天晴れぬれば地明らかなり。法華を識る者は世法を得べきか。
『日蓮大聖人御書全集』新版 146頁 (如来滅後五五百歳始観心本尊抄(観心本尊抄))
太陽が昇れば、大地は明るくなります。それと同じように法華経を識り仏の境涯を得ると世の中のことを見通すことができると日蓮は言います。
ここでいう「世法」は、正嘉の大地震(1257年8月)や文永の彗星(1264年7月)という出来事から四大菩薩(本化地涌の菩薩の上首である上行、無辺行、浄行、安立行の四菩薩)の出現を見通し把握することですが、我々としては、その意味だけでなく、大きく「世法」を捉えてみたいと思います。世の中の事象すべてと考えてみたいですね。
つまり、信仰をするならば、世の中のことについても、すべてを把握することはできないにしても、おおよその事柄については、よりよく理解すべきと思うのですね。一般教養といわれるようなものは身に付けておくべきですね。ただ、なんとなく識っているというのではなく、勘所を押さえた教養、知識であればよいと思います。知識というよりは智慧に近いものといえましょうか。
信仰だけしておればよいという安易な考え方は、法華経信仰には馴染みません。法華経を識る者は、その智慧に基づき、世の中の事にも通じていくというのが正しいあり方でしょう。また、仕事をしている場合、その仕事の知識、智慧、技術等を常にバージョンアップする姿勢が必要です。
そもそも、日蓮は、仏教だけでなく世法に通じている人でありました。貞観政要などの書物を読み、中国の政治思想にも通じていました。御書を読みますと儒教にも造詣が深かったことが分かります。「問注得意抄」を読むと、問注所(裁判所)での手続きにも詳しいことが窺われます。また、人間心理についても深い洞察があり、ただ者の僧侶ではないことが分かります。仏教以外の様々な書を読んでいたであろうことが日蓮の筆から読み取れるのですね。日蓮自らが「法華を識る者は世法を得べきか」を実践していたわけです。
我々も、日蓮ほどではなくとも、我々に応じた「法華を識る者は世法を得べきか」を実践していきたいものです。仏法と世法とは繋がっているのですから、片方しか識らないというのは、バランスが悪いのですね。
それこそ旭日昇天の勢いで法華経、世法に通じ、仏の境涯となれるよう精進すべきですね。