新規記事の投稿を行うことで、非表示にすることが可能です。
2017年02月27日
鬼石蔓子?A
にほんブログ村
前回からの続きです。
慶長の役で出兵していた大名達の中でも「島津」の名を知らしめた
合戦が「泗川の戦い」です。
朝鮮半島の泗川という所で、島津義弘率いる島津軍約7千が、明の武将董一元
の率いる5万ともいわれる明・朝鮮連合軍と戦い、これを撃退した戦いです。
泗川古城を取り囲む、数万の敵軍に対しうって出て義弘自ら先頭に立ち、鬼神の
ように刀を振るい続け、その勢いに押された董一元は多くの戦死者を出しながら
敗走していきました。この戦いで敵軍は島津軍の事を、鬼石蔓子(おにしまず)
と呼ぶようになり、大いに恐れられたといわれています。
敵の大軍来襲の報を聞いて、近くに陣を構えていた「立花氏」「宋氏」からの援軍
の申し入れを断ったというのも「島津義弘」の勇猛さを物語っているようです。(続く)
鬼石蔓子?@
にほんブログ村
天下人となった秀吉の(妄想?)によって始められた「慶長の役」。
朝鮮出兵ともいわれますが、実際には「明」国の征服が目的でした。
釜山から上陸した日本勢は、明を目指しますが、続々と押し寄せる明軍に
阻まれ、朝鮮半島が主戦場となりました。
出兵させられた日本軍の武将達の主な顔ぶれを見ると「宇喜多秀家・小西行長・
加藤清正・黒田長政・毛利勝信・福島正則・小早川隆景」など数十家、およそ
十五万の大軍勢でした。
薩摩からは島津義弘が、実子の「家久」、後の佐土原城主で関が原の戦いで死んだ甥の
「豊久」と約7.000名の軍勢を率いて参加しました。
秀吉死去の報を受け、全軍撤退するまで、およそ6年あまりも異郷の地で戦い続けていたとは
なんとも悲惨な事だったのかと思わずにいられません。 (続く)