アフィリエイト広告を利用しています
ファン
検索
<< 2024年07月 >>
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31      
最新記事
写真ギャラリー
最新コメント
タグクラウド
カテゴリアーカイブ
プロフィール

2021年10月15日

軍茶利明王の秘密

 軍茶利明王の秘密



クンダリニーと軍茶利明王の関係


このクンダリニーが、真言密教の軍茶利明王とふかい関係があったとは、たとえあなたがその道の専門家であったとしても、気がつかなかったのではあるまいか。
さきに私はクンダリニー・ヨーガと真言密教はふかい関係があるといった。その論拠はまさにここにあるのである。私はいままた、クンダリニー・ヨーガと真言密教とふかい関係があるといった、ふかい関係ころか、軍茶利明王とはなにをかくそう、クンダリニーそのものにほかなといったところで、あなたが真言僧侶でもないかぎりよくおわかりにならないであろうから、


少しすることにする。


員、および語辞林をひいてみよう。


家刻画王、五大国主のひとつである。軍茶握(Kundata=耳環,・蛇の意)に、所有をあらおすす》たるを軍茶利という。けだし比のはを以て身の荘厳とするゆえにこ蛇を以て身をかざる、どころか、クンダリニーは、蛇のかたちをして脊柱の下部にねむっいるのである。秘密辞林には「此の尊は第七末那識の位たれば末那の煩悩と倶なるをあらわして語蛇を以てその身を荘厳すという」とある。密教諸経典(軍茶利本軌、軍茶利集経、摂無礎経等)
によればこうある。


『軍荼利法を受持せんと欲せば先その像を書け。身青色にして両眼ともに赤く、愛をて普を成し、その頭髪、色黒赤交雑して三昧の火炎の如く、眼を張り大いに怒り、上歯をみな露して下唇を飲たり。大眼面を作し、二つの赤蛇あり、両頭めい交わり垂れて胸前にあり、頭仰げて上に向い、その両蛇の尾、おのおの像の耳を穿ち、尾の頭垂れさがって肩の上に至れり。その二の色は黄喉蛇(コブラのこと、著者)の如く赤黒間錯せり。(中略)下方第三情は左第三臂を押て両
情相交りて胸上にあり、右手中に両箇の赤蛇をにぎり、その蛇の交りて各線の面に向い、左手に一頭赤蛇を把れり。(両手各跋折羅の印を作す。両手大指をもて小指の甲を捻す。余指みなべ、即ち左手を以て右肢の前を押し、次に右手を以て左股前を押す。即ちこれ身印なり。下第四
臂は仰ぎ垂れて下に向けて右吟に着くるなかれ、五指みな伸べて施無畏手なり。左上手中には金
輪形を握り、臂を屈して上に向い輪に八角あり殼覇成具せり、下第二手は中指以下三指各屈してに向て大指中指の上節の側を捻し、頭指直く堅て上に向て之を伸ぶ。其情肘を屈して手筒を左に向け、下方四手は横に左膝を覆せて指頭右に向う)虎皮と錦とその両跨に株えり。その両脚の腔に各赤髭あり(後略)』
きんカッコの手の印は、みな深い意味があるのである。かるがるしく見過ごしてしまわぬように、よく記憶しておいていただきたい。


また、別の秘密儀軌にいわく、


『八臂と両胸と頭とに十二蛇をまとい、両足下に白蓮あり、感焰中(燃えさかる火焰のこと)にとある。この像の場合、十二の蛇の十二という数は、サハスララ・チャクラの十二の輻をあらわしていることを、賢明な読者はすぐにさとられるに違いない。同時に、足もとから背よりも高く燃えさかる人は、クンダリニーの火をあらわしいることこれまた申すまでもないことだ。


この明王の真言は、


俺防密哩帝降 発(am amrite hum phat) (甘露軍茶利)


秋里帆里 跋日羅峠 発叱 (om kili-kili hum phat) (金剛軍茶利)であるが、



真言宗密教において、法を行ない、加持をするとき、いかなる修法、行法でも、阿関梨は、修法のはじめに、必ずこの明王を念じ、この真言を誦することになってる。これを、"加持香水、という。どの修法にも加持香水のない行法というものはい。真言宗密教では、この明王を、風悩、堀織を除去し給う尊であるとし、この二つの真言を、去垢の真言』(嶽悉地供養法)という。煩悩を去り、心身の垢、けがれをいさいとり除く明王ということである。


その行法を述べると、護身法を修したあと、念珠を左手に把り、右手に小三の眼をむすんで念珠にあて(三鈷又は五話を用うることもある)壇上の水器に向けて二十一べん上下する


このとき右の二つの真言のいずれかをとなえ、明王を心に念ずる。


軍茶利明王がクンダリニーであることを知らない阿闍梨たちは、ただ軍茶利明王を念じ、真言を通して、ほとんど形式的にやってしまい、この行法にふかく心をとめる修法者がいないが、これは、修法にあたってまずクンダリニーを呼びさますという、密教においてなによりも大切な行
であるべきはずである。真言宗密教が様式化してしまったと私が指摘するのは、こういう点をいうのである。修法のはじめに、クンダリニー覚醒の行法を持ってきているのはよいのである。


これは、古代ヨーガにおいておこなわれた行法が、そのまま踏襲されたものであろう。それでなくてはならないのだ。しかるに、それがただ単なる型になってしまっている。クンダリニーを軍茶利明王にし、軍茶利明王が実は蛇のかたちをしたエネルギーであることを色々な型式で表現して暗示はしているけれども、結局は、仏サマの一種であるというように観念化してしまって、そのもっとも大切な本質をどこかへ消失してしまっている。これで、行法に力が生じたら、それこそまさに奇蹟というべきではなかろうか。


クンダリニーを軍茶利明王にしたことは、したその時点においてそうせざるを得ない、そうすべき当然の理由であったのであろうから、それを長々するのではない。そういう時代的要求が去った現代において、なお、そのまま様式化した行法をそのままつづけてゆかねばならぬ理由とい・・・・・・
うものがどこにあるというのであろうか。(まあ、気がつかないからやっているので、気がついたら馬鹿々々しくてやっていられなくなるだろうと思うのだが、どょう?)


秘密はまだある。


秘密辞林にいわく、
『この尊は三部弁事明王になれば、甘露軍茶利、金剛軍茶利、蓮華軍茶利の三部各別、三身の軍禁利あり。甘露軍茶利は虚空蔵菩薩の所変、蓮華軍荼利は観自在菩薩の所変の説あれば、金剛界軍荼利はおのずから金剛手菩薩の所変と称するを得べし』
とある。


密教大辞典もほぼおなじ記述である。
この文章を一読したら、賢明なる読者はすぐになにかを感じるはずである。虚空蔵菩薩は、虚空蔵菩薩能満所願最勝心陀羅尼求聞持法といって、求聞持法の本尊ではないか。クンダリニーが、こんなふうに姿をかえて、クンダリニーと求聞持法の深い関係を暗示しているのである。クンダリニーの助けなくして真の求聞持法開発は不可能であり、求聞持法の開発がそのままクングリニーの覚醒につながるという関係を、こんな風に暗示してひそかに伏せておくとは、いやもう、まことにまことに心にくいほどの深謀遠慮、おそれいったというよりほかはない。まだある。


金蘭軍茶利の所変、金剛手菩薩とは金剛薩埵のことである。金剛薩埵とは、はかならぬ客教修行者自身をさす。この暗示は、クンダリニー修得の方法を暗示するもので、このことはまたあと右が甘露軍茶利で虚空蔵菩薩、左が金剛軍茶利で金剛薩埵、真』なかの蓮華軍茶利=観自在菩薩は、観世音菩薩のことで、これは悉地成就、クンダリニーを覚醒して超能力を獲得した修行者の他者救済のすがたを暗示する。行が完成したら、観世音菩薩となって多くのなやみ苦しむ人びとを救わねばならぬ。そのための超能力であることを示しているのである。また、この観世音菩
薩は、準低視音であり、修行にあたって、因縁解脱、悪業消滅の必要あることを示しているのである。


いかがです? 密教のナゾ解きは? なまじいの推理小説など足もとによれぬ面白さではなかろうか?それは、超人たちとの智恵くらべである。あるいは、万事を知りつくした上でこのような芸当をしている彼らは、後世においてそのナゾを解く者の出現を期待し、たのしんでいるのではなかろうか?ともあれ、このことからだけでも、真言密教の行法は、再認識され、再検討されねばならぬというべきである。

posted by gomabon at 14:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 瞑想
この記事へのコメント
コメントを書く

お名前:

メールアドレス:


ホームページアドレス:

コメント:

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この記事へのトラックバックURL
https://fanblogs.jp/tb/11035288
※ブログオーナーが承認したトラックバックのみ表示されます。

この記事へのトラックバック