2018年01月08日
会津柳津「福満虚空蔵円蔵寺」
日本三大虚空蔵尊の一つとして有名で、歴代の領主・蒲生家、加藤家、松平家はもちろん、織田信長、豊臣秀吉・秀次なども代参し、徳川家からは10万石の待遇で、5年に1度の将軍拝謁を住職に許していました。 会津徳一大師五大寺の一つで、延歴23(804)年、弘法大師空海が唐の修行から帰国してから弘法大師は霊木を3つに分け、海に流した所、現在の千葉県天津小湊町に流れ着いた霊木は能満虚空蔵尊が刻まれ、茨城県東海村では大満虚空蔵尊が刻まれ、柳津町に流れ着いた霊木には、福満虚空蔵尊が刻まれました。それを収めるための圓蔵寺を、大同2(807)年、徳一大師が草創したと伝えられています。境内にある「開運撫牛」を擦りながら願い事をすると叶うといわれています。
寺を建立する際の難工事で困っていたら、赤い牛が現れ、材料の運搬など手伝いました。そして、蔓延していた疫病を、追い払ったといいます。 会津の「赤べこ」の発祥の地でもあります。
幕末の会津戦争の折は、越後方面から攻め上がった西軍が、鶴ヶ城と間違え鉄砲を撃ちかけたエピソードも残っております。
会津柳津町の日本三大虚空藏尊・福満虚空藏菩薩圓藏寺の伝統行事、七日堂裸まいりは、千数百年余りの伝統を今に受け継ぐ奇祭で、毎年、凍てつく真冬の1月7日の夜、下帯姿の若い衆が円蔵寺本堂の麻縄によじのぼり、大鰐口を目指します。
この七日堂裸まいりの始まりは、その昔、村に疫病が蔓延し村人は大いに苦しんでいました。そこで只見川の川底に住む龍神から、宝照の球を手に入れて疫病を退散させましたが、その宝照の玉を1月7日の夜に竜神が取り返しにやってきました。そこで信者たちが菊光堂に集まり、大声でもみ合い、大いに騒いだところ、その迫力に竜神も驚き、 姿を隠したという伝説に由来しているそうです。
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