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2015年10月30日

第二章第三節 李剛の決意

同年代の人々に比べて、李剛の出身と経歴は比較的波乱に富むものであった。その家族の一世代前の十数人が皆中国のために苦労して重大な貢献をした革命家であった。彼等のうちのあるものは東北抗聯の重要な指導者であったり、北京の共産党地下活動の責任者であり、元吉林省共産党委員会書記で省長の前世代の革命家であった于克からは「紅色家族」(紅は革命の色)との名誉を受けていた。李剛の父親に当たる李延田は一九三五年革命に参加した老幹部で、共産党の「特務」工作に長年従事した。延安で整風運動があった時には、一度は無実の罪で党籍を剥奪されたものの、その後に朱徳総司令みずからがサインして党籍回復を同意した(この文書は長春市档案館に保存されている)ことがある老革命家であった。しかし、残念なことに「文化大革命」で災難を逃れることが出来ず迫害されて亡くなった。李剛も「反革命分子」の子弟と誤って見做され、長年にわたり差別を受けたことがある。彼の言葉を借りて言えば、父親は「粛清」され、自分は「圧力」を受けた。党の十一回三中全会の後に、父親の李延田は名誉回復され無実の罪を晴らすことができた。李剛は一九七〇年の十六歳の時に鉄鋼精錬工として仕事に就いて以来、様々な仕事の職場で鍛錬された。一九九八年彼が吉林省政府駐海口弁事処副主任に任じられていた期間に、弁事処からの委託を受けて、吉林に戻り芸術学校を創業し、校長法人代表を担当した。この学校の経営はわずか数年で、人材を育成し、効果を挙げた。二〇〇一年に健康上の理由で、批准を経て、早めに一線を退いた。長年にわたり、李剛は業務の合間を縫って、多くの法律関連書籍を編修し、吉林省法学会理事となっている。また他の人との共著で文芸作品を出版し、吉林省作家協会会員でもある。特に法律関係者としては、近年は経済(民事)案件に参加し、比較的高い法律の素養と豊富な裁判経験を有する。それゆえ、家庭的背景と鋼鉄精錬工の出身は彼にさながら生まれつきの鋼性を持たせ、有言実行の「手段」を持ち、深謀遠慮にして、常に何かを「探索」している。張玉の目から見て、李剛はまさしく「能力があり、胆力があり、社会交際の広い」人間であった。
張玉はただこれらを見ただけでなく、李校長が誠実で約束を守る人間であることを尊敬していた。張玉が忘れることが出来ないのは、一九九八年芸術学校が新居に移転する際に、校舎清掃の「言」を張玉の弟に託したときのことである。給与支払いの際に、芸術学校がまだ「重い負債」を抱えていた困難な情況であったにもかかわらず、李校長は個人で借金してまで張玉の弟である張継宏の給与を支払った。そのため、張玉は李剛は言ったことは必ず果たす人間と信頼していたのである。
李剛は彼の多年にわたる行政方面での仕事の経験と中国近代史の学習と理解により、こう考えた。
「張玉は、美術創作の専門家で、二〇〇四年以前には川島芳子が誰かもよく知らなかった若い女流画家に過ぎない。何か個人的な目的で、中国現代史上の重要歴史人物について嘘をでっち上げられるような能力はないし、だいいちこんなことを故意に嘘つく必要もない。半世紀にわたって論争のある川島芳子『生死の謎』が、ひょっとしたら彼女の祖父段連祥の臨終の遺言によって、深い霧の中から現れて、歴史の真相が解き明かされるのかもしれない。」
李剛は客観的で冷静な分析によって、こう大胆に推測すると、その場で果断に決心を下した。張玉のまじめで誠実な態度と、その助けを求めるような目を前にして、さらに張玉がバックより出してきた幾つかの物証を目にして、李剛は心を動かされたのであった。なにはともかく、この一人の年若い女性にすぎない張玉が歴史に向かって事実を突き止めようとするその精神、そして友として自分に向けられた信頼に対し、李剛はすぐにこう態度を表明せずにはいられなかった。
「張玉、もう何も言わなくていい。この事件は私が手伝うというのではなく、我々共同で、この世界を震撼させる秘密を明らかにし、世の人々に公にし、歴史の真相を突き止めなければいけないことだ。もし、調査がうまくいかなかったとしても、費やした精力や財力は、ちょっとした学費を払ったと思えばいいじゃないか。」
それから、李剛は張玉にあらかじめ言っておかなければならなかったのは、この「懸案」の検証と謎解きの過程で、歴史に責任を負い真実を明らかにするために、幾つかの点で祖父の段連祥や母親の段霊雲そして張玉本人に対して「経歴調査」を行う必要画あるかもしれないと釘をさした。張玉は同意を表明して、積極的に協力を申し出てくれた。
こうして世紀の懸案の謎解きが始まったが、その結果が如何なるものになるかはこの時は知る由もなかった。李剛はナポレオンの名言を思い出した。「まず戦闘を始めよ、それから見極めよ」と。

李剛は張玉の委託を受けると、自己に責任を感じると同時にまた負担にも感じるのであった。加えて彼の手元には教育方面の仕事を山のように抱えており、同時に幾つかの法律事務所の顧問を兼任していたので、それだけで仕事量はすでに重過ぎる荷となっていた。今、こうして川島芳子生死の謎の検証を引き受けたからには、ぜひともよき助手を見つける必要があった。李剛は走馬灯を回すように身の回りの同僚や友人や同級生たちを一通り思い浮かべて、最後に彼の心の中で一人の男が定められた。その男とは、すなわち何景方である。
李剛と何景方が知り合ったのはもうかれこれ二十年前のことで、それは何景方が長春市共産党委員組織部の幹部として仕事をしていた頃のことであった。
何景方は文化大革命前にはエリートコースの長春市重点中学・市実験中学を卒業して高校生となっていた。しかし、一九六八年彼は知識青年として農村に追放されて再教育を受けることとなった。その後に長春市に呼び戻され、工場でずっと事務員として働いた。かつては長春一汽軽型車工場弁公室主任兼秘書として働いたこともあった。一九八一年に「文書掛」として長春市共産党委員の仕事に抜擢された。長春市共産党委員組織部で働いていた期間には主に市が管理している幹部の資格審査に従事し、そこで勤勉で落ち着いた仕事態度を養った。一九八三年に吉林大学政治学科幹部専修クラスに入学した。一九八五年以後は前後して市所属の企業で共産党委員書記を務めたり、区所属の役場で主任として働いた。
何景方も人生の曲折と仕事上での挫折を経験したが、それでも学習の手を休めることなく、手に握るペンによって社会のために奉仕するという精神は終始変わらなかった。
李剛と何景方は知り合った後に何回も協力して仕事をしており、かつて山西『市場ニュース報』が吉林省で仕事を展開するのを助けたり、幾つかの企業や個人の法律訴訟の代理をしたことがある。
二〇〇四年には、二人は共同して李剛の家族を背景とした『紅色家族』という本の編纂を開始した。その後二〇〇四年九月に李剛が交通事故で怪我をしたため、何景方は一人で北はジャムス・ハルピン、東は吉林・延吉、南は北京へ赴き、大量の資料を収集し、李剛と一緒に原稿を完成した。二〇〇五年の上半期には、省委員の関連指導者の許可を経て、『紅色家族』という東北延吉の一家十数人が中国革命の為に血を流し犠牲となった事跡を伝記として出版することが出来た。
何景方は多くの書物を読んでおり、比較的に歴史的知識が豊富である。多年にわたり機関で仕事をしたため、勤勉厳粛で客観的な態度を見につけており、論理的に読者をして納得させる書き方をする特徴がある。それで、李剛にとって川島芳子の生死の謎の検証作業をするために、何景方はなくてはならない助手であった。
李剛は川島芳子生死の謎を検証する作業情況を何景方に伝える際、二人の観点は期せずして一致し、まもなく検証作業は正常な軌道に乗った。こうして困難に満ちた調査の幕が切って落とされたのである。

第二章第二節 理解者が現れる

二〇〇六年夏、張玉はすでに段連祥の遺言の陰影から抜け出し、画に専心して『紅楼夢』の十二美女人物画を創作した。人から吉林省文化庁周維傑庁長(現在既に退職)が人物画の造詣にたいへん深いと聞くと、張玉は自分の画を持って周文化庁長に面会に行った。周庁長は張玉の人物画を見た後に、画に対して賞賛する意見を述べただけでなく、彼女に『紅楼夢』に出てくる全ての女性人物を描いて、『紅楼夢』の美人達を集め、『紅楼夢』美女人物画展を開いたらどうかと提案した。『紅楼夢』にでてくるそれぞれの女性人物の特徴を把握するために、画に区別が付けられるようにと、周庁長は特別に張玉に省内にいる『紅楼夢』研究専門家の奚少庚(奚少庚は二〇〇八年八月に病逝した)を紹介してくれた。
奚少庚との交流により、張玉が『紅楼夢』の美女人物画を創作する上で得た益は浅からず、同時に彼らの間には「年齢を超えた」親しい友誼が芽生えた。張玉が奚少庚と世間話をしているうちに、奚少庚夫婦は共に満州族で、奚少庚の夫人である周光藹の家族が皇帝の親戚筋にあたると聞き、また張玉の「秘密」を打ち明けたいという思いが湧き上がってきた。そこで、張玉は試しに心中の「秘密」を奚少庚に聞かせると、彼ら夫婦はいささかも疑うことなく、異口同音に彼女を支持し、張玉がこの「秘密」の調査をやり遂げるよう希望した。奚少庚は真剣に彼女に言った。
「川島芳子はたしかにやや反面人物ではあるが、彼女は有名人でもあるし、日本にも少なからず影響がある。彼女の死刑執行については、ずっと論争があり、いまだ決着が付いておらず、すでに国境を越えた、世紀を越えた歴史的懸案となっている。もし、お前が事実によって証明でき、銃殺された川島芳子は替え玉で、お前の方おばあさんが本当に川島芳子なら、これはお前が中国の歴史学界にできる一大貢献になり、お前はきっと有名になれるだろう。やってみてもいいんじゃないか。」
奚少庚先生のこの言葉は、張玉の決心を促し、彼女が再び躊躇と迷いに沈むことをなくさせた。彼女は決心をつけると全力で彼女を助けてくれそうな人を探すことにした。実は彼女にはすでに早くからある人物に目星を点けていた。この人ならきっと全力で助けてくれると信じている人物だった。
二〇〇六年七月のある日、吉林省の八天英語倍訓管理センターの李剛校長(本書作者の一人)は、いつものように朝早くに長春市人民大街二八三六号の旧満州協和会の建物の中にある自分のオフィスに来て、今日一日の仕事の準備をしていた。ちょうどその時、門を「コツ、コツ」と叩く音が聞こえた。
「どうぞ、お入り。」
李剛が言うとすぐに、一人の流行の服装で、日本女性風の髪形をして、手には皮製の筒状のバッグを持った若い女性が、そそくさと急ぐように李剛の目の前に駆け込んできた。
「おや、我らが美人画家の張玉じゃないか!ここに来るとはどういう風の吹き回しだい?」
李剛はこの以前よりよく知る女性に冗談交じりに声をかけ、笑顔で招きいれた。張玉は、本名を張波涛といい、長春市青年美術家協会会員で、当代の傑出した細筆重彩画家王叔暉先生の弟子で、細筆美人画を得意としている。彼女の画作の手法は細やかにして、画く人物が俊美だと、長春市の美術界ではちょっとした有名人であった。八年前に、李剛が吉林省軍星芸術学校校長だった時に、張玉とは共に教壇に立ったことがあり、既にお互いよく知った間柄であった。
「李校長、私ちょっと悩んでいることがあるんだけど、もう二年近くになるかしら、誰も理解してくれなくて。貴方だけが頼りなのです。」
張玉は芸術家肌で、何事でも率直で、歯にもの着せずに、遠慮なく言うタイプだ。
「何をそんな大事があるんだい。まずお茶でも飲んで、ちょっと落ち着きなさい。ほら、どんな事でもいいから、できる限り手伝ってあげるから。」
李剛はこう言って張玉を落ち着かせると、お茶を入れて張玉に渡し、それからイスに座って彼女と対面して話を聞く体勢を取った。
張玉のこの時の話によって、李剛がびっくり仰天させるだけでなく、六十年以上隠されてきた歴史の懸案が再び明らかにされることになろうとは、このときは誰も予想だにしていなかった。

第二章第一節 秘密を調査開始

祖父段連祥の臨終での遺言に、張玉は当初は半信半疑であった。しかし、彼女は考えた。
「論語にも『鳥の将に死なんとするや、その鳴や哀し。人の将に死なんとするや、その言や善し。』と言う。祖父は生前から自分を可愛がってくれていた。だから、臨終の際に半世紀にわたり隠していた秘密を、最も信頼し最も親しい孫娘に打ち明けたのだ。それが人の情というものだ。祖父が自分の心身を病気に苦しめられ、既に生命の危機に瀕している時に、自分の可愛がっている孫娘によもやこんな大きなジョークを言うわけがない。」

同時に彼女は繰り返し、彼女の記憶の中にある方おばあさんというこの神秘的な老婦人を思い返していた。その言行や性格からいうと、確かに普通の女性とは明らかに異なっていた。こう考えると、張玉の心の中に彼女がよく知る方おばあさんに対して、また一つの疑問が生じ始めた。
「まさか、うちの方おばあさんが本当に祖父の言う川島芳子なのかしら。」
何度も何度も繰り返し考えているうちに、張玉の心は苦痛を感じ始め、少なからず精神的な負担を与えるのであった。張玉はまた川島芳子に関する資料を探して読んで、こう書いてあるのを見つけた。
川島芳子(金璧輝)、一九四八年三月二十五日当時の国民政府北平当局に漢奸と間諜罪で秘密裏に死刑を執行される。しかし川島芳子の死刑執行には、多くの疑問点が残された。「替え玉」説がまことしやかにささやか
れ、当時の北平で騒ぎを起こした。

ただ国民党政府政権が中国大陸での統治に失敗して倒れたため、川島芳子の「生死の謎」もうやむやになってしまったのである。このことは、川島芳子が「替え玉」を用いて死刑を免れた可能性が存在することを物語っていた。こうした状況を把握すると、張玉は方おばあさんが川島芳子であるというこの「謎」に対して興味がわいてきた。

しかし、段連祥が逝去して二年ほどは、張玉の祖父の臨終での遺言に対して、しばしば迷いを感じるのであった。その一つは、もし祖父の遺言が真実だとすると、この秘密を公にしていいものだろうか?その必要があるだろうか?公にした後に自分にどんな影響があるだろうか?ということであった。二番目に、もし秘密を調査するとしても、彼女個人から言へば、精力的にも能力的にも財力的にも力不足で、誰かの助けがいることは明らかであった。張玉は再三考えた挙句に、まず試しに周囲の人の意見を聞いてみることにした。張玉の同級生や親族はほとんど四平に住んでおり、長春の社交界はただ美術界にのみ限られていたので、彼女が相談したり交流できる人の範囲は比較的狭かった。そのため二〇〇五年の間には「調査」はまったく進展することはなかった。数人の「知己」の友人は彼女の相談を受けると皆がこのように答えた。
「お前、そんなことにかかわってどうするんだ。余計なことはしないほうがいい、面倒を引き起こすだけだぞ!」
ある人はそう言うだけでなく、彼女とは疎遠になってしまう者もいた。彼女が知り合いのある退職した政府の幹部に相談すると、やはり彼女を心配して張玉に言った。
「お前は良い画を書いて、画で有名になればそれでいいじゃないか。漢奸のおばあさんがいるなんて言ってみろ、どうなるかわかったもんじゃない。お前、ちょっと頭がおかしくなったんじゃないか?」

身辺の人間はこぞって「出る杭は打て」式の雰囲気で、張玉は一度は「調査」の気力を失い、「撤退」の準備を始めて、「調査」の意思を放棄しようとしていた。
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