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2016年06月16日

第250回 東洋モスリン






文●ツルシカズヒコ


 大杉豊『日録・大杉栄伝』によれば、和田久太郎久板卯之助が、南葛飾郡亀戸町の大杉家に同居することになったのは一九一八(大正七)年一月の末だった。

 一九二二(大正十一)年一月、久板は天城山猫越(ねっこ)峠で凍死するのだが、大杉が書いた久板への追悼文「久板の生活」に、この同居の際の逸話が記されている。

 同居することになったふたりの荷物を見て、野枝が大杉にそっと言った。

「布団のようなものがちっともないようですが」

 実際、ふたりは少し大きめの風呂敷包みをひとつ持っているだけだった。

「ないはずはないんだが……」

 久板が京都から出てきたときに、大杉たちの仲間が久板に布団を作ってやったことを大杉は思い出した。

 なければないで用意しなければならないので、大杉がふたりに聞いた。

「布団はあるのかい?」

「いや、あります、あります」

 ふたりは口早にこう答えて笑っている。

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 しかし、解いた包みの中からは、たった一枚の布団しか出てこなかった。

 一月の寒いときだ。

 ふたりが寝るのに、たった一枚の煎餅布団ではどうにもならない。

「いや、この布団は和田くんのです。和田くんはこれで海苔巻きのようになって寝るんです」

 久板は癖である「いや」を言葉の冒頭に発し、笑いながら説明しだした。

「じゃ、きみの布団はなんにもないじゃないか」

「いや、あるんです」

 久板はこう言いながら、座布団を三枚取り出した。

「これが僕の敷布団なんです。そして上には……」

 と言いながら、着ている洋服とたった一枚のどてらを指差して、

「僕の着物の全部を掛けるんです。これが僕の新発見なんです」

 久板と和田は真面目な顔をして笑っていた。

 大杉と野枝は少々あきれて、しばらく黙っていた。


 僕はうちに余つていゐ布団を二枚、二人の室の押入に入れて、勝手に使ふやうにと云つて置いた。

 しかし、二人は『面倒だから』と云つて、ついにそれを使つた事がなかつたやうだ。

 久板の生活はすべてが此の簡易生活であつた。


(「久板の生活」/『労働運動』一九二二年三月十五日・第三次第三号 /大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第四巻』/日本図書センター『大杉栄全集 第14巻』)






『文明批評』二月号の発行は予定より少し遅れた。

 同号の「二月号・編輯人から」(大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第四巻』)によれば、「丁度編輯を始めかけたところで、伊藤が病気になつて、大杉が女中と子守と看護婦との仕事を一度に引受けて了つた。そんなことで二十五日に漸く編輯にとりかかつた」からである。

 同号に大杉は、亀戸に住み始めた所感をこう書いている。


 ……とにかく此の労働者町に押しやられてきた事だけはいゝ気持だ。

 大小幾千百の工場のがん/\する響きともう/\とする煙との間に、幾千幾万の膏(あぶら)だらけ煤だらけの労働者の間に、其の実際生活に接近してゐる事だけでもいゝ気持だ。

 だらけた気分が引きしまつて来る。

 斯うしちやゐられないと云ふ気持が日に日に強まつて来る。


(「小紳士的感情」/『文明批評』一九一八年二月号・第一巻第二号/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第一巻』)


 労働者の町、亀戸に住み始めて一ヶ月が経過した。

 大杉には環境の変化が刺激になっていたようだが、野枝にはまるで肌の合わない町だった。

 野枝の家のすぐそばの空き地の井戸が、近所二十軒くらいの共用になっている。

 朝早くから夜遅くまで、ポンプの音が絶え間ないほど繁盛している。

 野枝もそこに水を汲みに行かなければならないが、井戸端に四、五人いれば、いやひとりだって行く勇気がなくなる。

 井戸端に居合わせるみんなが、人種の違った者にでも向けるような視線を野枝に浴びせるからだ。

 買い物に行く。

 そこでも野枝は、のけ者にされ邪魔にされ、「私は馬鹿にされてるのじゃないかしらと」と、不安になった。





 みんな、無智で粗野な職工か、せい/″\事務員の細君連だ。

 本当なら私は小さくならないでも大威張りでのさばつてゐられる訳なのだ。

 でも私にはそれが出来ない。

 私はその細君連に第一に畏縮を感ずるのだ。

 圧迫を感ずるのだ。

 私はその理由を知つてゐる。

 私はあの細君連に何うかして、悪い感じを持たれたくないと思つてゐる。

 悪い感じどころではない、何うかして懇意になりたく思つてゐる。

 けれどそれには私のすべてが、あの細君連からあんまり離れすぎてゐる。

 そしてそれがもう黙つてゐてもそれ等の細君連に決して気持のいゝものでない事を、私は知りぬいてゐる。

 それだから、一寸(ちよつと)井戸端を通りかゝつても、水を汲に行つても、その注視に出遇ふと、私は急いで逃げ帰つて来る。

 家の中に這入(はい)ると始めて楽々とした自分にかへる。

 もう越して来て一ケ月になる。

 私はいまだに一人の人とも口がきけない。

 人のゐないのを見すまして行つては大急ぎで出掛けて水を汲んでは逃げ込んで来る。


(「階級的反感」/『文明批評』一九一八年二月号・第一巻第二号/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』/『定本 伊藤野枝全集 第三巻』)





 炊事の合間の時間帯になると、井戸端には七、八個のたらいが並ぶ。

 みんな声高に何か話しながらジャブジャブ洗濯をやっている。

「あそこにたらいを持って行って仲間入りしなきゃ駄目ですよ。あそこへ行って、お天気がいいとか悪いとか言ってりゃすぐ懇意になりますよ。こっちで遠慮してちゃ、いつまでたったって駄目ですよ。向こうの方がよけいに遠慮しているんだから」

 村木が玄関の横の窓の障子にはめ込んだ硝子(ガラス)越しに、それを見ながら野枝に教えてくれるのだった。

 しかし、野枝は庭にたらいを置いて、毎日ひとりで洗濯をした。

「ね、そこのお湯屋は夕方から夜にかけては、モスリンの女工でいっぱいですとさ、どんなだか行ってみようかしら」

「ああ、行ってごらん」

 ある日、野枝が大杉にそんなことを話し、好奇心から出かけて行った。

『定本 伊藤野枝全集 第三巻』の「階級的反感」解題によれば、「モスリンの女工」とは東洋モスリン株式会社の女子工員で、同社の女子工員は第一・第二工場合わせて二千人だった。

 野枝の家のそばという場所から推測すると、第二工場の女子工員のことのようだ。





 大変だつた。

 脱衣場から、流し場から、湯槽(ゆぶね)の中まで若い女で一杯だつた。

 こんでゐるお湯には我慢のならない私も、好奇心から着物を脱いで流し場に降りた。

 だが桶一つ見つからない。

 すると丁度桶に湯を運んで来た番頭が、目早く見ると頭を下げて、

「何うぞこちらへ」

 と云つてから、

「おいお前さん達少しどいてくれ、鏡はほら向ふにもかゝつてるよ。」

 番頭は其処に一かたまりになつてゐる二三人の女工を追ひのけて、湯桶をおいて私の場所を拵(こし)らえるへてくれた。

 有りがたかつたけれど気がとがめた。

 私が手拭を桶の中につけるかつけないかに、私の後では三人が猛烈に番頭の悪口を云ひ初めた。

「何だい人を馬鹿にしてゐやがる。鏡は向ふにもありますだなんて、鏡なんか誰がーーあんなもの見ようつて湯になんか来やしないや。わざ/\恥かゝしやがつた。本当にあの野郎ーー」

「全くだね、一銭二銭惜しい訳ぢやないけどあんな番頭の頭下げさしたつてーーえつあゝ何んだいあれや。」

「女優だよ。」

「女優なもんかね御覧、子持ぢやないか。」

「あら女優にだつて子持はありますよ、何んとかつて云ふ。」

「何んだつていゝやね。えつ、さうともさ、済ましてる奴が一番キザだよ、ほら彼の人みたいにね、一寸くすぐつてやりたいね。」

 私は早々に逃げて帰つた。

 自分の事を後で散々云はれたばかしぢやない、何方(どちら)を向いても十七八、二十二三と云ふ若い娘達が、聞いてゐる丈(だ)けでも顔から火が出そうな話を平気で、声高で饒舌(しやべ)つてゐるのがとても聞いてはゐられないのだ。


(同上)


 二度目は好奇心ではなく、必要に迫られて仕方なしに行った。

 やはり女工さんで一杯だった。





 本当に女工さん全盛だ。

 他の者はうつかり口もきけない。

 女工でないものは隅つこで黙つてゐるより仕方がない。

「まあ本当においも見たいだわ、お湯の中にはいつても外にでても、もまれてゐて。」

 可愛らしい娘さんが連れの人に云つた。

 その言葉が終るか終らないうちに、傍にゐた女工がたちまちその娘さんを尻目にかけながら

「たまに風呂に這入りに来た時くらひ、いも同様は当り前の事(こ)つた。こつちらなんかはねえ、朝起きるとから夜寝るまでーー寝るんだつて芋同様なんだ。」

 他の連中とつゝかゝるやうに云つた。

 娘さんは驚いて、連れの人の傍によつて黙つて見てゐた。

 流しに上る。

 私はしやぼんを沢山使はないと気持がわるい。

 体も桶の中もしやぼんのあぶくで一杯になる。

 しまひには仕方がないから睨まれる位は覚悟で桶のあぶくをあけた。

「一寸々々しどい泡だよ、きたならしいね、何うだい、豪儀だね、一銭出せばお客さま/\だ、どんな事だつて出来るよ。」

 隣りにゐた女工はいきなり立ち上つて、私を睨みつけながら大きな声で怒鳴つた。

「済みません」

 位は私も云ふ事は知つてゐたがその時のその女工の表情があんまり大げさで、憎らしすぎたので黙つてゐた。

 この敵愾心の強いこの辺の女達の前に、私は本当に謙虚でありたいと思つてゐる。

 けれど、私は折々何だか、堪(たま)らない屈辱と、情けなさと腹立たしさを感ずる。

 本当に憎らしくもなり軽蔑もしたくなる。


(同上)





 この亀戸時代から、大杉と野枝は「茶ア公」という名の犬を飼い始めた。

 大杉豊『日録・大杉栄伝』によればポインター種の犬で、同書の二一一頁に大杉、魔子を抱いた野枝、大杉の弟の伸、勇、進の集合写真が掲載されているが、その写真の隅に写っている。

 モノクロ写真なので毛色は不明だが、茶色と白の可能性が高い。

 このころよく大杉宅に出入りしていた、望月桂はこんな回想をしている。

 貧乏のドン底生活をしていたが、大杉は二三人の来客を歓待するために、なけなしの財布の底を威勢よくはたいて握り寿司をごちそうしたという。


 その内に、南側の日当で犬に顔中ペロペロ甛められながら守りされてゐた、まだ腹這ひも出来ぬ赤ん坊が泣き出した。

 牛乳を朝からやるのを忘れてゐたのだと云ふのだ。

 それでも夫婦とも早速やらうともしない。

 子供のミルク代までが寿司に化けて了つたのだと云ふ事は、後で当時の居候久板の口からばれた。

 その赤ん坊というのは……魔子だつたんだ。


(望月桂「頑張り屋だつた大杉」/『労働運動』一九二四年三月号)


 ともかく、茶ア公は魔子の子守りもしていたようだ。


東洋モスリン2

東洋モスリン3



●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



posted by kazuhikotsurushi2 at 12:53 | TrackBack(0) | 本文

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1955年生まれ。早稲田大学法学部卒業。『週刊SPA!』などの編集をへてフリーランスに。著書は『「週刊SPA!」黄金伝説 1988〜1995 おたくの時代を作った男』(朝日新聞出版)など。
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