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2017年10月29日
会津の良さは酒の良さ
高遠そば
また、元々蕎麦好きだった保科正之が、山形や会津に、そして四代将軍・徳川家綱の補佐をしていた江戸にも蕎麦を広めたと考えられ、信州高遠藩からは徳川将軍家に、寒ざらし蕎麦を献上する慣例もあったそうです。
ピリッと辛い辛味大根の絞り汁、お好みに合わせて、そばつゆを加えて味を調整します。 |
2017年10月28日
会津の旅「奥会津」
福満虚空蔵尊圓蔵寺は、大同2(807)年、徳一大師によって開創された会津を代表する名刹で通称「虚空蔵様」と呼ばれ、親しまれています。日本三大虚空蔵尊の一つとして有名で、歴代の領主・蒲生家、加藤家、松平家はもちろん、織田信長、豊臣秀吉・秀次なども代参し、徳川家からは10万石の待遇で、5年に1度の将軍拝謁を住職に許していました。 会津徳一大師五大寺の一つで、延歴23(804)年、弘法大師空海が唐の修行から帰国してから弘法大師は霊木を3つに分け、海に流した所、現在の千葉県天津小湊町に流れ着いた霊木は能満虚空蔵尊が刻まれ、茨城県東海村では大満虚空蔵尊が刻まれ、柳津町に流れ着いた霊木には、福満虚空蔵尊が刻まれました。それを収めるための圓蔵寺を、大同2(807)年、徳一大師が草創したと伝えられています。境内にある「開運撫牛」を擦りながら願い事をすると叶うといわれています。寺を建立する際の難工事で困っていたら、赤い牛が現れ、材料の運搬など手伝いました。そして、蔓延していた疫病を、追い払ったといいます。 会津の「赤べこ」の発祥の地でもあります。
幕末の会津戦争の折は、越後方面から攻め上がった西軍が、鶴ヶ城と間違え鉄砲を撃ちかけたエピソードも残っております。
寺を建立する際の難工事で苦慮しているところ、どこからともなく赤い牛が現れ、材料の運搬など重労働を手助けしました。そして、蔓延していた疫病をも、追い払ってくれたといいます。 |
柳津の名物「粟饅頭」は、1818年(文政元年)6月15日に柳津で大火が発生、円蔵寺の堂塔伽藍や門前の集落が焼けてしまいました。幕府や会津藩等と掛け合い資金を調達して復興に取り組み、1829年(文政12年)8月には、なんとか円蔵寺本堂の再建に至りました。その際「もう二度とこのような災難に『あわ』ないように」との願いを込めて、当時、多く生産されていた粟を使った饅頭を奉納することを思い立ち、門前の菓子職人に作らせたのが始まりと伝えられています。
会津の旅「南会津」
塔のへつりは、大川羽鳥県立公園、大川ラインの一番の景勝地で、百万年の歳月をかけて、浸食と風化を繰り返し見事な自然の造形と景観を創り出しました。また、この地域には、猿楽台地という蕎麦の栽培地があり、「猿楽そば」として名物になっています。