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2024年01月01日
天晴地明 識法華者可得世法歟
本日は、元旦であり、初日の出の日です。今後は、旭日昇天の勢いでありたいですね。旭日を連想させる御文を拝しましょうか。
太陽が昇れば、大地は明るくなります。それと同じように法華経を識り仏の境涯を得ると世の中のことを見通すことができると日蓮は言います。
ここでいう「世法」は、正嘉の大地震(1257年8月)や文永の彗星(1264年7月)という出来事から四大菩薩(本化地涌の菩薩の上首である上行、無辺行、浄行、安立行の四菩薩)の出現を見通し把握することですが、我々としては、その意味だけでなく、大きく「世法」を捉えてみたいと思います。世の中の事象すべてと考えてみたいですね。
つまり、信仰をするならば、世の中のことについても、すべてを把握することはできないにしても、おおよその事柄については、よりよく理解すべきと思うのですね。一般教養といわれるようなものは身に付けておくべきですね。ただ、なんとなく識っているというのではなく、勘所を押さえた教養、知識であればよいと思います。知識というよりは智慧に近いものといえましょうか。
信仰だけしておればよいという安易な考え方は、法華経信仰には馴染みません。法華経を識る者は、その智慧に基づき、世の中の事にも通じていくというのが正しいあり方でしょう。また、仕事をしている場合、その仕事の知識、智慧、技術等を常にバージョンアップする姿勢が必要です。
そもそも、日蓮は、仏教だけでなく世法に通じている人でありました。貞観政要などの書物を読み、中国の政治思想にも通じていました。御書を読みますと儒教にも造詣が深かったことが分かります。「問注得意抄」を読むと、問注所(裁判所)での手続きにも詳しいことが窺われます。また、人間心理についても深い洞察があり、ただ者の僧侶ではないことが分かります。仏教以外の様々な書を読んでいたであろうことが日蓮の筆から読み取れるのですね。日蓮自らが「法華を識る者は世法を得べきか」を実践していたわけです。
我々も、日蓮ほどではなくとも、我々に応じた「法華を識る者は世法を得べきか」を実践していきたいものです。仏法と世法とは繋がっているのですから、片方しか識らないというのは、バランスが悪いのですね。
それこそ旭日昇天の勢いで法華経、世法に通じ、仏の境涯となれるよう精進すべきですね。
天晴れぬれば地明らかなり。法華を識る者は世法を得べきか。
『日蓮大聖人御書全集』新版 146頁 (如来滅後五五百歳始観心本尊抄(観心本尊抄))
太陽が昇れば、大地は明るくなります。それと同じように法華経を識り仏の境涯を得ると世の中のことを見通すことができると日蓮は言います。
ここでいう「世法」は、正嘉の大地震(1257年8月)や文永の彗星(1264年7月)という出来事から四大菩薩(本化地涌の菩薩の上首である上行、無辺行、浄行、安立行の四菩薩)の出現を見通し把握することですが、我々としては、その意味だけでなく、大きく「世法」を捉えてみたいと思います。世の中の事象すべてと考えてみたいですね。
つまり、信仰をするならば、世の中のことについても、すべてを把握することはできないにしても、おおよその事柄については、よりよく理解すべきと思うのですね。一般教養といわれるようなものは身に付けておくべきですね。ただ、なんとなく識っているというのではなく、勘所を押さえた教養、知識であればよいと思います。知識というよりは智慧に近いものといえましょうか。
信仰だけしておればよいという安易な考え方は、法華経信仰には馴染みません。法華経を識る者は、その智慧に基づき、世の中の事にも通じていくというのが正しいあり方でしょう。また、仕事をしている場合、その仕事の知識、智慧、技術等を常にバージョンアップする姿勢が必要です。
そもそも、日蓮は、仏教だけでなく世法に通じている人でありました。貞観政要などの書物を読み、中国の政治思想にも通じていました。御書を読みますと儒教にも造詣が深かったことが分かります。「問注得意抄」を読むと、問注所(裁判所)での手続きにも詳しいことが窺われます。また、人間心理についても深い洞察があり、ただ者の僧侶ではないことが分かります。仏教以外の様々な書を読んでいたであろうことが日蓮の筆から読み取れるのですね。日蓮自らが「法華を識る者は世法を得べきか」を実践していたわけです。
我々も、日蓮ほどではなくとも、我々に応じた「法華を識る者は世法を得べきか」を実践していきたいものです。仏法と世法とは繋がっているのですから、片方しか識らないというのは、バランスが悪いのですね。
それこそ旭日昇天の勢いで法華経、世法に通じ、仏の境涯となれるよう精進すべきですね。
2023年01月01日
観心本尊抄の核心
今、本時の娑婆世界は、三災を離れ四劫を出でたる常住の浄土なり。仏、既に過去にも滅せず、未来にも生ぜず、所化もって同体なり。これは即ち己心の三千具足、三種の世間なり。
『日蓮大聖人御書全集』新版 136頁 (観心本尊抄)
この部分は、「四十五字法体段」といわれています。漢文で漢字四十五字からなっているのでそう呼ばれているのですね。確認してみましょう。
今本時娑婆世界離三災出四劫常住浄土 仏既過去不滅未来不生 所化以同体 此即己心三千具足三種世間也
確かに四十五字になっていますね。
この箇所は、観心本尊抄の核心部分ですね。我々が住むこの世界が浄土であると示した御文です。
そして、仏は、常住であり、また、我々も常住であるという。つまり、仏と我々が一体であることを示しているのですね。我々が成仏できることを明確にした御文といえるでしょう。
依正不二をもあらわしており、環境と我々とが切っても切れない関係であることを示しています。
我々の住む娑婆世界を浄土にするのは、我々の信仰、生き方、振る舞いにかかっています。いくら娑婆世界が浄土といっても、何もしなければ浄土にはなりません。やはり、我々がことを起こす必要があるのですね。その根本に信仰があり、その上で行動していけば、この世の中は浄土に近付いていきます。所詮は、我々次第であることを教えてくれる御文ということですね。
2022年01月16日
血肉化、骨髄化
妙覚の釈尊は我等が血肉なり。因果の功徳は骨髄に非ずや。
『観心本尊抄 訳注』小松邦彰訳 山喜房佛書林 39頁
最高の悟りを得た釈尊は、我々の血肉であり、因果の功徳も我々の骨髄であるという御文です。
仏の境涯の釈尊が我々の中にあるとは、通常、想像しがたいですね。仏なるものは、我々の外にあり、崇める対象と考えてしまいがちです。
しかし、日蓮によると、我々の血肉の中にあるという。また、釈尊の因果の功徳も我々の骨髄に貫いているというのですね。仏は、我々の中にあるということです。
そもそも、仏教は、成仏するためにあるといえるわけですが、成仏とは、その字のとおり、仏に成ることですから、自分自身が仏になるということです。自分の中に仏がないならば、仏に成ることなどできないわけで、この観点からすると、日蓮の指摘は、至極当然ともいえます。
そうはいっても、一信仰者として、仏教に接する際、なかなか、自分の中に仏があるとは、それも釈尊クラスの五十二位最高の妙覚が自分自身の中にあるとは思えないものです。
日蓮は、「観心本尊抄」において、このような自分の中に仏などあるわけがないという人物を登場させ、それに対し、自分の中に仏があることを説明していき、その上で、上記の御文が出てきます。
自分の中にという点が重要ですね。自分の外では、意味がないわけです。これは、読書についても同様です。読書の本質は、読んだ本を血肉化、骨髄化することです。たくさんの本を本棚に飾ることではありません。
知識に対するコンプレックスが強い場合、本が異常に増えていきます。また、本棚の増強も行い、また、本が増えていきます。その割には、読書をしないという特徴があります。本は増えるが、読書量は増えないという珍妙な結果が生じます。
根本が知識コンプレックスであり、純粋に本を読みたいという志がないからなのですね。単なるコンプレックスでは、あれもこれもと欲張るばかりで焦点が定まらないのですね。よって、本だけ増えて、読書しないものですから肝心の知識が増えないという悪循環になります。
この場合、知識コンプレックスがあると認め、その上で、そのようなコンプレックスなど必要ないことを認識し、自分に必要な本を選択し、その本を血肉化、骨髄化するまで読むことです。
しかし、読んだ本を血肉化、骨髄化するまで読むことは、なかなかありません。1回読んでおしまいということが多いでしょう。もちろん、1回読むだけでよい本がほとんどですから、別に問題ないように思いますが、中には何度も読むべき本もあり、そのような本については、血肉化、骨髄化するまで読み込む必要があります。聖典類、古典類、名作類などが血肉化、骨髄化の対象となる本といえましょう。
血肉化、骨髄化した本があればあるほど、自分自身の境涯は上がっていきます。自分の中に存在するわけですから、なくならないのですね。誰にも奪われることのない貴重な財産といえるでしょう。このような読書を心掛けることが大切です。
2021年11月28日
現証
悉達太子は人界より仏身を成ず。これらの現証をもってこれを信ずべきなり。
『日蓮大聖人御書全集 新版』129頁(観心本尊抄)
観心本尊抄は、凡夫に仏が存在することを示している書ですが、文献の側面から、また、理の側面からの説明では、やはり、説得に困難が生じます。そこで、文証、理証とは違う現証から説明をしています。
悉達太子とは、釈尊の出家前の名前ですが、つまり、釈尊が仏になった、仏陀になったという現実の証拠により、凡夫に仏があることを説明しています。
釈尊が説いた経典は文証であり、その中で展開されている内容は、まさに理証ですが、そもそも釈尊が仏となったという現証が、一番、説得力を持ちますね。
仏法の信仰は、釈尊の存在に大きく依存しています。釈尊なくして仏法なしといえます。
我が身に仏が存在するか否かということが一大事であり、そこを信仰することができるかどうかが肝要です。信仰とは、自らの仏性への信であり、そのような信がなければ、信仰とはなり得ません。
要点は、自らの仏性であり、教団や自分の外にあるものを信仰の対象としてはなりません。本尊に向かい、方便品、寿量品を読誦し、題目を唱えるにしても、結局、それは、自分自身の仏性に向かっているということなのですね。
そして、自らが仏性を開くという現証を出すことが重要です。「悉達太子は人界より仏身を成ず」だけで留まってしまうならば、単なる過去の事例の確認にすぎなくなります。自分自身がどうであるかというところが、信仰の要点なのですね。
2021年11月19日
とりあえず努力、精進をするといいことがある
四大声聞の領解に云わく「無上の宝珠は、求めざるに自ずから得たり」
『日蓮大聖人御書全集 新版』135頁(観心本尊抄)
人はそれぞれ、目的、目標など目指すものがありますが、その目的物が手に入ることは少ないものです。だからといって、その目的とするものを獲得しようとする努力、精進が無駄であったかというとそうでもないのですね。
自分が求めていなかったけれども、結局、自分にとって必要な適切なぴったりしたものが手に入ることがあります。これが、「無上の宝珠は、求めざるに自ずから得たり」ということなのでしょう。
努力、精進は続けなければなりません。そうしますと、自分にふさわしいものが手に入ります。当然、努力、精進をしなければ、何も手に入りません。
自分が欲するものが自分にとって重要であるかどうかは、意外と分からないものです。単に欲しているだけで、単なる貪欲にしか過ぎないということもあります。自分のことを自分が一番分かっているという側面もありますが、一番分かっていないという側面もあります。
ここは、気楽に「無上の宝珠は、求めざるに自ずから得たり」という態度で、努力、精進はしながらも、余裕を持って生きていくことが仏法的といえるでしょう。
2020年12月30日
世間のことをよく知っているのが、本当の信仰者であること
天晴地明。識法華者可得世法歟。
天晴れぬれば地明らかなり。法華を識る者は世法を得可きか。
観心本尊抄の御文ですね。
太陽が昇れば、地が照らされ、地にあるものが明らかになり、見通すことができます。
これと同様に、法華経を識る者は、世法、世間のことを識ることができるというわけですね。
御書、遺文を読みますと、日蓮が仏教だけでなく、世法についても博学であることが窺い知れます。
どの宗教であれ、自宗のことだけしか知らないとおぼしき人がいますが、信仰者の姿勢としては間違っていると断じてよいでしょう。
少なくとも、日蓮の仏教を信仰するならば、上記の本尊抄の御文の通り、世法、世間の事柄についても博学であるべきですね。
もちろん、世間の事柄すべてについて知るのは不可能ですから、一般教養的な事柄については、薄くとも幅広く知識を得ておくことですね。
そして、それぞれ、人には専門といえる分野があるものですから、その分野については、狭くとも深い知識を得るということですね。
バランスよく世法、世間の事柄を知るのが信仰者のあり方といえましょう。
2020年08月23日
まずは、功徳を得ること
釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す。我等此の五字を受持すれば、自然に彼の因果の功徳を譲り与えたまう。
如来滅後五五百歳始観心本尊抄
この部分は、三十三字段というようです。文字数が三十三字であるのか原文で確認してみましょうか。
釈尊因行果徳二法妙法蓮華経五字具足。
我等受持此五字自然譲与彼因果功徳。
確かに三十三字ですね。
釈尊のなしてきた修行及びその修行によって獲得された功徳の二つが妙法蓮華経という五字に具わっているといいます。思い切った主張ですね。
釈尊が説いたとされる八万法蔵の経典だけを考えても膨大であり、その経典が成立するために釈尊がなしてきた修行をも加えると、相当の量があるといえます。それが、妙法蓮華経の五字に納まるとは、やはり、思い切りのいい考え方です。
庶民が膨大な仏教経典を修めることは無理であり、それ故、功徳に与れないとなると何のための仏教なのかと日蓮は考えたのでしょう。
仏教を修めて、それから功徳という方向ではなく、まずは、功徳に与りながら仏教を修めていくという方向が日蓮の仏教の特色でしょう。
そのために、日蓮は、釈尊の八万法蔵の経典から妙法蓮華経を選び出し、それから妙法蓮華経の題号の五字に釈尊の仏教のすべてを集約させました。
そして、我々がこの妙法蓮華経の五字を受持する、つまり、信仰することにより、釈尊の仏教の功徳すべてを自然に無理なく譲り与えられるというわけです。
このような仏教は、釈尊の仏教の功徳を得ているとはいえ、もう釈尊の仏教の枠を飛び越えています。釈尊は、妙法蓮華経の五字に自らの仏教を集約させたわけではありませんから。故に日蓮の仏教となるのでしょう。
妙法蓮華経の五字を受持し、信仰の表われとして「南無」を付け、「妙法蓮華経」と唱えると、「南無妙法蓮華経」となり、ここに唱題行が成り立ちます。
まずは、唱題を行い、功徳を得ていき、その上で、仏教の研鑽を続け、また、世の中での活動においても功徳に基づきながら、自らの力を発揮していくという流れが出てきます。
功徳を得て、そこから広がっていくというイメージですね。
修行、研鑽を行い、最終的に功徳に至るという方向ではないですね。
まずは、功徳、そこから展開というのが日蓮の仏教といえるでしょう。
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