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2017年10月25日
会津のシンボル「鶴ヶ城」
1592年(文禄元年)蒲生氏郷は、町の名を黒川から「若松」へと改め、蒲生群流の縄張りによる城作りを行いました。1593年(文禄2年)、7層の天守が竣工し、名は「鶴ヶ城」に改められました。
1611年(慶長16年)に起きた会津地震により鶴ヶ城が倒壊、1627年(寛永4年)加藤明成の時代に西出丸、北出丸などの造築を行い、会津地震により倒壊した天守を今日見られる5層の天守に改築しました。
幕末の1868年(慶応4年)、会津戦争にて、天守を含む多くの建造物の傷みは激しく、その後も放置されたまま破却されました。
現在の天守は1965年(昭和40年)に鉄筋コンクリート造により外観復興再建されたもので、内部は「若松城天守閣郷土博物館」として公開されています。
2010年(平成22年)には、黒瓦だった天守の屋根瓦を明治時代に解体される以前の赤瓦葺に復元する工事が行われ2011年(平成23年)3月に竣工しました。現在は、会津観光のスポットとして多くの観光客や修学旅行生が多く訪れております。
来年は戊申150周年を迎えることから、更に多くの観光客のお越しを期待しております。
蒲生氏郷が興した自由市「什楽」を現代に再現した 「会津什楽」。南蛮風の屋台が立ち並び、多くの観光客などで賑わいます。 |
土津神社
土津神社は延宝3年(1675年)、磐梯山麓見祢山の地に葬られた保科正之の墓所。「土津」(はにつ)という名称は、寛文11年(1671年)に正之が吉川惟足より吉川神道の奥義を授けられた際に「土津」の霊神号を送られたことに由来しています。翌寛文12年12月18日(1673年2月4日)に正之が死去すると、遺言通り見祢山の麓・磐椅神社の西方に葬られました。 |
猪苗代町は、猪苗代湖の北岸に面し、東西北の三方を会津磐梯山をはじめとする山々に囲まれた自然豊かな町で温泉も豊富です。また、野口英世の生誕地としても有名です。 |
2017年10月23日
会津ころり三観音参り
昨今は、各地からツアー客など、多くの方々が訪れる会津観光の人気スポットになっております。
人間は生を受けてのちは三毒、貪(とん=むさぼること)、瞋(しん=いかること)、痴(ち=おろかなこと)によりもろもろの苦悩を受けることになるが、この三観音に巡拝し、罪障消滅を祈願することにより、その苦しみが除かれ、現世においては子孫繁栄、万願成就、寿命安楽などがかなえられ、やがて大往生を遂げられるといいます。
特に観音堂内にある抱きつき柱にすがれば、死の床に際しても苦しまずに成仏でき、家族に余計な負担をかけずにすむということで「ころり」三観音と呼ばれるようになりました。
決して、心臓発作等で、ころっと成仏するという意味ではございません^^
是非、皆さんもお参りにお越しください!^^/
地元では「中田の観音さま」として親しまれており、細菌学者野口英世の母シカが深く信仰し毎月参篭して月参りをしていたことでも有名で、英世が大正4年(1915年)に帰国した際、母と恩師を連れ9月15日にお礼参りした写真が境内に残されている。 又、会津藩主代々の祈願所であった。 |
観音堂内に安置される42臂の千手観音像。一木造で総高8.5m、像高7.4mの大きさで、一木造としては日本最大級の仏像である。立木を刻んだとする伝承があり、長年「立木観音」と呼ばれて親しまれてきた。鎌倉時代の作といわれる。 |
2017年10月22日
仏都会津
仏都会津の名を生んだのは、最澄や空海と日本仏教の一時期を担った徳一(とくいつ)である。徳一は都の仏教に反発し、磐梯山の麓に、恵日寺(古代会津仏教の総本山)を開山しました。最初は粗末な草堂でしたが、全盛時には寺領18万石、子院3,800、寺僧300、僧兵数千を擁し、実質の会津領主として君臨しました。伊達政宗が会津攻めで焼き払ったため、今は見る影もないが、恵日寺の他に、勝常寺、柳津福満虚空蔵円蔵寺、西会津妙法寺(鳥追観音)など、今に徳一の足跡を伝えています。
勝常寺(しょうじょうじ)は会津地方の河沼郡湯川村にある真言宗豊山派の寺院で、平安時代初期の弘仁年間(810年 - 824年)に法相宗の学僧・徳一大師によって開かれました。 当時は、大伽藍と東西の五重塔を持つ大寺院でしたが、火災で焼失、現在は、中門と金堂が存在するのみです。 |