- 四神足を修練し、豊かになれば、多様な神変を経験し、一身と多身が融合し、現れたり隠れたりする神通力を得る。
- 牆壁や山岳を自在に超え、空中や水中、地上で行動する能力を持ち、大神通・大威徳を手に入れ、梵天の世界を支配できる。
- 四神足の修練により、清浄で超人的な耳を備え、天的な声や人間的な声を遠く近くで聞くことができる。
- 他の生存者の心を理解し、貪りや怒り、迷妄などの心の状態を見抜くことができ、四神足の豊かな修練により心の解脱を得る。
- 過去の生涯や宇宙の成立・破壊期を思い起こし、多様な生命体の経験を明らかにする。
- 四神足の修練により、清浄で超人的な天眼を開き、生存者の死と再生を見通し、善悪に応じて異なる運命を知覚する。
- 生存者の業に従って地獄や天の世界へ生まれ変わる様子を超人的な天眼で明らかにし、煩悩の汚れが解脱されることを示唆する。
四神足が修練され豊かにされた時に、種々なる過去の生涯を想いおこした、ーすなわち一つの生涯、二つの生涯、三つの生涯、四つの生涯、五つの生涯、十の生涯、二十の生涯、三十の生涯、四十の生涯、五十の生涯、百の生涯、千の生涯、百千の生涯を、またいくたの宇宙成立期、いくたの宇宙破壊期、いくたの宇宙成立破壊期を。「われはそこにおいて、これこれの名であり、これこれ姓(gotta)であり、これこれのカースト(vanna)であり、これこれの食をとり、これこれの苦楽を感受し、これこれの死にかたをした。そこで死んでから、かしこに生まれた」と。このようにかたちや名称とともに種々なる過去の生涯を想いおこしたのである。このように四神足が修練され豊かにされたときに、清浄で超人的な天眼をもって、もろもろの生存者が死にまた生まれるのを見た。すなわち卑賤なるものと高貴なるもの、美しいものと、醜いもの、幸福なものと不幸なもの、そしてもろもろの生存者がそれぞれの業にしたがっているのを明らかに知った、ー「じつにこれらの生存者は身に悪行をなし、ことばに悪行をなし、こころに悪行をなし、もろもろの聖者をそしり、邪(あやま)った見解をいだき、邪った見解にもとづく行為をなす。かれらは身体が破壊して死んだあとで、悪しきところ、堕ちたところ、地獄に生まれた。また、他のこれらの生存者は、身に善行をなし、ことばに善行をなし、こころに善行をなし、もろもろの聖者をそしらず、正しき見解をいだき、正しい見解にもとづく行為をなす。かれらは身体が破壊して死んだあと、善いところ、天の世界に生まれた」と。このように清浄で超人的な天眼をもって、もろもろの生存者が死にまた生まれるのを見た。すなわち卑賤なるものと高貴なるもの、美しいものと醜いもの、幸福なものと不幸なもの、そしてもろもろの生存者がそれぞれの業にしたがっているのを明らかに知った。このように四神足が修練され豊かにされたときに、もろもろの煩悩の汚れがほろぼされることによって、汚れなき心の解脱・智慧の解脱をこの世において、みずから証知し、現証し、具現して住する。
- の人間的思考の運動を制して、豊かにされた時に、種々なる過去の生涯を想いおこした。
- 一つの生涯、二つの生涯、三つの生涯...と数え、宇宙成立期や宇宙破壊期なども考えた。
- 自己を名前や姓、カースト、食べ物、苦楽、死にかたなどで定義し、死後に再び生まれることを語った。
- 視覚による人間的思考の運動を制し、清浄で超人的な天眼を持つと、生存者たちが死に生まれ変わる様子を見た。
- 悪行をなす者と善行をなす者が、死後にそれぞれ異なる結末を迎えることを説明した。
- 思考の運動を制することで、広がりを持った視点で世界を見ることができ、真理を自ら観て覚る必要性を述べた。
- 人間的思考の運動を制しエネルギーのコントロールが修練されると、煩悩の汚れが取り除かれ、汚れなき心の解脱・智慧の解脱を実現する。
心の人間的思考の運動を制して、豊かにされた時に、種々なる過去の生涯を想いおこした、ーすなわち一つの生涯、二つの生涯、三つの生涯、四つの生涯、五つの生涯、十の生涯、二十の生涯、三十の生涯、四十の生涯、五十の生涯、百の生涯、千の生涯、百千の生涯を、またいくたの宇宙成立期、いくたの宇宙破壊期、いくたの宇宙成立破壊期を。「われはそこにおいて、これこれの名であり、これこれ姓(gotta)であり、これこれのカースト(vanna)であり、これこれの食をとり、これこれの苦楽を感受し、これこれの死にかたをした。そこで死んでから、かしこに生まれた」と。このようにかたちや名称とともに種々なる過去の生涯を想いおこしたのである。目で感知する視覚による人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、豊かにされたときに、清浄で超人的な天眼をもって、もろもろの生存者が死にまた生まれるのを見た。すなわち卑賤なるものと高貴なるもの、美しいものと、醜いもの、幸福なものと不幸なもの、そしてもろもろの生存者がそれぞれの業にしたがっているのを明らかに知った、ー「じつにこれらの生存者は身に悪行をなし、ことばに悪行をなし、こころに悪行をなし、もろもろの聖者をそしり、邪(あやま)った見解をいだき、邪った見解にもとづく行為をなす。かれらは身体が破壊して死んだあとで、悪しきところ、堕ちたところ、地獄に生まれた。また、他のこれらの生存者は、身に善行をなし、ことばに善行をなし、こころに善行をなし、もろもろの聖者をそしらず、正しき見解をいだき、正しい見解にもとづく行為をなす。かれらは身体が破壊して死んだあと、善いところ、天の世界に生まれた」と。このように清浄で超人的な天眼をもって、もろもろの生存者が死にまた生まれるのを見た。すなわち卑賤なるものと高貴なるもの、美しいものと醜いもの、幸福なものと不幸なもの、そしてもろもろの生存者がそれぞれの業にしたがっているのを明らかに知った。この、人間的思考の運動を制することによって、今まで見えなかったものが見える。なぜか?それは、思考の運動が止まることにより、見方が広がるからである。人は、運動によって、好きなものしか見ようとせず、嫌いなものは見ようとしない。その運動を止めない限りは、この世の実相を知ることはできないのである。このように人間的思考の運動を制しエネルギーのコントロールが修練され豊かにされたときに、もろもろの煩悩の汚れがほろぼされることによって、汚れなき心の解脱・智慧の解脱をこの世において、みずから証知し、現証し、具現して住する。すなわち教えによって知るのではなく、自らが真理を観て覚るのである。
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