2015年10月30日
第五章第一節 川島芳子と于景泰
于景泰は段連祥が満州警察学校に通っていたときの同級生で、一九四八年末に川島芳子を長春新立城に護送しただけでなく、段連祥を紹介した人物でもある。この点についてはすでに長春市郊外新立城斎家村に住む方おばあさんの大家の息子で于景泰の甥に当たる逯興凱も証言した。于景泰は一九六六年初めに原因不明の死を遂げたが、段霊雲には深い印象を残した。
段霊雲の記憶によれば、父親段連祥は生前にかつて彼女に于景泰の家のことを話したことがあった。于景泰の母親の姓は樊氏で、名は蓮花、祖籍は寧波で、彼女の父親の樊運生は清朝末期の秀才であった。蓮花は幼い頃から頭がよく優秀で、よく読書をして、よく詩文を作ることが出来た。蓮花がまだ十五歳にも満たない時に思いがけず、彼女の父親はまだ若くして早逝してしまった。生活の為に母親の栄氏は蓮花を連れて友人に身を寄せて東北地方の瀋陽に来たが、その後母親も肺病のために死んでしまった。母親が生前に病を治すために高利貸に借金していたため、蓮花は債権主に賭博場に売り飛ばされ、賭博場でアヘンをすったり賭博したりする客相手の「売り子」となった。ある日、彼女は東北軍で兵を率いる旅団長に見初められ、この旅団長が彼女を買い戻して、彼女を「外室」として娶り、その後生まれた男の子が于景泰(当時は母の姓を名乗り樊景泰)であった。この旅団長は樊蓮花と于景泰の母子になにも名分を与えなかったけれども、彼ら親子の生活はまあまあ快適であった。
段連祥の叔父である于徳海もしばしば樊蓮花が働いていた賭博場に足を運んでいたので、樊蓮花を知っていたばかりか、あの旅団長が樊蓮花を「外室」とすることを支持して、旅団長が婚礼を執り行えるよう金も出してやったほどであった。このため、于徳海とあの旅団長は義兄弟の契りを結んだ。またたびたび旅団長の家に行き于景泰とも一緒に遊んだ。于景泰は段連祥よりも一歳年上であった。後に彼ら二人は満州国四平警察学校に入学した。一九四五年八月十五日の終戦により、満州国四平偽警察学校は解散となり、于景泰は旅団長だった父親と共に南京へ行った。
于景泰の旅団長だった父親は国民党軍統のトップであった戴笠との関係が親密であった。戴笠は初めて于景泰に会ったときから彼を気に入り、以後彼を重点的に訓練すると言った。後に于景泰は軍統からアメリカに派遣され訓練を一年受けてから、帰国後には軍統で情報員となった。
一九四九年于景泰の父親は蒋介石とともに台湾へ逃げたが、去る前に自ら瀋陽の樊蓮花を訪ねて別れを告げた。彼は一時期戦略的に移転するがすぐに戻ってくると述べて、樊蓮花に生活費を残したが、それ以後は音信不通となってしまった。于景泰は父親と共に台湾には行かず、特殊任務を受けて、大陸に潜伏するために残り、長期の「スリーパー」となった。
段霊雲の記憶では、彼女が初めて樊蓮花に会ったのは一九五七年農暦九月九日であり、それはちょうど重陽節にあたり、また樊蓮花の六十歳の誕生日であった。そこで方おばあさんはあらかじめ樊蓮花のために画いて置いたお祝いの祝寿図を送ったが、それは日本の漆画を真似たもので、上下に二匹の鶴が舞い、周囲にはバラや菊や桜の花が配され、長寿吉祥を祝う意味を表したものであった。父親の段連祥はこの方おばあさんの画を額縁に入れて、九月九日のその日に彼女と一緒にお祝いに行った。樊蓮花は背丈は高くなく、比較的やせており、言葉は優しくおっとりしていて、声が非常によく、大きな目をしていて、彼女がかつて普通の女の人ではなかったことを伺わせた。この于景泰の母親が一九六五年に突然心臓病により長春で亡くなった後に、于景泰は方おばあさんが母親の祝寿の為に描いた鶴の画を段霊雲に渡した。
段霊雲の記憶では、于景泰は普段は大家の逯家の脇部屋に住み、部屋の中には一対の箱と、一対のイスと、一つの机があり、机の上にはいろんな書籍が積まれていた。
段霊雲の記憶によれば、父親段連祥は生前にかつて彼女に于景泰の家のことを話したことがあった。于景泰の母親の姓は樊氏で、名は蓮花、祖籍は寧波で、彼女の父親の樊運生は清朝末期の秀才であった。蓮花は幼い頃から頭がよく優秀で、よく読書をして、よく詩文を作ることが出来た。蓮花がまだ十五歳にも満たない時に思いがけず、彼女の父親はまだ若くして早逝してしまった。生活の為に母親の栄氏は蓮花を連れて友人に身を寄せて東北地方の瀋陽に来たが、その後母親も肺病のために死んでしまった。母親が生前に病を治すために高利貸に借金していたため、蓮花は債権主に賭博場に売り飛ばされ、賭博場でアヘンをすったり賭博したりする客相手の「売り子」となった。ある日、彼女は東北軍で兵を率いる旅団長に見初められ、この旅団長が彼女を買い戻して、彼女を「外室」として娶り、その後生まれた男の子が于景泰(当時は母の姓を名乗り樊景泰)であった。この旅団長は樊蓮花と于景泰の母子になにも名分を与えなかったけれども、彼ら親子の生活はまあまあ快適であった。
段連祥の叔父である于徳海もしばしば樊蓮花が働いていた賭博場に足を運んでいたので、樊蓮花を知っていたばかりか、あの旅団長が樊蓮花を「外室」とすることを支持して、旅団長が婚礼を執り行えるよう金も出してやったほどであった。このため、于徳海とあの旅団長は義兄弟の契りを結んだ。またたびたび旅団長の家に行き于景泰とも一緒に遊んだ。于景泰は段連祥よりも一歳年上であった。後に彼ら二人は満州国四平警察学校に入学した。一九四五年八月十五日の終戦により、満州国四平偽警察学校は解散となり、于景泰は旅団長だった父親と共に南京へ行った。
于景泰の旅団長だった父親は国民党軍統のトップであった戴笠との関係が親密であった。戴笠は初めて于景泰に会ったときから彼を気に入り、以後彼を重点的に訓練すると言った。後に于景泰は軍統からアメリカに派遣され訓練を一年受けてから、帰国後には軍統で情報員となった。
一九四九年于景泰の父親は蒋介石とともに台湾へ逃げたが、去る前に自ら瀋陽の樊蓮花を訪ねて別れを告げた。彼は一時期戦略的に移転するがすぐに戻ってくると述べて、樊蓮花に生活費を残したが、それ以後は音信不通となってしまった。于景泰は父親と共に台湾には行かず、特殊任務を受けて、大陸に潜伏するために残り、長期の「スリーパー」となった。
段霊雲の記憶では、彼女が初めて樊蓮花に会ったのは一九五七年農暦九月九日であり、それはちょうど重陽節にあたり、また樊蓮花の六十歳の誕生日であった。そこで方おばあさんはあらかじめ樊蓮花のために画いて置いたお祝いの祝寿図を送ったが、それは日本の漆画を真似たもので、上下に二匹の鶴が舞い、周囲にはバラや菊や桜の花が配され、長寿吉祥を祝う意味を表したものであった。父親の段連祥はこの方おばあさんの画を額縁に入れて、九月九日のその日に彼女と一緒にお祝いに行った。樊蓮花は背丈は高くなく、比較的やせており、言葉は優しくおっとりしていて、声が非常によく、大きな目をしていて、彼女がかつて普通の女の人ではなかったことを伺わせた。この于景泰の母親が一九六五年に突然心臓病により長春で亡くなった後に、于景泰は方おばあさんが母親の祝寿の為に描いた鶴の画を段霊雲に渡した。
段霊雲の記憶では、于景泰は普段は大家の逯家の脇部屋に住み、部屋の中には一対の箱と、一対のイスと、一つの机があり、机の上にはいろんな書籍が積まれていた。
タグ:川島芳子 生存説
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