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2015年10月31日

第八章第二節 川島芳子と澍培法師

段霊雲の記憶によれば、彼女が初めて釈澍培法師に出会ったのは、方おばあさんについて長春般若寺に行った時のことであった。段霊雲は幼い頃に皮膚に過敏症を煩い、夏になって熱くなると、ことさらひどくなり、手の上には沢山の水ぶくれができ、とても痒く、父親は病院に連れて行き皮膚科に見てもらったが、ついによくならなかった。仕方がないので、父親の段連祥は彼女を連れて新立城の方おばあさんに会いに行った。方おばあさんは段霊雲の手を見たあとで、治す方法があるといい、ただ寺院の中に行き「吉祥樹」にお願いして、何本か線香をあげればよくなると言った。二日目に方おばあさんは早々に段霊雲を連れて長春般若寺にやって来た。それはちょうど農暦七月十五日で、お盆であったので、寺院の両側には沢山の屋台が出ており、数珠玉器、蝋燭絵馬、線香食品など様々なものが売られて、大変にぎわっていた。
釈樹培
お寺の門を入ると、段霊雲は方おばあさんについて沢山の参拝客の人だかりの中で、四大天王殿と大雄宝殿を過ぎ、三聖殿と観音殿を迂回して、方丈禅堂にやってくると、一人の小和尚が彼女に、澍培法師は用事でさきほど出かけたが、すぐに戻ると伝えた。段霊雲と方おばあさんが待っている間に見たのは、広い禅堂内に、正面には一座の法台があり、台上には払子や禅杖が並べてあり、台の下には客用のイスが並べてあった。四方の壁にはさまざまな書画がかけてあり、そのうちの幾つかは「石蘭朴訥」「竹葉図」「妙菩提」など、すべて澍培法師の手によるものであった。この時、僧が客があるのに気づいて二人に呼びかけ、申し訳なさそうに「お茶をどうぞ、私が大師を探してきます」と言った。小和尚が二碗の茶と四皿の果物を運んできた。方おばあさんと段霊雲はお茶を飲んでいると、澍培法師が帰ってきた。大師と方おばあさんはよく知っていたので、遠慮なく来たわけを尋ねると、法師は方おばあさんと段霊雲に彼について大殿に来させ、法師が大木魚をたたきながら法事を始めた。

災いを消し病を治すように「吉祥樹」に願いをかけて、方おばあさんと段霊雲は手におのおの二本の「吉祥樹」を持ち、木床の上に敷かれた座布団の上に跪き、近くにあった火鉢の中で「吉祥樹」を燃やした。段霊雲は方おばあさんが仏像の前に土下座して祈る敬虔な姿を見ると、家の中でのいつもの荒っぽい態度と結び付けがたく、まったく別人のように感じた。段霊雲は心の中で、もし方おばあさんがいつもこのようであったらいいのにと思った。

仏事が終わると、澍培法師は方おばあさんと段霊雲を食堂に招き、精進料理を食べると、彼女たちは再び澍培法師について禅堂に行った。法師は机の上に積んである経書の中から一冊の『瑶池金母の秘法と料理』という本を取り出した。澍培法師は方おばあさんに、家に帰ったらこの書にある秘法の薬と食事を食べさせるように言った。法師は特に段霊雲に諭して、これは疥癬だから、汚い水で遊ばないように。毎日手をよく洗って、辛い食物を避けるように。感染と風邪に気をつけて、傷をつけないように気をつけるように。これらはみな疥癬の発生と再発の原因になると述べた。またあまり緊張しないように、緊張すると皮膚の細胞の成長に影響して疥癬が出やすくなると言った。

その日の午後、方おばあさんと段霊雲は澍培法師に感謝して、『瑶池金母の秘法と料理』と言う本を大事に包んでカバンの中に入れて、すぐに般若寺を離れて新立城の家に戻った。般若寺から帰った後、方おばあさんは毎日経書にある秘法によって、段霊雲に薬と食事を作り、半月もすると段霊雲の疥癬は基本的に好くなった。方おばあさんが言ったように寺院で「吉祥樹」に願いをかけて線香をあげたから治ったのではなくて、実際には寺院にあった医学書を読んで、科学的な方法によって段霊雲の疥癬は治ったのである。

一九六六年于叔(于景泰)死後のある日に、方おばあさんは再び段霊雲と父親段連祥に長春般若寺へ向かわせて、法師に于叔の亡霊を調伏させた。方おばあさんはまた一通の手紙を書いて、父親の段連祥に澍培法師に手渡せさせた。段霊雲と父親は方おばあさんのいいつけに従って、般若寺に行き澍培法師に会い、自ら方おばあさんの手紙を手渡した。段霊雲が二回目に澍培法師にあったときには、もう知った人であったので、詳細に法師の姿形を眺めた。法師の赤く透き通った頬に、広い額、炯炯と輝く両目を見ると、彼女は方おばあさんが澍培法師は道を会得した高僧で、長春般若寺の主任住持であるだけでなく、民国二十八年には遼寧省朝陽県の故郷雲培山に興福寺を創建したと言っていたのを思い出した。澍培法師は方おばあさんの手紙を見終えると、また段連祥と段霊雲を見つめて、微笑しながらこう述べた。「あまり悲嘆することはない。『往生浄土地蔵経』を念じさえすれば、死者は浄土に行くことができる」と慰めた。
段霊雲はこの時にあどけなく法師に尋ねた。
「叔父さまのように死んだ人は再び人間に転生しますか?」
澍培法師は答えた。
「来世で人に転生することもあるが、もし極楽浄土に行きたいと願ったときはそうではない。極楽浄土に行きたいと願えば、必ず仏になれるんだよ。往生した後に、もし続けて修行修練すれば、極楽浄土の世界にいけるんだよ。」
段霊雲は澍培法師の説明を聞いて、興奮してまた尋ねた。
「西方極楽浄土の世界はどんな所ですか?それはどこにあるのですか?」
澍培法師は立ち上がると、書棚の中から『地蔵菩薩本願経』を取り出し、ページを開いて、その書には彩画が描いており、その中には亭、台、楼閣、仙鶴、雲霧、山石、樹木の画があり、澍培法師は書の中の画を段霊雲に指さして言った。
「この本の中の景色が極楽世界の図だよ。佛母摩耶夫人は釈迦牟尼仏を生んだ後、すぐに極楽世界に行ったんだよ。釈迦牟尼が成仏した後に、母の恩に報いるために、この『地蔵菩薩本願経』を口述したんだよ。」

段霊雲がその後三回目に澍培法師に出会ったとき、澍培法師はまた段霊雲に沢山の道理を説いて聞かせた。彼女が気に入らないことに直面しても我慢して、焦らないように。失敗を恐れないように。人生で最も重要なのは失敗から立ち上がって、自己に打ち勝つことができる人間が最も成功した人だよ。澍培法師がこう述べるのを聞くと、段霊雲は砂漠の中でオアシスを見つけたように、旱魃の時に待ち望んでいた甘露が降りてきたように、彼女の中の心の焦りや憂慮が突然軽くなったように感じた。以前は彼女は自分の家だけが困難や逆境にあるように思っていたが、この世界の生きとし生きるものは、どの人もそれぞれ苦難があり、苦難こそ人生の教師なのだと気づかされた。そこで段霊雲は恥じ入るように感じ、仏に向かって大悟した人間に成る決心をした。

澍培法師は段霊雲の悟性がとても高いのを見て、彼女が成仏したいと思えば必ず見性が必要で、自分の本心を認識し、自分の本性を見て、自分の心を悟らねば、法を学んでも無益で、心を明らかに悟ってこそ、大きく目が開くのだと教えた。

 当時方居士が澍培法師に送った彩粉画の『蒙古の娘』の行方を調査し、また仏寺の知識を得るために我々は二〇〇九年一月十八日午前に元長春市民族事務委員会宗教所所長候暁光の紹介で長春般若寺で釈成剛を訪ねた。候暁光所長の紹介によれば、長春般若寺は一九三二年に建立され、「文革」の始まった一九六七年に「休寺」となり工場(紙箱工場)となった。「四人組」が打倒された一九七九年後に、ケ小平の正常化の指示により回復した。釈成剛は一九八一年に仏門に入り、一九八六年に澍培大師が逝去した後に方丈となり、吉林省仏教協会会長となった。成剛方丈は我々の取材に関する内容に、以下のような回答を寄せてくれた。
(一)帰依書は仏教信者の身分証明書である。寺で大きな法事活動がある時に、寺に参観した新しい信者が仏堂で登録をして集中的に手続きをして、寺には「記録」は残さない。成剛方丈が強調したのは、帰依書はただ信者の身分を証明するだけで、証明を持った人は居士と呼ばれるが、その他の世俗とは一切何の関係もない。ただ毎月農歴初一、十五と仏教のお祭りの際に、男女の居士は帰依書を持参すれば寺で記帳して、無料で寝泊まりできる。
(二)澍培法師の字画。我々が成剛方丈に澍培法師が方居士本人に贈った写真、経典、墨竹図、偈語書などの物証を見せると、成剛方丈は一つ一つ確認して次のように説明した。写真は澍培法師の御遺影である。書もすべて澍培法師の真筆である。成剛方丈はさらに我々にこう説明した。「澍培法師はとても学問があり、書道にも絵画にも造詣が深かった」。我々は成剛方丈に、方居士が澍培法師に贈った「蒙古の娘」画を見たことがあるかないか尋ねた。成剛方丈は「見たことがない」と答えた。成剛方丈によれば、澍培法師の遺品はとても貴重であり、法師が寂滅後には遺物はすべて弟子たちが争うように持って行った。今では南方のある寺に澍培法師の記念室があるが、長春般若寺には今のところ設けてないということであった。

第八章第一節 長春般若寺と川島芳子

大家の逯興凱の証言によると、方おばあさんは新立城の日常生活において、普段はほとんど部屋から出ず、よく方おばあさんの部屋から線香の匂いが漂っていたという。
段霊雲と張玉母子の証言でも、方おばあさんは新立城の家の中で、仏壇に供え物をして、暇なときには線香を焚いて、念仏を唱えるのが方おばあさんの日常生活の主要な内容であったという。
張玉の紹介では、祖父の段連祥も仏門の在家の弟子であり、居士と呼ばれていた。彼女は祖父の帰依証(居士証)も見たことがある。

帰依証は居士証とも呼ばれ、中国の仏教寺院が発行する仏教信徒(居士)のための身分証明書である。昔は帰依書は比較的簡単なもので、一枚の紙の上に、居士の名前と法名と本人の写真が貼り付けてあり、証明書を発行した寺院の印章が押されてある。現在の帰依証はビニールのカバーがあり、折りたたんで携帯と保管により便利になっている。
帰依証は仏教信徒の身分を証明するほかにも、これがあれば国内のどんな仏教寺院でも登録して宿泊でき、食事をして仏事に参加できる。中国でまだ住民身分証が発行される以前は、帰依書が実際的に身分証名書の役割を果たしていた。
我々の考証によれば、方おばあさん(川島芳子)と段連祥の帰依書は、ともに長春般若寺が発行したものであった。

ちょうど都合のよいことに、九年前(一九九九年)に張玉はある「居士」の家で、公主嶺市仏教協会会長釈正成法師と知り合った。張玉が祖父の段連祥が仏門の在家の弟子であると告げると、正成法師は張玉に、段連祥居士を知っていること、また段居士には《方居士》(方おばあさん)という妻がいると聞いたことがあると語った。それで張玉は正成法師に一種の親近感を抱いて、連絡を取るようになった。六年前(二〇〇二年)に、正成法師は彼の故郷―伊通満州族自治県靠山鎮向陽村西朝陽濠屯に、般若念仏堂という寺院を建設した。二〇〇七年、正成法師は女流画家の張玉に電話をかけてきて、彼女に般若念仏堂に数幅の仏教風の画を描いて、仏堂の装飾をしてほしいと依頼があった。張玉は電話を受けた後で、我々が画を贈る機会を借りて正成法師と話をし、彼が段連祥と《方居士》について何か知っているか尋ねてみれば、我々の調査の手がかりを提供してくれるかもしれないと提案した。李剛は直ちにそれに同意を表明した。
張玉は数年前に韓国の某仏教団体と提携して、仏教風の一連の画を描いたことがあり、その中から二組を選んで二〇〇七年十二月上旬に、何景方と一緒に般若念仏堂に向かった。
伊通県東遼河畔に位置し、大恒山麓の般若念仏堂は山並みに囲まれ、我々は冬季にあっってすばらしい景色を見たわけではなかったが、しかし紅色と黄色に塗られた質素な寺院で、この都市の喧騒から遠く離れた寒村で、一種耳目を清めるような感覚を与える、修行に適したよい場所である。
正成法師と仏堂の居士たちは熱心に我々をもてなしてくれ、その夜何景方と張玉は寺院に泊まることにした。何景方は正成法師と夜を徹して語り合い、以下の点を聞きだした。正成法師は当地の俗家の生まれで姓を趙、名を光成といい、一九六二年の生まれである。一九八二年彼が二十歳のときに仏縁を結び、長春般若寺の歴史では主任住持(方丈)となり、八十五歳の澍培法師に付き添い、大師の生活起居と仏事活動の手配を世話し、澍培法師が一九八六年末に長春般若寺で円寂するまで五年の長きにわたり身辺に仕えた。これも正成法師が建設した寺院を般若念仏堂と名づけた由縁である。
正成法師が紹介していうには、彼は澍培法師の晩年五年間生活を世話する中で段連祥と出会った。段連祥は澍培法師の在家の弟子で、法名を「成章」と呼ぶ。毎回長春般若寺で会う際には、段連祥が必ず四平から長春に駆けつけていた。しかし彼が澍培法師に会うときには、必ず正成法師を通じて知らせて、接見時間を取り決めていたので、それが重なり正成法師と段連祥もよく知る仲となった。
段連祥はどのように澍培法師の在家の弟子とななったかについては、澍培法師は生前にかつて正成法師にこう話したことがあった。段連祥居士の妻である《方居士》が、昔から澍培法師の在家の弟子で法名を「成静」と呼んだ。《方居士》の紹介により、段連祥も自然と澍培法師の在家の弟子となった。

釈澍培法師は、俗家の姓を包、名を鴻運と呼び、蒙古族で、清光緒二十三年(公元一八九七年)三月二十四日遼寧省朝陽県二十家子村黄士坎屯に生まれた。
澍培法師は幼くして私塾に学び、努力してよく勉強して、十六歳(一九一三年)遼寧錦州眦盧寺で剃髪して出家し、法号を深根といい、二十三歳(一九二三年)瀋陽万寿寺で具足戒を受けた。一九二一年瀋陽万寿佛学院で三年学び、倓虚法師の学生となり、一九二五年倓虚法師二従って北京の「弥勒佛学院」で二度目の学習をして、三年で卒業した後に北京普済佛学院の教務主任となった。
一九二二年、倓虚法師が長春に般若寺を創建した。一九三二年、倓虚法師が澍培法師を長春に招き、般若寺の建設と管理を任せた。長春般若寺が建立した後に主任住持(方丈)となり、一九三二年十月十三日に昇座典礼を挙行した。長春般若寺は澍培法師の指導の下、東北で一大名刹となった。満州国時代には、澍培法師は三度日本に渡り仏法を宣揚した。
一九三九年澍培法師は退座し、長春般若寺の住職の職を善果法師に引き渡した。その後、彼は専心仏典を学び、後学の僧を育成した。
一九五六年澍培法師は長春般若寺の住持(方丈)に再び任じられた。一九八〇年、八十三歳で高齢となった澍培法師は《文革》後に長春般若寺の第一住持に任じられ、吉林省仏教協会会長となった。一九八六年十二月八日澍培法師は涅槃に円寂し、八十九年の生涯を終えた。
澍培法師は詩を作るのを好み、蘭花や墨竹の絵を描くのに優れていた。彼は一生のうちに三百余首の詩を作り、蘭・竹の書画を多く描いたが、《文革》の無常な時期にほとんど捨てられてしまった。
正成法師の証言では、澍培法師は書道や絵画に優れ、特に彼の墨竹画は造詣が深いということであった。澍培法師は生前に正成法師に、彼は嘗て《方居士》に一組の「墨竹四季折頁図」を送ったことがあると語っていた。《方居士》も嘗て大師に一幅の「蒙古の娘」のクレヨン画を贈ったことがあった。その画には一人の蒙古の娘がモンゴルの自分のパオの前に立ち、遠くを見つめている姿が描かれていた。正成法師の印象が深かったのは、嘗て彼が澍培法師の居室でその画を見たことがあったからである。しかも、正成法師が現在でも覚えているのは、澍培法師が《方居士》の「蒙古の娘」の画の中に四句の仏教の偈を描いていたことで、「忙しいさなかでも修行し、弥陀を唱えるのが最適だ。念仏を唱えて対応すれば、すぐに七宝の炎に至る。」とあった。
この《方居士》が澍培法師に贈った「蒙古の娘」の寓意について、正成法師は次のように解釈した。澍培法師はモンゴル族であり、《方居士》は澍培法師の出身を知り、それで「蒙古の娘」を描いた。澍培法師は彼女に「墨竹図」を贈って返答とし、また蒙古民族の感情を表現した。
正成法師がまだはっきり記憶しているのは、澍培法師が生前彼に《方居士》のことを話した際に、特に述べていたのは浙江天台山国清寺と長春般若寺はともに天台宗の仏門に属し、《方居士》は毎年国清寺で冬を越していたので、毎年夏に長春に戻ると、必ず般若寺に来て澍培法師に国清寺での感想を報告していた。ある夏に、澍培法師が《方居士》はもう年齢が高くなったので、国清寺は長春からあまりにも遠いので、もう行かなくてもいいのではと彼女に勧めた。そして筆を取って《方居士》に四句からなる寓意の深い偈を書いた。
「青山踏破して往時休す。仏に帰依して心に印す。人生八万四千の夢、無声一念に収む。」
ちょうどうまい具合に、澍培法師のこの四句の偈の墨蹟を、我々は段連祥の遺品の中から探し出すことができた。澍培法師のこの墨蹟は、一九七五年夏に《方居士》(川島芳子)のために書いたものである。およそ十年後に、澍培法師はまたこの四句の偈を一字も誤りなく正成法師に話して聞かせ、正成法師もまた二十年後に一字も誤りなく我々に暗証して伝えたのである。これは正成法師の記憶力のすばらしさを証明するだけでなく、《方居士》(川島芳子)が澍培法師の心に占めていた重みをも充分説明しているだろう。樹倍法師は一生をかけ長年にわたり仏法を説き、仏縁の弟子(在家弟子も含め)は大勢いたが、ただ《方居士》(川島芳子)だけには、多数の書画・私人の写真・経典などを贈り、さらに書いて与えたことのある墨蹟の内容を十年後も忘れていないというのは、法師と《方居士》(川島芳子)の関係の深さを物語っているといえよう。
澍培法師のこの四句の偈は、正成法師が先に述べた「蒙古の娘」の画に書かれた四句偈と異曲同工の妙がある。我々の理解では、澍培法師は《方居士》(川島芳子)にこう諭したものと考える。
「あなたは祖国の名山宝刹を巡り、過去の一切の往時をすべて忘れて、再び考えないようにしなさい。振り返って、仏陀を心に置くのが人生の真諦である。人生(八万四千の法門)は夢のごとく、すべて仏陀の掌の上にある。」
わかりやすくいえば、澍培法師は《方居士》(川島芳子)を諭して、一切の雑念を忘れて、昔のことを再び懐かしんだりするのではなく、敬虔に仏門に帰依するのが、人生の最後の寄宿であると言いたかったのであろう。
我々は川島芳子の資料を読む中で知ることのできたのは、川島芳子が小さい頃から粛王府で仏教の薫陶を受け、彼女の養父母の川島浪速夫妻もまた仏教信者であり、日本もまた仏教を厚く信奉する国であるということであった。川島芳子は七歳にして日本へ渡り、自然と影響を受けて成人するまでに仏縁を結んだのであろう。満州国が一九三二年に新京(長春)で「建国」された時に、川島芳子は皇后婉容を天津静園から東北に連れ出した功績により、日本関東軍の賞賛を得たばかりでなく、満州国執政溥儀と皇后婉容の好感をも得た。後に、彼女はまた満州国軍政部最高顧問多田駿の権力を背景に、満州国の「安国軍司令」となり、満州国で有名な大人物となった(一九三二年から一九三五年の期間)。この時期に澍培法師はちょうど新京(長春)の護国般若寺で最初の住職に任じられ(一九三二年から一九三九年)、また満州仏教総会の代表人物の一人であった。澍培法師と川島芳子は共に満州国時代の上層社会にいた人物であり、面識がなかったわけではあるまい。そこで、澍培法師は後に正成法師にこう述べたのである。「方居士は早くから私の在家の弟子だった。」そのうちに含まれている意味は推して知るべしである。
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