「千曲川のスケッチ」の奥書に説明がある言文一致について一言述べる。明治の新しい文学と言文一致の試みは、流れを見ると強いつながりがある。当時の文学関係者の多くがイギリス文学を目指していたころ、森鴎外は、留学先のドイツから19世紀なるものを感じ取り帰国したため、言文一致で見ると、採用するのに躊躇いがあり、歴史小説に見る転換期を待って口語体を採用した。一方、イギリス留学を経験している夏目漱石は、言文一致にあまり抵抗を感じなかった。
文学の根底に横たわる基礎工事は、島崎藤村に言わせると、徳川時代の徘徊や浄瑠璃の作者が平談俗語を駆使し、言葉の世界に新しい光を放ったこと、国語学者が万葉集や古事記などから古い言葉の世界を今一度明るくしたことが挙げられる。そのため、藤村がスケッチを作る傍ら、口語体による言文一致の研究に向かった理由は、長い年月を経て熟慮した結果といえる。
花村嘉英(2020)「島崎藤村の『千曲川のスケッチ』の執筆脳について−自然や文化の観察者の立場から」より
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