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2019年06月25日
映画「革命児サパタ」メキシコ革命の英雄を描く
「革命児サパタ」(Viva Zapata!) 1952年アメリカ
監督エリア・カザン
脚本ジョン・スタインベック
撮影ジョー・マクドナルド
音楽アレックス・ノース
〈キャスト〉
マーロン・ブランド アンソニー・クイン
ジョセフ・ワイズマン
カンヌ国際映画祭主演男優賞(マーロン・ブランド)
第25回アカデミー賞助演男優賞受賞(アンソニー・クイン)
20世紀初頭のメキシコ。
ポルフィリオ・ディアス大統領による独裁政権のもと、地主と農民との間に土地問題にからむ地主への不満が持ち上がり、農民たちはディアス大統領に直訴に及ぶことになります。
地主との問題は裁判に訴えろと言う大統領の言葉に、農民たちは納得して引き上げようとしますが、一人だけ、その場を去ろうとしない若者がいました。
「裁判をして、一度でも農民が地主に勝ったことがあるか」
と若者は言います。
続けて言うだけのことを言うと、若者はその場を立ち去ろうとしますが、大統領は彼を呼び止め、「お前の名前は?」と訊きます。
若者は答えます。「サパタ。エミリアーノ・サパタ」
農民たちの名簿の中にサパタの名前を見つけた大統領は、彼の名前を黒丸で囲みます。
映画冒頭のこのシーンは、後にサパタが権力の座についたときに社会的立場における自己矛盾の伏線として重要な意味を持つのですが、それは後のお話し。
★★★★★
パンチョ・ヴィリャと共にメキシコ革命の風雲児としてその名を馳せたエミリアーノ・サパタ。
映画は、革命の発端と、後にディアス大統領の辞任とともに革命の英雄となったサパタの姿を生き生きと追いながら、失意に沈み、裏切りの中で暗殺されるサパタの半生を、マーロン・ブランド、アンソニー・クインなどの名優たちの熱演によって描いてゆきます。
メキシコ革命は、フランス革命などもそうであるように様々な勢力が台頭して成し遂げられてゆきます。
ディアス大統領の圧政と、ディアスと対立するフランシスコ・マデロのアメリカへの亡命。革命の立役者でもあったマデロとサパタの確執。また、大統領となったマデロを殺し、勢力を広げる反革命の旗手ビクトリアーノ・ウエルタ将軍。
ウエルタ政権を打倒するために樹立された様々な革命軍と、その集合体である護憲革命軍。
護憲革命軍北部師団を率いるフランシスコ・ヴィリャ(パンチョ・ヴィリャ)。
護憲革命軍の指導的立場であり、後にヴィリャやサパタと対立することになるベヌスティアーノ・カランサ。
しかし、映画「革命児サパタ」はメキシコ革命を詳しく知らなくても分かり易い内容になっています。
脚本を担当したのがノーベル文学賞作家ジョン・スタインベック。
「怒りの葡萄」「二十日鼠と人間」「エデンの東」など、人間の内面に深く踏み込んだ作風は「革命児サパタ」でも十分に発揮されていて、貧しさと栄光、愛と裏切り、報われることのない流血からの反抗といった、スタインベック調の生き生きとした人間ドラマが展開されていきます。
★★★★★
監督は「欲望という名の電車」の名匠エリア・カザン。
カザンというと、どうしてもハリウッドの赤狩りにともなう政治的背景が取りざたされてしまいますし、1998年に行われたアカデミー賞の授賞式で、映画界に対する長年の功労として「名誉賞」が与えられたとき、大勢の拍手の中で、一部からはブーイングが起き、ニック・ノルティ、エド・ハリスなどは憮然とした表情のまま、表彰を受けるカザンを見つめていたのがとても印象に残っています。
そういうこともありますが、「革命児サパタ」そのものは優れた映画だと思いますし、マーロン・ブランドはもちろん、サパタの兄ユーフェミオを演じ、助演男優賞を受賞したアンソニー・クインの粗野で豪快な役回り、戦い続けながらも報われることのない不遇の地位から革命の意義を見失い、弟であるサパタとの確執の芽を宿しながら殺されてしまう悲劇の男ユーフェミオは、最も人間くさい人間の典型であり、「革命児サパタ」の中で強烈な印象を残しました。
強烈な印象ということでは、反ディアス大統領派の勢力の中を小賢しく立ち回り、最後にはサパタを裏切ってしまうフェルナンド・アギーレを演じたジョセフ・ワイズマン。
「007/ドクター・ノオ」(1962年)では、悪役ノオ博士を演じて強烈な印象を残し、ドクター・ノオのイメージは1973年の「燃えよドラゴン」の悪役ミスター・ハンにそのまま受け継がれています。
ただ、映画としてはフェルナンド・アギーレの人間像がイマイチ分かりづらかったのが難点ですが、終盤のサパタ暗殺の場面は「俺たちに明日はない」(1968年)のラストにつながる壮絶なシーンでした。
しかし悲惨な結果として終わるのではなく、サパタの愛馬が山へ逃げかえり、英雄となったサパタが白馬の印象として人々の記憶に残ることを暗示したラストは秀逸でした。
追記
貧しい農民出身で文盲として描かれたエミリアーノ・サパタですが、実際には裕福な農場所有者の息子で、ブルジョア的エリートでもあったようですから当然ながら文盲ではなかったはず。
貧しい文盲としたのは、革命を成し遂げる原動力は下層に生きる農民階級であることを強調しようとしたのか、貧しい農民の中から生まれた英雄として親しみやすさを出そうとしたのか。
いずれにしても、文盲であることで、雲の上の英雄というよりは、民衆を代表する英雄として好感が持てたのはたしかです。
監督エリア・カザン
脚本ジョン・スタインベック
撮影ジョー・マクドナルド
音楽アレックス・ノース
〈キャスト〉
マーロン・ブランド アンソニー・クイン
ジョセフ・ワイズマン
カンヌ国際映画祭主演男優賞(マーロン・ブランド)
第25回アカデミー賞助演男優賞受賞(アンソニー・クイン)
20世紀初頭のメキシコ。
ポルフィリオ・ディアス大統領による独裁政権のもと、地主と農民との間に土地問題にからむ地主への不満が持ち上がり、農民たちはディアス大統領に直訴に及ぶことになります。
地主との問題は裁判に訴えろと言う大統領の言葉に、農民たちは納得して引き上げようとしますが、一人だけ、その場を去ろうとしない若者がいました。
「裁判をして、一度でも農民が地主に勝ったことがあるか」
と若者は言います。
続けて言うだけのことを言うと、若者はその場を立ち去ろうとしますが、大統領は彼を呼び止め、「お前の名前は?」と訊きます。
若者は答えます。「サパタ。エミリアーノ・サパタ」
農民たちの名簿の中にサパタの名前を見つけた大統領は、彼の名前を黒丸で囲みます。
映画冒頭のこのシーンは、後にサパタが権力の座についたときに社会的立場における自己矛盾の伏線として重要な意味を持つのですが、それは後のお話し。
★★★★★
パンチョ・ヴィリャと共にメキシコ革命の風雲児としてその名を馳せたエミリアーノ・サパタ。
映画は、革命の発端と、後にディアス大統領の辞任とともに革命の英雄となったサパタの姿を生き生きと追いながら、失意に沈み、裏切りの中で暗殺されるサパタの半生を、マーロン・ブランド、アンソニー・クインなどの名優たちの熱演によって描いてゆきます。
メキシコ革命は、フランス革命などもそうであるように様々な勢力が台頭して成し遂げられてゆきます。
ディアス大統領の圧政と、ディアスと対立するフランシスコ・マデロのアメリカへの亡命。革命の立役者でもあったマデロとサパタの確執。また、大統領となったマデロを殺し、勢力を広げる反革命の旗手ビクトリアーノ・ウエルタ将軍。
ウエルタ政権を打倒するために樹立された様々な革命軍と、その集合体である護憲革命軍。
護憲革命軍北部師団を率いるフランシスコ・ヴィリャ(パンチョ・ヴィリャ)。
護憲革命軍の指導的立場であり、後にヴィリャやサパタと対立することになるベヌスティアーノ・カランサ。
しかし、映画「革命児サパタ」はメキシコ革命を詳しく知らなくても分かり易い内容になっています。
脚本を担当したのがノーベル文学賞作家ジョン・スタインベック。
「怒りの葡萄」「二十日鼠と人間」「エデンの東」など、人間の内面に深く踏み込んだ作風は「革命児サパタ」でも十分に発揮されていて、貧しさと栄光、愛と裏切り、報われることのない流血からの反抗といった、スタインベック調の生き生きとした人間ドラマが展開されていきます。
★★★★★
監督は「欲望という名の電車」の名匠エリア・カザン。
カザンというと、どうしてもハリウッドの赤狩りにともなう政治的背景が取りざたされてしまいますし、1998年に行われたアカデミー賞の授賞式で、映画界に対する長年の功労として「名誉賞」が与えられたとき、大勢の拍手の中で、一部からはブーイングが起き、ニック・ノルティ、エド・ハリスなどは憮然とした表情のまま、表彰を受けるカザンを見つめていたのがとても印象に残っています。
そういうこともありますが、「革命児サパタ」そのものは優れた映画だと思いますし、マーロン・ブランドはもちろん、サパタの兄ユーフェミオを演じ、助演男優賞を受賞したアンソニー・クインの粗野で豪快な役回り、戦い続けながらも報われることのない不遇の地位から革命の意義を見失い、弟であるサパタとの確執の芽を宿しながら殺されてしまう悲劇の男ユーフェミオは、最も人間くさい人間の典型であり、「革命児サパタ」の中で強烈な印象を残しました。
強烈な印象ということでは、反ディアス大統領派の勢力の中を小賢しく立ち回り、最後にはサパタを裏切ってしまうフェルナンド・アギーレを演じたジョセフ・ワイズマン。
「007/ドクター・ノオ」(1962年)では、悪役ノオ博士を演じて強烈な印象を残し、ドクター・ノオのイメージは1973年の「燃えよドラゴン」の悪役ミスター・ハンにそのまま受け継がれています。
ただ、映画としてはフェルナンド・アギーレの人間像がイマイチ分かりづらかったのが難点ですが、終盤のサパタ暗殺の場面は「俺たちに明日はない」(1968年)のラストにつながる壮絶なシーンでした。
しかし悲惨な結果として終わるのではなく、サパタの愛馬が山へ逃げかえり、英雄となったサパタが白馬の印象として人々の記憶に残ることを暗示したラストは秀逸でした。
追記
貧しい農民出身で文盲として描かれたエミリアーノ・サパタですが、実際には裕福な農場所有者の息子で、ブルジョア的エリートでもあったようですから当然ながら文盲ではなかったはず。
貧しい文盲としたのは、革命を成し遂げる原動力は下層に生きる農民階級であることを強調しようとしたのか、貧しい農民の中から生まれた英雄として親しみやすさを出そうとしたのか。
いずれにしても、文盲であることで、雲の上の英雄というよりは、民衆を代表する英雄として好感が持てたのはたしかです。
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2019年06月08日
映画「レヴェナント: 蘇えりし者」復讐するのは我か神か
「レヴェナント: 蘇えりし者」(The Revenant)
2015年アメリカ
監督アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ
原作マイケル・パンク
脚本マーク・L・スミス
アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ
撮影エマニュエル・ルベツキ
〈キャスト〉
レオナルド・ディカプリオ トム・ハーディ
第88回アカデミー賞監督賞/主演男優賞(レオナルド・ディカプリオ)
撮影賞受賞
19世紀初頭、アメリカ開拓時代の北西部。
入植者の白人と先住民諸部族との間に紛争の絶えなかったころ、極寒地帯を移動しながら狩猟を続ける毛皮ハンターの一団がいました。
ハンターの一人で、息子のホーク(フォレスト・グッドラック)と共に一団に加わっていたヒュー・グラス(レオナルド・ディカプリオ)は、狩猟の銃声を聞き付けた先住民の襲撃に遭い、多くの犠牲者を出しながら、残り少なくなったハンターの一団と共に命からがら船で逃げ伸びます。
ヘンリー(ドーナル・グリーソン)を隊長とする一行は、仲間のいる居住区へ向かおうとするのですが、行く手は険しい山岳地帯。
陸路をとるか、船で川を下るかでモメることになりますが、ガイドとしての知識と経験の豊富なグラスの意見に従い、船は危険だということで、陸路をとることになります。
先頭に立ち、少し先を歩いていたグラスは子熊と遭遇。
子熊の近くには親熊がいるもの。アッと思う間もなくグラスは親熊の襲撃を受けます。
それは熊の中でも最も性質が荒いとされるグリズリー(灰色熊、ヒグマの亜種)でした。
執拗なグリズリーの襲撃を受けたグラスは、肉をえぐられ、足の骨を折られ、生きているのが不思議なほどの重傷を負います。
瀕死の体を担がれながらグラスと一行は山を越えようとしますが、大自然の難路で、すでにグラスは一行の足手まといとなってしまっており、最早グラスの死は避けられないとみた隊長ヘンリーの提案によって、グラスの死を看取るようフィッツジェラルド(トム・ハーディ)に命じ、フィッツジェラルドとグラスの息子ホークと年若いジム(ウィル・ポールター)の三人を残し、グラスの死を見届けたうえで帰還するよう命じます。
かねてからグラスに敵意を抱いていたフィッツジェラルドは、自分たちを雇った毛皮商会の分け前もあり、ホークを殺し、グラスを置き去りにしてジムとともにその場を立ち去ります。
目の前で息子のホークを殺され、ひとり置きざりにされたグラスはフィッツジェラルドへの復讐の鬼と化し、苛酷な大自然の中、瀕死の体でのサバイバルが始まり、フィッツジェラルドとの死闘へと物語は展開されてゆきます。
あくまでも個人的な感想
正直なところ、個人的には賛否両論の混在する映画です。
まず、カメラが常に移動しているために落ち着きがなく、しかも広角レンズを多用してそれを動かしているから、とてもうるさく感じます。
ストーリー自体はシンプルな復讐物でありながら、ところどころ挿入される宗教観、毛皮の狩猟や乱獲における歴史的背景、また、グラスと先住民である彼の妻との関係なども映画全体を覆う芸術的思惑の中に溶かし込まれているため、見る側に訴えるというよりは監督の独りよがりな印象を受けました。
しかし、そういったマイナスの印象があった反面、本物を追求しようとする監督の意図と、登場する俳優たちの熱演、特にヒュー・グラスを演じたレオナルド・ディカプリオの役者魂には今さらながら驚かされました。
レオナルド・ディカプリオは「ボーイズ・ライフ」(1993年)のころから素晴らしい演技力のある子どもだと思っていたのですが、「タイタニック」(1997年)で一気にスターダムにのし上がってしまったのが、かえってこの人にとってはよくない結果になるんじゃないかと思っていました。
「レオ様」「レオ様」と呼ばれ始めて少年っぽさを失わないイメージが望まれていたようですから、大衆が望むイメージを保っていたら、いつまでも少年のようなディカプリオは大成できないだろうなあ、と思っていたのが「ギャング・オブ・ニューヨーク」(2002年)「キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン」(2002年)で徐々に変化を見せ始め、「アビエイター」(2004年)「ディパーテッド」(2006年)「ブラッド・ダイヤモンド」(2006年)で大人の男へと変貌を遂げたのはお見事。
ただ、「レヴェナント」では生肉を食い、生きた魚にかじりつくシーンは、なにもそこまでしなくても、とも思いましたが、そこまですることによって苛酷なサバイバルの現実が、より生々しく伝わってきたのもたしかです。
ピクピクと動いている生きた魚を食べるシーンでは、そばに焚き火が燃えているんだから、火であぶればいいんじゃないかと思いましたが、極寒の地方ではそのまま食べる習慣でもあったのか、そのままのほうが栄養価は高いらしいですから。
ちなみに私は生きたシラウオをそのまま食べる「シラウオの踊り食い」を経験したことがありますが、口の中でグニュグニュ動く気持ち悪さに閉口して、一度きりでやめたことがあります。
レオナルド・ディカプリオ、大した根性ですが、本物志向が強すぎて、より過激な方向へいかないかと多少心配になります。
個人的には作品の賛否が交錯する「レヴェナント: 蘇えりし者」ですが、大自然に真っ向から取り組んだ力強い映画であることに間違いはなく、カメラの動き過ぎをうるさく感じたことは上述しましたが、そのカメラがとらえた大自然の風景が圧巻であったのも事実です。
また、この映画のテーマでもあるのかな、と思われる、人間が生きることの執念。グリズリーに体をズタズタにされて死期の迫った人間が、苛酷な自然の中で、どうやって生き延びることができたのか、多少の誇張はあるにせよ、復讐という執念だけが命をつなぎ、研ぎ澄まされた命の炎は、死から再生への奇跡を生み出すことができるものであるということも考えさせられた映画でした。
2015年アメリカ
監督アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ
原作マイケル・パンク
脚本マーク・L・スミス
アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ
撮影エマニュエル・ルベツキ
〈キャスト〉
レオナルド・ディカプリオ トム・ハーディ
第88回アカデミー賞監督賞/主演男優賞(レオナルド・ディカプリオ)
撮影賞受賞
19世紀初頭、アメリカ開拓時代の北西部。
入植者の白人と先住民諸部族との間に紛争の絶えなかったころ、極寒地帯を移動しながら狩猟を続ける毛皮ハンターの一団がいました。
ハンターの一人で、息子のホーク(フォレスト・グッドラック)と共に一団に加わっていたヒュー・グラス(レオナルド・ディカプリオ)は、狩猟の銃声を聞き付けた先住民の襲撃に遭い、多くの犠牲者を出しながら、残り少なくなったハンターの一団と共に命からがら船で逃げ伸びます。
ヘンリー(ドーナル・グリーソン)を隊長とする一行は、仲間のいる居住区へ向かおうとするのですが、行く手は険しい山岳地帯。
陸路をとるか、船で川を下るかでモメることになりますが、ガイドとしての知識と経験の豊富なグラスの意見に従い、船は危険だということで、陸路をとることになります。
先頭に立ち、少し先を歩いていたグラスは子熊と遭遇。
子熊の近くには親熊がいるもの。アッと思う間もなくグラスは親熊の襲撃を受けます。
それは熊の中でも最も性質が荒いとされるグリズリー(灰色熊、ヒグマの亜種)でした。
執拗なグリズリーの襲撃を受けたグラスは、肉をえぐられ、足の骨を折られ、生きているのが不思議なほどの重傷を負います。
瀕死の体を担がれながらグラスと一行は山を越えようとしますが、大自然の難路で、すでにグラスは一行の足手まといとなってしまっており、最早グラスの死は避けられないとみた隊長ヘンリーの提案によって、グラスの死を看取るようフィッツジェラルド(トム・ハーディ)に命じ、フィッツジェラルドとグラスの息子ホークと年若いジム(ウィル・ポールター)の三人を残し、グラスの死を見届けたうえで帰還するよう命じます。
かねてからグラスに敵意を抱いていたフィッツジェラルドは、自分たちを雇った毛皮商会の分け前もあり、ホークを殺し、グラスを置き去りにしてジムとともにその場を立ち去ります。
目の前で息子のホークを殺され、ひとり置きざりにされたグラスはフィッツジェラルドへの復讐の鬼と化し、苛酷な大自然の中、瀕死の体でのサバイバルが始まり、フィッツジェラルドとの死闘へと物語は展開されてゆきます。
あくまでも個人的な感想
正直なところ、個人的には賛否両論の混在する映画です。
まず、カメラが常に移動しているために落ち着きがなく、しかも広角レンズを多用してそれを動かしているから、とてもうるさく感じます。
ストーリー自体はシンプルな復讐物でありながら、ところどころ挿入される宗教観、毛皮の狩猟や乱獲における歴史的背景、また、グラスと先住民である彼の妻との関係なども映画全体を覆う芸術的思惑の中に溶かし込まれているため、見る側に訴えるというよりは監督の独りよがりな印象を受けました。
しかし、そういったマイナスの印象があった反面、本物を追求しようとする監督の意図と、登場する俳優たちの熱演、特にヒュー・グラスを演じたレオナルド・ディカプリオの役者魂には今さらながら驚かされました。
レオナルド・ディカプリオは「ボーイズ・ライフ」(1993年)のころから素晴らしい演技力のある子どもだと思っていたのですが、「タイタニック」(1997年)で一気にスターダムにのし上がってしまったのが、かえってこの人にとってはよくない結果になるんじゃないかと思っていました。
「レオ様」「レオ様」と呼ばれ始めて少年っぽさを失わないイメージが望まれていたようですから、大衆が望むイメージを保っていたら、いつまでも少年のようなディカプリオは大成できないだろうなあ、と思っていたのが「ギャング・オブ・ニューヨーク」(2002年)「キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン」(2002年)で徐々に変化を見せ始め、「アビエイター」(2004年)「ディパーテッド」(2006年)「ブラッド・ダイヤモンド」(2006年)で大人の男へと変貌を遂げたのはお見事。
ただ、「レヴェナント」では生肉を食い、生きた魚にかじりつくシーンは、なにもそこまでしなくても、とも思いましたが、そこまですることによって苛酷なサバイバルの現実が、より生々しく伝わってきたのもたしかです。
ピクピクと動いている生きた魚を食べるシーンでは、そばに焚き火が燃えているんだから、火であぶればいいんじゃないかと思いましたが、極寒の地方ではそのまま食べる習慣でもあったのか、そのままのほうが栄養価は高いらしいですから。
ちなみに私は生きたシラウオをそのまま食べる「シラウオの踊り食い」を経験したことがありますが、口の中でグニュグニュ動く気持ち悪さに閉口して、一度きりでやめたことがあります。
レオナルド・ディカプリオ、大した根性ですが、本物志向が強すぎて、より過激な方向へいかないかと多少心配になります。
個人的には作品の賛否が交錯する「レヴェナント: 蘇えりし者」ですが、大自然に真っ向から取り組んだ力強い映画であることに間違いはなく、カメラの動き過ぎをうるさく感じたことは上述しましたが、そのカメラがとらえた大自然の風景が圧巻であったのも事実です。
また、この映画のテーマでもあるのかな、と思われる、人間が生きることの執念。グリズリーに体をズタズタにされて死期の迫った人間が、苛酷な自然の中で、どうやって生き延びることができたのか、多少の誇張はあるにせよ、復讐という執念だけが命をつなぎ、研ぎ澄まされた命の炎は、死から再生への奇跡を生み出すことができるものであるということも考えさせられた映画でした。
2019年06月05日
映画「さらば冬のかもめ」閉塞感への反抗
「さらば冬のかもめ」(The Last Detail)
1973年アメリカ
監督ハル・アシュビー
脚本ロバート・タウン
原作ダリル・ポニクサン
撮影マイケル・チャップマン
〈キャスト〉
ジャック・ニコルソン ランディ・クエイド
オーティス・ヤング キャロル・ケイン
カンヌ国際映画祭主演男優賞受賞(ジャック・ニコルソン)
1969年の「イージー・ライダー」で頭角を現したジャック・ニコルソンが「ファイブ・イージー・ピーセス」(1970年)「愛の狩人」(1971年)などを経てカンヌ国際映画祭で主演男優賞を射止めたアメリカン・ニューシネマの秀作。
アメリカ東部バージニア州、世界最大を誇るノーフォーク海軍基地。
海軍下士官バダスキー(ジャック・ニコルソン)とマルホール(オーティス・ヤング)の二人に、罪を犯した新兵をポーツマス海軍刑務所に護送する任務が下ります。
護送の任務などヤル気のなかったバダスキーでしたが、護送期間一週間分の日当が支給されるということで、サッサと護送をすませて残りの日当を遊びに使おうと企んだ二人は、意気揚々と護送任務にあたります。
護送される新兵は8年の刑期を言い渡された未成年のメドウズ(ランディ・クエイド)。
大柄な体格に似合わず気の弱そうなメドウズは、基地に設置されていた募金箱の中から40ドルを盗んだために8年の刑期をポーツマス海軍刑務所で送ることになっていました。
「でも本当は盗んじゃいないんだ」メドウズは言います。「盗もうとしただけなんだ」
「…それで8年か」バダスキーは唖然とします。
メドウズが手を付けようとした募金箱は、慈善家である司令官夫人が設置したもので、そのためにことさら犯罪としての重大性を帯びたともいえますが、わずか40ドルのために貴重な青年期を刑務所で送らなければならないことになったメドウズにバダスキーは同情を覚えます。
メドウズへの哀れみと、軍隊という組織への憤りがバダスキーの中で広がり、ポーツマスへ向かう前に途中下車をして、青年期の楽しみや人生をメドウズに教えようとします。
気の弱いメドウズに、自分の主張を通させる強さを教えようと、レストランでは注文とは違った食事を出されたメドウズに、注文を変えさせろ、と迫ったり、酒場では、未成年には酒は出せないと言うバーテンダーに危うく銃で反撃しようとしたり。
そんなバダスキーに振り回された形のマルホールは、
「大物ぶるな!」とバダスキーに一喝。
シュンとなったバダスキーでしたが、その後も三人で、女を知らないメドウズのために売春婦(キャロル・ケイン)を世話したり、ホテルで酔いつぶれたり、海兵隊員相手にケンカをしたり、真冬のニューヨークやボストンでいろいろな体験をしながらポーツマスへの旅を続けます。
残り少なくなった時間を雪の舞う公園でバーベキューを始める三人。
焚き木を拾って、ニューヨークの日蓮正宗(にちれんしょうしゅう)の会場で覚えた「南無妙法蓮華経」(ナンミョウホーレンゲキョー)の題目を唱えながら焚き木を折り、その場を立ち去ろうとするメドウズ。
メドウズの逃走に気づいたバダスキーとマルホールは、やっとのことでメドウズを取り押さえ、ポーツマス海軍刑務所へメドウズを引き渡します。
護送の任務を終えたバダスキーとマルホールには、もうメドウズのことは頭になく、明日から始まる海軍の生活が待っているのです。
★★★★★
60年代の後半から始まったアメリカン・ニューシネマの流れは、「俺たちに明日はない」(1967年)「卒業」(1967年)「イージー・ライダー」(1969年)「明日に向かって撃て!」(1969年)など名作や傑作を数多く残しました。
そういった中で、どちらかといえば地味なロードムービーの印象があったためか「さらば冬のかもめ」は並みいる傑作群に比して一歩後ろへ退いている感がありました。
なし崩し的に始まったベトナム戦争が泥沼化してアメリカ国内で反戦運動が高まったことを背景に、それまでは夢や正義、力強さを語ることの多かったアメリカ映画は、体制への反抗、身動きの取れない日常からの逃避、無気力な若者など、人間性や社会の負の側面を追求した映画が主流となっていきます。
「さらば冬のかもめ」にもそういった、もがいてもどうにもならない日常が描かれ、それは、メドウズの食事や、酒場でのやり取りに見られるバダスキーの反抗心剝き出しの態度など、変えようとしても変えることのできない組織体制への不満が噴き出した反抗であり、弱さから強さへの変貌を遂げたかのように見えたメドウズも結局は刑務所送りとなってしまう無力感と閉塞感が映画のクライマックスを覆います。
しかし、「さらば冬のかもめ」には、やりきれない現実というよりは、むしろ爽やかな後味が残るのは、もがきながらも精一杯反抗しようとする若者の姿が、ある種の共感を呼ぶためだと思います。
また、閉塞感の中で生きてゆくしかない現実を笑い飛ばしてしまおうとするかのようなラストシーンは、自虐的なほろ苦さと同時に国家防衛の任に当たるささやかな誇りのようなものも垣間見えた気がしました。
粗野ではあるが情に厚い一面を持ったバダスキー。現実的で常識家のマルホール。体だけは人一倍大きい割に気の小さいメドウズ。
三者三様の個性を持ったドタバタ珍道中的なロードムービーでありながら、名匠マイケル・チャップマンが撮影監督に当たったワシントン、ニューヨーク、ボストンそれぞれの真冬の風景は映画に物語の陰影と奥行きを与えています。
原題は「The Last Detail」。そのまま訳せば“最後の詳細”ですが、Detailには軍事用語で“分遣隊”の意味があるらしく、映画では“任務”と訳されていたようです。
「さらば冬のかもめ」という邦題はよく出来ていると思います。
どこからかもめのイメージが出たのか、バダスキーたち三人が水兵服を着ていることから「かもめの水兵さん」のイメージにつながったのか、当時はリチャード・バックの「かもめのジョナサン」が世界的ベストセラーになったことからの連想なのか、それはともかく、「さらば冬のかもめ」という邦題には香り高い文学的なイメージが広がります。
1973年アメリカ
監督ハル・アシュビー
脚本ロバート・タウン
原作ダリル・ポニクサン
撮影マイケル・チャップマン
〈キャスト〉
ジャック・ニコルソン ランディ・クエイド
オーティス・ヤング キャロル・ケイン
カンヌ国際映画祭主演男優賞受賞(ジャック・ニコルソン)
1969年の「イージー・ライダー」で頭角を現したジャック・ニコルソンが「ファイブ・イージー・ピーセス」(1970年)「愛の狩人」(1971年)などを経てカンヌ国際映画祭で主演男優賞を射止めたアメリカン・ニューシネマの秀作。
アメリカ東部バージニア州、世界最大を誇るノーフォーク海軍基地。
海軍下士官バダスキー(ジャック・ニコルソン)とマルホール(オーティス・ヤング)の二人に、罪を犯した新兵をポーツマス海軍刑務所に護送する任務が下ります。
護送の任務などヤル気のなかったバダスキーでしたが、護送期間一週間分の日当が支給されるということで、サッサと護送をすませて残りの日当を遊びに使おうと企んだ二人は、意気揚々と護送任務にあたります。
護送される新兵は8年の刑期を言い渡された未成年のメドウズ(ランディ・クエイド)。
大柄な体格に似合わず気の弱そうなメドウズは、基地に設置されていた募金箱の中から40ドルを盗んだために8年の刑期をポーツマス海軍刑務所で送ることになっていました。
「でも本当は盗んじゃいないんだ」メドウズは言います。「盗もうとしただけなんだ」
「…それで8年か」バダスキーは唖然とします。
メドウズが手を付けようとした募金箱は、慈善家である司令官夫人が設置したもので、そのためにことさら犯罪としての重大性を帯びたともいえますが、わずか40ドルのために貴重な青年期を刑務所で送らなければならないことになったメドウズにバダスキーは同情を覚えます。
メドウズへの哀れみと、軍隊という組織への憤りがバダスキーの中で広がり、ポーツマスへ向かう前に途中下車をして、青年期の楽しみや人生をメドウズに教えようとします。
気の弱いメドウズに、自分の主張を通させる強さを教えようと、レストランでは注文とは違った食事を出されたメドウズに、注文を変えさせろ、と迫ったり、酒場では、未成年には酒は出せないと言うバーテンダーに危うく銃で反撃しようとしたり。
そんなバダスキーに振り回された形のマルホールは、
「大物ぶるな!」とバダスキーに一喝。
シュンとなったバダスキーでしたが、その後も三人で、女を知らないメドウズのために売春婦(キャロル・ケイン)を世話したり、ホテルで酔いつぶれたり、海兵隊員相手にケンカをしたり、真冬のニューヨークやボストンでいろいろな体験をしながらポーツマスへの旅を続けます。
残り少なくなった時間を雪の舞う公園でバーベキューを始める三人。
焚き木を拾って、ニューヨークの日蓮正宗(にちれんしょうしゅう)の会場で覚えた「南無妙法蓮華経」(ナンミョウホーレンゲキョー)の題目を唱えながら焚き木を折り、その場を立ち去ろうとするメドウズ。
メドウズの逃走に気づいたバダスキーとマルホールは、やっとのことでメドウズを取り押さえ、ポーツマス海軍刑務所へメドウズを引き渡します。
護送の任務を終えたバダスキーとマルホールには、もうメドウズのことは頭になく、明日から始まる海軍の生活が待っているのです。
★★★★★
60年代の後半から始まったアメリカン・ニューシネマの流れは、「俺たちに明日はない」(1967年)「卒業」(1967年)「イージー・ライダー」(1969年)「明日に向かって撃て!」(1969年)など名作や傑作を数多く残しました。
そういった中で、どちらかといえば地味なロードムービーの印象があったためか「さらば冬のかもめ」は並みいる傑作群に比して一歩後ろへ退いている感がありました。
なし崩し的に始まったベトナム戦争が泥沼化してアメリカ国内で反戦運動が高まったことを背景に、それまでは夢や正義、力強さを語ることの多かったアメリカ映画は、体制への反抗、身動きの取れない日常からの逃避、無気力な若者など、人間性や社会の負の側面を追求した映画が主流となっていきます。
「さらば冬のかもめ」にもそういった、もがいてもどうにもならない日常が描かれ、それは、メドウズの食事や、酒場でのやり取りに見られるバダスキーの反抗心剝き出しの態度など、変えようとしても変えることのできない組織体制への不満が噴き出した反抗であり、弱さから強さへの変貌を遂げたかのように見えたメドウズも結局は刑務所送りとなってしまう無力感と閉塞感が映画のクライマックスを覆います。
しかし、「さらば冬のかもめ」には、やりきれない現実というよりは、むしろ爽やかな後味が残るのは、もがきながらも精一杯反抗しようとする若者の姿が、ある種の共感を呼ぶためだと思います。
また、閉塞感の中で生きてゆくしかない現実を笑い飛ばしてしまおうとするかのようなラストシーンは、自虐的なほろ苦さと同時に国家防衛の任に当たるささやかな誇りのようなものも垣間見えた気がしました。
粗野ではあるが情に厚い一面を持ったバダスキー。現実的で常識家のマルホール。体だけは人一倍大きい割に気の小さいメドウズ。
三者三様の個性を持ったドタバタ珍道中的なロードムービーでありながら、名匠マイケル・チャップマンが撮影監督に当たったワシントン、ニューヨーク、ボストンそれぞれの真冬の風景は映画に物語の陰影と奥行きを与えています。
原題は「The Last Detail」。そのまま訳せば“最後の詳細”ですが、Detailには軍事用語で“分遣隊”の意味があるらしく、映画では“任務”と訳されていたようです。
「さらば冬のかもめ」という邦題はよく出来ていると思います。
どこからかもめのイメージが出たのか、バダスキーたち三人が水兵服を着ていることから「かもめの水兵さん」のイメージにつながったのか、当時はリチャード・バックの「かもめのジョナサン」が世界的ベストセラーになったことからの連想なのか、それはともかく、「さらば冬のかもめ」という邦題には香り高い文学的なイメージが広がります。
2019年05月14日
映画「ミッドナイト・エクスプレス」出来心が生んだ絶望と狂気の世界
「ミッドナイト・エクスプレス」
(Midnight Express) 1978年アメリカ
監督アラン・パーカー
脚本オリヴァー・ストーン
原作ビリー・ヘイズ
音楽ジョルジオ・モロダー
撮影マイケル・セレシン
〈キャスト〉
ブラッド・デイビス アイリーン・ミラクル
ジョン・ハート ランディ・クエイド
アカデミー賞/脚色賞オリヴァー・ストーン 作曲賞受賞
ゴールデングローブ賞/作品賞/助演男優賞ジョン・ハート
描かれていくのは国家と個人。何をどう叫ぼうが国家という巨大な集合体の中では個人の力はあまりにも小さく、非力でしかない。
恋人のスーザン(アイリーン・ミラクル)と二人でトルコへ観光旅行に出かけたアメリカ青年ビリー(ブラッド・デイビス)。
帰国にあたって、ビリーはハシシ(麻薬の一種)を、見つからなければいいや、といった軽い気持ちで本国へ持ち込もうとします。
ビリーの腹に巻き付けられたハシシは税関を通り抜け、何ごともなければそのまま空港から飛び立って成功したのでしょうが、ここ数日のトルコではテロが相次ぎ、飛行場はものものしい警備体制が敷かれ、飛行機に搭乗する者はボディチェックを受けなければなりません。
自業自得といえますが、ハシシは発見されてビリーは逮捕され、スーザンだけは搭乗を許されて帰国します。
ビリーは刑務所送りとなるのですが、問題はここからで、時は1970年、ビリーの本国アメリカはリチャード・ニクソン政権下。
トルコとの国交を正常化していないアメリカには犯人引き渡し条例がなく、ビリーはトルコの法律によって禁固4年の刑期を言い渡されます。
劣悪な環境の刑務所の中でビリーは模範囚として3年を耐え、ようやく釈放の日が近づいたと思ったのもつかの間、麻薬撲滅を政策として掲げるトルコ政府は、外国人に対して厳しい処罰で臨む方針に切り替え、ビリーはその見せしめのため裁判のやり直しになり、30年の刑期に延長。さらに終身刑へと延長されます。
暴力と絶望の中で廃人同様となったビリーに残された最後の手段は「深夜特急(ミッドナイト・エクスプレス)=脱獄」に乗ることだけでした。
抑圧された性
原作者ビリー・ヘイズの実体験を基にしたこの映画は、「エンゼル・ハート」「ミシシッピー・バーニング」などの鬼才アラン・パーカーの持つ湿った空気感と猥雑さあふれる生活の熱気に満ち、特に、トルコ政府から抗議もあったといわれる、悪臭すら漂ってきそうな民族のごった煮のような街並みの描写は、主人公ビリーの悪夢をそのまま現実化したかのようなカオスの世界を描き出しています。
ちょっとした出来心で禁固4年の実刑を受けるハメになってしまう怖さ、言葉の通じない外国での裁判とゆがんだ司法制度、さらには個人の人権は無視され、国家の政策の中で暗黒の人生に落ち込む絶望感と刑務所内に蔓延する暴力はビリーを廃人同様にしてしまうのですが、その中で、人間としてのひとつの問題も描かれています。
それは、抑圧された性の問題です。
★★★★★
日本の話で、たしか戦前だったか戦後だったかに共産党の幹部が政治犯として逮捕され、長い期間を拘置所の中で暮らして、その後釈放された彼は、当時の話をある大学で学生相手に講演をしたそうです。途中、一人の学生がこんな質問をしました。
「そのような中で、性的な欲求についてはどのように処理されていたのですか」
質問を受けた彼は沈黙し、さりげなく話題を転じたということです。
人間にとって性的な欲望は切実な問題です。
ことに刑務所などにおける外界から隔絶された世界では、それは顕著に表れると思います。
「アラビアのロレンス」や「スケアクロウ」などでもチラッと描かれていますし、様々な映画では興味本位の描き方ではあっても、取り上げられることは多いように思います。
「ミッドナイト・エクスプレス」の後半。
廃人同様になったビリーの元に恋人のスーザンが面会にやって来ます。
ガラス越しの会話。
虚ろな表情でビリーはスーザンに服を脱いでくれるよう頼みます。
戸惑いながらもスーザンは前を開き、形のいい乳房をビリーの目の前に。
ビリーはスーザンの胸に触れようとしますが、ガラス越しなので触ることはできません。
虚ろな表情のまま、ビリーは自慰行為を始めるのですが、このあたりは見ていて切ないです。
精神は病んでも人間の持つ本能的な欲望だけは衰えず、それがかえって痛ましい姿としてさらけ出されます。
「プラトーン」「7月4日に生まれて」でアカデミー賞の監督賞を受賞している社会派のオリヴァー・ストーンの脚本と、監督のアラン・パーカーの描く猥雑きわまりないトルコの街並みや刑務所での狂気の世界。
ふとした出来心で絶望の淵へ追いやられる怖さを描いた傑作です。
(Midnight Express) 1978年アメリカ
監督アラン・パーカー
脚本オリヴァー・ストーン
原作ビリー・ヘイズ
音楽ジョルジオ・モロダー
撮影マイケル・セレシン
〈キャスト〉
ブラッド・デイビス アイリーン・ミラクル
ジョン・ハート ランディ・クエイド
アカデミー賞/脚色賞オリヴァー・ストーン 作曲賞受賞
ゴールデングローブ賞/作品賞/助演男優賞ジョン・ハート
描かれていくのは国家と個人。何をどう叫ぼうが国家という巨大な集合体の中では個人の力はあまりにも小さく、非力でしかない。
恋人のスーザン(アイリーン・ミラクル)と二人でトルコへ観光旅行に出かけたアメリカ青年ビリー(ブラッド・デイビス)。
帰国にあたって、ビリーはハシシ(麻薬の一種)を、見つからなければいいや、といった軽い気持ちで本国へ持ち込もうとします。
ビリーの腹に巻き付けられたハシシは税関を通り抜け、何ごともなければそのまま空港から飛び立って成功したのでしょうが、ここ数日のトルコではテロが相次ぎ、飛行場はものものしい警備体制が敷かれ、飛行機に搭乗する者はボディチェックを受けなければなりません。
自業自得といえますが、ハシシは発見されてビリーは逮捕され、スーザンだけは搭乗を許されて帰国します。
ビリーは刑務所送りとなるのですが、問題はここからで、時は1970年、ビリーの本国アメリカはリチャード・ニクソン政権下。
トルコとの国交を正常化していないアメリカには犯人引き渡し条例がなく、ビリーはトルコの法律によって禁固4年の刑期を言い渡されます。
劣悪な環境の刑務所の中でビリーは模範囚として3年を耐え、ようやく釈放の日が近づいたと思ったのもつかの間、麻薬撲滅を政策として掲げるトルコ政府は、外国人に対して厳しい処罰で臨む方針に切り替え、ビリーはその見せしめのため裁判のやり直しになり、30年の刑期に延長。さらに終身刑へと延長されます。
暴力と絶望の中で廃人同様となったビリーに残された最後の手段は「深夜特急(ミッドナイト・エクスプレス)=脱獄」に乗ることだけでした。
抑圧された性
原作者ビリー・ヘイズの実体験を基にしたこの映画は、「エンゼル・ハート」「ミシシッピー・バーニング」などの鬼才アラン・パーカーの持つ湿った空気感と猥雑さあふれる生活の熱気に満ち、特に、トルコ政府から抗議もあったといわれる、悪臭すら漂ってきそうな民族のごった煮のような街並みの描写は、主人公ビリーの悪夢をそのまま現実化したかのようなカオスの世界を描き出しています。
ちょっとした出来心で禁固4年の実刑を受けるハメになってしまう怖さ、言葉の通じない外国での裁判とゆがんだ司法制度、さらには個人の人権は無視され、国家の政策の中で暗黒の人生に落ち込む絶望感と刑務所内に蔓延する暴力はビリーを廃人同様にしてしまうのですが、その中で、人間としてのひとつの問題も描かれています。
それは、抑圧された性の問題です。
★★★★★
日本の話で、たしか戦前だったか戦後だったかに共産党の幹部が政治犯として逮捕され、長い期間を拘置所の中で暮らして、その後釈放された彼は、当時の話をある大学で学生相手に講演をしたそうです。途中、一人の学生がこんな質問をしました。
「そのような中で、性的な欲求についてはどのように処理されていたのですか」
質問を受けた彼は沈黙し、さりげなく話題を転じたということです。
人間にとって性的な欲望は切実な問題です。
ことに刑務所などにおける外界から隔絶された世界では、それは顕著に表れると思います。
「アラビアのロレンス」や「スケアクロウ」などでもチラッと描かれていますし、様々な映画では興味本位の描き方ではあっても、取り上げられることは多いように思います。
「ミッドナイト・エクスプレス」の後半。
廃人同様になったビリーの元に恋人のスーザンが面会にやって来ます。
ガラス越しの会話。
虚ろな表情でビリーはスーザンに服を脱いでくれるよう頼みます。
戸惑いながらもスーザンは前を開き、形のいい乳房をビリーの目の前に。
ビリーはスーザンの胸に触れようとしますが、ガラス越しなので触ることはできません。
虚ろな表情のまま、ビリーは自慰行為を始めるのですが、このあたりは見ていて切ないです。
精神は病んでも人間の持つ本能的な欲望だけは衰えず、それがかえって痛ましい姿としてさらけ出されます。
「プラトーン」「7月4日に生まれて」でアカデミー賞の監督賞を受賞している社会派のオリヴァー・ストーンの脚本と、監督のアラン・パーカーの描く猥雑きわまりないトルコの街並みや刑務所での狂気の世界。
ふとした出来心で絶望の淵へ追いやられる怖さを描いた傑作です。
2019年04月27日
映画「陽のあたる場所」豊かさを求めた青年の恋と破滅
「陽のあたる場所」(A Place in the Sun)
1951年アメリカ
監督ジョージ・スティーヴンス
原作セオドア・ドライサー
脚本マイケル・ウィルソン
ハリー・ブラウン
撮影ウィリアム・C・メラー
音楽フランツ・ワックスマン
〈キャスト〉
モンゴメリー・クリフト エリザベス・テイラー
シェリー・ウィンタース
第24回アカデミー賞/監督賞/撮影賞/脚色賞/作曲賞/他6部門受賞
伝道師の母親と二人きりの貧しい生活を送っていたジョージ・イーストマン(モンゴメリー・クリフト)は、水着工場を経営している伯父のチャールズ・イーストマンと偶然に出会い、伯父の会社に雇われることになります。
単調な流れ作業の仕事を与えられたジョージでしたが、そこで一緒に働くアリス・トリップ(シェリー・ウィンタース)と知り合い、社内恋愛は禁じられてはいましたが、お互いに惹かれあった二人は、ある日、アリスの部屋で一夜を過ごすことになります。
そんな中、伯父の邸宅のパーティーに招かれたジョージは、美しい令嬢アンジェラ・ヴィッカース(エリザベス・テイラー)と出会い、美貌と富と知性を備えたアンジェラにジョージは惹かれ、またアンジェラもジョージの魅力に惹かれて、二人は恋に落ちてゆきます。
アンジェラとの結婚を夢見るジョージでしたが、そこへアリスの妊娠が知らされ、結婚を迫るアリスに、暗く貧しい将来の生活への恐怖を感じたジョージは、一方でアンジェラの美貌と富を永遠に失うことを恐れ、夏の湖にはボートの転覆事故が多いことを知り、ボートの転覆を装ってアリスを殺害しようと考えます。
セオドア・ドライサーの長編小説「アメリカの悲劇」を原作としたこの映画は、原作の持つ物質主義、資本主義に代表されるアメリカ社会の暗い一面を糾弾した内容とは方向を変え、貧しい青年の恋愛を軸に、富を追い求めながらも、結局は破滅に至らざるを得なかった青年の悲劇を描いた名作です。
若さというものは過(あやま)ちを犯しやすく、とりわけ異性に対する性欲、男性であれば女性に対する性的な欲求は、避妊を考えることなく欲望に訴えた場合、望むことのない妊娠という重大な過失につながってしまいます。
ジョージ・イーストマンがアリス・トリップに接近したのは手軽な恋愛遊戯、平たく言ってしまえば性的欲望を満たす相手としてでした。
もちろん結婚の意志など初めからなく、性欲を満たせばそれでよかったのです。
しかしそれはアリスの心を傷つけ、死に追いやってしまう結果となったことで(アリス一人ではなく、お腹の子どもも含めれば二人の死)、たとえそれが偶然の事故から派生したものであったとしてもアリスの殺害を考えていたことは事実なのだからと、ジョージは死刑を受け入れてゆきます。
魅力と白熱の演技陣
ドライサーの「アメリカの悲劇」の主人公クライド(「陽のあたる場所」ではジョージ)は周囲の状況にうまく対応できず、決断力に乏しい未熟さゆえに破滅にいたるのですが、そういった主人公をモンゴメリー・クリフトは完璧に表現。
特に湖に乗り出したボートの中でアリス殺害を苦悩する表情は、白黒画面の陰影の効果もあって緊張感が極度に高まった名シーンでした。
シェリー・ウィンタースは後に「ロリータ」(1962年)で、ハンバート教授に強く惹かれながら、教授は娘のドロレスに心を奪われていることを知って絶望し、事故死をしてしまうという、アリスと似たような役どころで強い印象を残していますから、日陰で苦悩する女性役がハマります。
「ポセイドン・アドベンチャー」(1972年)では強烈な個性派俳優に混じって、泳ぎの達者なオバさん役で大きな存在感を見せてくれました。
美女の代名詞としてハリウッドに君臨したエリザベス・テイラーはジョージを魅惑する女性アンジェラとして、暗く重々しい「陽のあたる場所」にあって、まさに陽のあたっている明るい大輪の花のような存在感を放っていました。
そして、松葉づえをつきながらジョージの犯罪に鋭く迫る迫真の演技で強い印象を残した地方検事フランク・マーロウのレイモンド・バー。
テレビシリーズ「鬼警部アイアンサイド」では、車椅子に乗りながら犯罪に立ち向かうサンフランシスコ市警の刑事部長の姿は日本でも大きな話題になりました。
原作と映画化の挟間で
「アメリカの悲劇」は1931年に「嘆きの天使」「モロッコ」などの名匠ジョセフ・フォン・スタンバーグ監督によって映画化されましたが、原作を生かしきれずメロドラマに傾き過ぎたこともあってセオドア・ドライサーの怒りを買い、失敗作とされたこともあったのでしょう、その反省からか「陽のあたる場所」では題名・登場人物の名前もすべて変更して、独立した恋愛映画として再映画化したことが良かったのだと思います。
なお、原作の「アメリカの悲劇」を読んでいると、主人公が湖での殺人のあと、森の中を逃亡するのですが、唐突に現れた保安官に殺人犯として捕まってしまいます。
主人公の逃走経路や、なぜ彼が殺人犯として追跡されていたのかは説明のないまま、裁判となってしまうのですが、映画「陽のあたる場所」ではそのあたりがキッチリと説明されていて、理解しやすい展開となっています。
ドライサーは犯罪推理はあまり問題にせず、あくまでも主人公が犯した罪と、それを取り巻くアメリカ社会を描くことに重きを置いたようです。
1951年アメリカ
監督ジョージ・スティーヴンス
原作セオドア・ドライサー
脚本マイケル・ウィルソン
ハリー・ブラウン
撮影ウィリアム・C・メラー
音楽フランツ・ワックスマン
〈キャスト〉
モンゴメリー・クリフト エリザベス・テイラー
シェリー・ウィンタース
第24回アカデミー賞/監督賞/撮影賞/脚色賞/作曲賞/他6部門受賞
伝道師の母親と二人きりの貧しい生活を送っていたジョージ・イーストマン(モンゴメリー・クリフト)は、水着工場を経営している伯父のチャールズ・イーストマンと偶然に出会い、伯父の会社に雇われることになります。
単調な流れ作業の仕事を与えられたジョージでしたが、そこで一緒に働くアリス・トリップ(シェリー・ウィンタース)と知り合い、社内恋愛は禁じられてはいましたが、お互いに惹かれあった二人は、ある日、アリスの部屋で一夜を過ごすことになります。
そんな中、伯父の邸宅のパーティーに招かれたジョージは、美しい令嬢アンジェラ・ヴィッカース(エリザベス・テイラー)と出会い、美貌と富と知性を備えたアンジェラにジョージは惹かれ、またアンジェラもジョージの魅力に惹かれて、二人は恋に落ちてゆきます。
アンジェラとの結婚を夢見るジョージでしたが、そこへアリスの妊娠が知らされ、結婚を迫るアリスに、暗く貧しい将来の生活への恐怖を感じたジョージは、一方でアンジェラの美貌と富を永遠に失うことを恐れ、夏の湖にはボートの転覆事故が多いことを知り、ボートの転覆を装ってアリスを殺害しようと考えます。
セオドア・ドライサーの長編小説「アメリカの悲劇」を原作としたこの映画は、原作の持つ物質主義、資本主義に代表されるアメリカ社会の暗い一面を糾弾した内容とは方向を変え、貧しい青年の恋愛を軸に、富を追い求めながらも、結局は破滅に至らざるを得なかった青年の悲劇を描いた名作です。
若さというものは過(あやま)ちを犯しやすく、とりわけ異性に対する性欲、男性であれば女性に対する性的な欲求は、避妊を考えることなく欲望に訴えた場合、望むことのない妊娠という重大な過失につながってしまいます。
ジョージ・イーストマンがアリス・トリップに接近したのは手軽な恋愛遊戯、平たく言ってしまえば性的欲望を満たす相手としてでした。
もちろん結婚の意志など初めからなく、性欲を満たせばそれでよかったのです。
しかしそれはアリスの心を傷つけ、死に追いやってしまう結果となったことで(アリス一人ではなく、お腹の子どもも含めれば二人の死)、たとえそれが偶然の事故から派生したものであったとしてもアリスの殺害を考えていたことは事実なのだからと、ジョージは死刑を受け入れてゆきます。
魅力と白熱の演技陣
ドライサーの「アメリカの悲劇」の主人公クライド(「陽のあたる場所」ではジョージ)は周囲の状況にうまく対応できず、決断力に乏しい未熟さゆえに破滅にいたるのですが、そういった主人公をモンゴメリー・クリフトは完璧に表現。
特に湖に乗り出したボートの中でアリス殺害を苦悩する表情は、白黒画面の陰影の効果もあって緊張感が極度に高まった名シーンでした。
シェリー・ウィンタースは後に「ロリータ」(1962年)で、ハンバート教授に強く惹かれながら、教授は娘のドロレスに心を奪われていることを知って絶望し、事故死をしてしまうという、アリスと似たような役どころで強い印象を残していますから、日陰で苦悩する女性役がハマります。
「ポセイドン・アドベンチャー」(1972年)では強烈な個性派俳優に混じって、泳ぎの達者なオバさん役で大きな存在感を見せてくれました。
美女の代名詞としてハリウッドに君臨したエリザベス・テイラーはジョージを魅惑する女性アンジェラとして、暗く重々しい「陽のあたる場所」にあって、まさに陽のあたっている明るい大輪の花のような存在感を放っていました。
そして、松葉づえをつきながらジョージの犯罪に鋭く迫る迫真の演技で強い印象を残した地方検事フランク・マーロウのレイモンド・バー。
テレビシリーズ「鬼警部アイアンサイド」では、車椅子に乗りながら犯罪に立ち向かうサンフランシスコ市警の刑事部長の姿は日本でも大きな話題になりました。
原作と映画化の挟間で
「アメリカの悲劇」は1931年に「嘆きの天使」「モロッコ」などの名匠ジョセフ・フォン・スタンバーグ監督によって映画化されましたが、原作を生かしきれずメロドラマに傾き過ぎたこともあってセオドア・ドライサーの怒りを買い、失敗作とされたこともあったのでしょう、その反省からか「陽のあたる場所」では題名・登場人物の名前もすべて変更して、独立した恋愛映画として再映画化したことが良かったのだと思います。
なお、原作の「アメリカの悲劇」を読んでいると、主人公が湖での殺人のあと、森の中を逃亡するのですが、唐突に現れた保安官に殺人犯として捕まってしまいます。
主人公の逃走経路や、なぜ彼が殺人犯として追跡されていたのかは説明のないまま、裁判となってしまうのですが、映画「陽のあたる場所」ではそのあたりがキッチリと説明されていて、理解しやすい展開となっています。
ドライサーは犯罪推理はあまり問題にせず、あくまでも主人公が犯した罪と、それを取り巻くアメリカ社会を描くことに重きを置いたようです。
2019年04月20日
映画「汚名」ミステリーがからむ大人のラブロマンス
「汚名」(Notorious) 1946年 アメリカ
監督アルフレッド・ヒッチコック
脚本ベン・ヘクト
撮影テッド・テズラフ
〈キャスト〉
ケーリー・グラント イングリッド・バーグマン
クロード・レインズ
ひとりの男がスパイ容疑で裁判にかけられ、有罪を宣告されます。その娘アリシア・ハバーマン(イングリッド・バーグマン)は父親の愛国心を信じる一方、スパイの娘として社会から非難の目を向けられることになります。
やり場のない悲しみや怒りを紛らすために開いたパーティーで飲んだくれてしまったアリシアでしたが、そこで物静かに周囲の喧騒を気にすることなく酒を飲んでいるひとりの男に心を惹かれます。
その男デブリン(ケーリー・グラント)はスパイ組織の全容をつかむため、スパイ容疑で有罪となったハバーマンの娘アリシアに接近していたFBI捜査官で、父親の汚名を晴らすため力を貸してほしいとアリシアに協力を要請します。
一時はデブリンに対して憎しみの目を向けていたアリシアでしたが、二人はいつしか惹かれあう仲になり、きらめく恋に身を任せながら、アリシアは秘密組織の陰謀の渦中へと飛び込んでゆくことになります。
しかし、アリシアとデブリンの恋は、組織を束ねるアレクサンダー・セバスチャン(クロード・レインズ)に近づくにつれ、セバスチャンとの結婚を余儀なくされたアリシアの犠牲によって破局を迎えることになります。
恋と任務を割り切ったアリシアとデブリンは、組織がウランを大量に集めていることを突き止めますが、アリシアがFBIのスパイだと気づいたセバスチャンは、アリシアの飲み物に少量ずつ毒を入れ、病死を装って殺害しようと図ります。
大人のラブロマンス
「汚名」を最初見たときには、ヒッチコックには珍しく失敗作だと思いました。
裁判の判決シーンで始まるこの映画は、容疑者は国を売ったスパイらしい、ということが分かるだけで、説明らしい説明が少なく、また、デブリンとアリシアの結びつきも安直にしか思えず、安物のスパイ映画の印象を受けました。
流れが変わったのはセバスチャン(クロード・レインズ)が登場してからでしょうか。
セバスチャンはアリシアの父の友人で、かねてからアリシアへの想いを秘めていたセバスチャンはアリシアに結婚を迫ります。
アリシアとデブリンの恋は思わぬ方向へと動き始め、嫉妬に耐えなければならないデブリンの心境と、恋を犠牲にしても任務に向き合わざるを得ないアリシアの心情は、国家という重荷の中で身動きの取れない状況であるだけに、余計に痛々しさが伝わってきます。
嫉妬と猜疑心が渦巻く心の闇でもがく男女の姿をケーリー・グラントとイングリッド・バーグマンが見事に表現。
特にイングリッド・バーグマンの魅力は際立っていて、「カサブランカ」(1942年)のエレガントさとは違った可愛さを持った女性、美貌と気品の内面で性の歓びに満ちた女性の魅力にあふれていて、バーグマンの魅力によって「汚名」の完成度が高くなったといってもいいくらい。
もちろん中盤から後半にかけてのヒッチコックらしいサスペンスの面白さは言うまでもないのですが、ケーリー・グラントが階段を二段おきに駆け上がってゆく颯爽たる姿には驚きました。
スパイサスペンスに大人のラブロマンスが絡んだ、あるいはその逆かもしれませんが、とにかく高級ワインを味わうような極上の映画であることに間違いはありません。
監督アルフレッド・ヒッチコック
脚本ベン・ヘクト
撮影テッド・テズラフ
〈キャスト〉
ケーリー・グラント イングリッド・バーグマン
クロード・レインズ
ひとりの男がスパイ容疑で裁判にかけられ、有罪を宣告されます。その娘アリシア・ハバーマン(イングリッド・バーグマン)は父親の愛国心を信じる一方、スパイの娘として社会から非難の目を向けられることになります。
やり場のない悲しみや怒りを紛らすために開いたパーティーで飲んだくれてしまったアリシアでしたが、そこで物静かに周囲の喧騒を気にすることなく酒を飲んでいるひとりの男に心を惹かれます。
その男デブリン(ケーリー・グラント)はスパイ組織の全容をつかむため、スパイ容疑で有罪となったハバーマンの娘アリシアに接近していたFBI捜査官で、父親の汚名を晴らすため力を貸してほしいとアリシアに協力を要請します。
一時はデブリンに対して憎しみの目を向けていたアリシアでしたが、二人はいつしか惹かれあう仲になり、きらめく恋に身を任せながら、アリシアは秘密組織の陰謀の渦中へと飛び込んでゆくことになります。
しかし、アリシアとデブリンの恋は、組織を束ねるアレクサンダー・セバスチャン(クロード・レインズ)に近づくにつれ、セバスチャンとの結婚を余儀なくされたアリシアの犠牲によって破局を迎えることになります。
恋と任務を割り切ったアリシアとデブリンは、組織がウランを大量に集めていることを突き止めますが、アリシアがFBIのスパイだと気づいたセバスチャンは、アリシアの飲み物に少量ずつ毒を入れ、病死を装って殺害しようと図ります。
大人のラブロマンス
「汚名」を最初見たときには、ヒッチコックには珍しく失敗作だと思いました。
裁判の判決シーンで始まるこの映画は、容疑者は国を売ったスパイらしい、ということが分かるだけで、説明らしい説明が少なく、また、デブリンとアリシアの結びつきも安直にしか思えず、安物のスパイ映画の印象を受けました。
流れが変わったのはセバスチャン(クロード・レインズ)が登場してからでしょうか。
セバスチャンはアリシアの父の友人で、かねてからアリシアへの想いを秘めていたセバスチャンはアリシアに結婚を迫ります。
アリシアとデブリンの恋は思わぬ方向へと動き始め、嫉妬に耐えなければならないデブリンの心境と、恋を犠牲にしても任務に向き合わざるを得ないアリシアの心情は、国家という重荷の中で身動きの取れない状況であるだけに、余計に痛々しさが伝わってきます。
嫉妬と猜疑心が渦巻く心の闇でもがく男女の姿をケーリー・グラントとイングリッド・バーグマンが見事に表現。
特にイングリッド・バーグマンの魅力は際立っていて、「カサブランカ」(1942年)のエレガントさとは違った可愛さを持った女性、美貌と気品の内面で性の歓びに満ちた女性の魅力にあふれていて、バーグマンの魅力によって「汚名」の完成度が高くなったといってもいいくらい。
もちろん中盤から後半にかけてのヒッチコックらしいサスペンスの面白さは言うまでもないのですが、ケーリー・グラントが階段を二段おきに駆け上がってゆく颯爽たる姿には驚きました。
スパイサスペンスに大人のラブロマンスが絡んだ、あるいはその逆かもしれませんが、とにかく高級ワインを味わうような極上の映画であることに間違いはありません。
2019年04月08日
映画「失われた終末」アル中男の苦悩と再生
「失われた終末」(The Lost Weekend)
1945年 アメリカ
監督ビリー・ワイルダー
脚本チャールズ・ブラケット
ビリー・ワイルダー
原作チャールズ・R・ジャクソン
〈キャスト〉
レイ・ミランド ジェーン・ワイマン
フィリップ・テリー
第18回アカデミー賞作品賞/主演男優賞(レイ・ミランド)
カンヌ国際映画祭グランプリ
ドン・バーナム(レイ・ミランド)は作家としての生活を送っていますが、才能を発揮できないままスランプに陥り、アルコールへと逃避したことから、そのまま抜け出せなくなり、アルコール中毒となって、兄(テリー・バーナム)の世話になっています。
兄は弟のために終末を利用して田舎へ連れ出そうとします。田舎の静かな環境がアルコール中毒の弟の健康には良い結果を生むと考えたからです。
しかし、そんな弟思いの兄の計画も空しく、酒を渇望するドンは出発の当日、酒を求めて町をさまよい、週末の計画を台無しにしてしまいます。
怒った兄はドンを残し、一人で田舎へと出発して行きます。
酒! 酒! 酒! 酒のことしか頭になくなったドンは金もなくなり、作家の生命であるタイプライターまで質に入れて金を工面しようとします。
その後、ふとしたはずみで階段から転落したドンは病院へ搬送され、アルコール中毒患者の施設に収容されます。
ほどなくして施設から脱走したドンでしたが、やがてアルコール中毒者特有の幻覚症状が現れるようになり、自分に絶望したドンはピストル自殺を図ろうとします。
アルコール中毒に陥った男の苦悩と絶望、そして再生までを描いた名匠ビリー・ワイルダー監督による傑作です。
私自身も酒が好きで、それも大のウイスキー党なので、この映画を観ているとやたらとウイスキーが飲みたくなります。
ほとんど毎日、酒(ウイスキー)を飲まない日はないというくらい愛飲していますが、何かの目標があって、それを達成するまでは酒をやめようと思うこともあって、1日、2日は禁酒をするのですが、やっぱり飲まないとかえって調子が悪く、さっさと飲んで、さっさと酔っぱらって、さっさと覚ますことにして目標にたどりついたりしてますから、もしかしてアルコール依存症なのか、単に意志が弱いだけなのか、…多分、後者のほうなのでしょう。
作家であるドン・バーナムは小説を書けなくなったことから酒に溺れてしまいます。
映画はドンの行動を追って展開してゆきますが、それと共にドンを取り巻く人々がよく描かれていると思います。
一人はやはりドンの兄。
弟の健康を気遣って田舎に連れ出そうとする優しいお兄さんで、どういった職業なのかは描かれてはいませんが、知的な風貌からは社会的な高さの職業であることが分ります。
さらに、ドンの馴染みの酒場の店主ナット(ハワード・ダ・シルヴァ)。
タイプライターを質に入れようとしたドンの元へ、忘れ物だと言わんばかりにタイプライターを届けに来るナットの存在は、ドン・バーナムの再生物語の重要な骨格をなしています。
そして恋人ヘレン(ジェーン・ワイマン)。
アル中だと判ったドンを見捨てることなく、最後の最後までドンの立ち直りを信じるヘレンの姿は、健気(けなげ)というより芯の強い女性、みんなが見捨てても私は見捨てない、そんな強い信念に裏打ちされた女性だと思いました。
ちなみにジェーン・ワイマンさんはアメリカ合衆国第40代大統領ロナルド・レーガンの最初の奥さんでもあった人です。
人間は一人では生きられず、自分の周囲の人間関係によって自分も育(はぐく)まれていくものでもあります。
ドン・バーナムがアル中から抜け出せたのはドンだけの意志によるものではなく、そこに関わる様々な人たちによって、一人の人間の再生が可能になったといえます。
「失われた終末」は社会の中で、人間同士の関わり合いによって絶望から希望へと導かれることができるということを教えてくれる傑作です。
1945年 アメリカ
監督ビリー・ワイルダー
脚本チャールズ・ブラケット
ビリー・ワイルダー
原作チャールズ・R・ジャクソン
〈キャスト〉
レイ・ミランド ジェーン・ワイマン
フィリップ・テリー
第18回アカデミー賞作品賞/主演男優賞(レイ・ミランド)
カンヌ国際映画祭グランプリ
ドン・バーナム(レイ・ミランド)は作家としての生活を送っていますが、才能を発揮できないままスランプに陥り、アルコールへと逃避したことから、そのまま抜け出せなくなり、アルコール中毒となって、兄(テリー・バーナム)の世話になっています。
兄は弟のために終末を利用して田舎へ連れ出そうとします。田舎の静かな環境がアルコール中毒の弟の健康には良い結果を生むと考えたからです。
しかし、そんな弟思いの兄の計画も空しく、酒を渇望するドンは出発の当日、酒を求めて町をさまよい、週末の計画を台無しにしてしまいます。
怒った兄はドンを残し、一人で田舎へと出発して行きます。
酒! 酒! 酒! 酒のことしか頭になくなったドンは金もなくなり、作家の生命であるタイプライターまで質に入れて金を工面しようとします。
その後、ふとしたはずみで階段から転落したドンは病院へ搬送され、アルコール中毒患者の施設に収容されます。
ほどなくして施設から脱走したドンでしたが、やがてアルコール中毒者特有の幻覚症状が現れるようになり、自分に絶望したドンはピストル自殺を図ろうとします。
アルコール中毒に陥った男の苦悩と絶望、そして再生までを描いた名匠ビリー・ワイルダー監督による傑作です。
私自身も酒が好きで、それも大のウイスキー党なので、この映画を観ているとやたらとウイスキーが飲みたくなります。
ほとんど毎日、酒(ウイスキー)を飲まない日はないというくらい愛飲していますが、何かの目標があって、それを達成するまでは酒をやめようと思うこともあって、1日、2日は禁酒をするのですが、やっぱり飲まないとかえって調子が悪く、さっさと飲んで、さっさと酔っぱらって、さっさと覚ますことにして目標にたどりついたりしてますから、もしかしてアルコール依存症なのか、単に意志が弱いだけなのか、…多分、後者のほうなのでしょう。
作家であるドン・バーナムは小説を書けなくなったことから酒に溺れてしまいます。
映画はドンの行動を追って展開してゆきますが、それと共にドンを取り巻く人々がよく描かれていると思います。
一人はやはりドンの兄。
弟の健康を気遣って田舎に連れ出そうとする優しいお兄さんで、どういった職業なのかは描かれてはいませんが、知的な風貌からは社会的な高さの職業であることが分ります。
さらに、ドンの馴染みの酒場の店主ナット(ハワード・ダ・シルヴァ)。
タイプライターを質に入れようとしたドンの元へ、忘れ物だと言わんばかりにタイプライターを届けに来るナットの存在は、ドン・バーナムの再生物語の重要な骨格をなしています。
そして恋人ヘレン(ジェーン・ワイマン)。
アル中だと判ったドンを見捨てることなく、最後の最後までドンの立ち直りを信じるヘレンの姿は、健気(けなげ)というより芯の強い女性、みんなが見捨てても私は見捨てない、そんな強い信念に裏打ちされた女性だと思いました。
ちなみにジェーン・ワイマンさんはアメリカ合衆国第40代大統領ロナルド・レーガンの最初の奥さんでもあった人です。
人間は一人では生きられず、自分の周囲の人間関係によって自分も育(はぐく)まれていくものでもあります。
ドン・バーナムがアル中から抜け出せたのはドンだけの意志によるものではなく、そこに関わる様々な人たちによって、一人の人間の再生が可能になったといえます。
「失われた終末」は社会の中で、人間同士の関わり合いによって絶望から希望へと導かれることができるということを教えてくれる傑作です。
2019年03月29日
映画「ブリッジ・オブ・スパイ」東西冷戦の捕虜交換劇
「ブリッジ・オブ・スパイ」(Bridge of Spies)
2015年 アメリカ
監督スティーヴン・スピルバーグ
脚本マット・チャーマン
イーサン・コーエン
ジョエル・コーエン
撮影ヤヌス・カミンスキー
〈キャスト〉
トム・ハンクス マーク・ライランス
エイミー・ライアン
第88回アカデミー賞/ニューヨーク映画批評家協会賞助演男優賞(マーク・ライランス)
東西両陣営
1945年に第二次世界大戦が終結し、戦勝国の首脳が集まったヤルタ会談から、戦後の世界は分割協定へと動き始めます。
その主要な対立軸となったのが、超大国となったアメリカを代表とする自由主義諸国と、ソビエト連邦を盟主とする社会主義国でした。
アジアでは朝鮮半島。ヨーロッパは主にドイツが対象となって、北と南、あるいは西と東に分断。アメリカ的自由主義とソビエトの社会主義的イデオロギーは全ヨーロッパを巻き込み、政治的・経済的にも異なった価値観を持った東西ヨーロッパへと変容してゆきます。
アメリカとソ連の対立は政治のみならず、軍事的にも激しく対立。
西側の北大西洋条約機構(NATO)に対して東側のワルシャワ条約機構が生まれ、米ソの核ミサイルの開発と配備は一触即発の緊張状態へと突き進んでゆきます。
こうした現状をイギリス人の作家でジャーナリストのジョージ・オーウェルは1947年に、冷たい戦争「冷戦」と呼びました。
ジェームズ・ドノヴァン(トム・ハンクス)は法律事務所で保険裁判などを担当する弁護士。
彼はある日、ソ連の諜報員として逮捕されたルドルフ・アベル(マーク・ライランス)の国選弁護人を依頼されます。
時は1957年、東西冷戦の真っ只中。
ドノヴァンは刑事事件から遠ざかっていることや、敵国人の弁護を引き受けた場合の社会的非難、勝つ見込みのない裁判であることを考えると不安を覚えますが、弁護士としての職務に順じ、引き受けることにします。
拘置所を訪れ、アベルと面会したドノヴァンは、諜報員でありながら芸術家としての顔を持つアベルの落ち着いた物腰や、死を恐れず、国家に忠誠を尽くそうとする態度に友情にも似た感銘を受け、裁判での無罪判決に奔走しますが、陪審員の評決は有罪。
死刑だけは免(まぬが)れさせようとするドノヴァンは判事にかけあい、近い将来、スパイの交換があった場合の人質としてアベルの減刑を要求。
ドノヴァンの粘り強い交渉は功を奏し、アベルの死刑判決は退けられて懲役刑が確定します。
一方、パキスタンのアメリカ軍空軍基地ではU-2偵察機によるソ連への偵察飛行が行われようとしており、基地から飛び立ったパイロットのひとりフランシス・ゲーリー・パワーズ中尉はソ連のS-75地対空ミサイルの攻撃を受けて撃墜され、ソ連の捕虜となってしまいます。
さらに、ベルリンでは東西ドイツを二分する壁の建設が進められ、アメリカ人学生で経済学を専攻するフレデリック・プライヤー(ウィル・ロジャース)は、恋人と一緒に東ドイツから西ドイツへ逃れるべく、壁建設の混乱に乗じて脱出を試みますが、ドイツ軍兵士に止められ、捕らわれてしまいます。
ドノヴァンの捕虜交換の予想は期せずして的中した形になり、ソ連側のアベルと、アメリカ側のパワーズとプライヤーの交換交渉をするべくドノヴァンは東ベルリンへ向かいますが、CIAとKGBが入り乱れて暗躍する中で交渉は難航。
CIAの要求はアベル対パワーズの一対一の交換だという主張に対し、ドノヴァンはあくまでパワーズとプライヤーも含めた一対二の交渉を主張。
持ち前の粘り強さでドノヴァンは捕虜交換の交渉を続け、アベル対パワーズ、そしてプライヤーも含めた一対二の交渉が実現します。
交換場所はドイツ・メクレンブルクからブランデンブルク、ベルリンへと流れるハーフェル川に架かるグリーニッケ橋。
東西両陣営が対峙する橋の上で西側からはアベル、東側からパワーズの姿が現れますが、もう一人現れるはずのプライヤーの姿が見えないまま、捕虜交換が進められようとしますが、ソ連側の意図を察したドノヴァンはギリギリまで交渉を制止、交渉は決裂かと思われましたが………。
見応え十分の捕虜交換ドラマ
題名からは、暗躍するスパイアクション映画という印象を受けますが、アメリカとソ連の諜報員の交換が行われた史実をもとに、冷戦という重い空気感の漂う時代の中で、国家やイデオロギーを超えた人間同士の信頼や友情を描いた重厚なヒューマンドラマであるといえます。
特に、アカデミー賞を始めとして数々の賞を総なめにした助演男優賞受賞のマーク・ライランスの演技は素晴らしく、諜報活動をする傍(かたわ)ら、画家としての卓越した才能を持っているルドルフ・アベルを物静かな芸術家として表現。
拘置所の中で、ドノヴァンが差し入れたと思われるラジオから流れるショスタコーヴィチの音楽を、乾いた心の中に染み込んでいくように聴き入る姿、少年時代の体験をドノヴァンの置かれた立場と重ね合わせて語る場面からは、物静かな芸術家であると同時に強い信念の持ち主であり、ドノヴァンに対する信頼が芽生え始める印象的なシーンでした。
冷戦時代は破壊的な戦争が起きることもなく、1991年のソ連崩壊により冷戦は終結しましたが、スパイの交換が行われたグリーニッケ橋が東西冷戦の象徴として観光地化されているように、冷戦時代を懐かしむ声があるのは、失われてしまった、あるいは失われつつある古き時代の家族としての在り方、友情、人間同士のつながりが強く残っていた時代であり、「ブリッジ・オブ・スパイ」はそういったものをも含めて描いた傑作です。
2015年 アメリカ
監督スティーヴン・スピルバーグ
脚本マット・チャーマン
イーサン・コーエン
ジョエル・コーエン
撮影ヤヌス・カミンスキー
〈キャスト〉
トム・ハンクス マーク・ライランス
エイミー・ライアン
第88回アカデミー賞/ニューヨーク映画批評家協会賞助演男優賞(マーク・ライランス)
東西両陣営
1945年に第二次世界大戦が終結し、戦勝国の首脳が集まったヤルタ会談から、戦後の世界は分割協定へと動き始めます。
その主要な対立軸となったのが、超大国となったアメリカを代表とする自由主義諸国と、ソビエト連邦を盟主とする社会主義国でした。
アジアでは朝鮮半島。ヨーロッパは主にドイツが対象となって、北と南、あるいは西と東に分断。アメリカ的自由主義とソビエトの社会主義的イデオロギーは全ヨーロッパを巻き込み、政治的・経済的にも異なった価値観を持った東西ヨーロッパへと変容してゆきます。
アメリカとソ連の対立は政治のみならず、軍事的にも激しく対立。
西側の北大西洋条約機構(NATO)に対して東側のワルシャワ条約機構が生まれ、米ソの核ミサイルの開発と配備は一触即発の緊張状態へと突き進んでゆきます。
こうした現状をイギリス人の作家でジャーナリストのジョージ・オーウェルは1947年に、冷たい戦争「冷戦」と呼びました。
ジェームズ・ドノヴァン(トム・ハンクス)は法律事務所で保険裁判などを担当する弁護士。
彼はある日、ソ連の諜報員として逮捕されたルドルフ・アベル(マーク・ライランス)の国選弁護人を依頼されます。
時は1957年、東西冷戦の真っ只中。
ドノヴァンは刑事事件から遠ざかっていることや、敵国人の弁護を引き受けた場合の社会的非難、勝つ見込みのない裁判であることを考えると不安を覚えますが、弁護士としての職務に順じ、引き受けることにします。
拘置所を訪れ、アベルと面会したドノヴァンは、諜報員でありながら芸術家としての顔を持つアベルの落ち着いた物腰や、死を恐れず、国家に忠誠を尽くそうとする態度に友情にも似た感銘を受け、裁判での無罪判決に奔走しますが、陪審員の評決は有罪。
死刑だけは免(まぬが)れさせようとするドノヴァンは判事にかけあい、近い将来、スパイの交換があった場合の人質としてアベルの減刑を要求。
ドノヴァンの粘り強い交渉は功を奏し、アベルの死刑判決は退けられて懲役刑が確定します。
一方、パキスタンのアメリカ軍空軍基地ではU-2偵察機によるソ連への偵察飛行が行われようとしており、基地から飛び立ったパイロットのひとりフランシス・ゲーリー・パワーズ中尉はソ連のS-75地対空ミサイルの攻撃を受けて撃墜され、ソ連の捕虜となってしまいます。
さらに、ベルリンでは東西ドイツを二分する壁の建設が進められ、アメリカ人学生で経済学を専攻するフレデリック・プライヤー(ウィル・ロジャース)は、恋人と一緒に東ドイツから西ドイツへ逃れるべく、壁建設の混乱に乗じて脱出を試みますが、ドイツ軍兵士に止められ、捕らわれてしまいます。
ドノヴァンの捕虜交換の予想は期せずして的中した形になり、ソ連側のアベルと、アメリカ側のパワーズとプライヤーの交換交渉をするべくドノヴァンは東ベルリンへ向かいますが、CIAとKGBが入り乱れて暗躍する中で交渉は難航。
CIAの要求はアベル対パワーズの一対一の交換だという主張に対し、ドノヴァンはあくまでパワーズとプライヤーも含めた一対二の交渉を主張。
持ち前の粘り強さでドノヴァンは捕虜交換の交渉を続け、アベル対パワーズ、そしてプライヤーも含めた一対二の交渉が実現します。
交換場所はドイツ・メクレンブルクからブランデンブルク、ベルリンへと流れるハーフェル川に架かるグリーニッケ橋。
東西両陣営が対峙する橋の上で西側からはアベル、東側からパワーズの姿が現れますが、もう一人現れるはずのプライヤーの姿が見えないまま、捕虜交換が進められようとしますが、ソ連側の意図を察したドノヴァンはギリギリまで交渉を制止、交渉は決裂かと思われましたが………。
見応え十分の捕虜交換ドラマ
題名からは、暗躍するスパイアクション映画という印象を受けますが、アメリカとソ連の諜報員の交換が行われた史実をもとに、冷戦という重い空気感の漂う時代の中で、国家やイデオロギーを超えた人間同士の信頼や友情を描いた重厚なヒューマンドラマであるといえます。
特に、アカデミー賞を始めとして数々の賞を総なめにした助演男優賞受賞のマーク・ライランスの演技は素晴らしく、諜報活動をする傍(かたわ)ら、画家としての卓越した才能を持っているルドルフ・アベルを物静かな芸術家として表現。
拘置所の中で、ドノヴァンが差し入れたと思われるラジオから流れるショスタコーヴィチの音楽を、乾いた心の中に染み込んでいくように聴き入る姿、少年時代の体験をドノヴァンの置かれた立場と重ね合わせて語る場面からは、物静かな芸術家であると同時に強い信念の持ち主であり、ドノヴァンに対する信頼が芽生え始める印象的なシーンでした。
冷戦時代は破壊的な戦争が起きることもなく、1991年のソ連崩壊により冷戦は終結しましたが、スパイの交換が行われたグリーニッケ橋が東西冷戦の象徴として観光地化されているように、冷戦時代を懐かしむ声があるのは、失われてしまった、あるいは失われつつある古き時代の家族としての在り方、友情、人間同士のつながりが強く残っていた時代であり、「ブリッジ・オブ・スパイ」はそういったものをも含めて描いた傑作です。
2019年03月21日
映画「ホロコースト-アドルフ・ヒトラーの洗礼-」法王庁の沈黙
「ホロコースト-アドルフ・ヒトラーの洗礼-」(Amen.) 2002年
フランス/ドイツ/ルーマニア/アメリカ
監督コスタ=ガブラス
脚本コスタ=ガブラス
原作ロルフ・ホーホフート「神の代理人」
撮影パトリック・ブロシェ
〈キャスト〉
ウルリッヒ・トゥクル マチュー・カソヴィッツ
ウルリッヒ・ミューエ
原題は「Amen」。
キリスト教世界における祈りの言葉の後に唱える言葉が原題となっています。
大体において祈りの言葉は「あなた(神)の王国が来ますように」、または、主(神)に対する感謝の言葉で締めくくられることが多いのですが、その後に、是認の言葉として「アーメン」が唱えられ、そうありますように、そうです、といった意味を持ちます。
原題から判るように、「ホロコースト-アドルフ・ヒトラーの洗礼-」は宗教をテーマとして、バチカンがナチス・ドイツのユダヤ人迫害に対して非難の声明を出さなかったという史実をもとに、社会派の巨匠コスタ=ガブラスが取り組んだ意欲作です。
ナチス親衛隊中尉で、化学者として飲料水を殺菌する研究などをおこなっていたクルト・ゲルシュタイン(ウルリッヒ・トゥクル)は、知的障害を持つ姪が多数の精神障害者と共に“病死”という口実で安楽死させられたことを知ります。
ナチスによる“望ましからざる者たち”の事実上の抹殺、「障害者絶滅計画」でした。
さらにある日、ゲルシュタインは、医師で上官の将校(ウルリッヒ・ミューエ)らに連れられ、強制収容所でユダヤ人の大量虐殺を目撃します。
ナチスの蛮行を目の当たりにし、数万単位のユダヤ人が次々とガス室送りになることを知ったゲルシュタインは虐殺をやめさせるべく、“神の代理人”である宗教界に頼ろうとします。
プロテスタントの信者であるゲルシュタインは、仲間たちと話し合いの場を設けますが、誰もが彼の意見に耳を貸さず一蹴されてしまいます。
カトリックの総本山であるバチカンに訴えるしかないと考えたゲルシュタインはローマ法王庁の外交官に接触しますが、ここでも相手にされず、一時は落胆しますが、偶然にもその場にいた若い修道士リカルド(マチュー・カソヴィッツ)は、ゲルシュタインと共にナチスの蛮行を食い止める戦いを開始します。
自らもナチスの親衛隊員であるゲルシュタインは自己矛盾を抱えながらもバチカンへの接触を続け、法王への説得を試みますが、法王ピウス12世はナチスと敵対関係になることを恐れ、ゲルシュタインの訴えを退けてしまいます。
暗黒の時代における光の消滅
16世紀にマルティン・ルターが始めた宗教改革は、当時のローマ・カトリック教会に対する抗議の声でもありました。
マリア崇拝、クリスマスのミサ(クリスマスはキリストの誕生日ではなく、古代ローマの太陽崇拝に基づいています)、豪華な教会装飾など、神の言葉よりも教会の権威を高めることに執着し、堕落していたカトリック教会に対して非難の声をあげたのです。
プロテスタント(抗議する者)と呼ばれたマルティン・ルターはカトリック教会から離れ、プロテスタントとして神の言葉“聖書”を軸に宗教改革を推し進めてゆきます。
映画「ホロコースト-アドルフ・ヒトラーの洗礼-」は、ナチスによるユダヤ人の大量虐殺において、何の抵抗も示さなかった宗教界(特にローマ・カトリック教会)そのものを指弾した映画であるといえます。
素晴らしく重厚な映像で、俳優の演技も素晴らしいものでしたが、やはり、何らかの形で虐殺のシーンは欲しかったと思います。強制収容所でゲルシュタインが壁の穴から虐殺の様子を見る場面では、ゲルシュタインの表情ですべてが語られてゆくのですが、親衛隊員である自らの立場と、命を懸けてまで虐殺をやめさせようとする心情をクッキリと浮かび上がらせるためには、「シンドラーのリスト」(1993年)における赤い服の少女のようなシンボリックな映像か、目を背(そむ)けたくなるような、心に突き刺さるシーンが必要だと思いました。
しかし俳優たちの演技は完璧なもので、中でも若き修道士リカルドのマチュー・カソヴィッツの情熱と宗教の絶望感に打ちのめされる姿は強く印象に残りました。
宗教界の最高権威といえども人間社会のひとつの組織体にすぎず、ヨーロッパを席巻したアドルフ・ヒトラー率いるナチス・ドイツに対して保身と無力をさらけ出してしまったのは、ある意味、仕方のないことだったのかもしれませんが、神の名に値しない汚点を残してしまったといえます。
刺激的な映像が少ない分、俳優の演技がかなりの見どころを占めます。それだけに余計な刺激に惑わされずに宗教というテーマを追求することができるという利点があり、コスタ=ガブラスもそのあたりを考慮していたのかもしれません。
でも「ホロコースト-アドルフ・ヒトラーの洗礼-」という邦題には首をひねりたくなります。
“ホロコースト(大量虐殺)”の場面は出てきませんし、ヒトラーそのものも登場しないからです。といって原題そのままに「アーメン」では何だかよく分かりませんしね。題名を考えるのも難しいものです。
フランス/ドイツ/ルーマニア/アメリカ
監督コスタ=ガブラス
脚本コスタ=ガブラス
原作ロルフ・ホーホフート「神の代理人」
撮影パトリック・ブロシェ
〈キャスト〉
ウルリッヒ・トゥクル マチュー・カソヴィッツ
ウルリッヒ・ミューエ
原題は「Amen」。
キリスト教世界における祈りの言葉の後に唱える言葉が原題となっています。
大体において祈りの言葉は「あなた(神)の王国が来ますように」、または、主(神)に対する感謝の言葉で締めくくられることが多いのですが、その後に、是認の言葉として「アーメン」が唱えられ、そうありますように、そうです、といった意味を持ちます。
原題から判るように、「ホロコースト-アドルフ・ヒトラーの洗礼-」は宗教をテーマとして、バチカンがナチス・ドイツのユダヤ人迫害に対して非難の声明を出さなかったという史実をもとに、社会派の巨匠コスタ=ガブラスが取り組んだ意欲作です。
ナチス親衛隊中尉で、化学者として飲料水を殺菌する研究などをおこなっていたクルト・ゲルシュタイン(ウルリッヒ・トゥクル)は、知的障害を持つ姪が多数の精神障害者と共に“病死”という口実で安楽死させられたことを知ります。
ナチスによる“望ましからざる者たち”の事実上の抹殺、「障害者絶滅計画」でした。
さらにある日、ゲルシュタインは、医師で上官の将校(ウルリッヒ・ミューエ)らに連れられ、強制収容所でユダヤ人の大量虐殺を目撃します。
ナチスの蛮行を目の当たりにし、数万単位のユダヤ人が次々とガス室送りになることを知ったゲルシュタインは虐殺をやめさせるべく、“神の代理人”である宗教界に頼ろうとします。
プロテスタントの信者であるゲルシュタインは、仲間たちと話し合いの場を設けますが、誰もが彼の意見に耳を貸さず一蹴されてしまいます。
カトリックの総本山であるバチカンに訴えるしかないと考えたゲルシュタインはローマ法王庁の外交官に接触しますが、ここでも相手にされず、一時は落胆しますが、偶然にもその場にいた若い修道士リカルド(マチュー・カソヴィッツ)は、ゲルシュタインと共にナチスの蛮行を食い止める戦いを開始します。
自らもナチスの親衛隊員であるゲルシュタインは自己矛盾を抱えながらもバチカンへの接触を続け、法王への説得を試みますが、法王ピウス12世はナチスと敵対関係になることを恐れ、ゲルシュタインの訴えを退けてしまいます。
暗黒の時代における光の消滅
16世紀にマルティン・ルターが始めた宗教改革は、当時のローマ・カトリック教会に対する抗議の声でもありました。
マリア崇拝、クリスマスのミサ(クリスマスはキリストの誕生日ではなく、古代ローマの太陽崇拝に基づいています)、豪華な教会装飾など、神の言葉よりも教会の権威を高めることに執着し、堕落していたカトリック教会に対して非難の声をあげたのです。
プロテスタント(抗議する者)と呼ばれたマルティン・ルターはカトリック教会から離れ、プロテスタントとして神の言葉“聖書”を軸に宗教改革を推し進めてゆきます。
映画「ホロコースト-アドルフ・ヒトラーの洗礼-」は、ナチスによるユダヤ人の大量虐殺において、何の抵抗も示さなかった宗教界(特にローマ・カトリック教会)そのものを指弾した映画であるといえます。
素晴らしく重厚な映像で、俳優の演技も素晴らしいものでしたが、やはり、何らかの形で虐殺のシーンは欲しかったと思います。強制収容所でゲルシュタインが壁の穴から虐殺の様子を見る場面では、ゲルシュタインの表情ですべてが語られてゆくのですが、親衛隊員である自らの立場と、命を懸けてまで虐殺をやめさせようとする心情をクッキリと浮かび上がらせるためには、「シンドラーのリスト」(1993年)における赤い服の少女のようなシンボリックな映像か、目を背(そむ)けたくなるような、心に突き刺さるシーンが必要だと思いました。
しかし俳優たちの演技は完璧なもので、中でも若き修道士リカルドのマチュー・カソヴィッツの情熱と宗教の絶望感に打ちのめされる姿は強く印象に残りました。
宗教界の最高権威といえども人間社会のひとつの組織体にすぎず、ヨーロッパを席巻したアドルフ・ヒトラー率いるナチス・ドイツに対して保身と無力をさらけ出してしまったのは、ある意味、仕方のないことだったのかもしれませんが、神の名に値しない汚点を残してしまったといえます。
刺激的な映像が少ない分、俳優の演技がかなりの見どころを占めます。それだけに余計な刺激に惑わされずに宗教というテーマを追求することができるという利点があり、コスタ=ガブラスもそのあたりを考慮していたのかもしれません。
でも「ホロコースト-アドルフ・ヒトラーの洗礼-」という邦題には首をひねりたくなります。
“ホロコースト(大量虐殺)”の場面は出てきませんし、ヒトラーそのものも登場しないからです。といって原題そのままに「アーメン」では何だかよく分かりませんしね。題名を考えるのも難しいものです。
2019年03月19日
映画「キートンの探偵学入門」娯楽映画の原点
「キートンの探偵学入門」(SHERLOCK JR.)
1924年 アメリカ
監督・主演バスター・キートン
撮影エルジン・レスリー バイロン・フーク
脚本クライド・ブラックマン
ジーン・C・ハヴェッツ
ジョセフ・ミッチェル
〈キャスト〉
キャスリン・マクガイア ジョー・キートン
チャップリンが人生の哀歓や政治的・社会的風刺を笑いの中に表現したのに対し、バスター・キートンはあくまで観客を楽しませるためにのみ映画を作っているといえます。
しかし、その表現方法は100年近く経った現在でも決して色褪せることなく、娯楽映画の原点として、見る者を楽しませてくれます。
原題は「シャーロック・ジュニア」。
主人公(バスター・キートン)は映画館の映写技師兼雑用係。シャーロック・ホームズのような名探偵になることを目指しています。
そんな彼は恋のライバルが仕組んだ企みによって指輪泥棒の嫌疑を受け、恋人(キャスリン・マクガイア)の父親から自宅への立ち入りを禁止されます。
意気消沈の主人公。
滅入った気分のまま仕事中の映画の映写中に居眠りをしてしまいます。
それは夢なのか、魂の分離なのか、眠った主人公の体からもう一人の主人公が現れ、摩訶不思議な物語が展開されてゆきます。
映画冒頭は、ごくありがちな喜劇で始まりますが、主人公の体が分離された瞬間から、アイデアに次ぐアイデア、アクションに次ぐアクションが詰め込まれたキートンの世界へと突入していきます。
いろいろなアイデアが満載ですが、まず驚かされるのが、主人公が映画の中へ入ってしまう場面。映画と現実の境界をアッサリと飛び越えてしまう奇想天外な着想で、これは後にウディ・アレンが「カイロの紫のバラ」に取り入れ、冴えないヒロイン(ミア・ファロー)が体験する異次元の恋物語であり、映画賛歌でもありました。
様々なトリックも見もので、編集の技術力とか、まさに一瞬の早わざが登場するかと思えば、ジャッキー・チェンも真っ青のアクションに次ぐアクション。これを無表情にこなしてしまうところがバスター・キートンのすごいところ。
50分に満たない上映時間の中に、ギャグありアクションあり、30年代のファッション・センスを先取りしたような、名探偵に扮したキートンのおしゃれ感覚ありで、何度見ても飽きさせません。
娯楽精神満載の理屈抜きに楽しめる映画です。
1924年 アメリカ
監督・主演バスター・キートン
撮影エルジン・レスリー バイロン・フーク
脚本クライド・ブラックマン
ジーン・C・ハヴェッツ
ジョセフ・ミッチェル
〈キャスト〉
キャスリン・マクガイア ジョー・キートン
チャップリンが人生の哀歓や政治的・社会的風刺を笑いの中に表現したのに対し、バスター・キートンはあくまで観客を楽しませるためにのみ映画を作っているといえます。
しかし、その表現方法は100年近く経った現在でも決して色褪せることなく、娯楽映画の原点として、見る者を楽しませてくれます。
原題は「シャーロック・ジュニア」。
主人公(バスター・キートン)は映画館の映写技師兼雑用係。シャーロック・ホームズのような名探偵になることを目指しています。
そんな彼は恋のライバルが仕組んだ企みによって指輪泥棒の嫌疑を受け、恋人(キャスリン・マクガイア)の父親から自宅への立ち入りを禁止されます。
意気消沈の主人公。
滅入った気分のまま仕事中の映画の映写中に居眠りをしてしまいます。
それは夢なのか、魂の分離なのか、眠った主人公の体からもう一人の主人公が現れ、摩訶不思議な物語が展開されてゆきます。
映画冒頭は、ごくありがちな喜劇で始まりますが、主人公の体が分離された瞬間から、アイデアに次ぐアイデア、アクションに次ぐアクションが詰め込まれたキートンの世界へと突入していきます。
いろいろなアイデアが満載ですが、まず驚かされるのが、主人公が映画の中へ入ってしまう場面。映画と現実の境界をアッサリと飛び越えてしまう奇想天外な着想で、これは後にウディ・アレンが「カイロの紫のバラ」に取り入れ、冴えないヒロイン(ミア・ファロー)が体験する異次元の恋物語であり、映画賛歌でもありました。
様々なトリックも見もので、編集の技術力とか、まさに一瞬の早わざが登場するかと思えば、ジャッキー・チェンも真っ青のアクションに次ぐアクション。これを無表情にこなしてしまうところがバスター・キートンのすごいところ。
50分に満たない上映時間の中に、ギャグありアクションあり、30年代のファッション・センスを先取りしたような、名探偵に扮したキートンのおしゃれ感覚ありで、何度見ても飽きさせません。
娯楽精神満載の理屈抜きに楽しめる映画です。