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2015年10月31日

第十二章第二節 獅子像の中の暗号文

二〇〇八年十一月十六日午前、李剛の事務所。『新文化報』記者の劉マが段霊雲と張玉母子に対してインタビューを行っていた。李剛・何景方と研究顧問王慶祥など多数の人がインタビューを見守った。方おばあさんが川島芳子であることを証明するため、記者の劉マが再び方おばあさん(川島芳子)の遺品である獅子像の底の封印を解いて、中に何が入っているのか見るよう要請した。なぜなら、二〇〇四年末に段連祥が臨終の前に養孫の張玉に、もし可能ならこの獅子像に入っている手紙を小方八郎に渡して、方おばあさん(川島芳子)の遺言を実現して欲しいと言い残したからである。

それならば、獅子の「腹中」には一体何が隠されているのか。少し開いた隙間から見えるのは古い新聞紙の補充物であるが、他にも秘密が隠されたのだろうか。これ以前にも、多くの人が獅子像の底を開けるよう説得したが、張玉は始終同意しなかった。理由は彼女はまだ祖父の遺言を果たして、獅子像を小方八郎に手渡してないからというものであった。二〇〇八年三月十八日張玉はかつて日本の小方八郎に手紙を送ったが、宛先不明で送り返されていた。野崎が現れてから調査してもらうと、小方八郎はすでに二〇〇〇年に逝去しているとのことであった。このような情況であったので、張玉は研究責任者の李剛に決断をゆだねた。李剛は助手の何景方の同意を取り、さらに王慶祥先生の支持を得た後、この秘密の「封印」を解く決定を下した。

そこで、二〇〇八年十一月十六日午前一一:三〇分、李剛の事務室で関連する人々が期待しながら見守る中、李剛が小刀と錐を持ってきて、机の上に新聞紙を敷いて、獅子の底を慎重に剥し始めた。その漆による封は大変丈夫で、少しづつ少しづつしか剥げなかったが、五分余りほじくったところで、ようやく獅子の底の漆の封印が全部はがすことができ、底に直径数センチの穴が現れた。李剛はまず中から二つの丸められた古新聞を引っ張り出した。それを広げてみると、二〇〇二年五月十七日の天津市『毎日新報』であった。続けて中から取り出したのは暗褐色の燃えカスの結晶体で、我々は少量保存された川島芳子の遺灰ではないかと疑った。その他に一掴みの茶色の毛糸が出てきたが、川島芳子の遺品ではないかと感じられた。
李剛

最後の瞬間が訪れた。第三番目の丸まった新聞を引っ張り出すと、それと共に小さな巻紙が獅子の「腹中」から落ちてきた。それを開いてみると、長さ十二センチ、幅七・五センチの紙の上に、毛筆で篆字十六文字とそのほか落款と十文字が書かれていた。文字は規範通りではなく、また現場にいた人たちはあまり篆字に詳しくなかったので、個別の字を識別することができなかった。そこで李剛はすぐに古代文字の専門家を呼んで、現場で解読してもらったが、やはり全部は解読できなかった。
李剛

紙の上に書いてある文字ではっきり識別できたのは、「芳魂」「帰来」「今奇才」「秀竹敬具小方閣下」という文字と、ヒョウタン型の図章の中に書かれた「広幸」という文字だけが解読できた。そこから我々はただちに次の推測を立てた。
1、「芳魂」は川島芳子がすでに死んだことを意味する。
2、「秀竹」とは即ち川島芳子を北平から長春に護送した責任者で、その他にこの文章が秀竹が書いたものを証明するために「広幸」という秀竹の筆名を用いている。この紙の上に書かれた「広幸」の二字は方おばあさんの描いた「日本風情女子浴嬉図」に書かれた落款にある図章と「広幸」と同一人物の筆名であり、それはすなわち秀竹を意味する。小方閣下とは即ち日本人小方八郎であり、川島芳子のかつての秘書であり理解者であった。

二日目、吉林『新文化報』がこのニュースと図を報道すると、長春市と吉林省の関心を持った人々から沢山の反響があった。自分が暗号を解読したという人が続々と新聞社に電話をかけてきたので、幾つかの異なる暗号文への解釈が出現した。

吉林省旅行局の王さんによれば、この十六文字は、「芳魂西天、尚未帰来、含悲九泉、遺今奇才」と読む。第五番目の字は尚であるが、書いた人が草書体を用い、逆さに書いている。さらに王先生が言うには、前の八文字は「芳魂西天、尚未帰来」はおそらく「川島芳子の魂はまだ天国に行っていない」という意味で、「含悲九泉」は川島芳子の身代わりとなった人を暗示し、「遺今奇才」は川島芳子が生き残ったことを意味する。

吉林大学古籍研究所馮勝君教授の説によれば、この十六文字は「芳魂西去、至未帰来、含悲九泉、古今奇才」と読む。馮教授が言うには、これらの篆文には書方の不明な点がある。「私は第四番目の文字が去と読めるかどうか確定できない以外は、その他十五文字はこれで確定できたと思う」と述べた。馮教授がさらに説明するに「第四番目の字は篆文の角度から見れば、《天》の字に見えなくもないが、前後の文書から見て、私は《去》の文字だと思う」「字面からすると、この人物が死んだという意味を伝えるものだ」と述べた。

我々は景泰藍の獅子像を再び面前で調査し、獅子像の底を開けて中の新聞紙と、そのなかの紙片を取り出し、獅子像の頭部近くにあった茶色の燃焼物の顆粒と小豆色の毛糸を科学鑑定することにした。
調査の結果、新聞紙は二〇〇二年五月十八日天津市『毎日新報』であることが分かった。さらにここに三つの科学鑑定を要する問題が提出された。
暗紅色の燃焼物の顆粒は川島芳子の遺灰か?
小豆色の毛糸は川島芳子の遺品か?
景泰藍獅子像は二〇〇二年五月十七日以後に封印されたのか?
 
これらを鑑定するため、我々は二〇〇八年十一月に中国科学院長春応用科学研究所へ赴き、高級エンジニア葛遼海が熱心に我々の要望に応じてくれた。葛遼海は軍隊から転勤後に応用科学研究所に来て、そこですでに二十数年勤め豊富な実験経験を持ち、犯罪現場の遺物や痕跡の検査などを通じて公安機関に協力して幾多の犯罪事件の解決に貢献し、事件を扱った部署から賞賛され、その鑑定意見が正確かつ権威のあるものと見られている。

葛遼海高級エンジニアは獅子像の中の結晶体の「燃焼物顆粒」と「毛糸」を観察した後、微量部分を採取して検査を進め、その場で真剣な検査を行った。その後に検査結果として、獅子像は普通のガラスではなく、その含む成分から景泰藍製品に間違いない。また獅子像の中の燃焼物の顆粒は有機物質ではなく無機物質であり、炉のコークスであり遺灰ではない。毛糸は化学繊維である。

その後、葛遼海高級エンジニアは証印の押された鑑定書を我々に発行してくれた。その鑑定書は我々が待ち望んでいたもので、とても興奮させるものだった。まず、獅子像は確かに「景泰藍」で、それ自身が「貴重」なもので送り主の感情が大変深いことを表している。その次に、遺灰と思われていたコークスの顆粒は遺灰ではなくて炉の灰であった。加えて補填物の中の新聞は天津市二〇〇二年五月十七日の『毎日新報』であったが、このことから推定できるのは方おばあさん(川島芳子)は一九七八年に死亡し、一九八一年に浙江天台県国清寺の僧が吉林省四平市から遺灰を持ち去ったので、二〇〇二年に再び天台県国清寺から少量の遺灰を取り出して景泰藍の獅子像の中に入れたとは考えにくい。その次に、毛糸は化学繊維であることが分かったけれども、量がとても少なく、それを特別に入れたとは考えにくく、おそらく偶然に入り込んだ可能性が高い。

最後に、コークスは補填物として入れられたのか、あるいは何か意味があって入れられたのかということについて、我々が獅子像を開けた過程から推理するに、当該のコークス様の顆粒が先に中に入れられ、獅子像の頭部に位置していた。その後に新聞紙を丸めて(その間に紙片を挟み)空洞を充填してから、さらに黄泥を底の部分に塗り、それをあぶって乾かした後にさらに漆で封をしていた。すなわち、コークスは黄泥の付着物や偶然入り込んだものではなく、一種の象徴的な意味を表すために故意に紙片と共に入れられたのであり、小方八郎に対して川島芳子がすでに死んで炉の中の灰と化したと伝えたかったのであろう。

我々はさらに検証を重ねるため、景泰藍獅子像の中のコークス状の顆粒を、日本の新聞では遺灰ではないかと報道していたが、二〇〇九年一月十八日に日本の鑑定専門家林葉康彦博士が長春に来て鑑定した結果、コークス状燃焼物と確認し、我々の鑑定結果と同じ結論を下したことを付け加えておこう。

方おばあさん(川島芳子)の遺品――景泰藍獅子像の底を開けると、確かに予見していた通りに、獅子像の「腹中」には文字が書かれた紙片が隠されており、これが六十年にわたる川島芳子「生死の謎」論争についに決着をつけ、真相を明らかにする決定的証拠となった。この小さな文字の書かれた紙片は、我々が川島芳子「生死の謎」を解く自信をさらに深めさせた。

川島芳子は「替え玉」によって死刑を逃れ、秀竹(老七)および于景泰の護送により、北平から煙台を経て船に乗り大連に向かい、そこから瀋陽で段連祥と合流して、三人で一緒に川島芳子を長春新立城に護送した。秀竹は川島芳子を新立城の斎家村に匿い、于景泰と段連祥の二人に委託して川島芳子の身近で護衛させ、彼自身は南方(江蘇・浙江一帯)に戻り、不定期で夏になると北方へ川島芳子を訪ねて来ていた。

一九六〇年代中期、「文化大革命」が始まると于景泰は獄舎で死亡し、秀竹も最後に川島芳子と別れを告げてからは、おそらく浙江国清寺へ行き剃髪して僧となり、それ以来東北には来なくなった。「文化大革命」の十年間に、川島芳子は夏は新立城に住み、冬は国清寺へ行き、毎年このようにしていたのは、秀竹(おそらく背後にさらに高位の僧侶の支持があった)が国清寺にいたので、川島芳子は苦とせずに喜んで赴いた。

一九七九年初頭、川島芳子は四平で病気によって死去し、三年後の一九八一年にすでに僧となっていたらしい秀竹が四平に来て、川島芳子の遺灰を持ち去った。二〇〇二年春に、すでに死期を迎えようとしていた秀竹は川島芳子の死を川島芳子の日本にいる友人である小方八郎に伝えようと、ずっと前に書いておいた小さな紙片を持ち出し、国清寺から四平に来た。途中で天津に立ち寄った際に『毎日新報』を一部購入した。秀竹がこの紙片とコークス状燃焼物を段連祥に渡した後、段連祥はこの文字の書いた紙片とコークス状燃焼物を景泰藍の獅子像の中に入れて、さらに秀竹が残した『毎日新報』を補填物として詰めて、その後に漆で封印をした。段連祥は臨終前に再び獅子像をメッセージとして養孫の張玉に渡し、彼女にもし機会があればメッセージとしてこの獅子像を方おばあさん(川島芳子)の以前の親友である日本人小方八郎に渡して欲しいと遺言した。

第十二章第一節 川島芳子と小方八郎

段連祥が臨終の前に、「獅子像」を指して養孫の張玉に次のように語った。「方おばあさんは元秘書の小方八郎をとても気にかけていた。将来機会があれば、この物を小方八郎に渡して、《形見の品物》として欲しい。」ここからすると、小さなこの七宝焼きの獅子像は相当重要なものであるらしかった。この小さな七宝焼きの獅子像は、それから数年後に、日中の専門学者から新たな解釈を与えられ、さらに底の封印を解いた時に人々を驚かせる発見があったのである。

方おばあさんの遺品の中で、手紙として渡すように遺言された七宝焼きの獅子像があった。詳しく我々の前に置かれた獅子像の大きさを観察すると、獅子像の高さは十センチ、長さは九・五センチ、幅は六・三センチである。獅子は細い銅線を組み合わせ、外側を景泰藍の外面で包まれており、その外表面の厚さは約二ミリで、中は空洞になっている。獅子の底の部分はすでに泥とニワカを固めたもので封じられており、中に何が入っているかは当初分からなかった。
獅子像

この獅子像は情報によれば明朝時代に制作されたもので、獅子の体はステンドグラスのような透明な結晶体に鮮やかな色彩を帯び、遠くから見ると深緑色に見えるが、近くから見ると緑、青、赤、紫、黒、黄色など多種の色が斑点模様にちりばめられている。顔は黒い眼玉に、緑の眼底、黒の眉毛に黄色の髭と丁寧に色分けされている。二つの赤い花が耳の辺りを覆っているのが目を引く。獅子の体全体に赤い花や緑の葉が象嵌されており、質感の美をあらわすと共に、光に当てるとまばゆいばかりの光を放つ。正面からみると、この獅子像は怖い凶暴な動物ではなく、ユーモラスなかわいらしい表情をしている。

この芸術的工芸の技術を見ると、この七宝焼きの獅子像は透き通るような輝きと、精巧な細工が見事で、また生き生きと表現されており、全く珍しい歴史的文物である。この獅子像は室内に置けば魔除けにもなり財と福を招くとされている。一見して、普通に手に入るおもちゃや土産物の類ではない。

川島芳子と小方八郎との関係について話すには、七・七盧溝橋事件から話さねばなるまい。一九三七年七月早朝に、ちょうど日本で外傷性の脊椎炎を治療していた川島芳子は、ラジオで日本軍が七月六日に宛平城外で発砲し、一人の日本兵が失踪したことを理由に盧溝橋に砲弾で攻撃をしたとのニュースを聞き、敏感に日中全面戦争が始まったことを意識した。彼女は傷がまだ癒えないうちに川島浪速夫婦に別れを告げて帰国の途についた。川島芳子が長崎に立ち寄った際に、彼女を特に慕う日本の青年小方八郎に出会った。ちょうど、川島芳子は適当な秘書が欲しかったので、しばらく様子を見てから真面目で誠実なこの青年が気に入り、彼を連れて中国に戻ったのである。

小方八郎

天津の東興楼の食堂時代から北平の東四牌楼の九条公館時代まで、八年の長きにわたって小方八郎は芳子の秘書となり、公館の財務を管理したり芳子の世話をするために生活と起居を共にした。その忠実で誠実な性格により、彼は深く芳子から信頼をされていた。一九四五年八月十五日に日本の敗戦によって、九条公館の川島芳子の周りの人々にも去るものがいたが、小方八郎は変わらず主人の芳子に付き添って守っていた。一九四五年十月十一日夜、国民政府北平当局「漢奸粛清」組長馬漢三が行動開始して第一の目標としたのが川島芳子を逮捕することであった。川島芳子の逮捕の際に芳子をかばおうとした小方八郎も一緒に身柄を拘束された。

その日は憲兵が川島芳子の寝室に突然入り込んできて、有無を言わせずに彼女に手錠を掛け、また黒い布で彼女の頭を覆うと、小方八郎は平素のおとなしい秘書の態度とは一転して激怒して憲兵たちに抗議した。「あなたたちの任務執行を妨げるわけではないが、このようなやり方は無礼すぎるではないか。何も言わずに女性の寝室に入ってきて、病気で寝ている婦人に手枷をつけて、服を着替える暇も与えずに連行するとは何事か!」
小方八郎は憲兵たちの威嚇をものともせずに、従容と芳子の衣服を探してきて、彼女を着替えさせようとした。おそらく小方八郎の態度に圧倒されたのか、憲兵たちも一歩引いて小方八郎が主人のために行う最後の奉公を見つめていた。さらに連行される車の中で、小方八郎は川島芳子の隣で彼女の慰めてこう言った。
「何処に行こうとも、私がきっとあなたを保護します。しっかりしてください、大丈夫です。」
拘留されている時にも、小方八郎は川島芳子を極力弁護して、「金璧輝は女性で、中国生まれながらも、日本で育ちました。さらに今は病気の身です。どうぞ、彼女にご配慮を・・・。」と述べた。
一九四七年二月八日、北平地方法院は小方八郎の尋問を行い、裁判官は被告の申し出を受けて、川島芳子が出廷して証言することを許した。二人は別れて一年余り経っていたが、主従は法廷でまた見えることが出来たのである。小方八郎のすっかりしょげて元気のない様子を見ると、川島芳子は小方八郎を励まして、さらに何のためらいもなく全力で小方八郎を弁護しようとした。法廷で、川島芳子は小方八郎のために証言をしたが、実際に彼女は内心から小方八郎を守るために大声で釈放を求めた。川島芳子はこう証言したのである。「小方八郎の行動はすべて、彼が自発的にしたものではなく、すべて僕の命令に従ったに過ぎない。もし罪ありとするならば、罪があるのは僕であって、彼は何の関係もない。もし私の罪を問うというならば、彼は即刻釈放されるべきだ。」

小方八郎は何度も法廷で発言しようとしたが、そのつど川島芳子に遮られるのであった。彼女は小方八郎に何の罪をもかぶせようとはしなかったのである。間もなくして、小方八郎は保釈されて日本に帰国した。川島芳子は一九四七年七月に小方八郎が日本の長崎から寄せた手紙を見て、始めて小方八郎が釈放されたことを知った。そしてすぐに小方八郎に返信を書いている。川島芳子が一九四七年七月に小方八郎の日本からあてた手紙を受け取ってから、一九四八年三月二十五日に「死刑執行」されるまでの八ヶ月の期間中、彼女は頻繁に日本の知り合いに連絡を取り、釈放されるための手段を積極的に指示していたが、それらはすべて小方八郎との手紙の遣り取りによって進められた。小方八郎は自分のかつての主人を救うために、出来ることは何でもやり川島芳子に対する忠誠のほどは誰にも真似できないほどであった。それで死刑を免れた後の川島芳子は三十年後にも、なお彼女のかつての秘書を忘れられず、七宝焼きの獅子像を形見として残して小方八郎に渡すように託したのである。ここからも主従二人の感情の深さがうかがえるだろう。

一九四八年四月、小方八郎は日本で川島芳子が「死刑執行」されたというニュースを聞いたが、一九四八年四月二十日に川島浪速にあてた手紙の中で、芳子に対する切実な思いを語り、芳子が「死刑」とされたことを悲しみ、川島芳子が中国でなしたことについて弁解をしている。さらに、もし当局の許しが得られれば、川島芳子の遺体を粛親王王府の墓地あるいは川島浪速の傍に葬って欲しいと書いている。このことは彼の芳子への思いをよく表しているといえるだろう。

川島芳子と小方八郎の主従の感情と友情がこのように厚かったのであれば、どうして七宝焼きの獅子像を送る必要があったのか。獅子は中国でとても尊崇されており、多くの企業の門前には日本の狛犬と同じように獅子像が据えられており、魔除けとされている。さらに家の中に小さな獅子像を置くのもやはり同じ魔除けの意味である。一九四八年三月二十五日以後に川島芳子と小方八郎は別れ離れとなり、お互い合うことも連絡を取ることもできなくなった。であるから形見として送るべきものは決して適当に選ばれたわけがない。ならばどうして「虎」や「象」や「豹」やその他の物ではいけなかったのか?方おばあさんがそうしたものを選ばずに、なぜか獅子を送って小方八郎に渡させようとしたのも、やはり魔除けと財と福を招くためであったのであろうか。

野崎はこの点を推理した後に述べた意見は我々が参考に値するものである。野崎によれば、獅子の日本語の発音は、「子子」あるいは「死し」に非常に近い。それゆえ、この獅子像を小方八郎に渡す者すなわち張玉が川島芳子の養孫であるということを伝えるとともに、芳子はすでに「死し」て灰になったということを伝えようとしたのではないかと推理した。小方八郎は生前に川島芳子の「処刑」後の写真を見て、髪が長いことを不審に思い、あれはきっと替え玉で川島芳子はどこかで生きていると信じ、彼女からの便りを待ち続けたという。張玉の回想によれば、方おばあさんと山に登ったときに、方おばあさんは山の上で「オーガーター」と大きな声で叫んでいたという。これらのことは、方おばあさんが川島芳子であり、川島芳子と小方八郎の主従がそれぞれ別れ離れになっても三十年の長きにわたって互いを思い続けていたことを証明している。

著名な骨董品の鑑定家郭相武先生は吉林省所蔵家協会の創始者で、吉林省民俗学会の名誉理事長でもあり長年にわたり各種の民間の骨董品数十万点を鑑定し、清朝の歴史にも大変詳しい。彼が七宝焼の獅子像の「真相」について異議を提出した。景泰藍はまた「焼青」と呼ばれ、ガラス質の釉薬を銀(銅)の土台の上に焼き付けて製作するエナメル質の美術工芸品である。明の代宗皇帝景泰年間に流行し始めたので、景泰藍と呼ばれる。
銅(銀)の土台の上に銅(銀)線を嵌めこみ、斑状にしてから、窪みにガラス粉を埋め込み、釜に入れて焼き、さらに表面を磨いて作成する。ガラス粉はほとんどが緑色か青色で、花瓶や碗や皿やコップなどを製作する。清朝から民国に至るまで、土台には銅銀以外に、磁器、陶器、紫砂などが使われた。しかし、これらは本当の意味での景泰藍ではない。

獅子は一目見て日本風であり、土台は瑠璃ガラスで、そのなかにある金属質の線があるが景泰藍の工芸とは異なる。景泰藍の場合は、銀や銅の器の表面に金・銀・銅などをまず嵌めこんで、磨いた後で色をつけて焼く工程により製作される。だから、この獅子像は伝統的日本の工芸品あるいは置物である。おそらく日本が中国に進出し、開拓団がわたってきた時に中国にもたらされたものであろう。吉林省は日本の侵略の中心地区であったので、戦後も様々な物品が残されている。郭相武先生の獅子像が日本の物であるという鑑定は、我々を興奮させた。ここから、さらに方おばあさん(川島芳子)の日本への思いと小方八郎との関係がさらに証明できる。検証によってさらに「真相」に近づき、結論はさらに合理的になった。
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