2014年04月03日
A377・サクラ〜さくら(1)
1、サクラ〜お花見
今年は、3月に入ってからの記録的な大雪で大変な被害が出たり、繰り返しの寒波に見舞われるなどで、三寒四温を感しないままに、気が付けば花の季節となりにけり・・です。
この時期、花と言えばサクラであり、サクラといえばソメイヨシノといった感じですね。聞くところでは、日本の桜の約80%がソメイヨシノなのだそうです。
東京では靖国神社にある標準木(ソメイヨシノ)が5輪咲くと気象庁が開花宣言を出します。開花からほぼ1週間で満開となり、この頃、桜の名所は花見客で賑わいます。
花の下で宴を開くグループもあれば、花を愛でながらそぞろ歩きの人も後を絶ちません。
手に取る様に近くで見るサクラも心なごみますが、「遠見のサクラは捨てがたい」とおっしゃる粋人もいて、人さまざまです。
確かに、桜に染まる向うの山肌は人目を惹きつけます。
桜は何時頃からこの様に日本人の心に入り込んできたのだろうか?
つい、こんなことを思います。
文献によると、奈良時代から田の神が来臨する花として、信仰・占いのために植えられることが多かったとあります。美しい花の代表として桜を愛でる習慣がこの頃から生まれた様で、万葉集などにも歌われていますが、まだこの時代は「花」といえば梅であったと言われます。
万葉集には、サクラを読んだ歌が41首、ウメを読んだ歌は118首あるそうで、大差でウメに軍配が上がります。
平安時代の初期、嵯峨天皇が宮中に桜を植えて、宴を催し、歌を詠んだのが日本最初の花見と言われます。以来、桜の花見が盛んに開催されるようになったということでしょうか。
古今集には、春の歌134首のうちほとんどが桜の歌で、梅の歌はわずかばかりとなりました。
・仁明天皇の承和年間に御所の紫宸殿の前庭にあった左近の梅が、桜に代わった。
・都大路にも桜が植えられた。
・ 当時は柳の木と混ぜて植えるのが好まれ、白と緑の色鮮やかさが楽しまれた。
という記述もあります。
安土・桃山時代には、醍醐寺で催された豊臣秀吉の「醍醐の花見」が有名ですね。
桜の花見が庶民にも身近なものになったのはこの頃からのようです。
武士の時代には、桜の散る様が潔さに通じるとして死のイメージを美化して、武士を象徴する花ともなりました。
今も日本人の美意識と繋がっているように思われます。
徳川八代将軍吉宗は江戸の各地に桜を植えさせ、江戸市民が憩う桜の名所を作り出し、飲食店まで用意させて花見を奨励したと言われます。
その代表的な場所が、隅田川の桜堤(向島)、飛鳥山(王子)、御殿山(品川)で、今も多くの人を楽しませてくれています。
吉宗の頃は「火事と喧嘩は江戸の華」と言われるほど火事が頻発し、また物価が高騰しての生活苦などで放火、火事場泥棒が後を絶たない状態だったようです。
江戸は、人口密度が高く家々が密集していたことも、 一度火事が起こると大火となり大きな被害が発生する原因でもありました。
吉宗が、各地に桜を植えさせ、江戸市民の憩う場所を作り出したのには防火地帯を設け、頻発する火事による延焼を防止しようとする狙いもあったと思われます。
桜以外にも、土手に柳を植えたり、松を植えたりする緑化計画が行われました。
何故「サクラ」だったか?
吉宗の郷里、紀州に桜の見事な長保寺という寺があって桜に親しんで育ったため、この寺の桜を偲び、江戸のあちこちに桜を植えさせたのだといわれています。
2、ソメイヨシノ(染井吉野)
見事に咲いたサクラの下を歩いていると、時々違ったサクラに目が留まり、何か新鮮な思いをすることがあります。
日本のサクラの80%がソメイヨシノだそうで、枝垂ているソメイヨシノもあります。
別の種類では、オオシマザクラ、ヤマザクラ、エドヒガンなどが目につきます。
サクラの種類は意外に多い様です。昔からの野生種は10種程あり、これに対して栽培種は300種以上とも600種あるとも言われ、この栽培種の代表格がソメイヨシノという訳です。
野生種では
・マメ(豆)ザクラ(=富士桜)、
・ヤマザクラ(山桜)、
・カンヒザクラ(寒緋桜)(=緋寒桜)、
・エドヒガン(江戸彼岸)、
シダレザクラ(枝垂桜)(=糸桜)はエドヒガンの1変種とされています
・オオシマザクラ(大島桜)、
この5種類が主要野生種とされ、他にカスミザクラ(霞桜)、オオヤマザクラ(大山桜)、タカミネザクラ(高嶺桜)、ミヤマザクラ(深山桜)、チョウジザクラ(丁字桜)の5種があげられます。
ソメイヨシノ(染井吉野)は一般的にはエドヒガン(江戸彼岸)とオオシマザクラ(大島桜)の交配種とされています。
(参考)枝垂染井吉野はシダレザクラ(枝垂桜)(=糸桜)とオオシマザクラ(大島桜)の交配種とされています。
ちょっと寄り道です。
ソメイヨシノの「生まれ」は明確でなく、
・園芸家による人工的な品種改良作り出し説と、
・自然交雑した物を園芸家が挿し木によって増やしたという説とがあります。
・また、アメリカの植物学者の「ソメイヨシノはオオシマザクラとエドヒガンの雑種ではなく独立した種である」との説もあるようです。
「名前の由来」については
江戸末期から明治初期に、江戸・染井村(現在の東京都豊島区駒込)の造園師や植木職人達が育成し「吉野桜」として売り出していたものを、「吉野」の名称では吉野山に多いヤマザクラと混同される恐れがあるため、上野公園のサクラを調査した藤野寄命博士が1900年(明治33年)「日本園芸雑誌」において「染井吉野」と命名した。との記述があります。
「ソメイヨシノは種子では増えません」
ソメイヨシノは結実する場合も有るけれど、同一個体内で受粉し結実した種が発芽に至ることは無いそうで、このためソメイヨシノの純粋な子孫はあり得ないのだそうです。
種子によって次世代が育たないので、今あるソメイヨシノは人間の手によって他の台木に接木をしたり、挿し木、植え替えによって増やしてきたことになります。
従って、全てのソメイヨシノは元をたどると一本の元祖ソメイヨシノにたどり着くことになります。クローンと言える訳です。
また、ソメイヨシノの寿命は長くないようです。
数百年の古木になることもあるヤマザクラやエドヒガンに比べて高齢の木が少なく「60年寿命説」なる俗説もありますが、正確な寿命に関しては、統計数値がないため不明というのが正しいようです。
青森県弘前市ではリンゴの剪定技術をソメイヨシノの剪定管理に応用するなどして樹勢回復に取り組んだ結果、多くのソメイヨシノの樹勢を回復することに成功していると聞きます。
「サクラ切るバカ、ウメ切らぬバカ」と言われていましたたが、最近は弘前のリンゴの剪定技術者が各地に出向いて、サクラ剪定の技術指導をしているとのことです。
弘前城跡公園には樹齢100年を超えるソメイヨシノがあり、これは本種の現存する最も古い株であろうと言われています。(続く)
今年は、3月に入ってからの記録的な大雪で大変な被害が出たり、繰り返しの寒波に見舞われるなどで、三寒四温を感しないままに、気が付けば花の季節となりにけり・・です。
この時期、花と言えばサクラであり、サクラといえばソメイヨシノといった感じですね。聞くところでは、日本の桜の約80%がソメイヨシノなのだそうです。
東京では靖国神社にある標準木(ソメイヨシノ)が5輪咲くと気象庁が開花宣言を出します。開花からほぼ1週間で満開となり、この頃、桜の名所は花見客で賑わいます。
花の下で宴を開くグループもあれば、花を愛でながらそぞろ歩きの人も後を絶ちません。
手に取る様に近くで見るサクラも心なごみますが、「遠見のサクラは捨てがたい」とおっしゃる粋人もいて、人さまざまです。
確かに、桜に染まる向うの山肌は人目を惹きつけます。
桜は何時頃からこの様に日本人の心に入り込んできたのだろうか?
つい、こんなことを思います。
文献によると、奈良時代から田の神が来臨する花として、信仰・占いのために植えられることが多かったとあります。美しい花の代表として桜を愛でる習慣がこの頃から生まれた様で、万葉集などにも歌われていますが、まだこの時代は「花」といえば梅であったと言われます。
万葉集には、サクラを読んだ歌が41首、ウメを読んだ歌は118首あるそうで、大差でウメに軍配が上がります。
平安時代の初期、嵯峨天皇が宮中に桜を植えて、宴を催し、歌を詠んだのが日本最初の花見と言われます。以来、桜の花見が盛んに開催されるようになったということでしょうか。
古今集には、春の歌134首のうちほとんどが桜の歌で、梅の歌はわずかばかりとなりました。
・仁明天皇の承和年間に御所の紫宸殿の前庭にあった左近の梅が、桜に代わった。
・都大路にも桜が植えられた。
・ 当時は柳の木と混ぜて植えるのが好まれ、白と緑の色鮮やかさが楽しまれた。
という記述もあります。
安土・桃山時代には、醍醐寺で催された豊臣秀吉の「醍醐の花見」が有名ですね。
桜の花見が庶民にも身近なものになったのはこの頃からのようです。
武士の時代には、桜の散る様が潔さに通じるとして死のイメージを美化して、武士を象徴する花ともなりました。
今も日本人の美意識と繋がっているように思われます。
徳川八代将軍吉宗は江戸の各地に桜を植えさせ、江戸市民が憩う桜の名所を作り出し、飲食店まで用意させて花見を奨励したと言われます。
その代表的な場所が、隅田川の桜堤(向島)、飛鳥山(王子)、御殿山(品川)で、今も多くの人を楽しませてくれています。
吉宗の頃は「火事と喧嘩は江戸の華」と言われるほど火事が頻発し、また物価が高騰しての生活苦などで放火、火事場泥棒が後を絶たない状態だったようです。
江戸は、人口密度が高く家々が密集していたことも、 一度火事が起こると大火となり大きな被害が発生する原因でもありました。
吉宗が、各地に桜を植えさせ、江戸市民の憩う場所を作り出したのには防火地帯を設け、頻発する火事による延焼を防止しようとする狙いもあったと思われます。
桜以外にも、土手に柳を植えたり、松を植えたりする緑化計画が行われました。
何故「サクラ」だったか?
吉宗の郷里、紀州に桜の見事な長保寺という寺があって桜に親しんで育ったため、この寺の桜を偲び、江戸のあちこちに桜を植えさせたのだといわれています。
2、ソメイヨシノ(染井吉野)
見事に咲いたサクラの下を歩いていると、時々違ったサクラに目が留まり、何か新鮮な思いをすることがあります。
日本のサクラの80%がソメイヨシノだそうで、枝垂ているソメイヨシノもあります。
別の種類では、オオシマザクラ、ヤマザクラ、エドヒガンなどが目につきます。
サクラの種類は意外に多い様です。昔からの野生種は10種程あり、これに対して栽培種は300種以上とも600種あるとも言われ、この栽培種の代表格がソメイヨシノという訳です。
野生種では
・マメ(豆)ザクラ(=富士桜)、
・ヤマザクラ(山桜)、
・カンヒザクラ(寒緋桜)(=緋寒桜)、
・エドヒガン(江戸彼岸)、
シダレザクラ(枝垂桜)(=糸桜)はエドヒガンの1変種とされています
・オオシマザクラ(大島桜)、
この5種類が主要野生種とされ、他にカスミザクラ(霞桜)、オオヤマザクラ(大山桜)、タカミネザクラ(高嶺桜)、ミヤマザクラ(深山桜)、チョウジザクラ(丁字桜)の5種があげられます。
ソメイヨシノ(染井吉野)は一般的にはエドヒガン(江戸彼岸)とオオシマザクラ(大島桜)の交配種とされています。
(参考)枝垂染井吉野はシダレザクラ(枝垂桜)(=糸桜)とオオシマザクラ(大島桜)の交配種とされています。
ちょっと寄り道です。
ソメイヨシノの「生まれ」は明確でなく、
・園芸家による人工的な品種改良作り出し説と、
・自然交雑した物を園芸家が挿し木によって増やしたという説とがあります。
・また、アメリカの植物学者の「ソメイヨシノはオオシマザクラとエドヒガンの雑種ではなく独立した種である」との説もあるようです。
「名前の由来」については
江戸末期から明治初期に、江戸・染井村(現在の東京都豊島区駒込)の造園師や植木職人達が育成し「吉野桜」として売り出していたものを、「吉野」の名称では吉野山に多いヤマザクラと混同される恐れがあるため、上野公園のサクラを調査した藤野寄命博士が1900年(明治33年)「日本園芸雑誌」において「染井吉野」と命名した。との記述があります。
「ソメイヨシノは種子では増えません」
ソメイヨシノは結実する場合も有るけれど、同一個体内で受粉し結実した種が発芽に至ることは無いそうで、このためソメイヨシノの純粋な子孫はあり得ないのだそうです。
種子によって次世代が育たないので、今あるソメイヨシノは人間の手によって他の台木に接木をしたり、挿し木、植え替えによって増やしてきたことになります。
従って、全てのソメイヨシノは元をたどると一本の元祖ソメイヨシノにたどり着くことになります。クローンと言える訳です。
また、ソメイヨシノの寿命は長くないようです。
数百年の古木になることもあるヤマザクラやエドヒガンに比べて高齢の木が少なく「60年寿命説」なる俗説もありますが、正確な寿命に関しては、統計数値がないため不明というのが正しいようです。
青森県弘前市ではリンゴの剪定技術をソメイヨシノの剪定管理に応用するなどして樹勢回復に取り組んだ結果、多くのソメイヨシノの樹勢を回復することに成功していると聞きます。
「サクラ切るバカ、ウメ切らぬバカ」と言われていましたたが、最近は弘前のリンゴの剪定技術者が各地に出向いて、サクラ剪定の技術指導をしているとのことです。
弘前城跡公園には樹齢100年を超えるソメイヨシノがあり、これは本種の現存する最も古い株であろうと言われています。(続く)