2016年04月25日
救急車で運ばれた!
救急車で運ばれた。
誰が?
→筆者が。
いつ?
→土曜の未明。(午前5時くらい)
なぜ?
→階段から落ちて頭を打って血が出たので。
この記事を書いているということは大事には至らなかったということなのでとりあえずは良かったのだが、やらかしてしまった!
※前の記事は予約投稿
金曜のトレードを終えた後、意気揚々と家を後にして名古屋へと向かった筆者。
その日は前の会社にいた人たちとの飲み会だった。この会社は半年しか在籍していなかったのであるが、不思議と縁が続いて年に数回ではあるが顔を会わせる機会がある。
前の前の会社は丸7年在籍していたけれど退職後は誰とも一度も会っていないことを考えると、在籍期間というものは思っているほど意味が無いということだろう。
久々の飲み会だったこともありかなりご機嫌で、お酒のペースも早かったのだろうか? 3時間くらいでグラスビール2杯、白ワイン4杯、ジントニック2杯ぐらいだったかな。
11時半には帰宅して、おフロに入って12時半くらいには寝床についた。
朝方4時半くらいに目が覚めて、喉の渇きを感じたのと、ちょっと気持ち悪かったので吐いた方がいいと思ってトイレに行こうとしてスマホ片手に(懐中電灯代わりに)部屋を出たところまでは覚えている。
※寝床は二階、トイレは一階
ここで記憶が途切れていた。
何やらカミさんと、同居している義父とが話している声が聞こえてくる。救急車がどうとかこうとか。
あれっ、なんでオレ廊下で寝ているんだろう?
おかしいな。そういえば水を飲みに行こうとしてたような。
あれっ、血が出てるぞ。ということはオレが階段から落ちたのか?
というようなことを、階段下の廊下で寝転がったまま朦朧とした意識の中で考えていた。
救急隊員の人たちが来てくれて受け入れ先の病院もなんとか決まり搬送された。CTスキャンやレントゲンなどをとり点滴も受けた。
右側頭部裂傷ということで2針ほど縫うことになったが、目立った外傷はそれだけだったようだ。途中嘔吐をしたのだが、これはお酒が起因のものと思われる。
ようやく意識も落ち着いてきて8時くらいには病院を後にすることができた。その日一日は安静にして過ごした。おかげさまで後から症状が出てくるということもなかった。
今日の午前中も通院して診察を受け、とりあえず大丈夫そうだったので一安心である。ただ打った場所が頭だけに数ヶ月後に内出血したりする可能性もあると、きちんと指摘された。
今回不思議だったのは、階段から落ちたにもかかわらず痛みを訴えていないことだ。子どもとカミさんで意見が分かれているのだが、子ども曰く「声は出してない。落ちていく音だけ」。カミさん曰く「声も出してた」。
普通なら声を出したんだろうと思うのだけれど、落ちた時の記憶がないので出してないような気が自分でもする。声を出すほど痛みを感じたのなら、落ちる瞬間は(お酒で)意識を失っていても痛みで目が醒めると思うのだが。特に筆者は、こういう時は「オーバーアクション」になりがちなので、よくカミさんから「(こういう時だけ)うるさい!」と怒られるくらいなのだから。
身体に擦りむいた痕が何ヶ所もあったけれど打撲の痕が無さそうなので、よほど打ちどころが良かった(という表現が妥当かわからないが)のだろうか?
あともう一点気づいたことがある。
今回筆者は生死の淵をさまよったわけではないのだが(三途の川で呼ばれた記憶もない)、偶然にも自分の「死」というものを身近に感じることができた。
「7つの習慣」にもあるけれど、自分の死に際をイメージすることで、自分の本当にしたいことを明確にするというスキーム(?)がある。
死ぬ前にやっておきたかったこと(=やらないまま死ぬと後悔すること)を明確にする、ということは頭ではわかるのだがいざ実際にやってみようとしてもうまくいかない。何でもいいから書き出してみようと言われても、結局それってホントはそんなにしたいことではないことだったりする。それがホントかどうかなんて、その時になってみないと正直わからないのではないだろうか? と中途半端な筆者は思ってしまう。
逆説的であるが、ホントにしたいことだったらとうの昔にやってるはずだ。やってないということは「実はホントにしたいこと」ではないということを示している。←この考え方の元ネタ
今回余命宣告を受けたわけではないが、打ちどころが悪かったら死んでいた可能性も否定できない。そのことは朦朧とした意識でも明確に認識することができた。これから死ぬわけではないので厳密にいうと違うのだろうが、もし自分がこのまま死んでたら後悔することってあるかな? と思ったら意外になかった。
実は筆者にとって「お金」というものの優先順位は低いし、そのことを自分でも認識している。じゃあ「お金」以外は? いろいろやってみたいことはあるが、それはあくまで「できれば」であってやらずに死んだところで後悔などしない代物だったようだ。
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最後までお読みくださりありがとうございます。
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金曜のトレードを終えた後、意気揚々と家を後にして名古屋へと向かった筆者。
その日は前の会社にいた人たちとの飲み会だった。この会社は半年しか在籍していなかったのであるが、不思議と縁が続いて年に数回ではあるが顔を会わせる機会がある。
前の前の会社は丸7年在籍していたけれど退職後は誰とも一度も会っていないことを考えると、在籍期間というものは思っているほど意味が無いということだろう。
久々の飲み会だったこともありかなりご機嫌で、お酒のペースも早かったのだろうか? 3時間くらいでグラスビール2杯、白ワイン4杯、ジントニック2杯ぐらいだったかな。
11時半には帰宅して、おフロに入って12時半くらいには寝床についた。
朝方4時半くらいに目が覚めて、喉の渇きを感じたのと、ちょっと気持ち悪かったので吐いた方がいいと思ってトイレに行こうとしてスマホ片手に(懐中電灯代わりに)部屋を出たところまでは覚えている。
※寝床は二階、トイレは一階
ここで記憶が途切れていた。
何やらカミさんと、同居している義父とが話している声が聞こえてくる。救急車がどうとかこうとか。
あれっ、なんでオレ廊下で寝ているんだろう?
おかしいな。そういえば水を飲みに行こうとしてたような。
あれっ、血が出てるぞ。ということはオレが階段から落ちたのか?
というようなことを、階段下の廊下で寝転がったまま朦朧とした意識の中で考えていた。
救急隊員の人たちが来てくれて受け入れ先の病院もなんとか決まり搬送された。CTスキャンやレントゲンなどをとり点滴も受けた。
右側頭部裂傷ということで2針ほど縫うことになったが、目立った外傷はそれだけだったようだ。途中嘔吐をしたのだが、これはお酒が起因のものと思われる。
ようやく意識も落ち着いてきて8時くらいには病院を後にすることができた。その日一日は安静にして過ごした。おかげさまで後から症状が出てくるということもなかった。
今日の午前中も通院して診察を受け、とりあえず大丈夫そうだったので一安心である。ただ打った場所が頭だけに数ヶ月後に内出血したりする可能性もあると、きちんと指摘された。
今回不思議だったのは、階段から落ちたにもかかわらず痛みを訴えていないことだ。子どもとカミさんで意見が分かれているのだが、子ども曰く「声は出してない。落ちていく音だけ」。カミさん曰く「声も出してた」。
普通なら声を出したんだろうと思うのだけれど、落ちた時の記憶がないので出してないような気が自分でもする。声を出すほど痛みを感じたのなら、落ちる瞬間は(お酒で)意識を失っていても痛みで目が醒めると思うのだが。特に筆者は、こういう時は「オーバーアクション」になりがちなので、よくカミさんから「(こういう時だけ)うるさい!」と怒られるくらいなのだから。
身体に擦りむいた痕が何ヶ所もあったけれど打撲の痕が無さそうなので、よほど打ちどころが良かった(という表現が妥当かわからないが)のだろうか?
あともう一点気づいたことがある。
今回筆者は生死の淵をさまよったわけではないのだが(三途の川で呼ばれた記憶もない)、偶然にも自分の「死」というものを身近に感じることができた。
「7つの習慣」にもあるけれど、自分の死に際をイメージすることで、自分の本当にしたいことを明確にするというスキーム(?)がある。
死ぬ前にやっておきたかったこと(=やらないまま死ぬと後悔すること)を明確にする、ということは頭ではわかるのだがいざ実際にやってみようとしてもうまくいかない。何でもいいから書き出してみようと言われても、結局それってホントはそんなにしたいことではないことだったりする。それがホントかどうかなんて、その時になってみないと正直わからないのではないだろうか? と中途半端な筆者は思ってしまう。
逆説的であるが、ホントにしたいことだったらとうの昔にやってるはずだ。やってないということは「実はホントにしたいこと」ではないということを示している。←この考え方の元ネタ
今回余命宣告を受けたわけではないが、打ちどころが悪かったら死んでいた可能性も否定できない。そのことは朦朧とした意識でも明確に認識することができた。これから死ぬわけではないので厳密にいうと違うのだろうが、もし自分がこのまま死んでたら後悔することってあるかな? と思ったら意外になかった。
実は筆者にとって「お金」というものの優先順位は低いし、そのことを自分でも認識している。じゃあ「お金」以外は? いろいろやってみたいことはあるが、それはあくまで「できれば」であってやらずに死んだところで後悔などしない代物だったようだ。
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