2015年10月30日
第七章第一節 国清寺の調査
大家であった逯興凱が我々に方おばあさんの情況を紹介する時に特に指摘していたのは、彼女は毎年冬になると新立城にはいなかったことで、毎年冬になると方おばあさんの家の中から人影がなくなることであった。この現象は段霊雲と張玉母子はあまり気にしていなかったが、彼女たちが一点だけ肯定したのは、前世紀五、六〇年代に段霊雲が方おばあさんに付き添っていた頃にせよ、七〇年代に張玉が方おばあさんと一緒に生活していた頃にせよ、彼女たちが記憶にあるのはいつも夏の時期であった。冬は彼女たちは新立城に行ったことがなかったのである。
新立城の冬は三四十年前は確かに非常に寒かった。当地の一般の農家は、部屋の中のオンドルと火鉢(釜を焚いた薪木の燃えカスを入れる鉄の鉢)の外に、その他の暖房設備というものがなかった。それでは、毎年長い冬季に、方おばあさんはどこに寒さを避けて行っていたのであろうか?
大家の逯興凱の記憶では、段連祥は毎回「新立城」に到着すると、彼らの家に来て顔を出し、逯興凱の父親逯長站と世間話をしていた。おりには、冬越えのことについて話していることもあった。段連祥が言うには、通常の場合は方おばあさんは浙江省の国清寺で冬を越しているとのことであった。
方おばあさんのこの普通の人の生活と異なる点は、彼女の神秘性を増しただけでなく、我々が今までよく知らなかった国清寺という仏教寺院への関心を引くこととなった。我々はネットで調べた結果、以下の点を知った。国清寺は中国浙江省天台山麓の天台県に位置し、中国仏教天台宗の発祥地で、また日本仏教天台宗の発祥地でもある。我々は国清寺が我国の仏教界でこのような重要な地位を占め、さらに東洋日本仏教にもこのような歴史的に深い関係があるとは予想すらしていなかったので、我々は国清寺への興味をさらに深めたのである。特に、方おばあさんがどうしてこの国清寺を選んで、冬季の隠遁先にしていたのか?国清寺の魅力はどこにあるのか?熟考の末、李剛は決断を下し、何景方と張玉を一緒に国清寺へ向かわせて、方おばあさんが国清寺で生活した記録があるかどうか探し、方おばあさん(川島芳子)の新立城以外の土地での生活の軌跡を探ることとした。
十一月初めの北国長春は、早くも風が落葉を吹きつけ地上には霜が降りる季節である。何景方と張玉は一緒に南方行きの汽車に乗り込み、汽車の中で二泊の旅程を経て、まだ暖かく緑が茂る杭州にやって来た。杭州から長距離バスに乗り天台県に向かい、蕭山、紹興、上虞、嵊州、新昌などの市県を通り過ぎた。特に新昌から天台の区間は高速道路ではなく、険しい山の間を走る山道で、バスはくねくねと起伏する山の周囲を縫うように走り、何景方と張玉の二人はこう考えざるを得なかった。三四十年前には浙江の山地の道路はまだ整備されておらず、交通機関もいまだ発達していなかったのに、すでに高年齢になっていた方おばあさんが、毎年寒い冬の季節に、東北の長春から、千里はるばる天台山の国清寺のような逼塞した地方に来るには、十日から八日かかるはずで、どう考えてもたどり着けないだろうと考えたことからも、その苦労の程度が想像できるだろう。しかし、大きな山を越えて天台県に来ると、まるで別天地のようであった。天台県はとても美しく、天台山の霊気に満たされているようであった。天台県から国清寺へは専用のバス路線がある。多くの観光客がいることからわかるように、国清寺は今でもやはり旅行のホットスポットであった。
何景方と張玉は天台山の麓に来ると、当時方おばあさんが国清寺に行くのに通ったであろう路線に沿って、山に入る道路から木魚山を経て、雲の上の峰に高くそびえる千年隋塔を見ながら、寒拾亭、七佛塔を経て、豊幹橋を渡り、国内外に広くなを知られる千年の歴史を持つ古刹―国清寺へ到着した。
二日間をかけて、何景方と張玉は敬虔な面持ちで、国清寺の殿内にある仏像を参観し、寺院周囲の景観を遊覧し、さらに真慧法師、延如小師弟、接待室の梅吉異居士と九十四歳になる高齢の以前は食事係だった林若水老居士らと会い、国清寺の歴史や現状などを尋ね、方おばあさんがかつて国清寺で冬を越し、仏事に参加していた足跡が見つからないか話を聞いた。しかし、既にかなりの年月が経っており、方おばあさんのように普通の在家の仏門弟子の身分では、寺の中には何も記録はないだろうとのことであった。たとえ当時方おばあさんが川島芳子であると寺の住職やそのたの僧が知っていたとしても、他人には決してそのことを口外しないだろうというのである。しかし、何景方と張玉は二日間の国清寺でのおぼろげな理解を通じて、方おばあさん(川島芳子)がどうして毎年国清寺へ来ていたのか、寒さを避けて冬をすごすという客観的な原因の外に、国清寺という千年の歴史を持つ古刹に実際に身をおいて深く考えることができただけでも、今回の旅行は無駄でなかったといえよう。
『国清寺志』の記載によれば、中国南北朝のとき陳国の太建七年(西暦五七五年)、一人の高僧定光が天台山で修行していた智大師に言った。「山の下の皇太子が基礎を据えて、寺院が造成されるだろう」さらにつぎのように予言した。「寺を造成できれば、国すなわち清まる」(国清寺の名前はここに由来する)。こうして高僧智は寺院建設の志を立てた。隋の時代の陳国の後、智は晋王楊広と深い仏縁を取り結んだ。隋の開皇十七年十月、智は遺書を晋王に贈り、寺院建設を求めた。
「天台山のふもとの土地で、非常によい土地があり、伽藍を建設したい。最初は木材を切って基礎をすえ、弟子に建設するよう命じた。寺が完成されなければ、死んでも気がかりだ。」
晋王は書を受け取ると感動して、隋開皇十八年(西暦五九八年)司馬王弘を天台に派遣し、智の遺言に従って寺院を建設した。隋の文帝仁寿元年(西暦六〇一年)に、寺院が完成して、天台寺と呼んだ。大業元年(西暦六〇五年)に隋の煬帝が即位すると、天台寺に「五百段の贈り物」を寄進して、「国清寺」の名を賜った。
国清寺は長い年月の間、皇帝や王からの寄進を受けて、教勢が盛んとなったが、やはり戦乱による災難や皇帝による仏教迫害などにより衰退したこともある。盛衰を繰り返したが、衰退よりも盛んであった時代の方が長く、これが国清寺千年の発展史の特徴でもある。
国清寺に現在残っている建築物は清代の雍正年間に再建されたもので、近代国清寺の建築風格を規定した。一九七三年中国人民政府が全面的に修復し、現在ある寺院は合計一四座、部屋は六百間余り、総建築面積は二万平方米、占地面積は三万平方米近く、中国漢族地区の著名な古刹の一つとなっている。一九八三年、国務院は国清寺を漢族地区百四十二座の仏教重点寺院の一つに認定した。
国清寺は千年に及ぶ悠久の歴史を持ち、仏教中国化の長い年月の中で重要な伝承作用を果たしてきた。歴代の高僧の苦心の研修を経て、仏法は厚く広く深く極められ仏教が東アジアに広まるさいに大きな貢献を果たした。このような寺院であればこそ仏門に入り在家の弟子となった川島芳子が、どうして千里はるばる国清寺へ来て、しかも毎年参観していたのか理解するのはそう難しいことではない。
新立城の冬は三四十年前は確かに非常に寒かった。当地の一般の農家は、部屋の中のオンドルと火鉢(釜を焚いた薪木の燃えカスを入れる鉄の鉢)の外に、その他の暖房設備というものがなかった。それでは、毎年長い冬季に、方おばあさんはどこに寒さを避けて行っていたのであろうか?
大家の逯興凱の記憶では、段連祥は毎回「新立城」に到着すると、彼らの家に来て顔を出し、逯興凱の父親逯長站と世間話をしていた。おりには、冬越えのことについて話していることもあった。段連祥が言うには、通常の場合は方おばあさんは浙江省の国清寺で冬を越しているとのことであった。
方おばあさんのこの普通の人の生活と異なる点は、彼女の神秘性を増しただけでなく、我々が今までよく知らなかった国清寺という仏教寺院への関心を引くこととなった。我々はネットで調べた結果、以下の点を知った。国清寺は中国浙江省天台山麓の天台県に位置し、中国仏教天台宗の発祥地で、また日本仏教天台宗の発祥地でもある。我々は国清寺が我国の仏教界でこのような重要な地位を占め、さらに東洋日本仏教にもこのような歴史的に深い関係があるとは予想すらしていなかったので、我々は国清寺への興味をさらに深めたのである。特に、方おばあさんがどうしてこの国清寺を選んで、冬季の隠遁先にしていたのか?国清寺の魅力はどこにあるのか?熟考の末、李剛は決断を下し、何景方と張玉を一緒に国清寺へ向かわせて、方おばあさんが国清寺で生活した記録があるかどうか探し、方おばあさん(川島芳子)の新立城以外の土地での生活の軌跡を探ることとした。
十一月初めの北国長春は、早くも風が落葉を吹きつけ地上には霜が降りる季節である。何景方と張玉は一緒に南方行きの汽車に乗り込み、汽車の中で二泊の旅程を経て、まだ暖かく緑が茂る杭州にやって来た。杭州から長距離バスに乗り天台県に向かい、蕭山、紹興、上虞、嵊州、新昌などの市県を通り過ぎた。特に新昌から天台の区間は高速道路ではなく、険しい山の間を走る山道で、バスはくねくねと起伏する山の周囲を縫うように走り、何景方と張玉の二人はこう考えざるを得なかった。三四十年前には浙江の山地の道路はまだ整備されておらず、交通機関もいまだ発達していなかったのに、すでに高年齢になっていた方おばあさんが、毎年寒い冬の季節に、東北の長春から、千里はるばる天台山の国清寺のような逼塞した地方に来るには、十日から八日かかるはずで、どう考えてもたどり着けないだろうと考えたことからも、その苦労の程度が想像できるだろう。しかし、大きな山を越えて天台県に来ると、まるで別天地のようであった。天台県はとても美しく、天台山の霊気に満たされているようであった。天台県から国清寺へは専用のバス路線がある。多くの観光客がいることからわかるように、国清寺は今でもやはり旅行のホットスポットであった。
何景方と張玉は天台山の麓に来ると、当時方おばあさんが国清寺に行くのに通ったであろう路線に沿って、山に入る道路から木魚山を経て、雲の上の峰に高くそびえる千年隋塔を見ながら、寒拾亭、七佛塔を経て、豊幹橋を渡り、国内外に広くなを知られる千年の歴史を持つ古刹―国清寺へ到着した。
二日間をかけて、何景方と張玉は敬虔な面持ちで、国清寺の殿内にある仏像を参観し、寺院周囲の景観を遊覧し、さらに真慧法師、延如小師弟、接待室の梅吉異居士と九十四歳になる高齢の以前は食事係だった林若水老居士らと会い、国清寺の歴史や現状などを尋ね、方おばあさんがかつて国清寺で冬を越し、仏事に参加していた足跡が見つからないか話を聞いた。しかし、既にかなりの年月が経っており、方おばあさんのように普通の在家の仏門弟子の身分では、寺の中には何も記録はないだろうとのことであった。たとえ当時方おばあさんが川島芳子であると寺の住職やそのたの僧が知っていたとしても、他人には決してそのことを口外しないだろうというのである。しかし、何景方と張玉は二日間の国清寺でのおぼろげな理解を通じて、方おばあさん(川島芳子)がどうして毎年国清寺へ来ていたのか、寒さを避けて冬をすごすという客観的な原因の外に、国清寺という千年の歴史を持つ古刹に実際に身をおいて深く考えることができただけでも、今回の旅行は無駄でなかったといえよう。
『国清寺志』の記載によれば、中国南北朝のとき陳国の太建七年(西暦五七五年)、一人の高僧定光が天台山で修行していた智大師に言った。「山の下の皇太子が基礎を据えて、寺院が造成されるだろう」さらにつぎのように予言した。「寺を造成できれば、国すなわち清まる」(国清寺の名前はここに由来する)。こうして高僧智は寺院建設の志を立てた。隋の時代の陳国の後、智は晋王楊広と深い仏縁を取り結んだ。隋の開皇十七年十月、智は遺書を晋王に贈り、寺院建設を求めた。
「天台山のふもとの土地で、非常によい土地があり、伽藍を建設したい。最初は木材を切って基礎をすえ、弟子に建設するよう命じた。寺が完成されなければ、死んでも気がかりだ。」
晋王は書を受け取ると感動して、隋開皇十八年(西暦五九八年)司馬王弘を天台に派遣し、智の遺言に従って寺院を建設した。隋の文帝仁寿元年(西暦六〇一年)に、寺院が完成して、天台寺と呼んだ。大業元年(西暦六〇五年)に隋の煬帝が即位すると、天台寺に「五百段の贈り物」を寄進して、「国清寺」の名を賜った。
国清寺は長い年月の間、皇帝や王からの寄進を受けて、教勢が盛んとなったが、やはり戦乱による災難や皇帝による仏教迫害などにより衰退したこともある。盛衰を繰り返したが、衰退よりも盛んであった時代の方が長く、これが国清寺千年の発展史の特徴でもある。
国清寺に現在残っている建築物は清代の雍正年間に再建されたもので、近代国清寺の建築風格を規定した。一九七三年中国人民政府が全面的に修復し、現在ある寺院は合計一四座、部屋は六百間余り、総建築面積は二万平方米、占地面積は三万平方米近く、中国漢族地区の著名な古刹の一つとなっている。一九八三年、国務院は国清寺を漢族地区百四十二座の仏教重点寺院の一つに認定した。
国清寺は千年に及ぶ悠久の歴史を持ち、仏教中国化の長い年月の中で重要な伝承作用を果たしてきた。歴代の高僧の苦心の研修を経て、仏法は厚く広く深く極められ仏教が東アジアに広まるさいに大きな貢献を果たした。このような寺院であればこそ仏門に入り在家の弟子となった川島芳子が、どうして千里はるばる国清寺へ来て、しかも毎年参観していたのか理解するのはそう難しいことではない。
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