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タグ / 川島芳子 生存説
記事
第十二章第二節 獅子像の中の暗号文 [2015/10/31 10:21]
二〇〇八年十一月十六日午前、李剛の事務所。『新文化報』記者の劉マが段霊雲と張玉母子に対してインタビューを行っていた。李剛・何景方と研究顧問王慶祥など多数の人がインタビューを見守った。方おばあさんが川島芳子であることを証明するため、記者の劉マが再び方おばあさん(川島芳子)の遺品である獅子像の底の封印を解いて、中に何が入っているのか見るよう要請した。なぜなら、二〇〇四年末に段連祥が臨終の前に養孫の張玉に、もし可能ならこの獅子像に入っている手紙を小方八郎に渡して、方おばあさん(川島..
第十二章第一節 川島芳子と小方八郎 [2015/10/31 10:19]
段連祥が臨終の前に、「獅子像」を指して養孫の張玉に次のように語った。「方おばあさんは元秘書の小方八郎をとても気にかけていた。将来機会があれば、この物を小方八郎に渡して、《形見の品物》として欲しい。」ここからすると、小さなこの七宝焼きの獅子像は相当重要なものであるらしかった。この小さな七宝焼きの獅子像は、それから数年後に、日中の専門学者から新たな解釈を与えられ、さらに底の封印を解いた時に人々を驚かせる発見があったのである。
方おばあさんの遺品の中で、手紙として渡すように遺..
第十章第一節 張玉から見た川島芳子 [2015/10/31 10:07]
張玉は段連祥の生前の遺言を唯一託された孫である。このことは、張玉は段連祥の最も可愛がっていた孫であることを物語っている。一九七〇年代初、張玉が物心がついたばかりの頃には、母親の段霊雲に代わって、祖父段連祥と方おばあさんの連絡のかなめとなり、母親段霊雲が毎年新立城で方おばあさんに付き添って寂しさを紛らわす役割を受け継いだ。さらに、張玉は気の利く子供で、親戚が語る家族や個人の経歴を注意深く聞いて理解するようにした。それゆえ、段連祥が臨終の際に告白して「方おばあさんは川島芳子だ」と..
第七章第一節 国清寺の調査 [2015/10/30 16:50]
大家であった逯興凱が我々に方おばあさんの情況を紹介する時に特に指摘していたのは、彼女は毎年冬になると新立城にはいなかったことで、毎年冬になると方おばあさんの家の中から人影がなくなることであった。この現象は段霊雲と張玉母子はあまり気にしていなかったが、彼女たちが一点だけ肯定したのは、前世紀五、六〇年代に段霊雲が方おばあさんに付き添っていた頃にせよ、七〇年代に張玉が方おばあさんと一緒に生活していた頃にせよ、彼女たちが記憶にあるのはいつも夏の時期であった。冬は彼女たちは新立城に行っ..
第六章第一節 陳良の川島芳子目撃証言 [2015/10/30 16:45]
段連祥は臨終での遺言の中で、川島芳子は一九四八年三月二十五日に北平で死刑から逃れ、《七哥》と于景泰による護送のもと、瀋陽を過ぎる途上で段連祥を探し出したと語った。彼ら三男一女は長春市郊外の新立城の農村にやって来た。川島芳子は対外的には方おばあさんと呼ばれていた。段霊雲は彼女を《方おばさん》(或いは《方ママ》)と呼んでいた。我々の調査は新立城に方おばあさんが実在したかどうかを確かめるところから始まった。
段霊雲の記憶の中の新立城は、張玉が一九六七年に生まれる前のことで、すでに..
第五章第一節 川島芳子と于景泰 [2015/10/30 16:38]
于景泰は段連祥が満州警察学校に通っていたときの同級生で、一九四八年末に川島芳子を長春新立城に護送しただけでなく、段連祥を紹介した人物でもある。この点についてはすでに長春市郊外新立城斎家村に住む方おばあさんの大家の息子で于景泰の甥に当たる逯興凱も証言した。于景泰は一九六六年初めに原因不明の死を遂げたが、段霊雲には深い印象を残した。
段霊雲の記憶によれば、父親段連祥は生前にかつて彼女に于景泰の家のことを話したことがあった。于景泰の母親の姓は樊氏で、名は蓮花、祖籍は寧波で、彼女の..