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2016年11月08日

小説「新釈・漁師とおかみさん」(その8)

 男はまた目をつぶらされた。さっきよりも、目を閉じている時間は長かった。
 物体のオーケーが出て、男が目を開いた時、先ほどまで穏やかだった海には強い風が吹いていたようにも感じられた。過去が作り直された事で、天候にも若干の変化があったのかもしれない。
 こうして、男は自分の豪邸へと帰っていった。目まぐるしい展開の連続で頭がこんがらがってきていたが、今の自分が巨万の富の持ち主になっていた事だけは何となく感じ取れていた。
 実際、そうなっていたのである。彼が戻ってきた豪邸はさらに成金趣味の装飾で派手に飾りたてられ、沢山の使用人も常駐していた。恐らく、これほど浪費しまくっていても、お金はまだ腐るほど残っているのだろう。これこそは、妻が一番望んでいた理想の生活のはずだ。今度こそ妻も満足したに違いあるまい。
 男はそう思ったのだが、しかし、その考えは当たらなかった。
「ヒドいわ。収入の半分以上が税金に取られちゃうのよ!これって、何とかならないの?」男に会うなり、妻はそうわめきたてたのだった。
「しかし、それだけ税金を取られても、まだまだ手元にお金は残っているのだろう?何も問題はないじゃないか」男は妻を納得させようとした。
「いやよ!これは私が儲けたお金よ。なぜ国になんか払わなくちゃいけないの?こんな政治、間違ってるわよ。いっそ、私がこの国の総理大臣になって、私の納得できる社会に作り直してやる」
「おい、お前。総理大臣だって、そこまで自由にはできないよ」
「だったら、もっと違う肩書きの指導者になるわ。そうだ、独裁者なんて、どうかしら?私、独裁者になって、この国を自分の好きなように動かしてやる!」
 妻の言ってる事は、もうメチャクチャな感じがしたが、ここまで来ると、夫の方も本当に妻を押さえ切れなくなってきたのだった。    (つづく)

「ルシーの明日とその他の物語」

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posted by anu at 17:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 小説

2016年11月07日

小説「新釈・漁師とおかみさん」(その7)

「こんな屋敷、ダメよ!とても暮らしていけないわ!」と、妻はわめいた。
「どうして?素晴しい家じゃないか。私たちにはもったいなさ過ぎるよ」
「そう、そこよ!家ばかりでかくても駄目なの!私たち、お金が無いじゃない。この家に見合った生活をしていけないわ」
「おいおい。何を言ってるんだ」
「こんな立派な豪邸に住んでるんだから、毎日、ごちそうも食べたいし、高い洋服だっていっぱい欲しいわ。海外旅行もしたいし、召使いだって沢山雇わなくっちゃ!とにかく、お金が足りないのよ!ヒラメさんに頼んで、私たちを死ぬまで贅沢し続けられる億万長者にしてもらって!」
 結局、男は妻の言いなりになるしかなかったのだった。彼は再び、自分の家と岸壁の間を往復する事になった。
『なるほど。奥さんの言い分も確かに一理ありますね』
 男の相談を受けた物体は、怒る訳でもなく、意外にも協力的なのだった。
『では、あなた達を世界一の大富豪に変身させましょう。ただし、今までほど簡単な話ではありませんよ。あなた方が金持ちである事を世間や社会にも合致させる必要がありますから。あなた方がお金持ちとなる原因を過去にでっちあげる為、過去もかなり修正しなくてはいけません』
「何だって!」男は思わず声を上げた。
 この物体は、一体何を言っているのだ?どうやら、自分の願いを叶えてくれる為だけに、世界そのものまで変えようとしているみたいなのである。    (つづく)

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posted by anu at 18:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 小説

小説「新釈・漁師とおかみさん」(その6)

『恩人さん。ちょっと目をつぶっていただけませんか』物体が言った。
 男は、言われた通りに、その場で目を閉じた。
『もう、いいですよ』
 物体の声に従って目を開いた時、まだ真夜中だと思っていたはずなのに、なぜか空には日が昇りかけていた。男には、何がどうなっているのか、よく分からなかった。自分が目をつぶったのは本当に一瞬であり、居眠りとかもしていなかったからだ。
『さあ、おうちにお帰りください。新居が待ってますよ』
 物体は涼しげにそう告げてくれたのだが、男の方はまだ夢でも見ているような気分だった。
 しかし、朝方の道をてくてくと歩き、自分の住むマンションの前にまで戻って来た時、男は愕然としたのであった。
 そこには、見慣れたマンションは無かった。かつて目にした事もなかったような素晴しい豪邸がずんと建っていたのである。
 おそるおそる、豪邸の表札を確認すると、男の苗字が書かれていた。確かに、あの物体は無茶な願いをあっさり叶えてくれたのだ。
 男には、まだ信じられないような話だったが、それでも、これなら妻もさすがに満足してくれたはずであろう。
 男は、自分の豪邸の中へと入っていき、中で待っていた妻と会った。妻の感謝の言葉を聞けるものとばかり思っていたのに、彼が耳にしたのは全く別の言葉であった。    (つづく)

「ルシーの明日とその他の物語」

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posted by anu at 18:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 小説

小説「新釈・漁師とおかみさん」(その5)

「やれやれ、やっぱりあなたは頭が足りないわね」と、妻は悪態をついた。
「どうして?私は言われた通りにやってきたよ」
「ヒラメさんは、この程度のお金の支払いぐらいは大した事ないって言ったんでしょう?だったら、なぜもっと吹っ掛けなかったのよ。これまでのマンションの支払いだって任せてしまっても良かったぐらいだわ」
「おいおい。あまり図々しい事を言うものじゃないよ」
「図々しくないわ。あなたはバカ正直すぎるのよ。相手がまだまだお金を出せると言うんだったら、とことん出してもらえばいいのよ。そうだ。こんな狭いマンションなんかで納得したくないわ。ヒラメさんに願いを変更してもらって、自分たちの一軒家を建ててもらいましょうよ。それも立派な豪邸を!このマンションが建っている土地を私たちで買い取っちゃってさ、ここに建てるのはどうかしら」
「おい、お前。無茶は言うもんじゃないよ。そんな事、できるはずが無いだろう」
「物は試しよ。あなた、さっさとヒラメさんのところへ行って、頼んできてちょうだい」
 妻の意見に、男は頭っから反対だったのだが、妻の勢いには相変わらず押されっぱなしで、逆らい切れなかったのだった。
 結局、男は、一時間も経たないうちに、また岸壁へと足を向けていた。男がやって来ると、待ち構えていたように、海面にあの物体が現れた。
「本当に済まない。どうしても、女房が分かってくれないんだ。確認しにきただけだよ。出来ないなら出来ないと、素直に言ってくれたらいいんだよ」男は、申し訳なさそうに物体へと告げた。
『いいえ、無理ではありませんよ。願いを叶えてあげましょう。しかし、少しだけ時間をいただけませんか』
「ああ、もちろん構わないとも。本当に出来るのかい?済まないねえ」
 男は、物体が言う<時間>とは一月ぐらいの期間だろうと思っていた。土地を買収した上で、そこに新築の家を建てるとなると、当然そのぐらいはかかるはずだったからだ。    (つづく)

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posted by anu at 18:02| Comment(0) | TrackBack(0) | 小説

小説「新釈・漁師とおかみさん」(その4)

「君、すまない。私は乗る気じゃなかったんだがね、女房のヤツがどうしてもと言ってね」物体の方を見下ろしながら、男は弁解しつつ、これまでの事情を説明し始めた。
『なるほどね。その程度の望みでしたら、訳なく叶えられますよ』
 その物体があまりにもあっさりと承諾してくれたものだから、男は逆に騙されているような気持ちになってきたのだった。
 しかし、物体はいったん海中に潜り込んだあと、次に海面に現れた時には、防水のビニールケースに入れた書類の束を男の方へとポンと投げつけてきた。
『それは、マンションの今後の支払い分の領収書です。たった今、私の方で全額払い済ませましたよ』
 そして、書類の束を調べた限りでは、確かに物体の言う事は事実なのであった。
「君、ありがとう。本当にありがとう。これで女房も満足してくれると思うよ」安心した男は、しきりに物体へと頭を下げ、礼を言った。
『命を助けてもらった恩に比べたら、この程度、大した事ありませんよ。もっと難しい願いだって叶えてあげられたのに、あなたって本当に欲が無いのですね』
 それにしても、この物体はどこから大金を手に入れたのだろう?今、支払ってもらったマンションのローンにしたって、決してささやかな金額ではなかったはずである。どうも、この物体は、男の想像をはるかに超えた未知の存在だったようだ。
 物体と別れた男は、喜びに満ちて、自分の家へと戻ったのだった。
 そして、待っていた妻にマンションのローンの領収書を見せると、謎の物体の親切さや義理堅さをとくと語って聞かせた。
 ところが、そうしてゆくうち、最初は嬉しそうだった妻の表情が次第に険しいものへと変わっていったのだった。     (つづく)

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posted by anu at 11:06| Comment(0) | TrackBack(0) | 小説

2016年11月06日

「新釈・漁師とおかみさん」解説

 この作品は、作品冒頭でも記してあるとおり、グリムの童話「漁師とおかみさん」をリメイクしたものです。

 原作は中世が舞台であるため、おかみさんが成りたい地位が王様だったり法王だったりして、現代人には共感しづらい部分もあったと思いますので、私の小説では、そのへんをモダンな地位に置き換えてみました。読者の皆さんも、おかみさん(妻)の視線に立って、どんどん偉くなっていく成り上がり気分を楽しんでいただければ幸いでございます。

 もともと、私は最後のオチだけを書きたかったので、時代や小道具類こそ現代風のものに置き変えてはありますが、大まかな話の流れまでは変更していません。ただし、出来事に対する説明が違っています。

 たとえば、原作のおかみさんはただひたすら偉くなりたかっただけですが、私の小説の妻は、新しい地位についても、その地位なりに悩みや不満点があるのが気に入らなくて、さらに別なる地位を望むのであります。原作で海が汚れていくのは象徴的なものでしたが、私の小説の場合は「妻の悪政のせい」とはっきりした理由を示しています。

 つまり、一見、同じストーリの流れなのですが、私の小説は原作とはところどころの解釈(特にオチの部分)が違っているのであり、だからタイトルが「新釈・漁師とおかみさん」なのであります。

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posted by anu at 14:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 小説

小説「新釈・漁師とおかみさん」(その3)

 彼が妻と住んでいる場所は、マンションの一角だった。猫の額のように狭いスペースであったが、住宅ローンはまだ払い終わってはいなかった。
「ただいま。今帰ったよ」と、ご機嫌で男は玄関をくぐった。
「あなたったら、今まで、どこをほっつき歩いていたのよ。ほんと、甲斐性なしなんだから」出迎えた妻がいきなり食って掛かってきた。まだ、先ほどの言い合いから冷めていなかったようである。
 妻はそこそこに美人だったが、口を開くと、そこからはきつくて醜い言葉しか出てこないのだった。
「いやあ、夜の散歩をしていたんだけどね、面白い事があったんだ」浮かれていた夫は、つい今しがたの出来事をペラペラと妻に話してしまった。
 普通なら、夫がこんなバカげた話をしだしたら、妻はふざけていると思って、怒り出すところだろう。かんしゃく持ちの妻であれば、なおさらだ。
 しかし、この男の妻の場合はちょっと感じ方が違っていたらしい。
「あなた。じゃあ、それで何の願いも頼まなかったと言うの?」妻は真顔で夫に問いただした。
「そうだよ」
「バカじゃないの?なぜ、このマンションの返済を全部終わった事にしてもらわなかったのよ。そうすれば、来月からお給料の自由になる額がぐんと増えるじゃないの。どうして、そんな事もすぐ思いつかないのよ」
「おいおい、待ってくれよ。そんなセコい望みは恥ずかしくて、お願いできないよ」
「安月給の甲斐性なしが何言ってるの!今さら恥ずかしい事なんて無いでしょ?ほら、早くヒラメさんのところへ行ってらっしゃいよ!」
 妻は、ものすごい剣幕で夫をけしかけたのだった。夫の方は、いつものように、言い合いでは妻には勝てそうになく、従うしか無かった。
 この妻は、なぜ夫の話をこんなにも簡単に信じてしまったのか?彼女はあまり利口な方ではなかったし、普段からフザケた内容のバラエティ番組とか夢物語のSF映画などにどっぷり浸かっていたものだから、現実と虚構の区別がつかなくなりかけていたようなのである。
 男は、もう真夜中だと言うのに、妻に追い立てられて、慌てて岸壁へと戻ってきたのだった。
『やあ、命の恩人さん。やはり来てくれたのですね』
 男が呼びかける必要もなく、あの物体は海面からすぐに顔を出した。この物体には男の行動が全てお見通しだったようにも感じられ、なんだか笑っているようにも見えたのだった。     (つづく)

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posted by anu at 14:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 小説

2016年11月05日

小説「新釈・漁師とおかみさん」(その2)

 その物体の姿をうまく形容するのは難しい。男には、幼い頃に持っていたブリキのロボット玩具に似ていたような感じがした。しかし、色がどす黒く、あちこちが角張ったヒト型をしていたから、そんな印象を受けただけなのであり、よく見ると、なにやら細い魚のようでもあった。頭の部分にあたる箇所には、目らしきものが縦に二つ並んで付いており、ますますヒトとも魚とも思えないような雰囲気を醸し出していた。
『そこのお方。私を助けて下さい』そのヘンな物体が声を発していた事を、今度は男もはっきりと確認したのだった。
 男は、困惑した表情のまま、ひょいとその物体をつまみ上げた。
「君が喋ってるのかい?どうしたら助けてあげられるのかな」と、男は物体に尋ねてみた。
『簡単です。私をそこの海の中へ投げ込んでくださればいいのです』と、それは言った。
 男は、特に疑問を抱く事もなく、その通りにしてやった。彼は根っからのお人よしだったのである。
 海に投げ込まれた物体は、ボチャンと一度は海中へと沈んでいったが、すぐにあの目が縦に付いた頭部が海面へと飛び出した。
『ありがとうございます。助かりました。あのまま乾いてしまったら、私もオダブツになるところでした』謎の物体は、海の方を覗き込んでいる男の方むけて、言った。
 さて、この物体は何だったのであろうか?もちろん、合理的に説明してしまうのも可能なのではあるが、ひとまずは正体は伏せておく事にしよう。
「どういたしまして。お役に立てて良かったよ」明らかに奇妙な相手に対して、まるで警戒する素振りもなく、男は答えた。
『私はあなたにご恩ができました。よろしければ、私もあなたの力になりましょう。何か叶えたい望みはありませんか』物体が提案してきた。
 男の頭には、すぐに妻の事がひらめいたのだった。あの妻をもっと良妻に変える事はできないものだろうか。
 しかし、男はすぐに首を横に振ったのだった。自分の希望で、他人の心を改造してしまおうなんて、とんでもないエゴのように思えたからである。
「お気遣いありがとう。でも、私は今の生活にじゅうぶん満足してるから、願い事なんてないよ」男は、明るく答えた。
『そうですか。でも、もし叶えてほしい願いが見つかりましたら、どうぞ、ここにまた訪ねてきて下さい。私はいつでも、ここで待ってますから』それだけ言うと、物体は海の中へ潜っていってしまったのだった。
 なんとも、不思議な出来事であった。だが、人助けをして、ちょっと良い気分になれた男は、そのまま自分の家へと帰っていったのである。     (つづく)

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posted by anu at 17:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 小説

住み分け

 このたび、あらたに「ツギクル」でも作品を掲載する事にしましたし、最近公開したばかりの小説の発表場所をいろいろと振り分ける事にしました。

「狼ハンター」
基本的に「ツギクル」上をメインに公開。解説や今後のあらすじも「ツギクル」の方で紹介します。
ただし、「続・狼ハンター」につきましては、まだ非正式公開なので、「ルシーの明日とその他の物語」の方に有料収録させていただいております。

「新釈・漁師とおかみさん」
本ブログ上で分割連載中。
「ルシーの明日とその他の物語」内では、まだ有料作品指定。

「お化け坂を訪ねて」
「お化け坂」シリーズの総集編と言う事で、「ツギクル」「ルシーの明日とその他の物語」の両方で公開中。
「ツギクル」と「ルシーの明日とその他の物語」では、「お化け坂」シリーズは発表順を変えてあり、それぞれ一方でしか読めない作品も混ざっています。

「ニジュウ面相の別荘」
「ルシーの明日とその他の物語」に収録。解説は、本ブログ上に掲載済み。

「泉より愛をこめて」
「ルシーの明日とその他の物語」に収録。
本当は「ツギクル」上でも公開したいのですが、エロチック表現があるため、「ツギクル」の規制に引っかかる恐れがあり、どうするか悩んでいます。

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posted by anu at 15:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 小説

2016年11月04日

小説「新釈・漁師とおかみさん」(その1)

(本作は、グリムの童話「漁師とおかみさん」を現代風にアレンジしたものです)

 男は、妻の事でほとほと疲れ果てていた。妻が我がままで浪費家であった事は交際していた頃からうすうすと勘づいていた話なのだが、まさかここまでヒドかったとは思わなかったのである。
 小さな町の水産工場でせいぜい係長どまりだった彼の給料では、妻の底知れない贅沢や虚栄心を満たしてやる事はとうてい不可能だった。その理屈を説明してみても、妻は彼の稼ぎが悪いの一言で片付けてしまうのである。
 二人の間には子どもはいなかった。結婚して三ヶ月めにして、美しき奥方は夫との夜の営みを拒否してしまったのである。もともと、彼女には夫への愛は欠片ほどもなく、自分がおもしろ楽しく暮らす事しか頭になかったのだ。そんな訳で、夫婦間ではすでに数年以上もセックスレス生活が続いている。せめて子どもでもいれば、今の生活も変わるかもしれないと男は考えた事もあったが、むしろ子どもがいたら、ますます生活が苦しくなっていたかもしれない。
 とにかく、今日も妻にやかましく怒鳴り散らされた男は、彼女と一緒にいるのがいたたまれなくなり、深夜だと言うのに、つい家を飛び出してしまったのだった。少し近所でも散策して、妻が落ち着いてから、こっそり家に戻るしかない。
 それにしても、あの妻は本当にどうにかならないものなのだろうか。男は、離婚が頭によぎった事もあったのだが、裁判で妻に勝てる自信はなかった。多額な慰謝料を支払わされる事を想像したら、とてもじゃないが離婚にも踏み切れないのだった。
 やがて、男はいつもの散歩コースの一つである岸壁へとやって来た。
 そこで彼は出会ったのである。あの奇妙な物体と。
『お願いです。助けて下さい』と言う声が、男の耳に聞こえてきた。
 彼は立ち止まり、まわりをキョロキョロと見回した。しかし、今この場所は無人であり、彼以外の人間は見当たらなかった。
『ここです、ここです』と、また声が聞こえてきた。
 今度は、その声が足もとから聞こえていた事に気が付いた男は、下の方へと目を向けた。
 岸壁のコンクリートの地面の上に、打ち上げられた海草や貝などと混ざって、長さ30センチほどの奇怪な物体が横たわっていたのだった。     (つづく)

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