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2024年11月13日

二酸化炭素による温暖化の嘘

二酸化炭素による温暖化の嘘
世界中で二酸化炭素を減らそうと言う動きを示している。
しかし、専門家と言われる人たちは、誰もその節を信じては居ない。
確かに産業革命以降、二酸化炭素は弱冠だが増加した。
しかし、その増加量が温暖化ガスとして地球の温暖化を促進する量なのかはハッキリしていない。
否、そんなはずは無いとさえ考えている専門家が多いはずだ。
そもそも、気候の変化の原因は、海流の流れと気団の動きで決まるモノだ。
季節はどうやって変わるのか?
冬は極点に近い寒気という気団が降りてくるから寒くなり、冬という季節になる。
寒気という気団は海流にも影響を与える。
逆に海流が気団に影響を与える場合もある。
例えば台風だ。
暖かい海流が広がれば気団は温められ、地球の自転により台風は発生する。
地球は常に変化をしている。
今から2万年前は、最寒冷期にあたり、氷河が発達していたため、海水面は現在よりも100メートル以上も低かった。
1万年前は気温が上昇し始め、現在よりも海水面は20メートル以上も上昇し手痛そうだ。
その当時に人間の輩出する二酸化炭素の量など気候に影響を及ぼすことは無かっただろう。
地球に寄生する生き物の影響で地球環境を変化させるに事は不可能だとも思える。
「人類が経験した最大の気候変動、10万年周期の氷期-間氷期サイクルのメカニズムを解明」というサイトを見つけた。
10万年周期で地球には氷河期が来ているとのことだ。
また、各氷河期の炭酸ガス(二酸化炭素)の影響は無関係とも記載されていた。
以下がそのサイトのURL https://www.nipr.ac.jp/info/notice/20130808.html
世界中の専門家はその事実を知っている。
しかし、世界中のメディアは報じない。
理由は簡単だ。
炭酸ガスビジネスにスポンサーが乗っかっているからだ。
間違った報道に踊らされる民衆。
金儲けの亡者の印象操作に世界は騙されている。


空手については、最も新しい武道・武術だ

空手については、最も新しい武道・武術だ。
沖縄に発祥するとある。
沖縄の空手は唐手という呼び名も有るらしい。
新しい武道・武術なので、書籍なども入手しやすいが、空手は戦後に雨後の竹の子のように流派を立ち上げ増殖した武道・武術でもある。
日本の本土に最初に入ってきた流派は松濤館流で、船越義珍という人が海軍などの体育教練で平安という型を考案して体力増強に貢献した。
先の大戦後に朝鮮人の大山倍達という人が顔面や休所以外には実際に当てる試合形式を考案し、オープントーナメントという興業を興して極真会という団体の普及に成功した。
大山倍達は自著の「空手を始める人のために」で”空手のプロフェッショナルがあってもよいし、”と空手をスポーツ化、の興業化を正当化している。
裏を返せば、大山倍達の空手に武道・武術の精神は無く、奥義も無い。
空手はお金を集める道具であると位置づけている様だ。
合気道の一部の団体を除き、武道・武術は興業化しており、武道・武術の本質である”生命のやり取りに備える事”とはかけ離れたスポーツに変貌している。
極真会などは、黎明期では漫画やアニメでの宣伝を行い、喧嘩空手などとまるで愚連隊のような事を言っていた。
空手の定義特にない。
素手で殴り合う格闘技で、空手だと言ってしまえば、空手になる。
そもそも、沖縄の空手の歴史は曖昧なのだ。
間違いなく大陸の武道・武術が起源であるのだが、沖縄人は手という武道・武術が沖縄には古よりあったと言い張る。
まるで韓国人がアニメのドラえもんを原作は韓国人が作ったと言う様なモノだ。
伝統空手というジャンルがある。
昭和の時代に普及された空手道だ。
伝統空手の特徴は寸止め組み手の試合を行うことにある。
また、型の試合も存在する。
正直、組テオ試合形式は審判の恣意的な感情と技量により勝敗が決まる。
型に於いては、正に恣意的な感情のみで勝敗が決まる。
そもそも、型は鍛錬法の一つで、型の演武で優劣が判る道理は無いのだ。
型は仮想した敵に対する鍛錬法だ。
仮想した敵に合わせて変化する。
一本調子の演武など、評価の価値も無い。
だが、興行的に型は舞踊として観られるのだから試合も成る立つのだろう。
何でもお金になれば良いのが現代の武道・武術の実体だ。


現代の武道・武術の実体

現代の武道・武術の実体
武道・武術の礼節が重んじられる理由。
旧来の武道・武術は一人稽古が一般的で、主に型や巻き藁、立木への打ち込みなどが主流だった様だ。
相対稽古では、常に相手を信頼し、また相手に信頼されることで稽古が続けられるのだ。
相対稽古などは基本的に殺し合いになる事が当たり前の事だった時代、武道・武術の礼節は、双方の信頼関係を示す儀式なのだ。
相対稽古の利点は一人稽古とは違い、変化する状況を経験できることだ。
しかし、何度も相対稽古をする事で、パターン化された技術は逆に弱点になる。
昭和に入り、あらゆる武道というモノが公開されているが、公開された武道・武術は実践では使い物にならない。
秘匿され、相対したとき、相手が死ぬときに観られるのが武術の奥義で在り、真髄なのだ。そうした武道・武術文化で培われた技術を継承する事は、基本的に無い。
一代限りの技術が本来の武術だ。
漫画などでの一子相伝とか、免許と称する巻物は、単に稽古をした人の名を連ねているだけだ。
巻物の中には哲学的な文言や医術的な工夫に考え方などを記したモノもある。
だが、今に伝わる型や技法は総て、口伝であり、最近になって体系化したように見せかけているが、どんな武術も継承したと思い込んでいる人間の思い込みにしか過ぎない。
宮本武蔵の五輪書は有名だが、書かれている事は、書いた武蔵にしか真髄は判らない。
柔道は嘉納治五郎という人が明治時代に創作した武道・武術だ。
元は柔術(起倒流・天神真楊流)だったが、相対稽古を工夫して逮捕術に応用して警察に取り入れられた。
そして警察が柔道の普及に協力する形で広まった。
10人倒せば黒帯という段位を得られるスポーツになっている。
現代の柔道は武道・武術では無く、ジャケットレスリングと言うべきモノだろう。
合気道は植芝盛平が剣術、槍術と柔術(起倒流・天神真楊流・大東流)を工夫して創作した武道・武術だ。
こちらも相対稽古を工夫して稽古をしているが、試合形式の大会などは無い。
しかし、会派に因っては試合形式の大会を開く愚かな行動に出る団体もあるようだ。
剣道は江戸時代の北辰一刀流の千葉秀作が竹刀という怪我の少ない仮装太刀と防具の開発で怪我をさせない叩き合いの剣術が起源である。
しかし、本当に実践で勝ち続けた剣豪は、こうした防具を着けた叩き合いの剣士では無く、一人稽古での鍛錬を積んだ剣士だったそうだ。


武道・武術と人格形成は全く関係ない

武道・武術と人格形成は全く関係ない。
Twitter(X)AIのGrokに因ると、
「人格形成とは、個人が生まれてから大人になるまでの間に、さまざまな経験を通じてその人の性格、価値観、行動パターン、感情表現などの人格を作り上げていくプロセスを指します。」
と言うことだ。
一般的に武道・武術による人格形成に期待する事は、
礼節を重んずる、
弱者への配慮、
正義感のある態度等、
周囲の者に都合の良いことを期待されている。
だが、現代の武道・武術での礼節は、ルーティーンであり、決して武道・武術本来の礼節の意味を理解していて行っている訳では無い。
そもそも、指導者達がそうした事を理解していない。
たんなる儀式なのだ。
では何故、武道・武術では礼節を重んずる事になったのか?
旧来の武道・武術は一人稽古が一般的で、相対稽古などは基本的に殺し合いになることが当たり前の事だった。
道場稽古などは基本的に大名のお留め流の武術であり、禮を重んじるのはそうした道場稽古から派生したと思われる。
武道・武術は生命のやり取りの稽古である。
常に相手を殺してしまうかも知れないという緊張感と、殺されないような仕組みを考えなければ成らなかった。
殺されないためには、双方の信頼を示さなければならない。
そうした考えの中で生まれた儀式・慣習が武道・武術に於ける礼節である。

次に、弱者への配慮だが、今の勝敗偏重の世の中で、そのう様な事を期待すること自体に無理がある。
武道・武術の精神とは、強くなることで生き延びる術を身につける事だ。
先ず一番に考えることは、自身の強化以外に無い。
他者や弱者などに関わっている暇など無い。
殆どの武道・武術は大会を開き、その成績結果で知名度を上げ、普及に努めている。
弱者は淘汰されるのが当たり前と言うのが実体なのだ。
当然、虐めなどは当たり前のように横行する。
但し、行為自体は虐めであっても、稽古であり修行という体裁で覆われてしまっているだけである。
武道の世界は修羅の道である事を考えれば判るはずだ。



最後に正義感のある態度だが、正義とは何かを勘違いしている人が多すぎる。
正義とは、個人にとって都合の良いことを指す。
つまり、自分にとって都合の良いことが正義なのだ。
正義というモノに共通認識など無い。
個々人が正しいと思えば、その本人にとってそれは正義なのだ。
最近の日とは殺人を絶対的な悪とと認識するように刷り込まれている。
しかし、それは平和な国の子供のような稚拙な考え方だ。
現実的に戦争を行っている国、例えばイスラエル。
イスラエルは建国思想からしてレイシズムやシオニズム、民族主義的な独善的思想で生まれてた国だ。
彼らはパレスチナに入植という形で侵攻し、今では原住民を虐殺するテロ集団になっている。
だが、イスラエルにとってはそれは正義なのだ。
これは極端な話しでは無く、個々の思想の在り方で、正義というモノの位置づけは全く異なると言うことだ。
話しを戻すと、正義感のある態度など、個人の気分、恣意的な問題で行動すると言うだけで、一般的な人格という周囲に都合の良い事など無いのだ。
正義は非との頭の数だけ存在する。
私はそう考えている。

武道と人格形成は全く関係ない。
改めてそう思った。



人核形成とは⇒Twitter(X)AIのGrokの返答:

このプロセスは以下の要素によって影響を受けることが一般的です:
1. **遺伝と生物学的要因** - 遺伝子や先天的な気質など、生物学的な特性が基盤となります。
2. **家庭環境** - 家族との関係、親の育て方、家族の文化や価値観などが非常に大きな影響を与えます。
3. **社会・文化的背景** - 学校、友人、メディア、社会全体の文化や規範など、社会的な環境が人格に影響を及ぼします。
4. **教育と学習** - 教育制度や学習経験が知識だけでなく、思考の仕方や価値観にも影響を与えます。
5. **個人的な経験** - 成功や失敗、トラウマ、旅行、自己啓発など、個人の体験が人格を形成します。
6. **ピアグループ** - 友人や同僚との交流、対人関係の経験。
7. **心理的発達段階** - エリクソンの心理社会的発達理論など、各発達段階での心理的な課題とその解決が人格形成に関連します。
人格形成は終生にわたって続くプロセスであり、特に幼少期から青年期にかけてが重要とされていますが、大人になってからも新たな経験や学びによって人格は変化し得ます。
このため、人格形成は静的なものではなく、動的なプロセスとして理解されます。


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