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2014年06月20日
発達障害だったかもしれないある少年の話
おはようございます
あるところに発達障害かもしれない少年がいました。
少年は小さい頃からいろいろなことに敏感な子でした。
そして少し切れやすいところがありました。
少年のお母さんも一風変わった考え方をする人でした。
子供達がなかなかゲームを止めない時などは、ゲーム機をたたきつけて破壊したりすることもありました。
少年は県大会で優勝したこともある野球チームの4番バッターでした。
お母さんは興奮して応援しましたが、他のお母さんたちの仲間にはいることはしませんでした。
少年の家族だけはいつもみんなから離れたところで、ぽつんとしていました。
5年生になった時、少年はチームのみんなからいじめを受けました。
少年はわけがわからず、そのままチームを止めることになりました。
このころから少年は、猜疑心がつよくなったり、まわりのみんなが敵に見えてきたりしました。
中学に入って間もなく、少年は不良グループに入ることになりました。
そり込みを入れ、だぼだぼのズボンをはき、当時の不良の定番のような恰好をしていました。
喫煙、窃盗、喧嘩、不純異性交遊、シンナー、たいていのことはやり、学校には昼ごろ言って、お弁当だけ食べて帰ってくる毎日でした。
友達と火遊びをしていた時、火が民家に燃え移り、ぼや騒ぎをおこしたときは、家庭裁判所にも行きました。
お母さんには、
「母ちゃん、もう死ぬわ。」
と言われました。
中学を卒業すると、少年は住み込みで大工修行を始めましたが、2年目で親方に、
「もうやめてくれ。」
と言われました。
親方のところを解雇された少年は、家へ戻ってしばらくごろごろしていましたが、18歳になったとき、歌手になろうと思って東京へ行く決心をしました。
東京へ出てきた少年は、お惣菜屋さんに勤めることになり、ここで新しく入ってきたパートさんと仲良くなりました。
Aさんが少年に、オーディション雑誌をプレゼントしたのがきっかけでした。
その人は年上で、一人暮らしをしていました。
少年の部屋にはクーラーがなかったので、その人の部屋で同居してもいいか聞いてみると、少年の部屋の惨状を知っていたAさんは、OKを出しました。
二人は間もなく結婚し、少年は19歳でお父さんになりました。
少年はお父さんになっても仕事が続き来ませんでした。
何回も、何回も、転職を繰り返し、仕事がないときは家でごろごろしていました。
少年は転職の数と同じ位、浮気も繰り返しました。
当然Aさんは怒りましたが、少年にはあまり罪悪感がありませんでした。
少年は「外食」が苦手でした。周りの人に見られていると思うと落ち着かず、いつもそわそわしていました。
テレビのリモコンを持つと、常にチャンネルをカシャカシャと変えたりしました。
「待つ」ということができず、自分が遅れるのは平気ですが、Aさんが1分でも遅れるととても怒って、待っていられないので歩き出してしまったりしていました。
うそを平気でついたり、Aさんのお財布から勝手にお金を持って行ってしまうこともありました。
金銭感覚もなく、無職の時でもローンで高いバイクを買ってしまったり、つけで飲み屋をはしごしたりしていました。
子供達が幼稚園に上がるころ、少年はやっと少し仕事が続くようになってきました。
少年は青年へと成長していました。
青年はそのころS社で大工として働いていましたが、よく仕事に行きたくなくなって、ずる休みをしていました。
社長さんから電話がかかってきても、
「いないっていって。」
と、電話に出ようとしませんでした。
社長さんが自宅までむかえにきても、引きこもりの生徒のように、布団をかぶって家から出ようとしませんでした。
仕事で重大なミスをしてしまい、先輩からすごい勢いで怒鳴られてしまうこともありました。
最後に転職した先はT社で、ここでも大工として働くことになりました。
青年は、きちんと最初から最後まで説明しないと理解できないし、早合点してしまうことも多かったので、仕事を覚えるまでに時間がかかりましたが、なんとか大工として自立することができました。
そしてこのT社、青年をとても認めてくれ、青年は、基本的にはひとりで仕事を進めていけるような環境を得たことで、
仕事も続けられるようになり、人並みのお給料ももらえるようになったのでした。
青年は主人、Aさんは私です。
私たちは今まで喧嘩もたくさん(すごいのを)しましたが、主人は私に合わなければやくざにでもなっていたかもしれないし、私のアバウトな性格についてきてくれるのは主人くらいだと思いますので、まあ一緒になったのはよかったのかな
と思います。(ということにしておきたいと思います。)
主人を雇い続けてくれているT社の社長さん、友達兼監督をしてくれているOさん、ほんとうに、ほんとうに感謝しています。
以前主人に
「発達障害の検査、お父さんもしてみたら。」
と言ってみたことがありますが、主人は
「おれ?ちがうよ〜」
と大爆笑していました。
かなり濃い発達障害だとおもうけどな〜・・・
めいさんへ
心配してもらってありがとうございます。
娘は今は自殺願望は全くなく、川や学校も行くと川遊びができたり先生と話ができたり、楽しいことがあるので行くようです。
少し私を困らせて気を引きたいという面もあり、出ようとしたときに「だめだよ]と言うと、にやっと笑ったりします。
でも娘も私に監視されているような気持ちでいるのかもしれませんね。
めいさんの体験は参考にさせていただくところが多かったです。
これからはなるべくサポートを利用したり、市役所の人と連携をとったりして、一人で抱え込まない方向で考えていきたいと思っています。
入院はちょっと考えていません。
今娘は表情も明るくなり、言葉も増えて、日中はピアノをひいたり歌を歌ったり、音楽を聞いたりしてなんとなく楽しく過ごしています。
副作用で目がちかちかしたり、皮膚がむずむずしたり、他の人が自分の中にいる感覚があったりするのが少し不快なようですが、悲観的になって死にたいと思うよりは、「はやく出ていけはやく治れ」みたいに思っているようです。
めいさんの体験談は、統合失調症を発症するまでの経緯の一例として、他の人も参考になる部分があるかと思いますので、承認にしてもいいのでは?と私は思いますが、どうでしょう。
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あるところに発達障害かもしれない少年がいました。
少年は小さい頃からいろいろなことに敏感な子でした。
そして少し切れやすいところがありました。
少年のお母さんも一風変わった考え方をする人でした。
子供達がなかなかゲームを止めない時などは、ゲーム機をたたきつけて破壊したりすることもありました。
少年は県大会で優勝したこともある野球チームの4番バッターでした。
お母さんは興奮して応援しましたが、他のお母さんたちの仲間にはいることはしませんでした。
少年の家族だけはいつもみんなから離れたところで、ぽつんとしていました。
5年生になった時、少年はチームのみんなからいじめを受けました。
少年はわけがわからず、そのままチームを止めることになりました。
このころから少年は、猜疑心がつよくなったり、まわりのみんなが敵に見えてきたりしました。
中学に入って間もなく、少年は不良グループに入ることになりました。
そり込みを入れ、だぼだぼのズボンをはき、当時の不良の定番のような恰好をしていました。
喫煙、窃盗、喧嘩、不純異性交遊、シンナー、たいていのことはやり、学校には昼ごろ言って、お弁当だけ食べて帰ってくる毎日でした。
友達と火遊びをしていた時、火が民家に燃え移り、ぼや騒ぎをおこしたときは、家庭裁判所にも行きました。
お母さんには、
「母ちゃん、もう死ぬわ。」
と言われました。
中学を卒業すると、少年は住み込みで大工修行を始めましたが、2年目で親方に、
「もうやめてくれ。」
と言われました。
親方のところを解雇された少年は、家へ戻ってしばらくごろごろしていましたが、18歳になったとき、歌手になろうと思って東京へ行く決心をしました。
東京へ出てきた少年は、お惣菜屋さんに勤めることになり、ここで新しく入ってきたパートさんと仲良くなりました。
Aさんが少年に、オーディション雑誌をプレゼントしたのがきっかけでした。
その人は年上で、一人暮らしをしていました。
少年の部屋にはクーラーがなかったので、その人の部屋で同居してもいいか聞いてみると、少年の部屋の惨状を知っていたAさんは、OKを出しました。
二人は間もなく結婚し、少年は19歳でお父さんになりました。
少年はお父さんになっても仕事が続き来ませんでした。
何回も、何回も、転職を繰り返し、仕事がないときは家でごろごろしていました。
少年は転職の数と同じ位、浮気も繰り返しました。
当然Aさんは怒りましたが、少年にはあまり罪悪感がありませんでした。
少年は「外食」が苦手でした。周りの人に見られていると思うと落ち着かず、いつもそわそわしていました。
テレビのリモコンを持つと、常にチャンネルをカシャカシャと変えたりしました。
「待つ」ということができず、自分が遅れるのは平気ですが、Aさんが1分でも遅れるととても怒って、待っていられないので歩き出してしまったりしていました。
うそを平気でついたり、Aさんのお財布から勝手にお金を持って行ってしまうこともありました。
金銭感覚もなく、無職の時でもローンで高いバイクを買ってしまったり、つけで飲み屋をはしごしたりしていました。
子供達が幼稚園に上がるころ、少年はやっと少し仕事が続くようになってきました。
少年は青年へと成長していました。
青年はそのころS社で大工として働いていましたが、よく仕事に行きたくなくなって、ずる休みをしていました。
社長さんから電話がかかってきても、
「いないっていって。」
と、電話に出ようとしませんでした。
社長さんが自宅までむかえにきても、引きこもりの生徒のように、布団をかぶって家から出ようとしませんでした。
仕事で重大なミスをしてしまい、先輩からすごい勢いで怒鳴られてしまうこともありました。
最後に転職した先はT社で、ここでも大工として働くことになりました。
青年は、きちんと最初から最後まで説明しないと理解できないし、早合点してしまうことも多かったので、仕事を覚えるまでに時間がかかりましたが、なんとか大工として自立することができました。
そしてこのT社、青年をとても認めてくれ、青年は、基本的にはひとりで仕事を進めていけるような環境を得たことで、
仕事も続けられるようになり、人並みのお給料ももらえるようになったのでした。
青年は主人、Aさんは私です。
私たちは今まで喧嘩もたくさん(すごいのを)しましたが、主人は私に合わなければやくざにでもなっていたかもしれないし、私のアバウトな性格についてきてくれるのは主人くらいだと思いますので、まあ一緒になったのはよかったのかな
と思います。(ということにしておきたいと思います。)
主人を雇い続けてくれているT社の社長さん、友達兼監督をしてくれているOさん、ほんとうに、ほんとうに感謝しています。
以前主人に
「発達障害の検査、お父さんもしてみたら。」
と言ってみたことがありますが、主人は
「おれ?ちがうよ〜」
と大爆笑していました。
かなり濃い発達障害だとおもうけどな〜・・・
めいさんへ
心配してもらってありがとうございます。
娘は今は自殺願望は全くなく、川や学校も行くと川遊びができたり先生と話ができたり、楽しいことがあるので行くようです。
少し私を困らせて気を引きたいという面もあり、出ようとしたときに「だめだよ]と言うと、にやっと笑ったりします。
でも娘も私に監視されているような気持ちでいるのかもしれませんね。
めいさんの体験は参考にさせていただくところが多かったです。
これからはなるべくサポートを利用したり、市役所の人と連携をとったりして、一人で抱え込まない方向で考えていきたいと思っています。
入院はちょっと考えていません。
今娘は表情も明るくなり、言葉も増えて、日中はピアノをひいたり歌を歌ったり、音楽を聞いたりしてなんとなく楽しく過ごしています。
副作用で目がちかちかしたり、皮膚がむずむずしたり、他の人が自分の中にいる感覚があったりするのが少し不快なようですが、悲観的になって死にたいと思うよりは、「はやく出ていけはやく治れ」みたいに思っているようです。
めいさんの体験談は、統合失調症を発症するまでの経緯の一例として、他の人も参考になる部分があるかと思いますので、承認にしてもいいのでは?と私は思いますが、どうでしょう。
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