2015年10月31日
第八章第一節 長春般若寺と川島芳子
大家の逯興凱の証言によると、方おばあさんは新立城の日常生活において、普段はほとんど部屋から出ず、よく方おばあさんの部屋から線香の匂いが漂っていたという。
段霊雲と張玉母子の証言でも、方おばあさんは新立城の家の中で、仏壇に供え物をして、暇なときには線香を焚いて、念仏を唱えるのが方おばあさんの日常生活の主要な内容であったという。
張玉の紹介では、祖父の段連祥も仏門の在家の弟子であり、居士と呼ばれていた。彼女は祖父の帰依証(居士証)も見たことがある。
帰依証は居士証とも呼ばれ、中国の仏教寺院が発行する仏教信徒(居士)のための身分証明書である。昔は帰依書は比較的簡単なもので、一枚の紙の上に、居士の名前と法名と本人の写真が貼り付けてあり、証明書を発行した寺院の印章が押されてある。現在の帰依証はビニールのカバーがあり、折りたたんで携帯と保管により便利になっている。
帰依証は仏教信徒の身分を証明するほかにも、これがあれば国内のどんな仏教寺院でも登録して宿泊でき、食事をして仏事に参加できる。中国でまだ住民身分証が発行される以前は、帰依書が実際的に身分証名書の役割を果たしていた。
我々の考証によれば、方おばあさん(川島芳子)と段連祥の帰依書は、ともに長春般若寺が発行したものであった。
ちょうど都合のよいことに、九年前(一九九九年)に張玉はある「居士」の家で、公主嶺市仏教協会会長釈正成法師と知り合った。張玉が祖父の段連祥が仏門の在家の弟子であると告げると、正成法師は張玉に、段連祥居士を知っていること、また段居士には《方居士》(方おばあさん)という妻がいると聞いたことがあると語った。それで張玉は正成法師に一種の親近感を抱いて、連絡を取るようになった。六年前(二〇〇二年)に、正成法師は彼の故郷―伊通満州族自治県靠山鎮向陽村西朝陽濠屯に、般若念仏堂という寺院を建設した。二〇〇七年、正成法師は女流画家の張玉に電話をかけてきて、彼女に般若念仏堂に数幅の仏教風の画を描いて、仏堂の装飾をしてほしいと依頼があった。張玉は電話を受けた後で、我々が画を贈る機会を借りて正成法師と話をし、彼が段連祥と《方居士》について何か知っているか尋ねてみれば、我々の調査の手がかりを提供してくれるかもしれないと提案した。李剛は直ちにそれに同意を表明した。
張玉は数年前に韓国の某仏教団体と提携して、仏教風の一連の画を描いたことがあり、その中から二組を選んで二〇〇七年十二月上旬に、何景方と一緒に般若念仏堂に向かった。
伊通県東遼河畔に位置し、大恒山麓の般若念仏堂は山並みに囲まれ、我々は冬季にあっってすばらしい景色を見たわけではなかったが、しかし紅色と黄色に塗られた質素な寺院で、この都市の喧騒から遠く離れた寒村で、一種耳目を清めるような感覚を与える、修行に適したよい場所である。
正成法師と仏堂の居士たちは熱心に我々をもてなしてくれ、その夜何景方と張玉は寺院に泊まることにした。何景方は正成法師と夜を徹して語り合い、以下の点を聞きだした。正成法師は当地の俗家の生まれで姓を趙、名を光成といい、一九六二年の生まれである。一九八二年彼が二十歳のときに仏縁を結び、長春般若寺の歴史では主任住持(方丈)となり、八十五歳の澍培法師に付き添い、大師の生活起居と仏事活動の手配を世話し、澍培法師が一九八六年末に長春般若寺で円寂するまで五年の長きにわたり身辺に仕えた。これも正成法師が建設した寺院を般若念仏堂と名づけた由縁である。
正成法師が紹介していうには、彼は澍培法師の晩年五年間生活を世話する中で段連祥と出会った。段連祥は澍培法師の在家の弟子で、法名を「成章」と呼ぶ。毎回長春般若寺で会う際には、段連祥が必ず四平から長春に駆けつけていた。しかし彼が澍培法師に会うときには、必ず正成法師を通じて知らせて、接見時間を取り決めていたので、それが重なり正成法師と段連祥もよく知る仲となった。
段連祥はどのように澍培法師の在家の弟子とななったかについては、澍培法師は生前にかつて正成法師にこう話したことがあった。段連祥居士の妻である《方居士》が、昔から澍培法師の在家の弟子で法名を「成静」と呼んだ。《方居士》の紹介により、段連祥も自然と澍培法師の在家の弟子となった。
釈澍培法師は、俗家の姓を包、名を鴻運と呼び、蒙古族で、清光緒二十三年(公元一八九七年)三月二十四日遼寧省朝陽県二十家子村黄士坎屯に生まれた。
澍培法師は幼くして私塾に学び、努力してよく勉強して、十六歳(一九一三年)遼寧錦州眦盧寺で剃髪して出家し、法号を深根といい、二十三歳(一九二三年)瀋陽万寿寺で具足戒を受けた。一九二一年瀋陽万寿佛学院で三年学び、倓虚法師の学生となり、一九二五年倓虚法師二従って北京の「弥勒佛学院」で二度目の学習をして、三年で卒業した後に北京普済佛学院の教務主任となった。
一九二二年、倓虚法師が長春に般若寺を創建した。一九三二年、倓虚法師が澍培法師を長春に招き、般若寺の建設と管理を任せた。長春般若寺が建立した後に主任住持(方丈)となり、一九三二年十月十三日に昇座典礼を挙行した。長春般若寺は澍培法師の指導の下、東北で一大名刹となった。満州国時代には、澍培法師は三度日本に渡り仏法を宣揚した。
一九三九年澍培法師は退座し、長春般若寺の住職の職を善果法師に引き渡した。その後、彼は専心仏典を学び、後学の僧を育成した。
一九五六年澍培法師は長春般若寺の住持(方丈)に再び任じられた。一九八〇年、八十三歳で高齢となった澍培法師は《文革》後に長春般若寺の第一住持に任じられ、吉林省仏教協会会長となった。一九八六年十二月八日澍培法師は涅槃に円寂し、八十九年の生涯を終えた。
澍培法師は詩を作るのを好み、蘭花や墨竹の絵を描くのに優れていた。彼は一生のうちに三百余首の詩を作り、蘭・竹の書画を多く描いたが、《文革》の無常な時期にほとんど捨てられてしまった。
正成法師の証言では、澍培法師は書道や絵画に優れ、特に彼の墨竹画は造詣が深いということであった。澍培法師は生前に正成法師に、彼は嘗て《方居士》に一組の「墨竹四季折頁図」を送ったことがあると語っていた。《方居士》も嘗て大師に一幅の「蒙古の娘」のクレヨン画を贈ったことがあった。その画には一人の蒙古の娘がモンゴルの自分のパオの前に立ち、遠くを見つめている姿が描かれていた。正成法師の印象が深かったのは、嘗て彼が澍培法師の居室でその画を見たことがあったからである。しかも、正成法師が現在でも覚えているのは、澍培法師が《方居士》の「蒙古の娘」の画の中に四句の仏教の偈を描いていたことで、「忙しいさなかでも修行し、弥陀を唱えるのが最適だ。念仏を唱えて対応すれば、すぐに七宝の炎に至る。」とあった。
この《方居士》が澍培法師に贈った「蒙古の娘」の寓意について、正成法師は次のように解釈した。澍培法師はモンゴル族であり、《方居士》は澍培法師の出身を知り、それで「蒙古の娘」を描いた。澍培法師は彼女に「墨竹図」を贈って返答とし、また蒙古民族の感情を表現した。
正成法師がまだはっきり記憶しているのは、澍培法師が生前彼に《方居士》のことを話した際に、特に述べていたのは浙江天台山国清寺と長春般若寺はともに天台宗の仏門に属し、《方居士》は毎年国清寺で冬を越していたので、毎年夏に長春に戻ると、必ず般若寺に来て澍培法師に国清寺での感想を報告していた。ある夏に、澍培法師が《方居士》はもう年齢が高くなったので、国清寺は長春からあまりにも遠いので、もう行かなくてもいいのではと彼女に勧めた。そして筆を取って《方居士》に四句からなる寓意の深い偈を書いた。
「青山踏破して往時休す。仏に帰依して心に印す。人生八万四千の夢、無声一念に収む。」
ちょうどうまい具合に、澍培法師のこの四句の偈の墨蹟を、我々は段連祥の遺品の中から探し出すことができた。澍培法師のこの墨蹟は、一九七五年夏に《方居士》(川島芳子)のために書いたものである。およそ十年後に、澍培法師はまたこの四句の偈を一字も誤りなく正成法師に話して聞かせ、正成法師もまた二十年後に一字も誤りなく我々に暗証して伝えたのである。これは正成法師の記憶力のすばらしさを証明するだけでなく、《方居士》(川島芳子)が澍培法師の心に占めていた重みをも充分説明しているだろう。樹倍法師は一生をかけ長年にわたり仏法を説き、仏縁の弟子(在家弟子も含め)は大勢いたが、ただ《方居士》(川島芳子)だけには、多数の書画・私人の写真・経典などを贈り、さらに書いて与えたことのある墨蹟の内容を十年後も忘れていないというのは、法師と《方居士》(川島芳子)の関係の深さを物語っているといえよう。
澍培法師のこの四句の偈は、正成法師が先に述べた「蒙古の娘」の画に書かれた四句偈と異曲同工の妙がある。我々の理解では、澍培法師は《方居士》(川島芳子)にこう諭したものと考える。
「あなたは祖国の名山宝刹を巡り、過去の一切の往時をすべて忘れて、再び考えないようにしなさい。振り返って、仏陀を心に置くのが人生の真諦である。人生(八万四千の法門)は夢のごとく、すべて仏陀の掌の上にある。」
わかりやすくいえば、澍培法師は《方居士》(川島芳子)を諭して、一切の雑念を忘れて、昔のことを再び懐かしんだりするのではなく、敬虔に仏門に帰依するのが、人生の最後の寄宿であると言いたかったのであろう。
我々は川島芳子の資料を読む中で知ることのできたのは、川島芳子が小さい頃から粛王府で仏教の薫陶を受け、彼女の養父母の川島浪速夫妻もまた仏教信者であり、日本もまた仏教を厚く信奉する国であるということであった。川島芳子は七歳にして日本へ渡り、自然と影響を受けて成人するまでに仏縁を結んだのであろう。満州国が一九三二年に新京(長春)で「建国」された時に、川島芳子は皇后婉容を天津静園から東北に連れ出した功績により、日本関東軍の賞賛を得たばかりでなく、満州国執政溥儀と皇后婉容の好感をも得た。後に、彼女はまた満州国軍政部最高顧問多田駿の権力を背景に、満州国の「安国軍司令」となり、満州国で有名な大人物となった(一九三二年から一九三五年の期間)。この時期に澍培法師はちょうど新京(長春)の護国般若寺で最初の住職に任じられ(一九三二年から一九三九年)、また満州仏教総会の代表人物の一人であった。澍培法師と川島芳子は共に満州国時代の上層社会にいた人物であり、面識がなかったわけではあるまい。そこで、澍培法師は後に正成法師にこう述べたのである。「方居士は早くから私の在家の弟子だった。」そのうちに含まれている意味は推して知るべしである。
段霊雲と張玉母子の証言でも、方おばあさんは新立城の家の中で、仏壇に供え物をして、暇なときには線香を焚いて、念仏を唱えるのが方おばあさんの日常生活の主要な内容であったという。
張玉の紹介では、祖父の段連祥も仏門の在家の弟子であり、居士と呼ばれていた。彼女は祖父の帰依証(居士証)も見たことがある。
帰依証は居士証とも呼ばれ、中国の仏教寺院が発行する仏教信徒(居士)のための身分証明書である。昔は帰依書は比較的簡単なもので、一枚の紙の上に、居士の名前と法名と本人の写真が貼り付けてあり、証明書を発行した寺院の印章が押されてある。現在の帰依証はビニールのカバーがあり、折りたたんで携帯と保管により便利になっている。
帰依証は仏教信徒の身分を証明するほかにも、これがあれば国内のどんな仏教寺院でも登録して宿泊でき、食事をして仏事に参加できる。中国でまだ住民身分証が発行される以前は、帰依書が実際的に身分証名書の役割を果たしていた。
我々の考証によれば、方おばあさん(川島芳子)と段連祥の帰依書は、ともに長春般若寺が発行したものであった。
ちょうど都合のよいことに、九年前(一九九九年)に張玉はある「居士」の家で、公主嶺市仏教協会会長釈正成法師と知り合った。張玉が祖父の段連祥が仏門の在家の弟子であると告げると、正成法師は張玉に、段連祥居士を知っていること、また段居士には《方居士》(方おばあさん)という妻がいると聞いたことがあると語った。それで張玉は正成法師に一種の親近感を抱いて、連絡を取るようになった。六年前(二〇〇二年)に、正成法師は彼の故郷―伊通満州族自治県靠山鎮向陽村西朝陽濠屯に、般若念仏堂という寺院を建設した。二〇〇七年、正成法師は女流画家の張玉に電話をかけてきて、彼女に般若念仏堂に数幅の仏教風の画を描いて、仏堂の装飾をしてほしいと依頼があった。張玉は電話を受けた後で、我々が画を贈る機会を借りて正成法師と話をし、彼が段連祥と《方居士》について何か知っているか尋ねてみれば、我々の調査の手がかりを提供してくれるかもしれないと提案した。李剛は直ちにそれに同意を表明した。
張玉は数年前に韓国の某仏教団体と提携して、仏教風の一連の画を描いたことがあり、その中から二組を選んで二〇〇七年十二月上旬に、何景方と一緒に般若念仏堂に向かった。
伊通県東遼河畔に位置し、大恒山麓の般若念仏堂は山並みに囲まれ、我々は冬季にあっってすばらしい景色を見たわけではなかったが、しかし紅色と黄色に塗られた質素な寺院で、この都市の喧騒から遠く離れた寒村で、一種耳目を清めるような感覚を与える、修行に適したよい場所である。
正成法師と仏堂の居士たちは熱心に我々をもてなしてくれ、その夜何景方と張玉は寺院に泊まることにした。何景方は正成法師と夜を徹して語り合い、以下の点を聞きだした。正成法師は当地の俗家の生まれで姓を趙、名を光成といい、一九六二年の生まれである。一九八二年彼が二十歳のときに仏縁を結び、長春般若寺の歴史では主任住持(方丈)となり、八十五歳の澍培法師に付き添い、大師の生活起居と仏事活動の手配を世話し、澍培法師が一九八六年末に長春般若寺で円寂するまで五年の長きにわたり身辺に仕えた。これも正成法師が建設した寺院を般若念仏堂と名づけた由縁である。
正成法師が紹介していうには、彼は澍培法師の晩年五年間生活を世話する中で段連祥と出会った。段連祥は澍培法師の在家の弟子で、法名を「成章」と呼ぶ。毎回長春般若寺で会う際には、段連祥が必ず四平から長春に駆けつけていた。しかし彼が澍培法師に会うときには、必ず正成法師を通じて知らせて、接見時間を取り決めていたので、それが重なり正成法師と段連祥もよく知る仲となった。
段連祥はどのように澍培法師の在家の弟子とななったかについては、澍培法師は生前にかつて正成法師にこう話したことがあった。段連祥居士の妻である《方居士》が、昔から澍培法師の在家の弟子で法名を「成静」と呼んだ。《方居士》の紹介により、段連祥も自然と澍培法師の在家の弟子となった。
釈澍培法師は、俗家の姓を包、名を鴻運と呼び、蒙古族で、清光緒二十三年(公元一八九七年)三月二十四日遼寧省朝陽県二十家子村黄士坎屯に生まれた。
澍培法師は幼くして私塾に学び、努力してよく勉強して、十六歳(一九一三年)遼寧錦州眦盧寺で剃髪して出家し、法号を深根といい、二十三歳(一九二三年)瀋陽万寿寺で具足戒を受けた。一九二一年瀋陽万寿佛学院で三年学び、倓虚法師の学生となり、一九二五年倓虚法師二従って北京の「弥勒佛学院」で二度目の学習をして、三年で卒業した後に北京普済佛学院の教務主任となった。
一九二二年、倓虚法師が長春に般若寺を創建した。一九三二年、倓虚法師が澍培法師を長春に招き、般若寺の建設と管理を任せた。長春般若寺が建立した後に主任住持(方丈)となり、一九三二年十月十三日に昇座典礼を挙行した。長春般若寺は澍培法師の指導の下、東北で一大名刹となった。満州国時代には、澍培法師は三度日本に渡り仏法を宣揚した。
一九三九年澍培法師は退座し、長春般若寺の住職の職を善果法師に引き渡した。その後、彼は専心仏典を学び、後学の僧を育成した。
一九五六年澍培法師は長春般若寺の住持(方丈)に再び任じられた。一九八〇年、八十三歳で高齢となった澍培法師は《文革》後に長春般若寺の第一住持に任じられ、吉林省仏教協会会長となった。一九八六年十二月八日澍培法師は涅槃に円寂し、八十九年の生涯を終えた。
澍培法師は詩を作るのを好み、蘭花や墨竹の絵を描くのに優れていた。彼は一生のうちに三百余首の詩を作り、蘭・竹の書画を多く描いたが、《文革》の無常な時期にほとんど捨てられてしまった。
正成法師の証言では、澍培法師は書道や絵画に優れ、特に彼の墨竹画は造詣が深いということであった。澍培法師は生前に正成法師に、彼は嘗て《方居士》に一組の「墨竹四季折頁図」を送ったことがあると語っていた。《方居士》も嘗て大師に一幅の「蒙古の娘」のクレヨン画を贈ったことがあった。その画には一人の蒙古の娘がモンゴルの自分のパオの前に立ち、遠くを見つめている姿が描かれていた。正成法師の印象が深かったのは、嘗て彼が澍培法師の居室でその画を見たことがあったからである。しかも、正成法師が現在でも覚えているのは、澍培法師が《方居士》の「蒙古の娘」の画の中に四句の仏教の偈を描いていたことで、「忙しいさなかでも修行し、弥陀を唱えるのが最適だ。念仏を唱えて対応すれば、すぐに七宝の炎に至る。」とあった。
この《方居士》が澍培法師に贈った「蒙古の娘」の寓意について、正成法師は次のように解釈した。澍培法師はモンゴル族であり、《方居士》は澍培法師の出身を知り、それで「蒙古の娘」を描いた。澍培法師は彼女に「墨竹図」を贈って返答とし、また蒙古民族の感情を表現した。
正成法師がまだはっきり記憶しているのは、澍培法師が生前彼に《方居士》のことを話した際に、特に述べていたのは浙江天台山国清寺と長春般若寺はともに天台宗の仏門に属し、《方居士》は毎年国清寺で冬を越していたので、毎年夏に長春に戻ると、必ず般若寺に来て澍培法師に国清寺での感想を報告していた。ある夏に、澍培法師が《方居士》はもう年齢が高くなったので、国清寺は長春からあまりにも遠いので、もう行かなくてもいいのではと彼女に勧めた。そして筆を取って《方居士》に四句からなる寓意の深い偈を書いた。
「青山踏破して往時休す。仏に帰依して心に印す。人生八万四千の夢、無声一念に収む。」
ちょうどうまい具合に、澍培法師のこの四句の偈の墨蹟を、我々は段連祥の遺品の中から探し出すことができた。澍培法師のこの墨蹟は、一九七五年夏に《方居士》(川島芳子)のために書いたものである。およそ十年後に、澍培法師はまたこの四句の偈を一字も誤りなく正成法師に話して聞かせ、正成法師もまた二十年後に一字も誤りなく我々に暗証して伝えたのである。これは正成法師の記憶力のすばらしさを証明するだけでなく、《方居士》(川島芳子)が澍培法師の心に占めていた重みをも充分説明しているだろう。樹倍法師は一生をかけ長年にわたり仏法を説き、仏縁の弟子(在家弟子も含め)は大勢いたが、ただ《方居士》(川島芳子)だけには、多数の書画・私人の写真・経典などを贈り、さらに書いて与えたことのある墨蹟の内容を十年後も忘れていないというのは、法師と《方居士》(川島芳子)の関係の深さを物語っているといえよう。
澍培法師のこの四句の偈は、正成法師が先に述べた「蒙古の娘」の画に書かれた四句偈と異曲同工の妙がある。我々の理解では、澍培法師は《方居士》(川島芳子)にこう諭したものと考える。
「あなたは祖国の名山宝刹を巡り、過去の一切の往時をすべて忘れて、再び考えないようにしなさい。振り返って、仏陀を心に置くのが人生の真諦である。人生(八万四千の法門)は夢のごとく、すべて仏陀の掌の上にある。」
わかりやすくいえば、澍培法師は《方居士》(川島芳子)を諭して、一切の雑念を忘れて、昔のことを再び懐かしんだりするのではなく、敬虔に仏門に帰依するのが、人生の最後の寄宿であると言いたかったのであろう。
我々は川島芳子の資料を読む中で知ることのできたのは、川島芳子が小さい頃から粛王府で仏教の薫陶を受け、彼女の養父母の川島浪速夫妻もまた仏教信者であり、日本もまた仏教を厚く信奉する国であるということであった。川島芳子は七歳にして日本へ渡り、自然と影響を受けて成人するまでに仏縁を結んだのであろう。満州国が一九三二年に新京(長春)で「建国」された時に、川島芳子は皇后婉容を天津静園から東北に連れ出した功績により、日本関東軍の賞賛を得たばかりでなく、満州国執政溥儀と皇后婉容の好感をも得た。後に、彼女はまた満州国軍政部最高顧問多田駿の権力を背景に、満州国の「安国軍司令」となり、満州国で有名な大人物となった(一九三二年から一九三五年の期間)。この時期に澍培法師はちょうど新京(長春)の護国般若寺で最初の住職に任じられ(一九三二年から一九三九年)、また満州仏教総会の代表人物の一人であった。澍培法師と川島芳子は共に満州国時代の上層社会にいた人物であり、面識がなかったわけではあるまい。そこで、澍培法師は後に正成法師にこう述べたのである。「方居士は早くから私の在家の弟子だった。」そのうちに含まれている意味は推して知るべしである。
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