2020年09月25日
【国際派】天ぷらの成り立ち
江戸時代には魚河岸がつくられ、その脇で仕入れた魚介類に衣をつけて、立ち食いで提供する店が出始めました。これが天ぷらの始まりですが、当時はごま揚げと呼ばれていました。ごま揚げの所以は、単純にごま油で揚げられていたからです。名前はともかくも、日本で初めて天ぷら風の揚げ料理が登場しました。
京都でも同様の料理は出現しましたが、京都では、付け揚げと呼ばれていました。その京都では、しばらくしてごま油に代わり、大量に生産されるようになった菜種油が全盛となります。あっさり味が好まれた京都では、軽い味わいの菜種油が瞬く間に主流となりました。一方、江戸では濃い香りとコクが選ばれ、ごま油が主流のままでした。この傾向は現代にも引き継がれ、揚げ油は関東ではごま油が主体で、関西ではサラダ油が中心です。そのため、関東の天ぷらは色が濃く、関西は薄くなります。
天ぷらと呼ばれ始めたのは、1770年代と言われています。この頃から、江戸及び京都ともに常設の天ぷら屋台が増え始めました。
屋台では、串にさして揚げられた天ぷらが、皿に載せられて売られており、そのとなりに天つゆの入った大きな鉢と大根おろしを盛った器がありました。食べるときは立ったまま、好みの串を選んで、天つゆにつけ、大根おろしと一緒に口に入れます。これが後々串には刺されることがなくなり、箸でとって小皿に載せるようになりました。
屋台での立ち食いから始まった天ぷらは、あくまで庶民の食べる安価な食べ物です。そのため、身分の高い層には、社会的地位の低い者がたべるものと敬遠されてきました。
ところが、江戸時代も末期になると、高貴な層に合わせた贅沢な天ぷらが登場し、人気を集めはじめます。ひとつの例が金ぷらで、天ぷらに使用するには贅沢な油や鶏卵を使って黄金色に揚げたことから、この名前が付きました。金ぷら意外に銀ぷらもあり、こちらは卵の白身を使って作っていました。こうした贅沢な天ぷらは、屋台だけに留まらず、お座敷でも食べられていました。
しかし、お座敷での天ぷらには大きな欠点があります。お座敷が調理場と離れているため、揚げたてを食べることができません。そこで、出張天ぷらなるものが登場しました。原材料や衣、油、鍋などをお座敷に持ち込んで、目の前で揚げます。こうした高級天ぷらに人気が出る一方、屋台の天ぷらも庶民に愛され、明治時代になって天ぷらの人気は、盛隆を極めました。
外国人が連想する日本料理のひとつが、「テンプラ(Tempura)」です。かの喜劇王チャールズ・チャップリンも大の天ぷら好きで、来日した際に毎日のように天ぷらを食べていました。そして、「天ぷらは世界的な料理である。」という言葉を残して、日本を去っていきました。
東京の天ぷら店には、いくつかの流派があります。細かい流派の違いはともかく、ひと目でそれぞれの流派を見分ける方法は、天ぷら鍋です。とは言え天ぷら鍋自体に決定的な違いがあるわけではありません。
天ぷら店では、天ぷらを手際よく揚げるために天ぷら鍋をある一定の方向に傾けて使っていることが多く、その傾け方に違いがあります。
流派のひとつ「銀座流」は、鍋の手前を高くし、もうひとつの「浅草流」は、逆に手前を低くします。なお、どちらにも開祖は存在せず、銀座流と浅草流でなぜ方法が異なるのかを調べるすべはありません。
江戸時代には魚河岸がつくられ、その脇で仕入れた魚介類に衣をつけて、立ち食いで提供する店が出始めました。これが天ぷらの始まりですが、当時はごま揚げと呼ばれていました。ごま揚げの所以は、単純にごま油で揚げられていたからです。
天ぷらと呼ばれ始めたのは、1770年代と言われています。この頃から、江戸及び京都ともに常設の天ぷら屋台が増え始めました。当時屋台では、串にさして揚げられた天ぷらが、皿に載せられて売られており、食べるときは立ったまま、好みの串を選んで、天つゆにつけ、大根おろしと一緒に口に入れます。
江戸時代も末期になると、身分の高い層に向けて、鶏卵や卵の白身を使った贅沢な天ぷらが登場し、人気を集めはじめます。こうした贅沢な天ぷらは、屋台だけに留まらず、お座敷でも食べられていました。
現代の東京の天ぷら店には、いくつかの流派があります。流派のひとつ「銀座流」は、鍋の手前を高くし、もうひとつの「浅草流」は、逆に手前を低くします。
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