国府町木曽垣内1023
位置 北緯36度13分15.20秒 東経137度13分3.23秒
主祭神 大歳御祖神
社格等 式内社 旧郷社
2023年05月26日
称名寺(しょうみょうじ)は、神奈川県横浜市金沢区金沢町にある真言律宗別格本山の寺院
称名寺(しょうみょうじ)は、神奈川県横浜市金沢区金沢町にある真言律宗別格本山の寺院。山号は金沢山(きんたくさん)。本尊は弥勒菩薩。新四国東国八十八箇所霊場七十五番。
庭園
歴史
中世
北条氏の一族である金沢(かねさわ)北条氏の祖、北条実時(1224年 - 1276年)が開基した。創建時期については確実なことはわかっていないが、1258年(正嘉2年)実時が六浦荘金沢の居館内に建てた持仏堂(阿弥陀堂)がその起源とされる。のち1267年(文永4年)、鎌倉の極楽寺忍性の推薦により下野薬師寺の僧・審海を開山に招いて真言律宗の寺となった。金沢北条氏一族の菩提寺として鎌倉時代を通じて発展し、2代顕時、3代貞顕の代に伽藍や庭園が整備された。
称名寺と縁の深い金沢文庫(かねさわぶんこ)は、実時が病で没する直前の1275年(建治元年)ころ、居館内に文庫を設けたのが起源とされる。文庫には、実時が収集した政治、歴史、文学、仏教などに関わる書籍が収められていた。
嘉元4年(1306年)、称名寺造営料獲得のため元へ交易船(寺社造営料唐船)が派遣され、称名寺の僧である俊如房(快誉)が乗船したことが金沢文庫の古文書に見られる。また、鎌倉時代の千葉寺や大日堂で書写された仏教関係の文書が多数残されており、東京湾の水運を使って僧侶が金沢と千葉の間を頻繁に往来していたことが窺える。当時の称名寺は関東有数の学問寺であり、「金沢学校」とも呼ばれた。
1333年、鎌倉幕府とともに金沢北条氏が滅び、大きな後ろ盾を失った。金沢文庫の管理も菩提寺の称名寺にゆだねられたが、寺運の衰退とともに蔵書も次第に散逸した。
近世
徳川家康は多くの蔵書を紅葉山文庫に移した。金沢文庫印が捺された古書・古写本は「金沢文庫本」と呼ばれ、現在も日本各地に残っている。一方、大幅な復興が実現し、現存する建物が作られた。
近代以降
金沢文庫は、1930年(昭和5年)、神奈川県立金沢文庫(かなざわぶんこ)として復興、県立図書館として活動してきた。1990年(平成2年)には新館が完成し、現在は、中世文化に関する博物館兼図書館の役割を果たしている。称名寺所蔵の文化財は、本尊弥勒菩薩像など一部を除いて、金沢文庫に寄託されている。金沢文庫には、称名寺の文化財などを展示する展示室と図書閲覧室がある。
2005年(平成17年)11月20日 には、 明仁天皇・皇后美智子(いずれも当時)が来訪している。
称名寺赤門
境内
境内は国の史跡に指定されている。赤門、仁王門、金堂、釈迦堂などがある。
金堂前の阿字ヶ池を中心とする浄土式庭園は、1320年(元応2年)、金沢氏3代貞顕の代に整備されたものである。浄土式庭園とは、浄土曼荼羅に基づいて配置された庭園のことで、平安時代末期に盛んにつくられた。浄土式庭園は古図(重要文化財・称名寺絵図)や発掘調査の成果に基づいて、1987年(昭和62年)に復元整備が完了した。平橋、反橋の2橋が復元されており、平橋は橋長17m、反橋は橋長18mである。1991年(平成3年)にかながわの橋100選に認定されている。
塔頭としては光明院(運慶作の大威徳明王像を所蔵)と大宝院がある。
金堂
仁王門
交通
京急本線金沢文庫駅から京浜急行バス柴町行(文13系統)で10分
金沢シーサイドライン海の公園南口駅または海の公園柴口駅より徒歩10分
所在地 神奈川県横浜市金沢区金沢町212-1
位置 北緯35度20分39.05秒 東経139度37分49.41秒
山号 金沢山
院号 彌勒院
宗派 真言律宗
寺格 別格本山
本尊 弥勒菩薩(重要文化財)
創建年 伝・1258年(正嘉2年)
開山 審海
開基 北条実時
札所等 新四国東国八十八箇所霊場75番
金沢八景
文化財 絹本著色北条実時像・北条顕時像・金沢貞顕像・金沢貞将像、文選集注(国宝)
木造弥勒菩薩立像、銅鐘、金銅装宝篋印塔ほか(重要文化財)
境内(国の史跡)
庭園
歴史
中世
北条氏の一族である金沢(かねさわ)北条氏の祖、北条実時(1224年 - 1276年)が開基した。創建時期については確実なことはわかっていないが、1258年(正嘉2年)実時が六浦荘金沢の居館内に建てた持仏堂(阿弥陀堂)がその起源とされる。のち1267年(文永4年)、鎌倉の極楽寺忍性の推薦により下野薬師寺の僧・審海を開山に招いて真言律宗の寺となった。金沢北条氏一族の菩提寺として鎌倉時代を通じて発展し、2代顕時、3代貞顕の代に伽藍や庭園が整備された。
称名寺と縁の深い金沢文庫(かねさわぶんこ)は、実時が病で没する直前の1275年(建治元年)ころ、居館内に文庫を設けたのが起源とされる。文庫には、実時が収集した政治、歴史、文学、仏教などに関わる書籍が収められていた。
嘉元4年(1306年)、称名寺造営料獲得のため元へ交易船(寺社造営料唐船)が派遣され、称名寺の僧である俊如房(快誉)が乗船したことが金沢文庫の古文書に見られる。また、鎌倉時代の千葉寺や大日堂で書写された仏教関係の文書が多数残されており、東京湾の水運を使って僧侶が金沢と千葉の間を頻繁に往来していたことが窺える。当時の称名寺は関東有数の学問寺であり、「金沢学校」とも呼ばれた。
1333年、鎌倉幕府とともに金沢北条氏が滅び、大きな後ろ盾を失った。金沢文庫の管理も菩提寺の称名寺にゆだねられたが、寺運の衰退とともに蔵書も次第に散逸した。
近世
徳川家康は多くの蔵書を紅葉山文庫に移した。金沢文庫印が捺された古書・古写本は「金沢文庫本」と呼ばれ、現在も日本各地に残っている。一方、大幅な復興が実現し、現存する建物が作られた。
近代以降
金沢文庫は、1930年(昭和5年)、神奈川県立金沢文庫(かなざわぶんこ)として復興、県立図書館として活動してきた。1990年(平成2年)には新館が完成し、現在は、中世文化に関する博物館兼図書館の役割を果たしている。称名寺所蔵の文化財は、本尊弥勒菩薩像など一部を除いて、金沢文庫に寄託されている。金沢文庫には、称名寺の文化財などを展示する展示室と図書閲覧室がある。
2005年(平成17年)11月20日 には、 明仁天皇・皇后美智子(いずれも当時)が来訪している。
称名寺赤門
境内
境内は国の史跡に指定されている。赤門、仁王門、金堂、釈迦堂などがある。
金堂前の阿字ヶ池を中心とする浄土式庭園は、1320年(元応2年)、金沢氏3代貞顕の代に整備されたものである。浄土式庭園とは、浄土曼荼羅に基づいて配置された庭園のことで、平安時代末期に盛んにつくられた。浄土式庭園は古図(重要文化財・称名寺絵図)や発掘調査の成果に基づいて、1987年(昭和62年)に復元整備が完了した。平橋、反橋の2橋が復元されており、平橋は橋長17m、反橋は橋長18mである。1991年(平成3年)にかながわの橋100選に認定されている。
塔頭としては光明院(運慶作の大威徳明王像を所蔵)と大宝院がある。
金堂
仁王門
交通
京急本線金沢文庫駅から京浜急行バス柴町行(文13系統)で10分
金沢シーサイドライン海の公園南口駅または海の公園柴口駅より徒歩10分
所在地 神奈川県横浜市金沢区金沢町212-1
位置 北緯35度20分39.05秒 東経139度37分49.41秒
山号 金沢山
院号 彌勒院
宗派 真言律宗
寺格 別格本山
本尊 弥勒菩薩(重要文化財)
創建年 伝・1258年(正嘉2年)
開山 審海
開基 北条実時
札所等 新四国東国八十八箇所霊場75番
金沢八景
文化財 絹本著色北条実時像・北条顕時像・金沢貞顕像・金沢貞将像、文選集注(国宝)
木造弥勒菩薩立像、銅鐘、金銅装宝篋印塔ほか(重要文化財)
境内(国の史跡)