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2018年11月12日

恋愛小説「オレンジと青」(3)

   3





 明日香は笑顔を作っていたつもりだったが飛鳥には引き攣っているように見えた。

「とっても気に入りました。ずーっとここに居たいくらいです」

「はっはっは。そうですか?ありがとうございます」

 笑いジワまでかっこいい。

「飛鳥さん、ですよね?」

「どうして僕のことを?」

「テレビで観ました」

「ありがとうございます」

 飛鳥は名刺をサッと出した。

「アスカタケルと申します。よろしくお願いします」

 アスカタケル。眼鏡までカッコイイ。

「ありがとうございます。き、キムラと言います」

 明日香は名刺を受け取った。

「私、名刺持ってなくて」

「大丈夫です」

 ニッコリ笑って質問された。

「入浴はされましたか?」

「いいえ」

「残念だな。うちのホテルはお風呂も自慢なんです。ご説明が足りず申し訳ございませんでした」

「いいえ、とんでもない」

「次回はぜひ、お風呂にも入っていってくださいね」

「あ、はい、ぜひ。ぜひとも。ぜひに」

もう無理。ゆかりはペコペコお辞儀しながら後ずさりした。

 フラフラして、入ってくる人にぶつかりそうになりながらエントランスを出た。あぶない。恥ずかしい。顔が火照る。


 遠くの空が青く濁って、オレンジ色の地平線を押しつぶそうとしていた。そして一瞬虹が見えた。落ち着け。ゆっくりと深呼吸する。

 出会ってしまった。そう確信した。彼がもし結婚していようとも。恋人がいようとも。彼と付き合えなくっても。彼は私にとって運命の人。

 名刺を両手で持ってジッと見る。通りを行く人に変な目で見られないように歩き出す。軽やかに。ステップを踏むように。自然と笑みがこぼれる。

 こんな気持ちになったの久しぶり。




ap2.jpeg




 飛鳥はイライラしていた。今日のテレビ番組の紹介の仕方が気に入らなかった。ディレクターに電話して文句を言ってやる。あれじゃうちの良さが伝わらないよ。打合せと全然違うじゃん。

 ホテルについてドアを開けると初めて見る客がいた。一見、宝塚の男役の様な大柄な女性だ。どこかで見たことがあるような気がしたが一応挨拶をしておこう。

 僕の営業スマイルは天下一品だ。大抵の女性は簡単に落ちる。ところがどうだろう。この大木のような女性は無表情だ。不感症なのかな。挙動不審だし。とりあえず社交辞令の挨拶を済ませ、事務所へと向かう。

「高橋、事務所にいるから後で来てくれ」

「承知しました」

「あ、あと、お客様に入浴をお勧めするように。いつも言ってるだろ」

「すみません」

 エレベーターで六階へ上がる。事務所内ではスタッフが数人作業していた。お疲れ様ですと声をかけられる。無視して自分の部屋へ入る。

 赤と黒を基調としたアールデコ調の部屋。パソコン、テレビ、オーディオ、あらゆる電子機器がそろっている。体に似合わぬ大きなマッサージチェアが真新しい。オペラを大音量でかける飛鳥。指揮者のように腕を振る。

 チョコレートを口に放り込み、パソコンに向かう。メールをチェックし返信する。それが終わるとデスクに積まれた書類に目を通す。サインが必要なものにはサインを、修正が必要なものには赤いペンで書き込みを入れる。

 コンコンコンとドアを三回ノックする音。

「失礼します」

 飛鳥はマッサージチェアに埋まっている。

「コーヒーを淹れてくれないか」

「かしこまりました」

 オーディオの音量を下げる高橋。

「今日の番組ひどかったな。お前の担当だったよな」

 ミルでガリガリとコーヒー豆を挽く高橋。

「申し訳ございません」

「あのテレビ局のくそディレクターにクレーム入れろ」

「承知しました」

 高橋は右手でゆっくりとお湯を注ぎながらコーヒーをドリップする。

「いい匂いだ」

「ありがとうございます」

「お前を褒めたんじゃない」

 高橋の手が一瞬止まる。

「チーフになってもう半年だよな。もっとしっかりしてくれ。本屋部門なんとかしないと、うち危ないぞ」

「はい」

「うちは少数精鋭なんだ。規模も小さいし他のホテルと差別化していかないと」

「わかってます」

「わかってねえから言ってるんだろ」

「すいません」

「まったく、サイト―がいなくなってからなんかガタガタしてるぞ。お前に任せた俺が悪いのか」

 高橋が飛鳥の近くのテーブルにコーヒーカップを持ってくる。カップがカタカタと揺れている。

「あまり僕を怒らせないでくれ」

「すいません」

「謝れば済むと思うな。行動で示せ」

「はい」

 飛鳥は一口コーヒーを飲む。

「これだけは上手いな」

 高橋は一礼して部屋を出る。

 またやってしまった。飛鳥は反省していた。僕は完璧主義過ぎて周りを委縮させてしまう。いつもそうだ。前のチーフもそれで辞めてしまった。はぁ、どうすればいいんだ。

 ホテルの経営はそこそこ上手くいっている。でも、もっと何かこう満たされない何かがある。お金とかそんなんじゃなくて。本当に心かから人を幸せにするための何かが足りない。

飛鳥はコーヒーを啜る。うまい。高橋は本当にコーヒーを淹れるのがうまい。チーフじゃなくてバルに戻そうか。いやでも三十八にもなって新人と同じじゃ可哀想だ。悩む。

 むしゃくしゃする。こんな時は風呂だ。風呂に入ろう。
 



soop4.jpeg




 家に帰った明日香はすぐに湯船にお湯を溜めた。こんな時間にお風呂に入るのは久しぶり。なんだかとっても入りたくなってしまったのだ。きっとあの人のせい。ふっと思い出し笑いをした。

 湯船にお気に入りの入浴剤を入れる。ダークグリーンの森緑の香り。ふーっと深呼吸をする。いい。夕方に入る風呂もいい。これからは好きなとき、好きな時間に風呂に入ることにしよう。

 それにしてもカッコよかったなぁ飛鳥さん。あんな素敵な人とデートできたら最高だ。本気で思った。デートか。最後にデートしたのって一体いつかしら?思い出せない。大学の時?もう七年も前?信じられない。ひどすぎる。干物女とは私のことか。渇いている。とても渇いている。

 風呂からあがったらもちろんビールだ。

「ぷっは〜生きてて良かった!サイコ―だぜ!」

「お姉ちゃん、大丈夫?」

「やだ、いたの?」

「うん。さっき帰ってきた。どうしたの?何かあった?」

「…あった」

「え?なに?まさかセックスした?」

「バカ!私がそんなウルトラCできるわけないじゃん!出会ったんだよ運命の人に」

「なにそれ?運命の人?まだ付き合ってないの?」

「付き合ってるわけないじゃん、今日初めて会ったんだから」

「なんだ。つまんない。付き合ってから話してくんない?」

「かわいくねーなー」

「マサキははるか可愛いって、愛してるって言ってるよ」

「騙されてるんじゃない?」

「私も飲もっと」

 姉妹でビールを飲む。夕飯は出前のピザにした。たまには手抜きしてもいいじゃない。

 こうして二人でピザを食べるのもこれが最後かもしれない。急に妹と過ごす時間が愛おしく感じられた。春香今までありがとう。幸せになってね私の分も。


 翌朝。明日香は工房で一人、パンを製造していた。くるみが店に来て青ざめた。

「なに?これ?」

「え?」

 二人の目の前にはクシャクシャになった生地の塊がでろんと鎮座していた。

「あんた何やってんの」

「やだ。水の分量間違えたみたい」

「これ全部?」

「うん」

「どーしたのよ!今まで一度もこんなことなかったじゃない!」

「ごめん」

 くるみは明日香の顔をじっと見た。

「風邪でもひいたか?」

 ムソウは初めての臨時休業をした。

 ヨムネルにはあれから二回行ってみたが飛鳥には会えなかった。






つづく

※この物語はフィクションです。

コピーライトマーク齋藤なつ









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