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2019年03月15日

映画「戦艦ポチョムキン」サイレント映画の傑作

「戦艦ポチョムキン」(Броненосец ≪Потёмкин≫) 1925年 ソビエト連邦

監督・脚本・編集セルゲイ・エイゼンシュテイン
撮影エドゥアルド・ティッセ

〈キャスト〉
 アレクサンドル・アントノフ ウラジミール・バルスキー

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ロマノフ朝による君主政治が陰りを見せ始めた1905年、第一次ロシア革命が起こります。

国内ではストライキが頻発し、草原に燃え広がる野火のように革命の炎は全土に広がろうとしていました。

満州(現・中国東北部)の支配権をめぐり、ロシアは日本との戦争に突入しており、国内では不穏な社会情勢、対外的には日露戦争という混沌とした状況の中、日清戦争で勝利を得た日本は軍事力を強化。まとまりを欠いたロシアは日本との戦況において敗色が決定的なものになっていました。

1905年、日本海海戦で日本はロシアのバルチック艦隊を完全粉砕。ロシアの敗北が決定的になる中、遠く離れた黒海では一隻の戦艦が竣工されようとしていました。正式名称「ポチョムキン=タブリーチェスキー公」、略称「ポチョムキン号」です。

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映画「戦艦ポチョムキン」は不穏なロシアの国内情勢を背景に、民衆による革命のうねりを鋭くとらえたサイレント映画の傑作です。

映画は史実としての「ポチョムキン号の反乱」から幕を開けます。

ウジの湧いた肉を食べさせられることへの反感から、水兵たちの間にストライキが起こります。上官たちは、命令に背いたとして数名の水兵たちを銃殺にしようとしますが、やがて指導的な立場になるワクリンチュク(アレクサンドル・アントノフ)によって上官たちへの反乱の火ぶたが切って落とされます。

水兵たちに乗っ取られた「ポチョムキン号」は港湾都市オデッサに寄港し、反乱の銃撃戦で死んだワクリンチュクの遺体を港に安置します。

ワクリンチュクの遺体は民衆に革命の気運を燃え立たせ、それが後にオデッサの階段の虐殺へとつながってゆくことになります。




世界映画史上最も有名な6分間「オデッサの階段」
ポチョムキン号は革命の象徴としてオデッサの民衆の大歓迎を受けます。
港に安置されたワクリンチュクの遺体の周りには人々が押し寄せ、どこからともなく続々と民衆が集まってきます。

このオデッサの港の場面は素晴らしく、自然主義の絵画を見るような美術感覚であると同時にオデッサの町そのものが美しいということもあるのでしょう。
現在はウクライナの一部ですが、ロシア帝国の時代には経済や文化の交流都市であり、多くの民族が共存する他民族都市でもあったことから、活気と混沌の入り混じる独特の魅力を持った町として、プーシキンやゴーゴリ、ゴーリキーといったロシアの文豪たちの創作の舞台となったようです。

そんなオデッサの港にポチョムキン号は寄港し、革命を叫ぶ民衆が続々と押し寄せたことで、革命を恐れる政府はコサックからなる軍隊をオデッサに派遣して民衆の鎮圧にあたることになります。

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映画史上最も有名な「オデッサの虐殺」の場面は、狂乱と流血、階段の上から無表情に発砲し、市民を殺戮する軍隊、逃げ惑う群衆、倒れて踏みつけにされる子ども、息の絶えた子どもを抱え、抗議に向かう母親。
サイレントなので群衆の悲鳴は聞こえてはきませんが、ドキュメンタリー映画を観るような恐怖と混乱の映像は、阿鼻叫喚の殺戮の現場を目撃するかのような生々しい迫力に満ちています。

中でも赤ん坊を乗せた乳母車が階段を転がっていく場面は、後にブライアン・デ・パルマ監督、ケヴィン・コスナー主演の「アンタッチャブル」で、ユニオン駅の銃撃戦の中でそのまま引用されており、「オデッサの階段」の中でひときわ抜きんでた場面となっています。

技術的な面が盛んに評価されている「オデッサの階段」ですが、革命のうねりの中で避けることのできない流血と狂乱を見事にえぐり出した映像だと思います。

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2019年03月11日

映画「海外特派員」ヒッチコックの快作

「海外特派員」(Foreign Correspondent)
 1940年 アメリカ

監督アルフレッド・ヒッチコック
脚本チャールズ・ベネット
  ジョーン・ハリソン
撮影ルドルフ・マテ
音楽アルフレッド・ニューマン

〈キャスト〉
 ジョエル・マクリー レライン・デイ 
 ハーバート・マーシャル

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ニューヨーク・モーニング・グローブ紙の社長室。
開戦間近の不穏なヨーロッパ情勢を探るため、イギリスへ特派員を送り込むことを社長は決めますが、ヤワな記者では勤(つと)まりそうにもない仕事。社内にはこれといった人物が見当たりません。

ジョニー・ジョーンズ(ジョエル・マクリー)は記者をクビになりかけていましたが、警官とモメて武勇伝を発揮したことから社長に気に入られ、クビは取り消し、海外特派員としてヨーロッパへ渡ることになります。

「海外特派員」の導入部分ですが、なんだか稚拙(ちせつ)な脚本で、風雲急を告げるヨーロッパへ向かう新聞記者にしては緊張感のカケラもなく、ユーモア好きなヒッチコックの悪い面が出ている感じで、その後の展開も、イギリスへ渡り、大物政治家のパーティーの席上で若く美しいキャロル(レライン・デイ)と感情の行き違いがあるのですが、結局この二人はそれなりの関係になるのだろう、と先の読めてしまう展開。




ところが、脚本の稚拙さはそこまでで、開戦のカギを握るオランダの政治家ヴァン・メアとパーティーで知り合ったはずのジョーンズでしたが、雨のアムステルダムの取材で再びヴァン・メアと顔を合わせると、メアはジョーンズをまったく知らない様子。

この雨のアムステルダムのシーンは素晴らしく、ジョーンズは盛んに話しかけるのですが、ヴァン・メアは、君はいったい何を言っているのだ、と見ず知らずの人間に対する表情。

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ヴァン・メアに近寄った男が大型のカメラを構え、メアの写真を撮ろうとしますが、カメラの横に隠したピストルでメアは射殺されてしまいます。
ここで一気にヒッチコックの世界に引き込まれます。

男を追うジョーンズ。
雨のアムステルダムでの追跡劇も見ごたえ十分で、やがて車での追跡に変わり、雨は上がり、風車が立ち並ぶ草原で男の乗った車を見失うのですが、この風車のシーンも見事です。

ヒッチコック映画はどの映画でもそうなのですが、撮影が見事で、この風車の場面は美術感覚が素晴らしい。




★★★★★
でも、ここで一点。
風車の近くで男の車を見失って、どこへ行ったんだろう、とジョーンズと友人の記者フォリオット(ジョージ・サンダース)、キャロルの三人は風車の前で佇(たたず)んでいるのですが、普通に考えれば、風車の中を疑ってもよさそうなものです。

「海外特派員」はところどころ脚本の不備のようなシーンがあるのですが、それを補って余りあるのが才気あふれるヒッチコックの力量です。

風車の場面でいえば、やはり風車が怪しいとにらんだジョーンズが風車の中へ忍び込み、そこに囚(とら)われていたヴァン・メアと再会(射殺されたヴァン・メアは替え玉)、敵の会話を盗み聞きしながらも、巨大な歯車にコートが挟まってしまう怖さは、ヒッチコックの本領発揮。

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「海外特派員」が公開されたのは1940年ですが、その前年には「風と共に去りぬ」が公開され、ハリウッドの黄金時代が築かれていくのですが、ヒッチコックにしてみれば、そのアメリカで「レベッカ」に次ぐ第二作ということもあったのでしょう、「海外特派員」はかなり力の入った作品になっています。

特にドイツの軍用艦からの艦砲射撃を受け、ジョーンズたちの乗った飛行機の海上への墜落と、沈みゆく飛行機からの脱出、飛行機の残骸にしがみ付きながら荒波との必死の格闘は、この場面だけで並の映画以上の重量感があり、後の傑作「救命艇」にもつながっているようです。

現実にはアメリカは後に世界大戦に参戦。
ジョーンズとキャロルが空襲を受けるラジオ局のマイクに向かって開戦の様子を伝えるラストに見られるように、「海外特派員」はプロパガンダの要素を持った映画ですが、当時41歳の若きヒッチコックがその力を十分に発揮した映画でもあるといえます。

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2019年03月07日

映画「救命艇」男女8人の海洋サスペンス

「救命艇」(Lifeboat) 1944年 アメリカ

監督アルフレッド・ヒッチコック
原作ジョン・スタインベック
脚本ジョー・スワーリング
撮影グレン・マックウィリアムズ

〈キャスト〉
 タルーラ・バンクヘッド ヒューム・クローニン 
 ヘザー・エンジェル

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ノーベル賞作家ジョン・スタインベックの原作を巨匠アルフレッド・ヒッチコックが手がけた海洋サスペンス。

第二次大戦下、大西洋上で一隻の貨物船(客船とも)がドイツ軍のUボートによって撃沈されます。同時にUボートも連合軍の攻撃によって沈没。海上には船の残骸や死体が漂い、生き残った人たちの声が呼び交わされます。

濃霧と残骸の間を一隻の救命艇が漂っています。
乗っているのは一人の女性。
ミンクのコートを着こなし、タバコをくゆらす彼女は、高級ホテルのバーから現れたかのような、およそ遭難者とは程遠い、場違いな雰囲気を醸(かも)しています。

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そこへ次々と遭難者が乗り込み、やがて若い黒人が乳飲み子を抱いた母親を助けて乗り込み、8人の男女が一隻の救命艇に乗り合わせることになります。

そして、そこにもう一人、船のへりに手をかけた男が、みんなの手を借りて船の中へ助け上げられ、倒れ込むように乗り込みます。
「大丈夫か?」と声をかけるみんなに応えて彼は言います。
「danke schön」

最後に乗り込んだドイツ人のウィリー(ウォルター・スレザック)は、やがて、撃沈されたUボートの艦長であることが判明し、広大な大西洋に浮かぶ小さな救命艇の中に、8人の連合国側の民間人と、敵国であるドイツの軍人が乗り合わせるという緊張した関係が生まれます。

ほどなく乳飲み子は死に、母親も後を追って自殺を図り、残った8人はハリケーンに襲われ、水や食料も尽きていく中で、緊張した人間関係は一気に暴発してゆくことになります。

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救命艇という狭く限られた空間、登場人物が8人(最初は9人)という中で繰り広げられる人間ドラマで、ヒッチコック映画らしく、観る者をグイグイと引っ張っていきます。

登場人物は個性的で、最初に救命艇に乗っていたミンクの女性は、世界を股にかける著名なジャーナリスト、コニー・ポーター(タルーラ・バンクヘッド)。
さらに、シカゴの屠畜場で働いていたコバック(ジョン・ホディアク)。
実業家リットンハウス(ヘンリー・ハル)。
水夫スタンリー(ヒューム・クローニン)。
片足を切断することになるガス(ウィリアム・ベンディックス)。
看護婦マッケンジー(ヘザー・エンジェル)。
元スリの名手で、黒人のジョー(カナダ・リー)。
そして最後に乗り込んだUボートの艦長ウィリー(ウォルター・スレザック)。




粗野な性格のコバックは、ウィリーに対し「海に沈めろ!」と頑強に主張しますが、「国際法に従って捕虜は当局に引き渡すべきだ」と反論するリットンハウスとスタンリー。

7人の間で激論が戦わされますが、救命艇でバミューダを目指そうとしながらも針路が分からず、自信たっぷりなウィリーの指図に従ってしまうことになります。
やがてガスの足が壊疽(えそ)になり、医者でもあったウィリーは、ガスの足を切断。以降、ウィリーの存在が大きくなっていきます。

水や食料がなくなり、飢えと渇きが救命艇を支配する中、渇きに我慢できず、海水を飲んでしまうガス。
ひとりウィリーだけが疲れを見せず、洋々たる態度でボートを漕いでいきます。

後半からのウィリーの存在は不気味さと威圧感を増し、残りの7人には無力感が漂っているのですが、ガスが見殺しにされたことによって、看護婦のマッケンジーがウィリーに襲いかかり、狂気のフタがはじけたように、黒人のジョーを除く全員がウィリーを襲い、海に沈めてしまいます。

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救命艇に乗り込んだ男女8人という状況設定は、敵国同士であっても、映画「太平洋の地獄」(1968年)のように最後には力を合わせて難局を乗り切ろう、といった友情物語で幕を閉じることが多いと思うのですが、「救命艇」はスタインベック色の濃い、人間の内面に深く踏み込んでゆく展開になっています。

中でも不可解なのはウィリーで、壊疽になったガスの命を救った彼は、最後にはガスを平然と海へ突き落してしまいます。
「なぜ殺したんだ!」とみんなに詰め寄られても、
「おれの気持ちも察してくれ。苦しむガスを解放してやったんだ」と言い放ちます。

渇きに苦しみ、海水を飲んだガスは正気を失いかけていましたから、ウィリーの反論はもっともらしく聞こえますが、少しでも邪魔な人間を減らしてしまおうという冷酷な傲慢さがうかがえます。




「救命艇」は1944年公開なので、ドイツ軍に対するプロパガンダ的な要素を含んでいるようにもみえますが、重厚な人間ドラマとしての性格がとても強いように思います。

7人対1人でありながら、サバイバルの知恵にすぐれ、医者でもあり、三ヵ国語を話す頑丈な体格の持ち主のドイツ軍人ウィリー一人に翻弄されてしまう民間人の7人。

この救命艇での支配関係は、国家の中における軍部の影響力の縮図とも考えられ、また、暴徒と化したコバックたちには加わらず、ひとり理性を保っていたのが人種差別の対象とされていた黒人のジョーだけだったというのもスタインベックらしい配慮かなと思います。

俳優たちの熱演も見もので、何度見ても見ごたえのあるヒッチコックの傑作です。

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2019年03月04日

映画「銃殺」戦場の不条理

「銃殺」(King and Country) 1964年 イギリス

監督ジョセフ・ロージー
脚本エヴァン・ジョーンス
  ジョセフ・ロージー
撮影デニス・クープ

〈キャスト〉
 ダーク・ボガード トム・コートネイ 
 レオ・マッカーン

1964年ヴェネチア国際映画祭男優賞(トム・コートネイ)

原題は「King and Country」。
「国王と国土」「王と王国」といったような意味合いでしょうか。ヨーロッパでは絶対王政は19世紀にほぼ消滅していますから、ここでは支配する者と、そこに住む者、あるいは国王が支配する土地といったような、絶対的支配者と隷属する国民の関係を指しているかとも思います。

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舞台は第一次世界大戦のベルギー、パッシェンデール駐屯地。
パッシェンデールはイギリス・カナダなどの連合軍とドイツ軍が戦った第一次世界大戦の激戦地であり、軟弱な沼沢地(しょうたくち)でもあったために連合軍によるおびただしい戦死者を出した場所でもあります。

そのパッシェンデール駐屯地では、一人の脱走兵に対する軍事裁判が開かれようとしています。
被告は陸軍兵士アーサー・ハンプ(トム・コートネイ)。
ハンプを弁護するのはハーグリーブス大尉(ダーク・ボガード)。
 
しかしハーグリーブスは、「死刑は自業自得だ。皆が戦っているときに逃げた者が悪い」という持論を公言する男。その彼は最初、上官と部下の立場でハンプの話を聞いています。
元々靴職人の23歳のハンプは、妻に裏切られ、義母と妻にそそのかされて戦場にやって来たいきさつをハーグリーブスに語ります。




大砲の音におびえ、大砲から遠ざかって歩いているうちに、足は家に向かっていたと話すハンプ。
朴訥(ぼくとつ)ながら、戦場の実態を知らずに志願してやって来た若者の心情を聞いているうち、ハーグリーブスの態度には変化が現れます。

ハンプを無罪にするべくハーグリーブスは対策を立て、裁判の席上、熱弁をふるいますが、ハンプにもたらされた判決は銃殺でした。

雨上がりのぬかるんだ空き地で目隠しをされて椅子に座り、駐屯地の全員が見守る中、銃殺隊の射撃を受けてハンプは小川の中に倒れますが、いくつかの銃弾はそれて絶命には至らず、近寄ったハーグリーブスはピストルの銃口をハンプの口に入れ、引き金を引きます。

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★★★★★
映画は駐屯地を舞台として展開されていきます。
激戦地であったパッシェンデールですが特に戦闘シーンなどはなく、延々と降り続く雨、泥と水たまりの宿舎、兵舎のベッドを這いまわり、馬の死肉に群がるドブネズミ。

不衛生で不快な駐屯地の様子と、遠くで轟(とどろ)く砲声、画面がモノクロのため、ドキュメンタリー的な寒々とした映像が戦場の一端を伝えています。



 
ハンプの判決は銃殺でしたが、「ひとりの人間の命がかかっているんです」と訴えるハーグリーブスの熱弁とアーサー・ハンプの実直な態度は、裁判の趨勢(すうせい)を無罪へと傾かせていました。

しかし、前線への移動を控えた部隊の士気を高めるため、ハンプの命は犠牲にされてしまいます。

軍隊の中でひとりの若者の命が弄(もてあそ)ばれてしまう、暗く重い映画ですが、演技陣の熱演によるものでしょう、見応えのある裁判劇になっています。

トム・コートネイはヴェネチア国際映画祭で男優賞を受賞しましたが、同時に、深みのある落ち着きと裁判での熱弁。処刑に失敗したハンプに近寄り、ためらわずにハンプに止(とど)めを刺す冷徹な一面を持った軍人を演じたダーク・ボガードはお見事で、主演男優賞でもよかったんじゃないかと思いました。

でも、「銃殺」という邦題はよくないですね、有罪か無罪かを決める裁判劇でもあるわけなのに、判決の結果をそのままバラしてしまってますからね。

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2019年02月28日

映画「情婦マノン」究極の愛の行方

「情婦マノン」(Manon) 1949年 フランス

監督・脚本アンリ=ジョルジュ・クルーゾー
原作アベ・プレヴォー
撮影アルマン・ティラール
音楽ポール・ミスラキ

〈キャスト〉
 セシル・オーブリー ミシェル・オークレール
 セルジュ・レジアニ

ヴェネチア国際映画祭金獅子賞受賞

地中海を航行する貨物船(ユダヤ人を運ぶ密航船でもあります)の中で、若い男女の密航者が発見されます。
男の名前はロベール・クレスタール(ミシェル・オークレール)、女の名前はマノン・レスコー(セシル・オーブリー)。

いつ、どうして密航しようとしたのだ、と船長は二人を問い詰めます。
最初は反抗的な態度だったロベールでしたが、やがて彼の口からそれまでのいきさつが語られてゆきます。

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パリ解放の間近いフランス、ノルマンディーの村。
レジスタンスに身を投じていたロベールは、ある日、ドイツ兵と親交があったという理由で、フランスを売った売国奴として村の人たちからリンチを受けそうになっている若い女性を助けます。

女性を助けはしましたが、最初はまったく関心のなかったロベールは、いつしか彼女の魅力に惹かれ、二人はノルマンディーを離れ、パリで一緒に暮らし始めます。

戦争も終わり、静かな田舎暮らしを望んでいるロベールでしたが、彼女(マノン)は華やかなパリを去る気にはなれず、ロベールの収入だけではパリでの豊かな生活が送れないからと、マノンは働き始め、ロベールもそんな彼女の気を惹くために、闇商売にも足を踏み入れることになります。




マノンは少女のような外見とは裏腹に、贅沢が身に沁み込んだ奔放な女でした。ロベールには、男は一人も知らないと言いながら、実際には数多くの男たちの中で生きてきた娼婦のしたたかさを持った女でした。

マノンの行動を尾行し、娼館でのマノンを発見したロベールでしたが、そんな堕落した女と知りながらも、ロベールは彼女から去る気にはなれず、マノンに対する愛は深まってゆきます。

マノンもロベールの愛に応えようとしますが、闇商売のトラブルからマノンの兄レオンを殺害したロベールは、マノンと二人でパリからの逃避行を続け、貨物船に密航します。

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ロベールの話を聞いた船長は二人に同情し、ユダヤ人と共にパレスチナへの上陸の許可を与えます。

ユダヤ人たちとアレクサンドリアへ上陸したロベールとマノンでしたが、そこには予想もしていなかった悲劇が二人を待っていました。

約束の地パレスチナ
マノン・レスコーはしたたかな女です。
ノルマンディーの村でロベールに助けられ、最初はロベールから冷たくあしらわれていたマノンでしたが、自分の魅力を知っている彼女はロベールに迫り、彼の愛をつかむと戦火の激しくなったノルマンディーを離れ、二人でパリへと向かいます。

贅沢な暮らしを望むマノンは、ロベールの愛を裏切り、娼婦にまで身を持ち崩してゆきます。ロベールはマノンの本性を知りながらも愛を捨て去ろうとはしません。
 



ここまで見てくると、どうしてこんな女がいいのだろうと、ロベールという男の気持ちが理解できません。
しかし、愛とは本来理解できないものなのかもしれません。
男の目からみるとロベールの気持ちは分かりませんが、逆に、自堕落な男に女性が惹かれるという例もあることで、どうしてあんな男がいいのだろうと思われることが世間にはよくあります。

しかし、ロベールがマノンの兄レオンを殺し、一人でマルセイユに向かおうとすることから、マノンの心に変化が生まれます。本当に自分を想ってくれる男はロベールしかいないことに気づくのです。

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「情婦マノン」は中盤からラストにかけてが名匠アンリ=ジョルジュ・クルーゾーの手腕が思う存分に発揮されていると思います。

ロベールを追いかけて、人の波の中から動き出した列車に飛び乗り、大混雑の人混みをかき分けてロベールを探し出すマノン。抱き合う二人のセリフは汽笛にかき消されて聞こえません。ここまでのシーンは、イタリアン・リアリズムと同じく、当時、数多くの名作を生みだしたフランス映画の活力を感じます。

また、この物語はマノンとロベールだけではなく、登場人物すべてに個性が与えられています。
娼館の前でロベールを振り返る通りすがりの男から、娼館のマダム、その小間使い、密航船の船長、金品をもらってマノンの要求を聞いてやる船員、パリのワイン王、マノンの兄レオン。

そして、この映画で重層的な背景をなしているのが、密航船のユダヤ人たちです。
自分たちの国を持たない彼らは、神からの「約束の地」パレスチナを目指しますが、そこに待ち構えていたのはアラブの一団で(この背景はよく分かりませんが、アラビア半島ではアラブの民族紛争が活発化していたので、他民族を排撃する武装集団かもしれません)、マノンはユダヤ人と共に殺戮の犠牲となってしまいます。

ひとり生き残ったロベールは、銃弾に倒れて死体となったマノンを抱き抱え、砂の上を引きずり、服は裂けて乳房が露わになったマノンの死体を担いで歩き、やがて力尽きます。

マノンの死体を顔だけ出して砂に埋め、ロベールはつぶやきます。
「そのうち君は腐るんだ。…それでも僕は君を愛している」

聖書の創世記すら想起させる、恐ろしくも崇高なラストです。

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2019年02月22日

映画「モロッコ」伝説の大スターが共演した不朽の名作

「モロッコ」(Morocco) 1930年 アメリカ

監督ジョセフ・フォン・スタンバーグ
原作ベノ・ヴィグニー
脚本ジュールス・ファースマン
撮影リー・ガームス
音楽カール・ハヨス

〈キャスト〉
 マレーネ・ディートリッヒ ゲイリー・クーパー 
 アドルフ・マンジュー

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北アフリカの北西部に位置するモロッコは立憲君主制国家ですが、20世紀初頭よりイギリス・フランス・ドイツ・スペインなどのヨーロッパ列強の支配にさらされた歴史を持ちます。
 
後にその大部分はフランスの保護領になりますから、映画「モロッコ」はフランス外人部隊と反乱軍との戦いが背景にあると思われます。
映画は特に時代背景や政治状況については何らの説明も与えてはいません。それは政治や国際情勢に重きを置いた映画ではなく、ベノ・ヴィグニーの原作が「アミー・ジョリー」であり、映画のヒロイン、アミー・ジョリー(マレーネ・ディートリッヒ)を描いたものであるからでしょう。




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モロッコの町へ外人部隊がやって来ます。彼らには短い休暇が与えられ、軍隊としての規律を守ることを要求されながらも、ある程度の自由が許されます。
そんな外人部隊の中でも、ひときわ背の高いトム・ブラウン(ゲイリー・クーパー)は酒と女に目がなく、さっそく町の女たちとの休暇を楽しみ始めます。

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一方、町の酒場兼劇場に歌手として海を渡ってきたアミー・ジョリーは、初ステージで観客からブーイングを浴びながらも、冷めた目で観客を見下ろし、その妖艶さがやがて観客を魅了します。
客席にいたトム・ブラウンはそんな彼女に惹きつけられ、トムの目を意識したアミーは部屋のカギをそっとトムの手に握らせます。

トムとアミーは恋に落ちますが、アミーに惹かれたのはトムだけではなく、フランス人の富豪ベシエール(アドルフ・マンジュー)もそのひとりでした。
ベシエールは人間的な懐の深さと財力を併せ持った男で、アミーはベシエールの求婚を受けることを決心します。

失意のトムはアミーに別れを告げ、苛酷な状況の待つ戦場へと出発することになります。
アミーはトムを見捨てることができず、砂漠へと旅立つ部隊の後を追います。

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後の第二次世界大戦では連合軍の兵士の間で厭戦気分を高める歌「リリー・マルレーン」が大ヒットし、伝説的な歌手となったマレーネ・ディートリッヒ。
「モロッコ」と同じ時期に、同じスタンバーグ監督による「嘆きの天使」では生真面目な英語教師を破滅に導く妖艶な堕天使を演じたディートリッヒは、その存在自体が妖しい魅力を放っています。

モロッコの劇場での初日は、観客のブーイングをものともせず、冷徹な眼差しで観客を見る姿はカリスマ性を持った大スターの貫禄たっぷりで、中でも、観客の女性の髪飾りから花を受け取り、彼女の唇にキスをするシーンは、アミー(ディートリッヒ)が男装の麗人であるため、ハッとするほどの一瞬のエロティシズムでした。

中年以降は真面目で人間的な厚みを増したゲイリー・クーパーですが、そんなクーパーのイメージからはほど遠い、軽薄な女たらしのトム・ブラウン。そんな男であっても、兵士仲間からは「あいつは女たらしだが、いい奴だ」と言われる、意外な心の広さを持った男。

しかし、アミーをはさんでベシエールとの間に恋のさや当てめいたものがなかったのは、トムの心の広さと同時に、富豪のベシエールに対して、貧しい一兵士でしかない自分をよく知っていたからなのだともいえます。

トムとベシエールとの間で揺れるアミーは、最後にはベシエールの元を去り、トムの後を追いかけてゆきます。

しかし、この映画、けっしてハッピーエンドとはいえません。




「モロッコ」には数多くの無名の女たちが登場します。
その中で、転戦する部隊の後について歩く5、6人の女たちの一団があります。
ボロをまとい、二匹の山羊を連れて陰鬱な表情で歩く彼女たちを見てアミーは言います。
「彼女たちはなに?」
ベシエールは答えます「護衛部隊だ」
「追いつけるの?」
「追いついても、男が死んでいる場合が多い」

護衛部隊が何を指しているのかは分かりませんが、男たちの愛情を求めている女たちであるのは確かなようです。
「モロッコ」には常に死の影が漂っています。

アミーが登場する船上のシーンで、ベシエールは船長にアミーの素性を訪ねます。
船長は答えます。「舞台芸人ですよ」続けて船長はこう言います。「自殺志願者とも呼ばれています」

片道切符しか持たないため、そう呼ばれるのですが、トムと知り合ったアミーはこんなことも言います。「女の外人部隊もあるのよ。傷ついても保障もなく、勲章もないけど」。

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「モロッコ」の影の主役は、名もなき女性たちでもあります。
部隊の影に寄り添い、誰に振り向かれることもなく、黙々と歩く女性たち。

ラストは、護衛部隊と呼ばれる女性たちに混じってアミーが素足で部隊を追いかける場面で終わるのですが、そこには砂漠を吹きわたる風の音だけがヒュー、ヒューと聞こえて幕を閉じます。

映画史上、最も有名なラストシーンのひとつに数えられるこの場面。
アミーは元気よく護衛部隊の女性たちと共に歩いていくのですが、砂丘の向こうに兵士と女性たちの姿が消え、風の音だけが聞こえるラストは、部隊の全滅と女性たちの死を予感させ、不吉な余韻すら漂っています。

マレーネ・ディートリッヒとゲイリー・クーパー。
伝説の大スターたちが織りなす不朽の名作です。

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2019年02月19日

映画「レベッカ」存在と非存在のミステリー

「レベッカ」(Rebecca) 1940年 アメリカ

監督アルフレッド・ヒッチコック
原作ダフネ・デュ・モーリア
脚本ロバート・E・シャーウッド
  ショーン・ハリソン
音楽フランツ・ワックスマン
撮影ジョージ・バーンズ

第13回アカデミー賞作品賞, 撮影賞受賞。

〈キャスト〉
 ジョーン・フォンテイン ジョージ・サンダース
 ローレンス・オリヴィエ

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「昨夜、私はまたマンダレイへ行った夢をみた」
若い女性の追想で始まるダフネ・デュ・モーリアの長編小説「レベッカ」が原作。
 
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保養地モンテカルロで「わたし」は、城のような広大な屋敷を所有する貴族マキシム・デ・ウィンターと知り合います。

妻を亡くしたばかりのマキシムには暗い影が漂っていますが、「わたし」は20歳以上も年上のマキシムに惹かれ、マキシムもまた、“見すぼらしい上着とスカートをつけ、…哀れな小娘にすぎない、世間を知らない初心(うぶ)な「わたし」”に惹かれてゆき、簡素ではありますが、二人は結婚式を挙げます。

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ここまでなら、「わたし」のシンデレラストーリーなのですが、マキシムと共にイギリスに帰り、広大なマンダレイに到着した日から「わたし」には悪夢のような日々が始まります。
マキシムの前妻、死んだはずのレベッカの存在が「わたし」の日常に大きな影となってまつわりつきます。

貴族社会の出来事なので、一般的には馴染みにくいように思えますが、ヒロインの「わたし」は身寄りのない、どちらかといえば内気な性格の女性であるため、読者は「わたし」の気持ちに寄り添いやすく、「わたし」と同じように疑心暗鬼にとらわれたミステリアスな世界に足を踏み入れることになります。




また、この物語の特徴的なところは、ヒロインの「わたし」に名前がなく、大きな影の存在となるレベッカはすでに死んでいて存在していません。

レベッカは知性あふれる美貌の持ち主でした。
そのレベッカの影に怯え、夫であるマキシムの愛情をも信用できなくなる「わたし」は、レベッカを崇拝する女中頭デンヴァース夫人の策略によって精神的に追い詰められてゆきます。

ですが、意外な方向へ話は進み、まさにどんでん返しといってもいい結末が「わたし」と読者を待っています。

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映画「レベッカ」は、デヴィッド・O・セルズニックが製作に乗り出し、巨匠アルフレッド・ヒッチコックが監督を手がけました。

2時間を超える映画ですが、小説を読んでから映画を観ると、ストーリー展開が速すぎるのと(逆にいえば、あれだけの長編を2時間少しの時間によくまとめ上げたと思います)、この時代の映画の特徴で、俳優たちのしゃべるセリフが早口のため、せかせかした印象を受けます。

それはともかくとして、
「わたし」を演じたジョーン・フォンテインは、アカデミー主演女優賞にノミネートされ、受賞は逃しましたが、素晴らしい美貌でありながら、レベッカの大きな影に絶えず怯える少女のように繊細な表情は、とても魅力的。

レベッカの謎の死と、それにまつわるマキシム(ローレンス・オリヴィエ)の行動は、原作をそのまま映画化することは憚(はばか)られたようで、映画は多少ソフトなものになっていますが、それでも、レベッカという女性の強烈な個性が前面に現れるクライマックスは、まさに意外性の極地ともいえます。

存在する「わたし」に名前がなく(名前が表記されず)、レベッカという名前を持つ女性は、すでに死亡していて存在していません。
原作者ダフネ・デュ・モーリアの投げかけた存在と非存在が織りなすミステリーは、人間心理の内面に潜む二面性を描いたものでもあるかと思います。

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2019年02月15日

映画「大いなる幻影」国境を超えた愛と友情

「大いなる幻影」(La Grande Illusion) 
 1937年 フランス

監督ジャン・ルノワール
脚本シャルル・スパーク
  ジャン・ルノワール
音楽ジョゼフ・コズマ
撮影クリスチャン・マトラ

〈キャスト〉
 ジャン・ギャバン ピエール・フレネー
 エリッヒ・フォン・シュトロハイム

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第一次世界大戦のヨーロッパ戦線。
フランス空軍のマルシャル中尉(ジャン・ギャバン)とド・ポアルデュー大尉(ピエール・フレネー)はドイツ軍陣地の偵察のために空中撮影を行うべく戦闘機で飛び立ちますが、あえなく撃墜され、捕虜の身となってしまいます。
 
二人は収容所送りとなりますが、捕虜仲間の中にドイツ軍に顔の利くユダヤ人で銀行家の息子のローゼンタール中尉(マルセル・ダリオ)がいたため、マルシャルたちは本国から送られてくる豊富な食料によって、贅沢な食事やコニャックを味わい、仮装ダンスを楽しむことまで許されていました。




しかし、そういった中にも国家への義務として脱走の計画が準備され、着々と進められていきますが、脱走のためのトンネルも完成し、今夜が決行というときになって、マルシャルたちに収容所の変更が告げられます。
ドイツ国内の収容所を転々と移動し、スイスとの国境に近い堅固な城塞「ウィンターズボルン」に落ち着くことになります。

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ここでも脱走の計画は準備され、ド・ポアルデュー大尉の犠牲によって、マルシャルとローゼンタールは脱走に成功します。

しかし、逃亡の疲労と空腹が二人を襲い、絶望感に苛(さいな)まれながらも二人は一軒の農家にたどり着きます。
小さな娘と二人暮らしの未亡人エルザ(ディタ・パルロ)は、マルシャルたちを脱走兵と知りつつかくまい、やがてマルシャルとエルザには愛情が芽生えることになります。

エルザの家で数日を過ごしたマルシャルとローゼンタールでしたが、やがてエルザとの別れの日がやってきます。
悲しみに暮れるエルザを残し、二人はスイス領内を目指して深い雪の中を歩いてゆくのでした。

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映画は三部から構成されています。
一部では最初の収容所での生活が描かれ、脱走の準備のほかには、これといったストーリー展開はなく、むしろ、収容所内でのゴタゴタとした様子が描かれていくのですが、それがつまらないのかというと、そうでもなく、特に、これが収容所なのかと思わせるような、フランス兵による女装ダンスは気味が悪いほど華やかで、後に「フレンチ・カンカン」を撮ることになるジャン・ルノワールの面目躍如といった感があります。

二部では一転。「ウィンターズボルン収容所」は中世の雰囲気を漂わせた古色蒼然とした堅固な城塞で、ここでマルシャルとローゼンタール、そしてド・ポアルデューの三人の立場、生い立ちの違いなどが鮮明になってゆきます。

さらにドイツ軍のラウフェンシュタイン大尉(エリッヒ・フォン・シュトロハイム)の再登場が、第一部の陽気さとは打って変わって、ドラマに深さと厚みが増してゆきます。

折れた脊椎を銀のプレートで固定しているため、常に直立不動の姿勢を保つラウフェンシュタインは騎士道精神にあふれた職業軍人であり、貴族です。

同じ職業軍人で貴族であるド・ポアルデューを敬愛し、またド・ポアルデューもラウフェンシュタインとの友情を育むことになりますが、自分たちが滅びゆく階級であることを自覚している二人は、貴族としての誇りを失わず、それを象徴する白い手袋をはめたド・ポアルデューは死を選ぶことになります。




個人的には、初めて「大いなる幻影」を見たとき、最も強烈な印象を残したのがラウフェンシュタインでした。
敵兵であっても敬意を払い、滅びゆく貴族として翳(かげ)りを宿しながらも、軍人としての職務を遂行し、敬愛するド・ポアルデューを自らの銃弾で死に至らしめたラウフェンシュタインの姿には、日本の武士道にも通じる精神性を感じました。

題名の「大いなる幻影」とは、終戦によって平和が訪れることを指した反語のようです。
ラスト近くで、マルシャルのいった言葉に対するローゼンタールの言葉に表されています。

「大いなる幻影」は反戦映画ともみられていますが、スタインベックが「怒りの葡萄」で1930年代の大恐慌を背景に人間愛を描いたように、ジャン・ルノワールは第一次世界大戦のドイツ収容所、そしてエルザの家庭を舞台として、国境を超えた友情や男女の愛を描いたのだと思います。

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2019年02月13日

映画「疑惑の影」- 憧れの叔父さんは殺人魔?

「疑惑の影」(Shadow of a Doubt) 1943年アメリカ

監督アルフレッド・ヒッチコック
脚本ソーントン・ワイルダー
  アルマ・レヴィル
  サリー・ベンソン
音楽ディミトリ・ティオムキン
撮影ジョセフ・ヴァレンタイン

〈キャスト〉
 テレサ・ライト ジョゼフ・コットン 
 ヘンリー・トラヴァース マクドナルド・ケリー

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カリフォルニアの静かな町サンタローザ。
銀行家ジョセフ・ニュートン(ヘンリー・トラヴァース)の長女であるチャーリー・ニュートン(テレサ・ライト)は、何不自由のない生活でありながら、自分の人生に変化を求めて、平凡な生活に嫌気がさしています。

そんなチャーリーのもとへ、かねてからの憧れであった叔父のチャールズ・オークリー(ジョゼフ・コットン)が現れます。
チャーリーと同じ名前を持つ叔父のチャールズ(チャーリー)がやって来たことで彼女は大喜び。
チャールズ・オークリーは成功した実業家であり、名声も高いことからニュートン一家は彼を歓迎。町での講演も依頼されたりします。

そんなチャールズですが、実は彼には連続未亡人殺人の容疑がかかっていて、姪のチャーリーは少しずつチャールズの挙動に不審を覚え、やがて殺人事件の真相を知ることになります。

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★★★★★
巨匠アルフレッド・ヒッチコック監督によるサスペンス・スリラーですが、「疑惑の影」という題名にいささか惑わされてしまいます。

映画半ばで疑惑はほぼ解明され、後半からはスリラーへと変化してゆくからです。
ミステリータッチでありながら、少し肩透かしをくったような展開になりますが、スリラーに突入してからのチャーリーに迫る命の危機や、ラストの列車のシーンなど、正統派スリラーの醍醐味を十分に味あわせてくれます。




チャールズ・オークリーはニュートン家に滞在することになり、家族の集う食事の最中、彼はこんなことを言います。
「暇を持て余した金持ち女は醜いブタだ」
この発言は繰り返され、カメラはチャールズ・オークリーの横顔にズンズンと迫ります。
 
チャールズ・オークリーという男の内面がカメラの演出で巧みに表現され、ラスコーリニコフ的な歪んだ社会感覚がチャールズの内奥を占めているのだということがあぶり出されていきます。

また、チャーリーの憧れであったカッコイイ叔父さんが実は…。
という設定は、最も近しい人が善人の仮面をかぶった恐ろしい存在だったという、人間不信をおこさせるようなスリラーになるのですが、幼児期のチャールズ・オークリーの様子が姉の口から語られることによって、彼の歪んだ人間性の一旦を垣間見ることになります。

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さらに特筆すべきは、可憐なヒロインを演じたテレサ・ライト。
後年のヒッチコック好みのブロンドの美女というより、清楚な雰囲気を漂わせた美人で、退屈な日常を憂(うれ)いていた彼女が、死を目前にする恐怖に追いやられてしまうストーリー展開は「青い鳥」を裏返しにしたような、寓話的な面白さを感じました。

ただ、欠点もいくつか見られて、時間的な制約があったのか、政府の調査員のジャック・グラハム(マクドナルド・ケリー)が刑事だと分かってしまう場面は唐突な感じで、編集でどこかのシーンがカットされたような印象が残りましたし、執拗に繰り返される「メリー・ウィドウ・ワルツ」はチャールズの暗い過去に関連があったように思われるのですが、それもいつの間にか立ち消えになってしまいました。

それでもヒッチコックの演出の冴えは随所に光り、ジョゼフ・コットンの名演技、テレサ・ライトの可憐な魅力、ヘンリー・トラヴァースのおっとりとした人間味とユーモアなど、戦時中の映画とは思えない、ゆったりとした時代性すら感じさせる佳作です。

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2019年02月10日

映画「身代金」誘拐犯人への逆襲劇

「身代金」(Ransom) 1996年 アメリカ

監督ロン・ハワード
脚本リチャード・ブライス
音楽ジェームズ・ホーナー
撮影ピョートル・ソボジンスキー

〈キャスト〉
メル・ギブソン レネ・ルッソ 
ゲイリー・シニーズ デルロイ・リンドー

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原題の「Ransom」はそのものズバリ「身代金」
誘拐をテーマとした映画は日本でもたくさんあって、「誘拐報道」(1982年/監督・伊藤俊也)、「大誘拐」(1991年/監督・岡本喜八)。

中でも最もヒューマンなものとしては黒澤明監督の傑作「天国と地獄」(1963年)でしょうか。
ちょっと異色なところではウィリアム・ワイラー監督の「コレクター」(1965年) なんかも誘拐映画のカテゴリーに入りますが、誘拐する目的として最も多いのが営利誘拐ですから、「コレクター」のように美女を誘拐して収集しようとする趣味の誘拐とは目的を異にします。

誘拐事件として日本人によく知られているのは、昭和38年3月31日に起きた、いわゆる「吉展(よしのぶ)ちゃん事件」で、犯人は4歳の少年を誘拐して両親に身代金を要求。
結局、犯人は逮捕されましたが、被害者の少年は2年後に白骨化した状態で発見されました。

誘拐事件にハッピーエンドはあり得ません。誘拐が成功すれば喜ぶのは犯人だけで、身代金は返ってこないし、最悪の場合は被害者は殺害されている可能性が高くなります。




映画「身代金」は、身代金そのものを題材にしているだけあって、従来の誘拐映画とはちょっと趣(おもむき)の違ったものになっています。
この映画のユニークなところは、誘拐された少年ショーンの父親トム・ミュレンが最悪の場合を想定してしまったところにあります。

★★★★★
最愛の息子が何者かに誘拐された。要求金額は200万ドル。息子は生きているんだろうか。とにかく要求された金額を支払うしかない。トム・ミュレンは航空会社の社長だからお金はあります。

しかし、受け渡し場所にFBIが現れ、受け渡しは失敗に終わります。
再び犯人からの要求。
もう一度受け渡し場所を指定される。
受け渡し場所へ向かう車の中でトムは考えます。犯人の要求通りに身代金を渡せば、きっと息子は殺されるに違いない。いや、もうすでに殺されているかもしれない。

これは無理な発想ではなく、現実には最悪のケースが多いのですから、トムがそう考えても無理はありません。
よし、こうなったら逆襲だ!  身代金なんか犯人にくれてやるものか。

トムはテレビ局へと直行して犯人へのメッセージを発表します。
「身代金はお前らへの懸賞金だ! 犯人逮捕の手がかりを教えてくれた者にこの金(200万ドル)を懸賞金として与える」
 
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犯罪映画史上奇想天外な成りゆきに発展したこの映画は、まさにアメリカ映画だから可能なのでしょう。実際にこんなことをすれば捜査の妨げになるし、厳しい世論の反発が予想されます。現実に息子が殺されているという確証はないわけですし、犯人逮捕の賭けとするには、もし息子が生きていたとしたら、あまりにも危険すぎます。

この常軌を逸した行動を説得力のあるものにしてしまったのがメル・ギブソンの熱演と、その妻ケイトを演じたレネ・ルッソ。
常軌を逸した夫とは当然、意見の対立があって、正論を主張しながら夫と激しく対立するケイトの姿はこの映画の見せ場といってもいいと思います。

また、身代金が懸賞金に変わったことにより、犯人側にも動揺が広がります。
犯人グループの首謀者で悪徳刑事のジミー・シェイカー(ゲイリー・シニーズ)に対し、仲間うちでの裏切りが表面化してゆくことになります。

犯罪映画であってもエンターテインメントであり、小気味のいいテンポで見る者をグイグイと引っ張ってくれる正統派娯楽映画です。

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