2016年12月20日
関西・鉄道あるある【歴史編】
阪急電車 vs 阪神電車と開業の歴史
現在は『阪急阪神ホールディングス株式会社』に経営統合して、仲良し?になった両社ですが、開業当初はライバル意識が非常に強かったようです。
阪神間は、北は山(六甲山系) 南は海(大阪湾)に挟まれた狭い土地に現在は3本もの鉄道が平行して走る、非常に旅客獲得競争が激しい路線です。
● 阪神電気鉄道
1905年(明治38年)
大阪出入橋〜神戸三宮間が開業。
後に、大阪側のターミナルは梅田地下駅へ移転。
三宮駅も地下駅へ移転しました。
阪神間では初の私鉄になる阪神電気鉄道は、阪神間の人口が多い南部下町や芦屋・東神戸の住宅街に沿うよう線路を敷設し、途中駅での集客を狙い多くの駅を設置しました。
その結果、短い駅間距離と急カーブが多数発生し、高速運転に適さない路線になってしまいました。
◎ 当時のキャッチフレーズは
『待たずに乗れる阪神電車』
開業当初は競合相手である、今のJRにあたる官営鉄道では、蒸気機関車が走っており、駅間距離が長く、列車本数も少なかったので、沿線住民にとっては不便な存在でした。
一方、可能な限りのスピードアップと運転間隔の短縮などで、待たずに乗れて便利な阪神電車に利用客が集中しました。
● 阪急電鉄
1910年(明治43年)
箕面有馬電気軌道鰍フ会社名で、
大阪梅田〜宝塚間と支線である石橋〜箕面間にて開業。
現在の宝塚本線と箕面線です。
社名から、最終的に有馬まで延伸する計画だったのでしょう(実現せず)
次に、大阪〜神戸間に参入を機に『阪神急行電鉄梶xに社名変更。
この社名が後の『阪急電鉄』の由来になったそうです。
ライバルはもちろん、一足先に開業した『阪神電気鉄道』です。
この社名に阪神電気鉄道は嫌悪感を表明します(当たり前)
◎ 空気を運ぶ阪急電車?
1920年(大正9年)
大阪梅田〜神戸間が開業。
当時、阪神間の北部地域は田畑が広がる過疎地でした。
その為、土地の買収が容易で高速運転に適した直線の線路を敷設できました。
その為、スピード競争では阪急電車の圧勝!
しかし、過疎地を走る電車はいつもガラガラ状態で、そんな状態を皮肉ったキャッチフレーズが
『いつも空いてる阪急電車』でした。
そんな状態を脱却するべく、沿線での集客対策が急務でしたが…
神戸側のターミナル駅予定であった三宮への乗り入れは、工事費用の関係で高架線を希望する阪神急行電鉄側と地下線を主張する神戸市側との折り合いが付かず、一旦断念。
神戸側の終点は西灘駅(現在の王子公園駅)から北西へ1キロ足らずの『上筒井(かみつつい)』として、神戸三宮の中心街へ行くには、神戸市電へ乗り換えが必要になると言う、中途半端な路線で開業する事になりました。
その後、ようやく高架線工事が認められて念願の三宮まで乗り入れを果たした時は 1936年(昭和11年)になっていました。
昭和に入って、官営鉄道にも電化工事が実施され、阪神間の鉄道競争が一層激化する事になります。
今回はこれにて終了〜
Wikipediaを参考に作成しました。
現在は『阪急阪神ホールディングス株式会社』に経営統合して、仲良し?になった両社ですが、開業当初はライバル意識が非常に強かったようです。
阪神間は、北は山(六甲山系) 南は海(大阪湾)に挟まれた狭い土地に現在は3本もの鉄道が平行して走る、非常に旅客獲得競争が激しい路線です。
● 阪神電気鉄道
1905年(明治38年)
大阪出入橋〜神戸三宮間が開業。
後に、大阪側のターミナルは梅田地下駅へ移転。
三宮駅も地下駅へ移転しました。
阪神間では初の私鉄になる阪神電気鉄道は、阪神間の人口が多い南部下町や芦屋・東神戸の住宅街に沿うよう線路を敷設し、途中駅での集客を狙い多くの駅を設置しました。
その結果、短い駅間距離と急カーブが多数発生し、高速運転に適さない路線になってしまいました。
◎ 当時のキャッチフレーズは
『待たずに乗れる阪神電車』
開業当初は競合相手である、今のJRにあたる官営鉄道では、蒸気機関車が走っており、駅間距離が長く、列車本数も少なかったので、沿線住民にとっては不便な存在でした。
一方、可能な限りのスピードアップと運転間隔の短縮などで、待たずに乗れて便利な阪神電車に利用客が集中しました。
● 阪急電鉄
1910年(明治43年)
箕面有馬電気軌道鰍フ会社名で、
大阪梅田〜宝塚間と支線である石橋〜箕面間にて開業。
現在の宝塚本線と箕面線です。
社名から、最終的に有馬まで延伸する計画だったのでしょう(実現せず)
次に、大阪〜神戸間に参入を機に『阪神急行電鉄梶xに社名変更。
この社名が後の『阪急電鉄』の由来になったそうです。
ライバルはもちろん、一足先に開業した『阪神電気鉄道』です。
この社名に阪神電気鉄道は嫌悪感を表明します(当たり前)
◎ 空気を運ぶ阪急電車?
1920年(大正9年)
大阪梅田〜神戸間が開業。
当時、阪神間の北部地域は田畑が広がる過疎地でした。
その為、土地の買収が容易で高速運転に適した直線の線路を敷設できました。
その為、スピード競争では阪急電車の圧勝!
しかし、過疎地を走る電車はいつもガラガラ状態で、そんな状態を皮肉ったキャッチフレーズが
『いつも空いてる阪急電車』でした。
そんな状態を脱却するべく、沿線での集客対策が急務でしたが…
神戸側のターミナル駅予定であった三宮への乗り入れは、工事費用の関係で高架線を希望する阪神急行電鉄側と地下線を主張する神戸市側との折り合いが付かず、一旦断念。
神戸側の終点は西灘駅(現在の王子公園駅)から北西へ1キロ足らずの『上筒井(かみつつい)』として、神戸三宮の中心街へ行くには、神戸市電へ乗り換えが必要になると言う、中途半端な路線で開業する事になりました。
その後、ようやく高架線工事が認められて念願の三宮まで乗り入れを果たした時は 1936年(昭和11年)になっていました。
昭和に入って、官営鉄道にも電化工事が実施され、阪神間の鉄道競争が一層激化する事になります。
今回はこれにて終了〜
Wikipediaを参考に作成しました。
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