新規記事の投稿を行うことで、非表示にすることが可能です。
2016年08月15日
第323回 日本社会主義同盟
文●ツルシカズヒコ
日本社会主義同盟の発会式が開催されたのは一九二〇(大正九)年十二月十日だったが、前日の十二月九日、鎌倉の大杉宅で発会式に出席する四十余名の各府県代表者歓迎会が開かれた。
大阪、山梨、名古屋、岩手、富山、兵庫、堺、横浜、東京からの出席者たちで、東京からは高津正道、久板卯之助、吉田一、大阪からは武田伝次郎などが出席していた。
『東京朝日新聞』(十二月十日)が「鎌倉では示威運動で十三名検挙 大杉氏歓迎招待の四十名」という見出しで報じている。
正午に大杉の挨拶で開会した歓迎会は、まもなく官憲の中止解散命令によって散会させられた。
一同は鎌倉見物と称して鶴ヶ岡八幡宮から雪の下通りを練り歩き、示威運動を試み、午後二時半に再び大杉宅に集会した。
四十余名の巡査が大杉宅を包囲し、鎌倉署が一同を検束、十三名を残し放還されたが、午後五時半ごろ放還された同志が革命歌を合唱しつつ鎌倉署に押し寄せ「検束者を放還するか、全員を検挙せよ!」と叫んだ。
野枝は新橋で倒れて妊娠中の体を痛め、前夜には医師の往診を受けるなど安静にしていた(大杉豊『日録・大杉栄伝』)。
この騒擾により、大別荘連(鎌倉に大きな別荘を持っている有力者たち)の間に、大杉一家が鎌倉に居住することは鎌倉の安寧を害するという話が持ち上がり、それが警察に伝わり、大家を巻き込んだ立ち退き要求につながっていく。
大杉はこの騒擾について、こう書いている。
四五十人の仲間が、三度も警察へ押しかけて、怒鳴る、歌ふ。
中にはいつてゐる仲間もそれに応じる。
そして其の四五十人が先頭になつて百人あまりの群集が、バケツで音頭をとつて、町の大通りを練り歩いた。
此の群集の中の、あとの四五十人は、勿論町の人達だ。
皆んなは、東京から来た本職と同じやうに、よく歌う。
それから二三日して、家にゐる村木が町のお湯屋へ行つて見たら、そこではまだ、其の晩の話で持ち切つてゐたさうだ。
そして七十余りになる一老人が『あの勢いぢや、もう一度、御維新が見られべえ』と喜んでゐたさうだ。
(「鎌倉の若衆」/『労働運動』1921年2月・2次2号/『大杉栄全集 第四巻』/『大杉栄全集 第14巻』)
翌十二月十日、神田区美土代(みとしろ)町の東京基督教青年会館で開催された、日本社会主義同盟の創立報告会は荒れに荒れた。
『東京朝日新聞』(十二月十一日)によれば、午後一時の開場と同時に四、五百の聴衆が会場になだれ込んだ。
植田好太郎が「大会を中止して演説会を開く」旨を述べると、官憲から解散を命じられ、場内騒然。
午後六時から改めて講演会を催すことになったが、館内外が人で埋まり、一時は電車も停まるほどの大盛況だった。
神田錦署の巡査が続々と応援に駆けつける中、午後六時、大庭柯公が開会宣言をすると、即座に錦署署長から中止解散を命じられた。
「横暴! 警官横暴! なにゆえの解散ぞ!」
聴衆から怒号が浴びせられた。
錦署署長は「今夜の会合は警視庁でも錦署でも認めていない。治警法第八条に基づいて解散を命じた」とコメントしている。
武田伝次郎「大杉君と僕」(『自由と祖国』一九二五年九月号)によれば、この日、大杉は風邪で熱があり床についていたが、我慢ができなくなり、武田と一緒に大会会場に出かけた。
マフラーを頭からかぶり覆面をしたようになった大杉が会場に着くと、「大杉だ、大杉だ」と叫び、すぐに検束された。
堺や水沼辰夫なども錦署に検束され、大杉は警視庁に送られ夜遅くに釈放された。
この夜、鎌倉に帰る汽車がなくなった大杉は、迎えに来た近藤憲二と、赤松克麿らが起居している本郷森川町の新人会の合宿所に泊まった。(『日録・大杉栄伝』)
近藤は大会会場の神田に行く前に日比谷の服部浜次宅に寄り、そこで日比谷署の巡査に検束されそうになり、外出することができなかったのだ。
★大杉豊『日録・大杉栄伝』(社会評論社・2009年9月16日)
★『大杉栄全集 第四巻』(大杉栄全集刊行会・1926年9月8日)
★『大杉栄全集 第14巻』(日本図書センター・1995年1月25日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index