2016年03月17日

第19回 西洋乞食






文●ツルシカズヒコ



 一九一一(明治四十四)年四月、新任の英語教師として上野高女に赴任した辻は、さっそく女生徒たちから「西洋乞食」というあだ名をつけられた。

 辻がふちがヒラヒラしたくたびれた中折帽子をかぶり、黒木綿繻子(くろもめんしゅす)の奇妙なガウンを来て学校に来たからである。

 辻は貧相な風貌だったが、授業では絶大な信用を博した。


「アルトで歌うようにその口からすべり出す外国語」。

 しかも、話題は教科書の枠をこえて文学、思想にひろがった。

 国木田独歩の『武蔵野』、バイロンの『恋愛詩』、本間久雄の文芸評論など、彼の話題はつきることがない。

 ことに東京下町に住んで若く世を去った樋口一葉の作品引用は毎度のことで、彼が片手をポケットに、片手を「三日月」といわれた長いあごにあて、「これは例の……」といいだすと、女生徒たちはいっせいに「一葉さんでしょう」と機先を制するのだった。

 辻は苦笑して、「じゃ……やめましょう」と頁をめくった。

 尺八やピアノをひいて各国の国歌をうたわせてくれるのも生徒に喜ばれた。

 辻は立派な教育者だった。


(井出文子『自由それは私自身 評伝・伊藤野枝』)

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 辻が生徒の間で人気を博し始めたころのことを、野枝はこう書いている。


 ……重味をもつた気持のいゝアルトで歌ふやうにその唇からすべり出す外国語はその発音に於てもすべての点で校長先生のそれよりもずつと洗練されてゐて、そして豊富なことを認め得た。

 それにまたその軽いとりつくろはぬ態度とユーモアを帯びた調子がすつかり皆を引きつけてしまつた。

 新任の先生の評判はいたる処でよかつた。

 その男に対する町子の注意はしばらくそれで進まなかつた。

 たゞ町子はそのころ学校で発行した謄写版刷の新聞を殆んど自分ひとりの手でやつた。

 それに先生は新しい詩や歌についての一寸した評論見たやうなものをくれたりした。

 それで可なりに男との間が接近して来た。

 それからまた暇さへあれば尺八の譜を抱へては音楽室に入つてピアノに向つてゐるのが一寸町子の注意を引いた。


(「惑ひ」/『青鞜』一九一四年四月号・第四巻第四号/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』)





 辻はこのころの野枝をこう記している。


 野枝さんは学生として模範的ぢやなかつた。

 だから成績も中位で、学校で教へることなどは全体頭から軽蔑してゐるらしかつた。

 それで女の先生達などからは一般に評判がわるく、生徒間にもあまり人気はなかつたやうだつた。

 顔もたいして美人と云ふ方ではなく、色が浅黒く、服装はいつも薄汚なく、女のみだしなみを人並以上に欠いてゐた彼女はどこからみても恋愛の相手には不向きだつた。

 僕をU女学校に世話をしてくれたその時の五年を受け持つてゐたN君と僕とは、しかし彼女の天才的方面を認めてひそかに感服してゐたものであつた。
 
 若(も)し僕が野枝さんに惚れたとしたら彼女の文学的才能と彼女の野性的な美しさに牽きつけられたからであつた。

 恋愛は複雑微妙だから、それを方程式にして示すことは出来ないが、今考えると僕らのその時の恋愛は左程(さほど)ロマンティックなものでもなく、又純な自然なものでもなかつたやうだ。

 それどころではなく僕はその頃、Y――のある酒屋の娘さんに惚れてゐたのだ。

 そしてその娘さんも僕にかなり惚れてゐた。

 僕はその人に手紙を書くことをこよなき喜びとしてゐた。

 至極江戸前の女で、緋鹿(ひか)の子の手柄をかけていいわたに結つた、黒エリをかけた下町ッ子のチャキ/\だつた。

 鏡花の愛読者で、その人との恋の方が遙かにロマンティックなものなのだつた、この人の話をしてゐると、野枝さんの方が御留守になるから、残念ながら割愛して他日の機会に譲るが、兎に角、僕はその人とたしかに恋をしてゐたのだ。

 僕は野枝さんから惚れられてゐたと云つた方が適切だつたかも知れない。

 眉目シュウレイとまではいかないまでも、女学校の若き独身の英語の教師などと云ふものは兎角(とかく)、危険な境遇に置かれがちだ。


(「ふもれすく」/『婦人公論』一九二四年二月号/『ですぺら』・新作社・一九二四年七月/『辻潤全集 第一巻』・五月書房・一九八二年四月)






「Y――のある酒屋の娘さん」について、野枝はこう書いている。


 おきんちやん――女の名――は吉原のある酒店の娘だ。

 町子のゐた学校の二年か三年までゐたのだ。

 調子のいい人なつこいやうな娘だつた。

 町子は四年からその学校に入つたのだからよくはしらなかつたけれど、後の二年の間におきんちやんはよく学校に来たので――それも町子の級にゐたとかで、調子よく話かけられたりして後にはかなりな処まで接近したのであつた。


(「惑ひ」)


「惑ひ」解題によれば、おきんちやんは新吉原京町の酒屋の娘の御簾納(みその)キン、御簾納は結婚後の姓である。





 このころの野枝について、以下、矢野寛治『伊藤野枝と代準介』から抜粋引用。


 代はノエの根性を好もしく思っており、隣家の作家村上浪六に紹介する。

 村上も上京を薦めた張本人として目に掛ける。

 代は霊南坂の頭山邸にも、千代子はもちろんノエも娘同様に同道し紹介している。

 ノエは高等小学校卒ゆえに、人より二年遅れた英語力を、辻の力を借りて一気に取り戻そうとする。

 逆に辻は、学園新聞「謙愛タイムス」のノエの記事やエッセーを読み、その文才に瞠目する。

 辻はノエに特段目をかけるようになり、時流の小説や欧米の翻訳物も推薦し指南していく。

 千代子はお嬢様育ちでどこかおっとりしており、ノエに級長を奪われたことを意に介していない。

 根岸の家の二階の八畳に千代子、隣の六畳にノエ。

 襖一枚で仕切られており、境いの欄間から洩れる灯りは両人とも深夜まで及んだと聞く。




●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index




posted by kazuhikotsurushi2 at 23:04| 本文
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1955年生まれ。早稲田大学法学部卒業。『週刊SPA!』などの編集をへてフリーランスに。著書は『「週刊SPA!」黄金伝説 1988〜1995 おたくの時代を作った男』(朝日新聞出版)など。
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